第20話 静寂の図書室

 ラインハルト視点です。


 ********


 しーーーん。


 音が聞こえるほどの静寂が、空間を支配している。

 ここは学園の図書室。

 私は、プリシラ嬢に勉強を教えていた。

 とは言っても、基礎中の基礎を確認する所から入ったのだが、この状況である。


「……次は化学の問題を出すぞ。塩酸、食塩水、水酸化ナトリウム水溶液のうち、最もpHが高い物はどれだ」


「……」


「……駄目か。じゃあ物理。荷物にロープをつけて上から引っ張る時、直に引っ張る場合と滑車を幾つか使って引っ張る場合、どちらの方が弱い力で引っ張れると思う?」


「……」


「……なら、歴史だ。この王国を建国した王の名と、建国の年度を覚えているか」


「……」


 ……この娘はそんな事も知らずに、愛しのエミリアを排除して国母になろうとしているのか。

 理系科目はまだしも、王国の歴史を知らないというのは貴族としてどうかと思う。


 アレク……頼むから早く先生呼んできてくれ……!

 お前の主人はたった今、物凄く困ってるぞ……!

 私は、はぁ、とため息をひとつ零して、目の前の落第候補生に問いかけた。


「……君は、何の科目が得意なんだ?」


「……えっと……農業と畜産の事だったら……」


「……そうか」


 貴族学園では、残念ながらそういった科目は履修できない。

 それは農学校で学ぶ事だ。

 だが、スワロー男爵領の為に何か学ぼうと思うのなら、この学園でも出来る事はある。


「……君が将来、領地の為に何か役立つ知識を得たいと思うなら、生物学や物理学の学習を薦める。生物学の知識を活かせば、農産物や家畜の交配によって病気に強い品種や、味や見目の良い品種を育てる事も可能になる。物理学から工学に進めば、いずれ農業や畜産に役立つ器械を自作できるようになるだろう。水力発電や風力発電でエネルギーを生産出来るようになれば、より生産力が上がるな」


「……な、なるほど……?」


 どうやら、良く分かっていないようだが、まあいい。

 その辺りを説くのはマクレディ先生の方が適任だろう。


 私は、腕を組んで椅子の背もたれに体を預け、このような事になった経緯に思いを馳せる。

 私自身は、正直プリシラ嬢の事などどうでも良かったのだ。

 だが、プリシラ嬢を助けてあげようと、彼女にあえて厳しい事を言った時のエミリアは、聖母のようだった。

 プリシラ嬢が悔しそうにしながらもやる気を出して走って行った時なんて、信念に満ちた美しい笑顔で、眩しいぐらいだったのだ。

 この間の天体観測の時も最高に可愛かったが……駄目だ、思い出すと早くエミリアに会いたくなる。


 そうして私が不機嫌になりつつあったその時――


「スワロー嬢、ここにいたのか。おや、殿下、ご機嫌麗し……くなさそうだね。先日は手伝ってくれてありがとう、正確な記録が取れて助かったよ」


「マクレディ先生」


 飴色の長髪、眼鏡のマクレディ先生が立っていた。

 やっと助っ人が現れた、良かった良かった。

 ちなみに学園では生徒より教師の方が偉いから、どんな身分、どんな爵位の生徒でも、先生は対応に差をつけない事になっている。

 私は椅子から立ち上がって、マクレディ先生に改めてエミリアを暴漢から救ってくれた件の礼を伝えることにした。


「こちらこそ、先日は外出先で助けていただいたそうで、ありがとうございました。私からも心から御礼申し上げます」


「いいよいいよ、礼なら何度も聞いたよ。君たちは本当に律儀だねえ。……ところでスワロー嬢、君さ、このままだと落第まっしぐらだよね。分かってるよね」


「……はい」


「君さ、全体授業について行けてないようだから、補習を受けてもらうよ。君の他にも科目ごとに何人かいるけど、全科目補習になるのは君だけなんだからね。ちゃんと反省しなよ」


「……はい」


 プリシラ嬢は小さく縮こまっている。

 マクレディ先生は私をちょいちょい、と手招きすると、プリシラ嬢に聞こえないように小声で話しかけてきた。


「……殿下、今スワロー嬢の勉強を見てくれてたって聞いたけど、殿下から見てどう?」


「……理系科目は、全て初等部レベルですね。文系科目は、口語の読み書き会話は問題ないものの、文語や外国語はからっきし、地理もスワロー男爵領周辺の事しか分からないようでした。歴史も法律も駄目ですね」


「……うわぁ、正直僕の手には余るなぁ」


「……補習は先生お一人で?」


「……一年生は、その予定だったんだけどね。外国語と理数系科目以外は彼女を除いて赤点の子がいなかったから、僕一人で全員見れる予定だったんだよ。でもそれほど手がかかりそうならちょっと考えないと駄目だなぁ」


「……そうでしたか」


 マクレディ先生がプリシラ嬢に向き直ると、プリシラ嬢はビクッと肩を揺らす。

 更にプリシラ嬢はその視線をマクレディ先生と私の背後に移し、すごく嫌そうな顔をした。

 私はプリシラ嬢の視線を追って、そこに見えた姿に向き直って笑顔を零した。

 私の天使も微笑み返してくれる。

 丁度会いたいと思っていた所だから、喜びもひとしおである。


「そう構えないでよ、取って食いやしないから。……あ、ブラウン嬢、丁度いい所に。少し頼みたい事が出来たから、後で職員室に来てもらえる?」


 プリシラ嬢に話しかけていたマクレディ先生も、エミリアが来た事に気が付いたようだ。


「はい、承知いたしました」


「スワロー嬢。今日から、君の学習面に関しては僕が責任を持って見てあげよう。他の皆は一科目につき週一回の補習で事足りるんだけど、君は全部の科目だから毎日一科目やっても曜日が足りなくなるからね。さて、そうなったら善は急げだ、まずは職員室に行くから僕についてきなさい」


「えええー……」


「君さ、事の重大性分かってるの? 本当に落第するよ?」


「だってぇ……」


「ごにょごにょ言わない。君の事見放すよ」


「ぶぅー」


 プリシラ嬢はそう言われてもぶーたれている。

 流石に先生に失礼だと口を開こうとした時、エミリアが前に出た。


「プリシラ様。折角マクレディ先生が貴重なお時間を割いて、あなたの学習を見てくださると言っているのですよ。そのような機会をいただけたことに感謝こそすれ、不満に思うのは失礼ですわ」


 私も確と頷いた。

 まるっきり同感である。

 プリシラ嬢も不満顔ではあるが流石に諦めたようで、席から立ち上がって荷物を纏め始めた。


「さあ行くよ」


「……はぁーい。お手柔らかにお願いしまーす」


 そうしてマクレディ先生とプリシラ嬢は退出していった。


「……何なのでしょう、あの態度は」


 エミリアは憤慨しているようだが、膨れっ面もまた可愛い。


「エミリア、良く言ってくれたね。私も注意しようと思っていた所だ」


「うふふ、何と言っても私、悪役令嬢ですから!」


「悪役令嬢とは何と可愛い生き物なんだろうと私は今思っているよ」


「で、殿下ったら……!」


 赤くなっていて本当に可愛い。

 私はついついエミリアの髪に手を伸ばし、なでなでしてしまう。

 エミリアはますます顔を赤くして、ふにゃりと笑った。

 これはもう眼福この上ないのだが、私はついつい欲張りたくなってしまった。

 エミリアの耳元に口を近づけて、そっと囁く。


「……二人の時は、名前で呼んでくれないか。この間みたいに」


「〜〜〜!!」


 エミリアは最早顔から火が出そうなほど真っ赤になっている。

 ……少し意地悪だったかな?


「……ラ、ラインハルトさま」


「……! 嬉しいよ、エミリア……」


 上目遣いで私の名を呼ぶエミリアは、思った以上の破壊力だった。

 私は思わずギュッと抱きしめてしまう。

 エミリアも、おずおずと背中に手を回してくれるのだった。



 ********



「マナー教育の手本になってほしいと、そう言われたのか」


 学園から帰る前にエミリアは職員室に立ち寄り、マクレディ先生と話をして、ある事を依頼されてきたようだ。

 今は馬車で帰路についている所で、私の正面に座ったエミリアが依頼の内容を説明してくれている。

 今年度に入ってから、エミリアを公爵邸に送り届けるのが日課になっている。


「ええ、そうなのです。社交や芸術については他の先生がプリシラに補習をして下さることになったようなのですが、教える上でも見本があった方が教えやすいし、モチベーションにつながるだろうという事です。その代わり、私は社交分野と芸術分野の期末試験を免除していただけるのだそうですわ」


「確かにエミリアはその分野においては生徒、教師問わず誰よりも完璧だ。どんなに平均点が低いテストでも、一年生の頃から毎回満点だっただろう」


「まあ、覚えていて下さったのですか? 確かに王太子妃教育のおかげで、学園ではその分野で苦労した事はございませんわ。全ては殿下に恥じないようにするため……偏に殿下のお陰ですのよ」


 私がエミリアを褒め称えると、彼女は照れくさそうにそう言った。

 とても可愛いのだが、私には気掛かりな事がある。


「全く可愛い事を言うんだから。……だが、大丈夫なのかい? 相手はプリシラ嬢だろう?」


「先生も一緒ですし毎回ではありませんから、大丈夫ですわ。それに、それこそ物語通りの展開ですもの」


「エミリアがそう言うのなら……。だが、無理は禁物だぞ。辛い思いをするような事があったらすぐに私や先生に相談するんだ、いいね?」


「ええ、分かっておりますわ。ありがとうございます」


 私はまだ不安を払拭できないが、エミリアを信じて見守ってみる事に決めた。

 何かあれば、私は全力を挙げてエミリアを守る。

 改めてそう誓った所で、馬車は公爵邸に到着したのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る