第34話 【木掛さん視点】胸の鼓動

 その投げ掛け。


 営治さんのこと好きなの?


 カナコさんは私から目を離さない。怯えたような、それでいて全てを取り込んでしまうような緑色の瞳。きらきら眩しく、吸い込まれそうになってしまう。なんだろう。なんで、彼女は私にこんなことを言ったんだろう。


 わからない。

 わからない。

 わからない。


 わからないのは、彼女の真意と私の心。

 どう返せばいいのかわからない。

 そうよ。こんな時こそ、一旦、冷静になって考えよう。


①カナコさんは、私のことを知っていた。

②カナコさんは、営治さんのことも知っていた。

③カナコさんは、私と営治さんの関係も知っていた。


 三つ並べた事実を総合的に勘案すると、つまり……。


 カナコさんは探偵? 


 いや、違うわ。探偵ならこんな派手で目立つ格好はしていない。こんなグリーン感満載で尾行なんかしたら、すぐに相手にばれちゃうじゃない。危ない。意味不明な返しをしてぽかんとされるところだった。

 じゃあ、探偵じゃないとしたら、もう――これしかない。


 ストーカー。


 これかも。見た感じ、グリーン一色って、なんか少し頭のネジが外れて……、いえ、かなり個性的な性格。きっと営治さんのことを何処かで見かけて、そのまま好きになって。


 じゃあどこで?


 高校生っぽいし同じ職場じゃない。だとすれば通勤電車の中。これかしら。会社員と高校生が接点あるのって、ここぐらいじゃないかしら。でも、あんな満員電車で、一目惚れって起こりえるのかしら。


 はっ! 待って。これって……。


 その時、頭の中でファンファーレが爆発したように、一つの憶測が浮かび上がった。


 彼女は見た目も可愛いし、満員電車で知らない中年男性から痴漢に遭っていたのでは?

 それを営治さんが助けてあげて、そのまま彼女は……。

 うん、それなら彼を好きになってストーカーっぽくなる理由も納得する。でも、問題の本質はそこじゃない。彼女が今後も痴漢の被害に遭わないで済むという根本的な解決にはならないわ。

 それなら……私にできることは……!


「カナコさん」私は真剣な眼差しで彼女を見つめた。

 カナコさんも、こちらの固い表情を察知して、口をきゅっと真一文字に閉めて姿勢を正す。

「どこに住んでるの?」

「えっ……?」

「私でよかったら、一緒に電車に乗ってあげるよ」カナコさんを安心させようと手をぎゅっと握る。「大丈夫。私はあなたの味方よ。……って、何もできないかもしれないけど。それだけは覚えて欲しい。何でも言ってね。いつでも相談にのるから」


 これしかない。


 私も女。私だって一回だけ痴漢に遭ったことある。あの不快感。最悪だってことぐらい、辛い経験だってことぐら……。


「全っ然! 意味わかんないんだけどっ!」


 あまりの声のトーンに、私は「ひいっ」と情けない声を出してしまった。

 カナコさんは私が握った手を力強く握り返す。


「なんで、わたしが『木掛さんって、エイジさんのこと好きなの?』って訊いたら、その答えが『一緒に電車に乗ってあげるよ』なのよっ! どういう紆余曲折を経たら、その結論に導かれるわけ? ああ~、わたしってば興奮して、ちょっと難しい言葉なんか使っちゃったじゃないっ」


「ち、痴漢の被害に遭ってたんじゃないの……?」


「ちかん? 遭ってないよ、そんなの。痴漢なんかされたら、引っ叩いて撃退して、ソッコー警察に突き出すし。痴漢なんて楽勝よ。って、話が思いっきり逸れたけど、さっきのわたしの勇気を返してよ。これでも、結構勇気を振り絞って言ったんだからね、全くもうっ」

「そ、そうなんだ。なら良かった」

「いやいや、なにがいいわけよ」

「だって、カナコさんが痴漢の被害に遭ってたわけじゃなかったし……」

 私は蚊の鳴くような声でカナコさんにそう伝えた。

 すると、カナコさんは「ぷっ」と噴き出す。

「いや、なんか、木掛さんが良い人っていうのはわかったんだけど。ちょっと、話がこんがらがっちゃうんじゃない?」

「す、すみません……」

「別に怒ってるわけじゃないんだけど……。でも、なんでいきなり、『一緒の電車に乗ろう』って言ったのさ」

「そ、それは……」


 カナコさんの気迫に押されるように、洗いざらい一から丁寧に説明した。全てを理解したカナコさんは額を押さえて深いため息を吐く。


「なるほどね。そうきましたか」

「そ、そうなんです。私……なんか心配してしまうんです。ごめんなさい。私なんかと話してもよく分からないですよね……」

「いやいや謝らないでよ。わたしの方こそ、唐突にあんなこと言ってごめんなさい。もっと、丁寧に説明したらよかったね。それに……」

「それに……?」

「えっと、なんだ、その……。木掛さんが、あざとい女って感じじゃないのがよくわかったからさ。なんか安心しちゃったわけさ」

「あざとい……?」


 なにかしら……。あざとい。その言葉。計算高い女って意味よね。そんなこと人から言われたことない。

 まって。こういう時こそ一旦冷静になって考えてみるのが大事。


①カナコさんは、あざといって私に言った。

②私はあざといって言われたことがない。

③私はどちらかと言えば数学は苦手。高校の時の成績も十段階で五だった。


 この三つの事実から導き出される答え。

 多分、きっとそうだ……。


「いや、いいって。その深読みとその心配性。わたしには必要ないって」

 カナコさんは私の目の前に手をかざして、続きを制止した。


 この一連のやりとりに私は苦笑した。それも自虐交じりに。そうなんだ。つまりこういうことなの。


「どうしたの?」カナコさんが不安そうに私の顔を覗き込んでくる。


 こんな不穏な空気になるのは、一度や二度じゃない。もう、何度も経験している。 わかってるの。こんなんじゃ、人とうまくコミュニケーションも取れないよね。


「あれ? 泣いてるの? あの、ごめんね。そんなつもりで言ったんじゃないからっ」

「ううん、違うの」私は小さくうつむくことしか出来ない。「私はこんなんだからよくわからないの。だから、人と深い関係なんてなれない……」


 ああ、なんでだろう。なんで、会ったばかりの子に、しかも初対面の相手に自分をカナブンの妖精だって言ってしまうおかしな子に、自分の弱さを吐露しているんだろう。ものすごい奇妙な状況なのに、不思議な包容力を感じてしまうのはなぜだろう。


「カナコさんは営治さんのことが好きなの?」





「めっちゃ嫌いよ。ちっちゃい男だし」




 悲しいほど目が泳いだカナコさんはこう続ける。「まあ仲は悪くないけど、てゆうか仲良しだけど。木掛さんはどうなのよ」


「私? 私は……」

「どうなのよ。自分から聞いといて」

「わからない……」

「ふ、ふーん、そうなんだ……」

「だって……」


 私はその続きは伏せた。これは自分の心に閉まっておきたい。そう思ったからだ。でも、今もあの忌まわしい記憶がフラッシュバックする。やっぱり私なんかと付き合わない方がいいに決まっている。


「カナコさん。私はこんなんだから、きっと彼とうまくいかない。恥ずかしい話だけど、男性とお付き合いどころか、友達だっていないの。うまく人とコミュニケーションが取れる自信がないの。それに、私なんかと付き合ったら彼が変な目で見られてしまう。だから彼に迷惑をかける前に自分から……」


「ちょっと! なにそれっ!」


 親が子供を叱るようなカナコさんの大声に、私は背筋をピンと伸ばしてしまった。


「木掛さん自分勝手すぎるよ」


 自分勝手……。


「エイジさんのこと好きなんでしょ? エイジさんだって木掛さんのこと好きなのよ。はっきりしてよっ! わたしだって、やろうと思ったら何でもできちゃうんだからね。例えば……年齢とか? 未成年がダメなら適当に二十歳とか言えるんだからっ!」


「ね、年齢?」


「そうよ! なんか法律とかあるでしょ? よくわからないけどさ。その気になれば楽勝だから。わたしってば結構可愛いと思うし」

「じ、じゃあカナコさんが……」

「それが自分勝手って言ってるのよっ!」


 カナコさんは興奮してどんと両手でテーブルを叩く。コーラが跳ね上がり、甘い液体にまみれた唾液が顔面に降り注ぐ。私は思わず「ひいいっ」とミジンコのように小さな悲鳴をあげた。


「木掛さん、自分の中の相手じゃなくて、外にいる相手を知ろうとしなよ」

「そ、外の相手……?」

「そうよっ! 木掛さんっていつも人のことばかり深読みして気にしてるけど、それって、その人じゃなくて、木掛さんが作りだした幻の相手だよっ」


 その言葉は棘となって心に突き刺さり、思わず眉間に皺を寄せてしまった。


「同じぐらいに自分の気持ちも覗いてみなよっ! つまんないことばっか言ってからにっ」


 次から次へと押し寄せるカナコさんの言葉は、まるで虫の足が心を這うように、その棘が深く食い込んでくる。


「それに、友達がいないなら、わたしが友達になってあげるよっ! なにうじうじしてるのよ。ばかじゃないの!? そんなんで勝手に悩んで、みんなを振り回すなんて許さないからっ! 時間だってないの!」


 カナコさんはここまで一気に言い終えると、顔を真っ赤にしてそのまま立ち上がった。何かを言い淀んだが、何も言わずずんずんと出口へ向かう。興奮していたのか、目の前の自動ドアを上手くくぐることが出来ずにガンとぶつかり、「毎度毎度、人間が作ったガラス戸って最悪よねっ!」と四方に文句を付けて去っていった。


 こんなに胸が激しくざわついたのは初めてだった。


 こんなに真っ直ぐに自分にぶつかってきた人は初めてだった。


 ずっと願っていたことがある。


 いつか、私が虫たちに力を与えたように、自分を変えてくれる魔法みたいなことが起きればいいな。そんな幻想に憑りつかれて、大人になっても現実を直視しない空想を追い求めていた。


 要するに私は自分の心を覗き込むのが怖かっただけだ。


 自分の気持ちに素直になればなるほど、人が遠ざかっていくのを理解しているから、そこから意識的に逃げていただけなんだ。自分自身も直視できない、体だけが大人になった存在が今の私だ。しかも厄介なことに、そんなまやかしに安住の地を見出しているだけの情けない大人だったんだ。


 私の気持ち。


 本当の私の気持ち――。




 物語は第七章へ――

 奇妙に絡まった三人の過去と現在。

 序、破が終わり、それぞれの想いが暴走する「急」と「激」へ。

 次章物語はひとつのピークを迎える。

 残り13話。

 さあ、どうなる?

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