第34話 春の訪れ

 エミリア視点です。

 前半に少し怪我の描写があります。苦手な方はご注意下さい。


 ********


 私は、デビュタント・ボールの日から公爵邸で療養している。

 原因は、分かっている。

 私の心が、耐えられなかったから……。



 私は眠っている間にフリードリヒに捕まり、枷で繋がれ、暴行を受けそうになった。

 ――怖かった。

 とにかく怖かったし、その犯人が弟のように思っていた人間だったこともショックだった。


 だが、一番衝撃を受けたのは、私を助けに来たラインハルト殿下の姿だった。

 左手に抜き身の剣を提げ、全身至る所に切り傷があって服が所々赤く染まっている。

 特に右腕からは大量に出血していて、美しいお顔は青白くなっていた。

 私は、殿下が私を助けるためにこんな大怪我を負ったのだと瞬時に理解した。


 そして殿下は剣を捨て、フリードリヒがナイフを振りかぶる――。



 私は毎夜、夢を見た。

 夢は毎回少しずつ違っていたが、内容は殆ど一緒だった。


 大怪我をしている殿下が私を助けにくる。

 ある時は、殿下はフリードリヒに刺されて倒れてしまう。

 ある時は、殿下が光の粒になって消えてしまう。

 ある時は、殿下はフリードリヒを倒したものの、怪我が原因で寝たきりになってしまう――。


 毎回魘されて、隣にいるモニカに起こされて、その後はもう眠れなかった。



 ラインハルト殿下は、毎日一輪の花とメッセージカードを贈ってくれた。

 それは殿下が無事だという証明であり、顔を見せに来れなくとも私を想ってくれているという証拠であった。


 だが、私の脳裏にはまだ、最後に会った時の殿下の姿が焼き付いている。

 殿下はアレクに支えられながらゆっくり歩き、その体は思うように動かせないようだった。

 本人はかすり傷、ちょっとしたトラブル、と言っていたが明らかに嘘だ。

 まだ顔色も悪かったし、時折痛そうに顔を顰めていた。

 私のせいで……。



 私が本当に、心から安心したのは、殿下が私を訪ねて来てくれたその時だ。

 私は力の入らない身体を何とか起こし、殿下を迎えた。

 殿下はもう本当に元気そうで、いつも通りの美しい笑顔を浮かべ、優しく抱きしめてくれた。

 感極まった声で、会いたかった、と囁き、しばらくの間そのまま抱きしめてくれたのだった。


 殿下は、ここにいる。生きている。

 私を抱きしめる腕は優しく力強く、暖かい。

 その胸に頭を預けると、少し早い鼓動の音が聞こえてくる。

 殿下は、ちゃんと生きている――。



 その夜から、私はもう悪夢を見なくなった。

 私は、自分が傷つけられた事より、信頼を裏切られた事より、何よりも殿下を失ってしまう事が怖かったのだ。



 殿下は毎日のように公爵邸に来てくれた。

 殿下が取り留めもない話をしてくれるのが嬉しくて、殿下が笑顔を見せてくれるのが嬉しくて、殿下が抱きしめ頭を撫でてくれるのが嬉しくて、私の心は徐々に癒えていった。


 まだ言葉を発することは出来ないが、身体はもう殆ど元通りに動くようになった。

 寒いので長時間はいられないが公爵邸の庭を散歩し、教科書を読んで分からない所をメモし、刺繍をしたり絵を描いたりピアノを弾いたり、心の赴くままに過ごした。


 午後には殿下に今日一日あった事、出来るようになった事の報告と、殿下への感謝を綴った手紙を書いて、夕方に私の部屋を訪ねてくる殿下が城へ帰る前に、直接渡した。

 殿下は私の手紙を嬉しそうに受け取り、私の手の甲にキスをして、帰って行くのだった。


 そして、私は数日毎に医師のカウンセリングを受け、ついに、か細い声ではあるが発声出来るようにまで回復したのである。

 ――季節はもう、春になっていた。



 ********



「……ラインハルトさま……」


 うららかな春の日の夕。

 私の部屋を訪れた殿下は、手に持っていた小さな花束を落とした。

 殿下はそのまま固まり、目を見開く。

 しばらくして、殿下は、私以上に掠れた声を出した。


「……エミリア、今……」


「……はい……。ラインハルトさま……」


 殿下のお顔にぱあっと明るい笑顔が広がる。

 かと思うと、次の瞬間には私は殿下の腕の中にいた。


「エミリア……! ずっと、この日を待ってた……!」


「……長らく、ご心配を……おかけしました……」


「ああ、エミリア。また君の声を聞く事が出来るなんて……。本当に、本当に良かった……」


 囁くようなその声色には、深い安堵が感じられる。

 殿下も、喜んでくれているようだ。

 私は、ずっと考えていた事を言葉にする。


「……最初に、口にするのは、あなたのお名前と……決めていました」


「……! エミリア……もっと、呼んで……?」


 殿下の声に、確かな喜びと、ほんのりとした熱が宿る。

 声を出すのはまだ大変なエネルギーを使うが、殿下の願いに応えたくて、私は掠れ声で囁く。


「……ラインハルトさま……」


「……! ……もっと……」


「……ラインハルトさま。ラインハルトさま」


「ああ、エミリア……! ありがとう……」


 抱きしめられているのでお顔は見えないが、殿下は、感極まっているようだ。

 私はしっかり息を吸って、言葉を続けた。


「……私……ずっと、言いたかったのです……。ラインハルト様……、お慕いしております……」


「……!!」


 殿下は、優しく私の体から腕を離し、私と目を合わせた。

 頬は赤く染まり、銀色の目には穏やかな熱が宿っていた。

 殿下はその形良い唇に、そっと音を乗せる。


「ずるいな、エミリア。私が先に言おうと思ったのに」


 私が目を細めて笑うと、殿下は私の両頬に手を添えて、見惚れるほど妖艶に微笑んだのだった。

 顔と顔の距離が近づいてゆき、私は目を閉じる。

 殿下は、私の唇に二度、三度……角度を変えて、何度も優しく、次第に深く――口付けの雨を降らせたのだった。



 ********



 それから更に数日後。

 私の声もきちんと出るようになったし、多少の切り傷や擦り傷を見ても平静を保てるようにもなった。


 こうして私の症状は一見完治したかのように見えたのだが、主治医によると、最後に一つ、大きな関門が残っているらしい。

 それは、私が心に傷を負った場所――すなわち、王城に行って、平常心を保てるかどうかである。

 私は、公爵邸まで殿下に迎えに来てもらって、王城へと向かっていた。


「公爵邸の外に出たのは、本当に久しぶりですわ」


「大丈夫かい、エミリア? 調子が悪くなったらすぐに言うんだよ」


「ふふ、殿下ったら、まだ馬車に乗ったばかりではありませんか。大丈夫ですわ」


 私は殿下を安心させるように微笑み、馬車の外を眺めた。

 外は綺麗に晴れていて、暖かい。

 花々は太陽の光を浴びて美しく咲いている。


「いいお天気ですわね。後で、お庭を散歩したいですわ」


「ああ、中庭は沢山の花が見頃を迎えていて、見事なんだ。私も君を案内したいと思っていたんだ」


「ふふ、楽しみです」


 私が王城に行くと言った時、殿下は心配した。

 だが、今後の社交のためにも、将来殿下と一緒に暮らすためにも、トラウマを克服するのは必須なのである。

 それに、私にはもう一つ、早めに全てを克服したい理由があるのだ。



 馬車は、程なくして城に到着した。

 今の所、特に問題はなさそうである。

 エントランスホール、王太子妃教育に使っている部屋、父の執務室――ここまでは特に恐怖も不安も感じる事はなかった。

 出会った人達も、最近姿を見せなかった私を心配してくれていたようで、優しく声をかけてくれた。


「次は……王族の居住区域に入るが、無理そうだったら本当にすぐ教えてほしい。いいね」


「……はい」


 まずは廊下……問題ない。

 王太子妃の部屋……これも問題ない。

 ラインハルト殿下のお部屋……そこは、殿下の香りが染み付いていて、別の意味でドキドキしてしまった。


「とりあえず、将来私達が一緒に暮らすようになってから使う部分は、大丈夫そうだな」


「……はい……」


「先生、本当にあの部屋も行かないと駄目か? これから先二度と入る事はないと思うんだが」


 殿下は、同行している私の主治医に質問した。

 ……あの部屋というのは、フリードリヒの部屋だろう。


「ええ、お辛いかも知れませんが、エミリア様が前向きになっている今が完全に克服するチャンスなのです。これを逃すと、ふとした時に再発してしまう可能性が高まります」


「……そうか……」


「殿下……大丈夫ですわ。私の傷は、殿下を失ったかもしれないという恐怖です。殿下が横にいて下さるなら、きっと、大丈夫です」


「……わかった。じゃあ、手を」


 私は殿下の差し出した手をしっかりと握った。

 フリードリヒの部屋の前に行き、殿下はゆっくりと扉を開く。

 中には勿論フリードリヒはいないし、血の跡も綺麗に掃除されている。


 私の繋がれていたベッド……フリードリヒが飾っていた押し花やハンカチ……。

 大丈夫、大丈夫だ。

 私は部屋の中に足を踏み入れ、ベッドの側に立つ。

 そこから入り口を見た時……突然、恐怖が蘇ってきた。


 だが、その時、私の右手にもう一つの手が重なる。

 殿下が繋いでくれている手を、更にもう一方の手で包み込んでくれたのだ。

 殿下は、心配そうに眉を下げている。


 そう、大丈夫、殿下はここにいる。

 生きている、私の側にいる、暖かい手で私を励ましてくれている。

 そう思ったら、恐怖が漣のようにすぅっと引いて行くのを感じた。


「もう……大丈夫です。もう、怖くありません」


 私は、はっきりとそう言った。

 殿下と、主治医の先生の顔に、同時に喜びが広がる。


「エミリア様、おめでとうございます。ひとまず完治と言って差し支えないでしょう。あとは、再び大きな怪我を目にしたり、怖い思いをする事がなければ大丈夫だと思いますよ」


 その瞬間、殿下のお顔がぱあっと満面の笑みに変わったのだった。

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