【序】第一章 高嶺の花と、おしかける妖精

第2話 木掛優さん

 青春なんて、何の色もつかず、全て通り過ぎて大人になってしまった。


 でも――


「すみませんっ!」


 その日、俺は決めたんだ。


「は、はい。なんでしょうか?」


 急に声をかけられた彼女は、僅かに困惑したような笑みを浮かべた。


「その漢字……なんて読むんですか?」

「漢字?」

「胸元にあるネームプレートです」

「あ、ああ」と、彼女は胸元に挟まれたネームプレートに視線を落とす。

「きがかりと読みます」

「下のお名前は?」

「ゆ、ゆうです」

「わかりました」


 彼女の名前は木掛 優きがかり ゆうさん。年齢は訊いていないが、恐らく二十六歳の俺より少し年下だろう。美人系というよりは可愛い系。眠たそうにとろんとさせた瞳。おっとりした声や、ふんわりした雰囲気をもつ、小柄で不思議な魅力に溢れた女性だ。肩まで伸ばした黒髪が頬にかかり、時折見せる愛らしいえくぼが、またいい。


 現世に降臨した最後の天使だ。


 彼女は、俺が勤める弱小製薬メーカー『グローブ製薬』の得意先、大手ドラッグストアチェーン『サンサン薬局』の本社受付嬢をしている。


 一年前――何の前触れもなく恋の嵐がやってきた。


 毎月の商談日に合わせてサンサン薬局本社へ訪問すると、受付スペースに見知らぬ顔がいた。その子はおどおどと下を向き、次から次へとやってくる俺のような営業マンにぎこちなく応対していた。どうやら、彼女はその年に入社した新入社員のようだ。その愛らしさ、一生懸命に頑張るひたむきな姿に、視線も意識も逸らすことができず一発で心を撃ち抜かれてしまった。


 おれ、あなたが好きです。


 てな感じだ。


 今まで漫然とした日々を過ごしていた。満員電車に揺られて、与えられた仕事と残業に追われていた。空虚な心に吹くものはオフィスに流れる湿ったエアコンの風だけ。しかも、オフィスの老朽化が著しいため空調もかび臭い。仕事を離れたところで浮ついた話など一切なく、自宅と会社の往復で埋め尽くされる毎日。


 はぁ、つまんねーな。


 自らネガティブを呼び込むつぶやきが口癖の、無味乾燥とした営治君おれの人生に咲いた一輪の花。それが木掛 優きがかり ゆうさんだ。だが、その可憐な花は自分だけに向いているわけではない。彼女との会話は常に限定的だ。


「いつもお世話になります」「○○ですね。いま、取り次ぎますので、そちらでお掛けになってお待ちください」「入館の際は、こちらにご署名ください」


 といったもの。


 ようは会話でもなく、ただの事務対応。営業マンの俺と得意先の受付嬢の関係。

 ザ・お仕事上の人間関係。それ以上でも以下でもない。


 さっきは緊張し過ぎて、営治 健司えいじ けんじという名前を名乗ることも忘れてしまった。名字が名前みたいな一風変わったフルネームだとしても、彼女の記憶には一切残るまい。


 朝の満員電車でも、仕事の合間にエナジードリンクを飲んでいる時も、深夜まで残業している時も、気が付くと彼女のことばかり考えている。


 どうやって彼女とお近づきになれるのだろうか。なんらアクションも起こせないまま、出会いから一年以上の時が流れて夏が訪れた。


 この受付嬢という立ち位置は、微妙に声を掛けづらい。それは以下の理由からも明らかだ。


①まず得意先という関係性であること

②彼女はロビーにある受付から席を離れず、常に衆人の目にさらされている

③次から次へとお客さんが訪れるので、受付の前に陣取り、込み入った話ができない


 はっきり言って、仲良くなるタイミングが難しい。敷居の高い受付嬢と仲良くなりたいなんて、自分にとっては無謀な恋なのか。だが、そんな無謀な恋に挑んでしまうのには理由がある。


 それは、最高気温四十度を超えた酷暑の昼下がり。


 俺はうだる暑さの中、汗だくになってサンサン薬局本社ビルに辿り着いた。

 早くガンガンにクーラーを効かせたビルで涼まねば。はやる気持ちを抑えながらハンカチで汗を拭い、自動ドアの前に立つと、キラキラと眩しい光が俺の目を射した。

 その光は頭上の太陽を反射して、足元から向かってくる。

 何かと思い視線を向けると、そこには一匹のカナブンがひっくり返っていた。

 どうやら勢いよく飛んできて自動ドアにぶつかり、そのまま転倒したらしい。なかなか起き上がれずにもがいている。


 虫の命は儚い。それは寿命だけではなく、その小さな存在そのものでもある。


 どれどれ可哀そうに、こんな都会に迷い込んでしまったんだな。

 そっと手を伸ばしてカナブンを手のひらに乗せた。カナブンは暫くその場に留まっていたが、やがて羽を広げて真夏の大空へ飛んでいった。


 きらんとその背に光を反射して、晴れて自由の身になる。


 小さな善行を積んだ。今日の商談は決まりそうだ。そんな都合の良い解釈をしながら受付に向かうと、ふいに彼女から話しかけられた。



「高血圧に気を付けてくださいね」



「え、あ、はい?」

「い、いや、すみません」彼女は頬を赤く染めて、「今日、暑いですからね」と先ほどの発言を取り消すような笑みを見せた。

「はあ、ありがとうございます」とだけ伝えたのだが、これってどういう意味なの?


 高血圧。


 俺、血圧関係は問題ないんだけど。もしかして彼女の目からは、俺がカッカとしている風に見えるのか? 気難しいやつに見えているってこと?


 いや待てよ。そもそもなんでいきなり「高血圧に気を付けて」なんだ?


 アポを取っている商品バイヤーさんを待っている間、イスに腰かけて考え込む。ちらりと彼女を見ると、俺の視線に気付いたのか、あえて目を合わさないように顔を背けている。


 高血圧。今日、暑いですからね。


 うーん、わからない。てゆうか、なんだこの推理小説。何の回答も確信も得られぬまま彼女にローテーションが訪れ、中年女性と交代して足早にこの場を去っていった。


 なんだろう。


 てゆうか、なんで俺にいきなり声をかけてくれたんだろう。だって世間話すらしたことないんだぞ。その日は、そればかり気になってしまい商談も失敗。そのフォローに追加の企画書を作成しなければならず、深夜まで残業するはめになってしまった。


 なんら疑問を払拭できないまま、『高血圧事件』から一週間が過ぎた。


 気になるけど訊けない。そもそも、彼女は得意先の受付嬢。用も無いのにふらふらと彼女に会うためだけに訪問はできない。僅かな時間で真意は確かめづらいし、お茶に誘っても、傍から見てナンパみたいに取られてしまう。受付嬢をコンパに誘って出禁になった業者もいるぐらいだ。


 こんな経緯から、彼女のことが無性に気になってしまった。元々、好意を寄せていたことも重なり、その想いは加速した。だが、出会ってから一年以上経て、なんとか訊けたのは木掛優という彼女のフルネームだけ。こんな体たらくでは、受付嬢を口説き落とすなんて相当難易度が高い。


 おれ、恥ずかしながら恋愛偏差値1だから。


 毎夜、一人暮らしの1LDKマンションに敷かれた万年床に寝転がり悶々としていると、突如として『彼女』が現れた。

 その彼女とは、俺が気になっている受付嬢の木掛優さんではない。


 一言でいえば――


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