血だらけで永遠の

ikeuyu

第1~11話 第一章・生きててくれてありがとう

 そして天高く、一本の剣が掲げられる。

「待って...待って!」

 少年の腰を抜かしながら発した声が夜明けの空に、果ての無い静寂に木霊こだまする。

「やめて...待って!待って!」

 ただそれだけだ。必死に叫んだところで、誰も助けに来ない。来るわけが無い。

「死ぬなんて、死ぬなんて嫌だ!」

 少年の首筋へ、冷酷な視線が降り注ぐ。刃を振りかざす位置を、見定めている。

「俺を、どうか...」

 枯れ果てた喉を呼気が激しく行き来しながらも、少年は言葉を紡ぐ。

「どうか俺を、逃がしてください...」

 目尻に走るヒリつくような痛みと、頬をなぞる熱の感覚。

「最後に...最後に会わせて欲しいんだ」

 顔面を滴り落ちる雫が少年の顎先から粒になって落ち、音も無く砕けた。

「俺はッ!!一宮いちみやに謝らなきゃ...」

 声が、止まる。

 舌も顎も動かないことやら、自分の荒々しい呼吸音が一瞬にして静寂に還ったことやらで、一斉に思考回路がごった返す。少年の頬が床に寝そべって、赤黒く染まった剣の切っ先が視界へと差し込んだ。

 それは、初めての感覚だった。

 痛みもそれ以外の感覚も一切無く、ただ混乱と恐怖に染め上げられていた意識が空白に塗り潰されていく。

 死を、初めて実感した。


—――死まで、あと七日。

 校庭の庭に植えられた紫色の花弁を実らせるジャノメエリカを、遠く視線で見つめながら。


 少年、鹿芝しかしば将鐘まさかねは渡り廊下を歩いていた。現在は放課後、夕陽に淡く焼かれている空模様を窓越しに、横目で眺めながら歩みを進める。

 鹿芝しかしばの通う高校は、中高一貫制の男子校だ。近くの駅からスクールバスが発着しており大多数の生徒はそれを利用して下校するが、鹿芝は自転車通いなのでスクールバスを使用する際には事務室で発行される回数券を十枚単位でまとめ買いして、天候が優れない日にのみそれを利用している。

 バスダイヤに束縛されることなく好きな時間に帰れるのは自転車通いの特権だ。ただ、冬以外は背中が汗まみれになるせいでかゆみが止まらないし、虫が群がって飛んでる時期だと制服のそこら中にくっつくこともあるので、いいことずくめとは言えないが。

 そんな中、鹿芝しかしばには部活があるのでまだ帰るわけにはいかなかった。目的地である高校職員室の隣、協同学習室の扉を開けたその時、部屋の中から悲鳴が上がる。

「ああっ、ワープロ原稿消滅したッ!!オーマイシッ、ズィーザァス!!」

「えっ、ちょっ...土鯉どこい、マジでアホなん?」

「いや、聞いてくれ須床すとこ。それが意外とあるんよ。ほら、pcで要らないファイルを断捨離だんしゃりするときあるでしょ?その拍子でこうなるの」

「そうなのか、うん。ねえわ」

 通常の教室の二倍ほどの広さを誇る協同学習室は学年合同で使われることが多く、放課後は高校生限定の自習室として開放されている。机や椅子の配列は日本らしく黒板の方を向いて前後左右で均一に並べられている訳では無く、定期的に授業の一環として取り入れられるグループワークを想定して三角形を描くように向かい合っている。

 須床と土鯉と鹿芝を含め、今日は姿を見せていないがその他二名、彼ら文芸同好会メンバーたちは机や椅子を後方の一角に寄せ集め、水曜日と土曜日の週二日に活動を行っていた。

「こんちわ。吉村さんと岩井さんまだですか?」

「お、鹿芝くん。そうそう、二人とも今日は休みだよ」

「そうですか。わかりました」

 鹿芝にとって二個上の先輩である須床とそう言葉を交わして、引きずってきた机の上に、リュックサックを乗せる。

「ノートパソコン...ノートパソコン...あ」

 リュックサックへと手を突っ込んで、ノートパソコンを探ろうとして。

「こんなもの...俺、まだ持ってたんだ...」

 その奥深くに沈んだ一本の、オレンジ色の折り畳み傘が目に留まった。

「鹿芝くん?どうかした?」

「あ。いえ、なんでもないです」

 再び、ノートパソコンをリュックサックから探し出し、取り出して開く。手慣れた指使いでパスコードを打ち込む。懐からワイヤレスイヤホンを取り出して、スマートフォンと繋いで作業用BGMを再生し始める。

「よし、いっちょやるか」

 小声でそう呟いて、鹿芝はキーボードを叩き始めた。流れるように、時間が過ぎていく。

 鹿芝が所属している文芸同好会の活動内容には明確な指標はなく、基本的に思い思いに小説を執筆したり、雑談をしたり、時期によっては出版社の公募に参加することもある。

 鹿芝にとって、ここは居心地が良かった。ノルマが課されることもなく、ただ自分の好きなことに打ち込むことが出来る。それに、とにかく飽き性な性格であることを自覚している鹿芝には、好きな時間に帰ってもいいという好条件も実に魅力的だった。

「そういや土鯉どこいさんって、もう十八になったんですよね」

「あー、そうそう。もう選挙とか行ける歳になった。酒とかタバコは無理だけどね」

「いいなあ。あとなんというか、学生だけど立場上は大人ってなんか不思議ですね」

「マサって成人に興味あるの?大人になったからってそんないいことないと思うけど。責任とか義務とかそういう余計なのが増えるだけだって」

「そんなもんなんですかね」

 ノートpcの画面に映し出されているのは、ネット小説サイトの執筆専用ページ。鹿芝は三か月後に締め切りを迎える公募に向けて、原稿用紙代わりにサイトの文書保存機能を活用している。執筆中に原稿の字数を手軽に確認できるうえに、エピソードごとに文書を保存できるため話に区切りをつけやすいところなど、使ううえでのメリットの多い優れものだ。

 協同学習室に訪れた数十分前まで白一色だった画面上の上半分には、直径一センチほどの黒色の明朝体フォントが横に並べられた文字列が陣取っている。無心でキーボードを打ち込んでいる間の爽快感も、反射的に浮かび上がったアイデアをその瞬間に発散できる感覚も心地よかった。

 それらを感じ終えて不意に作業から目を離したときに、台詞や情景描写を始めとする文章表現やストーリー上の細かな選択に思い悩んだ際の試行錯誤の残した痕跡を文字列として形にできるところも、そういった全てが執筆活動の魅力として思えた。

 しかし、そんな鹿芝の執筆活動も、近頃は少しスランプ気味になっている。自分の作品の質は自分が思うよりも陳腐なのではと、そんな不安が時折過るからだ。

(でもまあ、執筆自体は楽しいし、気にするだけ無駄だよな。そんなの)

 そんなことを考えていると。

「鹿芝くんは、大人になったらどうする?」

 向かいの席の、勉強机越しにノートpcを前に同じく執筆作業に励んでいた須床が尋ねてくる。

「俺が大人になったら...ですか。そういえば、文化祭の日に須床さんとそんな話しませんでしたっけ」

「あ...ああああっ!!」

 途端、須床が頭を抱えながら必死に何かを搔き消さんとばかりに発狂する。

「おいおいどったん?脳震盪か?」

「いやそんな軽い症状じゃない...黒歴史という名の不治の病だ...」

 にやけ面を浮かべながら声を掛ける土鯉と、呻き声を漏らす須床。

「あーなるほどそういう...」 

 性格の悪そうな笑みを浮かべたまま、土鯉が鹿芝のほうへと振り返って。

「で、こいつの黒歴史って?」

「やめろおおおおお!!」

 赤面しながら発された絶叫が、協同学習室という通常の教室二つ分の開放感のある空間の全てを埋め尽くさんとばかりに反響した。

「ええと...」

 須床には若干心苦しいところだが、鹿芝は言葉を紡いだ。

「昨年度の文化祭のとき、初めてここに足を運んだとき、俺、須床さんに声掛けたんです。文芸同好会ってここですかって。それまで文芸同好会がこの学校にあるってことすら知らなかったんです。とまあそんな感じで、その日の夕方、いやどちらかというと夜か...そのときに、須床さんにちょっとした、なんいうか人生相談を持ち掛けたんです、勢いで。ほぼほぼ初対面の相手でいきなりそんなことした俺って、今思えば結構やばいですよね」

 やがて段々と、鹿芝にも須床と同様の黒歴史を思い出したとき特有の症状が現れ始めた。少し声が上擦りそうになりながらも堪えながら、鹿芝はそこまで言い切った。

「おおマジかよ。人生相談とは。なるほど、それでなんかイタい発言しちゃったわけか須床くん」

 土鯉は視線を鹿芝から須床へ向けて、その瞬間。

「おいそれ以上何か喋ったら窓から落とす」

「さーせん」

 協同学習室は四階にあるためもしそうなったら冗談抜きで致命的威力になるに違いないのだが、須床は冗談半分ながらもそんなことを口にしていた。本人からすればあのときの経験は間違いなく黒歴史のようだが、その割にダメージは浅いようで表情は普段通りの雰囲気へと戻っていた。

「それにしても、文化祭か。そんなこともあったなあ...そういや、今年の文化祭って開催いつだっけ?来月?」

「たぶんそうだと思います。あれから一年経ったって思うと、なんだか感慨深いですよね...」

 不意に、視線を教室の奥の壁に立てかけられた時計へと向ける。気付けば、時刻は六時を回ろうとしていた。

 鹿芝が来た頃は自主学習に打ち込んでいた生徒もまばらにいたが、ノートpcから目を離して見回すと、協同学習室に残っていたのは文芸同好会メンバーのみだった。

「あっ、じゃあ俺そろそろ帰ります。お疲れ様です」

「うん。じゃあね」

 須床に別れの挨拶を告げたのち協同学習室のドアを閉めて、廊下を歩きだす。


(あー、くっそ眠い)

 天井に張り付く蛍光灯がぼんやりと明滅する。鹿芝は脱力し切った表情で、ぼーっと前を見詰めながら歩いた。

「さっさと駐輪場に直行するか」

 階段を四階から一階まで駆け下りて、昇降口で上履きから運動靴へと履き替えて外に出ると、夜風が肌を撫でてくる。

(いつにも増してリュックが重い...まあ薄型とはいえパソコンと、あと弁当とか入ってるしなあ)

 コンクリートの道を踏みしめながら駐輪場へと向かおうとしたところで、足を止めた。

「あ、水筒忘れた」

 来た道を引き返し、階段を上る。

 ノートpcとステンレス製の弁当の空箱、学習用タブレット端末の入ったリュックの重さが一段一段を昇るたび、左右交互に片足ずつ圧し掛かってくる。しかも、その作業を最上階に辿り着くまで続けなければならない。執筆作業で液晶画面を凝視していたことによる疲労に加え、追撃を喰らった気分だった。

「すみません。忘れ物を取りに...」

 そこに須床と土鯉の姿はなかった。代わりに、微かに土汚れの滲む、かつての凄惨な出来事の名残を纏うワイシャツの、小柄な背中が鹿芝の視線を吸い寄せていた。

「なんで、お前が...」

 思い出したくない人物だった。

「一宮」


―—あの日からずっと、授業を欠席していたはずなのに。


 事の発端は、半年ほど前。

 一宮は、いつもと同じように1年B組の教室でライトノベルを読んでいた。時刻は昼休みの半ばくらいだった。外には小雨が降っていて、空は薄暗い灰色に埋め尽くされていた。教室は少し騒がしくて、家から持参した弁当を食べているクラスメートもまばらで、食堂に向かっていたクラスメートも大半が戻ってきていた。

 一宮は膝の上で、いつものように机の影に本を隠しながら伏せるようにしてその視線で紙面上の活字を一心不乱に辿っていた。休み時間や、授業の合間で教師が目を離した時、どんな時もずっと、そうだった。担任教師がホームルームを始めようとしていたときすら気付かずに本を開き、無自覚のまま、クラス全体の下校時刻を引き延ばしながら読みふけっていたこともあった。

 こんな時くらいは本閉じろよ、と強気の口調でクラスメートに注意された時にはすぐに本を仕舞ったが、本人には自分の行動に問題があるという認識が無いようで、次の日になれば何食わぬ顔で読書をしていた。

 彼と同じクラスである鹿芝も少しばかり、一宮のことを疎ましく思っていたという自覚はあった。

 けれど、一宮のことを真っ向から冷たくあしらうような気は、鹿芝には無かった。

「ねえ、鹿芝くん」

 何ら変わらない普段通りの昼休みを、自分の座席でスマートフォンを触って過ごしていた鹿芝は、何の前触れも無く唐突に一宮から話し掛けられた。

「何?」

 不意にスマートフォンの電源ボタンを押し込んで、少し後悔する。オンラインゲームのプレイ中で、しかも対戦をしていた最中だったためだ。サーバーからの強制ログアウトは避け難いだろう。舌打ちを堪えながら、鹿芝は一宮の問い掛けに応じた。

「鹿芝くんはライトノベルを読んだことはある?」

「あるけど...まあ漫画のが好きかな」

 一宮は鹿芝の一つ後ろの座席で、鹿芝が右端の最前列なので彼の座席は前から二番目である。そのため話し掛けられること自体はそこまで不自然では無いが、彼との会話は、これが初めてだった。

「ねえ、お気に入りのライトノベルがあるんだけどね。ええと、主人公は氷川那音っていう名前の男子高校生で、電車に飛び込み自殺しようとした同級生の女の子を助けようとして自分が電車に轢かれて死んだのがきっかけで転生する話なんだ。読んでみると意外と面白い話なんだよ。アニメとかにはなってないけど」

 内容もタイトルも全く知らない、ラノベの話。

「へ、へえ...」

 目を逸らしながら苦笑いを浮かべた。鹿芝なりに露骨な拒否反応を見せたつもりだったが、一宮は何事も無かったかのように話を続けた。

「それで、主人公は異世界で目を覚ました時に自分の身体がとある異能力に目覚めたことに気づくんだ。何だと思う?」

「いや...知らないけど...」

「自分が殺した相手の異能力を自分のものにする能力、剝奪の権能っていうんだ。それを利用して、途中で何かの花の名前をしてた村出身の女の子を野獣に襲われてるところから助けたりするんだけど、その子がメインヒロインなんだよ。他にも特徴があって、これは戦闘シーンが多いけど文章があまり上手じゃないところが欠点なんだ。あと...」

「いや...」

 知りもしないライトノベルの話を、一宮は前のめりで語っていた。こちらの興味の無さそうな表情にもお構いなしに。

 漫画の方が好きという言葉は、ライトノベルの話には興味が無いという意味だ。ただ、もしも面と向かってはっきりとそう本音を言えたなら、堂々と本音を告げられる人間だったなら、そんな回りくどい言い回しはしなかっただろう。それに正直なところ、わざわざそんなことを伝えるのは面倒臭かった。

 むしろ、それが一番の理由なのかもしれない。

「ごめん。俺、そのラノベ知らないんだよね」

 だから、そんな本音が漏れ出ないよう一宮の言葉に素直に返答をした。

「まあそれに、そもそも異世界転生モノって圧倒的にネット小説が原作の作品が多いのは知ってるから描写が下手とかは承知の上で読んでるし、そこも気にならないかな。うん。まあとにかく、俺はその作品知らないから。でもありがとな、紹介してくれて」

 断っていたつもりだった。語気だって少し、低く落としたつもりだった。視線を一宮の顔から、教室の窓から外の景色を見ているように逸らして興味が無いことを示したつもりだった。

「全然いいよ。どういたしまして。他の作品のことも僕、いっぱい知ってるから沢山教えてあげるね。あと、読みたいならこの本貸してあげるよ。それともここで一緒に読む?」

「いや...遠慮するよ」

 なぜ、赤の他人がわざわざ善意で傷つかないよう言葉を選んでやっているというのに、そんな些細な親切心すらも蔑ろにして、言葉の裏を読もうとせず自分の都合良く解釈することしか能が無いのだろう。

「それと...鹿芝くんは、今日は暇かな?家に招待してあげるよ。家にこのシリーズ全部揃ってるから。あと他の作品のコミカライズも、アニメ版のDVDもあるよ」

「いや、無理でしょ...今日初めて会った人をいきなり家に誘うとか普通に考えて」

 溜息混じりにそれを指摘した。一宮を咎めたつもりだった。

「もちろん。明日でもいいし、明後日でも僕は大丈夫だよ」

 けれど一宮は変わらず、人の言葉に潜む意図、微細な本音を汲み取って相手の心境を解釈しようなどとは微塵も思わないらしい。

「将鐘。自販機行こうぜ」

 そこへ、鹿芝の机に掌を置いてクラスメートの白井が声を掛けてきた。白井は自転車競技部所属で、体躯が細く背が高い。長身の彼の姿には存在感があるので、視界の端に移っただけでも白井だと分かった。

「ああ、うん。ちょっと待って。財布出すわ」

 鹿芝が白井の方を向いて、椅子から立ち上がった、そのとき。

「白井くん。まだ鹿芝くんとの話が終わってないよ。僕が友達と話しているのにそれを無理矢理遮るのは良くないと思うよ」

 一宮は白井の方を向いて、聞き取りにくいものの少し苛立ったような声音でそう放っていた。白井は、それに一切の反応を示すことはしなかった。鹿芝も、それに沿う形で一宮の言動をスルーした。

 ついでに黒板の右斜め上の位置にある掛け時計に目をやると、時刻は午後一時二十五分。五分後には、五限目の授業が始まる。それを確認したのち、鹿芝は自分の机の横にあるフックに掛かっているリュックの中をまさぐった。

「白井くん。人と人の会話を遮るのは、良くないと思うんだよ」

 一宮がそう声を掛けてくるが、それに応じることも視線を向けることもしなかった。するべきではないと思った。

「あったか?財布」

「あー...あった。あったわ」

 そして、財布を取り出して無造作にポケットに突っ込む。

「じゃ、行こう。白井」

「おう。将鐘は何飲む?やっぱコーラ?」

 白井と肩を並べて、席を離れようとした、そのとき。

「鹿芝くんも、どうして無視するの?人を無視するのは良くないことだよ。理由を教えてよ。僕を無視する理由を...」

「なあ。お前さ...」

 そこまで言い掛けた一宮の肩を、白井は掴んでいた。突然の出来事で、鹿芝は教室から廊下へと踏み出そうとしていた足を止めたまま振り返り、目の前の事象に思考が追いつかないまま唖然としていた。

「なんで初対面の将鐘にそんな失礼な態度堂々と取れるんだよ。無視する理由?それぐらい自分で考えろよ。なんでこっちにそんなことわざわざ教えてやらなきゃいけない義理があるんだ?でもまあ、いいよ。教えるよ。人が人を無視する理由はな...」

 苛立った口調でありながらも白井は、周りのクラスメートに聞き取られないよう一宮の耳元で声を発していた。その声量には見合わない、濃密な怒気を孕ませながら。

「お前はちょっと黙ってろ、っていう意思表示だよ。言ってること分かるか?分からないよな。そういうごく普通の常識を教えてくれる友達、お前にいねえもんな」

 鹿芝は白井と一宮の間に割って入る形で、白井の言葉を遮った。

「白井、もう行こう。あと五分で昼休み終わるぞ」

「ああ、悪い」

 少し駆け足で、鹿芝は白井と肩を並べて食堂付近にある自販機へと向かった。


 この社会には、欠陥品が混ざっている。少なくとも、世間はそう社会を見なしている。

 正しく言葉を扱えず、正しく情報を理解することができず、正しく感情を読み取ることができない、五体満足でありながらも中身が致命的なまでに破綻した、人と同じ外見を模しただけの欠陥品。

 世間は身勝手ながらもそう結論付け、彼らをどれだけ手を尽くしても治すことの出来ない病人と見なしてはADHDやらASDやらと、烙印を押す。産まれながらにして、社会不適合者として扱われることが確定されてしまう。

 普通や常識、当たり前という言葉は、そういった欠陥品を社会から排除するための目安として用いられている、曖昧で抽象的で残酷な具現化された差別意識の目分量。

 けれど、全ては仕方のないことだ。

 自分は社会不適合者じゃないと思い込んで安心することでしか、最低限の自己肯定感を保つことのできない人も、少なからずいるのだから。どこまでも不幸な人間もいれば、不幸な一生というものを想像することすらできないような人間もいる。それが紛れの無いただの現実なのだから。

 この社会で、例え自己を一切の取り柄の無い最底辺の凡人と見なしていても最低限の自己肯定感を保っていられる手段は結局、人を見下すことしかない。自分は人を見下すことが許される存在なんだと安心することで、自分と他人を比較することでしか人から認められる手段の存在しない社会でも、平静を装いながら生きていくことができる。


―—それができない人間から壊れていくのだから、至極当然だろう。


 誰もそんな事実を言語化しようとしないのはおそらく、誰のどのような立場においてもそんな現実で生きている方が都合が良いからなのだろう。人は誰しも、自分以外の何かにはなれない。何をどうやったところで、最後は自分自身を妄信的なまでに信じるしかないのだから。

 けれど、こんな社会を変えようとなどとは一度として思ったことが無かった。考えてみれば簡単な話だからだ。頭の中でこんな馬鹿げた主義主張を好き勝手に発想したり文面上で書き残すようなことは容易だ。

 しかし例えば外で、街中でこんなでたらめな主義主張を叫んだとしたならどうだろう。歪で偏った思想に溺れた非人格者と見なされ、嫌悪されるだけだ。そんなことをしても何も、誰も得をしないし救われない。

 だから永久に弱肉強食に則ったこの社会の現状は、変わることなどないのだろう。本当に現状を変えたいのなら、周りの環境などではなく、自分の手で自分自身の現状を変えるしかない。何がどうなろうと、それ以外に有り得ない。

 それこそが、産まれてきてから今までのこの二十年足らずの人生で何度も、嫌というほど味わわされた経験則から、教室という二十数名の狭い社会の中で学んできた全てなのだから。

「おい将鐘、どうした?なんかボーっとしてっけど」

「いや、まあ...珍しいなって」

「珍しいって、何が?」

「人にキツく当たるところだよ。気にしなけりゃいいじゃん。一宮のこと」

 白井は自動販売機からコーラのボトルを取り出して、キャップを外して容器に口をつけて、一気に半分ほど飲み干した。

「確かに、久しぶりだな。マジギレしたの」

 鹿芝も白井と同じコーラを購入し、同じようにキャップを回しながら。

「マジギレしてたの?別にあれくらいいいじゃん。あんなこと言われたくらいでキレるとか、情緒不安定かよ」

「いや、まあ...将鐘ってさ、人に優しくしようとか思ってない癖して、態度が穏やかなせいで色々と損してるタイプの器用貧乏だろ」

 急にそう言われて、どんな反応を見せればいいのか一瞬分からなくなった。そんなことを言われたのは、初めてだった。白井と肩を並べながら、コーラのボトルを口に運ぶ。

「え?あー...まあ、言われてみたらそうかもだけど」

「だからだよ」

 弾け飛ぶ炭酸の感触が、シロップの甘味に塗り潰された舌の上で痛ましく広がっていく。

「だからって...ああいうことして困るのはお前の方...」

 そのとき、学校中のスピーカーから一斉に、五限目開始を告げるチャイムが鳴り響いた。

「あ。やっべ!急ぐぞ将鐘!」

「ちょ...待てって!」

 小雨が堅く滑らかなコンクリートを打ち鳴らす音がチャイムの残響と重なる中、二人分の慌ただしい上履きの靴音が廊下の縦に長い空間を叩きつけた。


―—五限目は、数学だった。そのはずだった。


「すいません。遅れました」

 鹿芝が息を荒げながらコーラ片手に教室の後方にある扉をスライドさせると、既に着席していたクラスメート二十数名の視線が一斉に、こちらを向いた。そして教壇の前には数学の担当教師の、黒地のスーツに身を包む強面の初老の男の妙にしかめられた表情。

 けれど、その視線が向けられている方向は、鹿芝ではなく。

「白井、ちょっと来い」

 彼は低い声で、鹿芝の斜め後ろに並び立っていた白井にそう告げた。白井はそれに従って、数学教師の立つ教壇の近くまで駆け寄っていく。

「え...」

 そう声を漏らしたとき、鹿芝は原因を理解した。

 一宮が、数学教師の目の前で嗚咽を漏らしながらすすり泣いていたためだった。両手で顔面を抑えながら、頬を伝う涙の粒を時折袖で拭っている。

「一宮君、大丈夫かい?」

「はい...」

 数学教師は一宮に立つように促し、そこに白井を引き連れて二人を廊下へと連れ出して、ドアをスライドして閉ざす。重たい音が、教室の中に響く。数秒程、教室を静寂が満たした。

 黒板には四限目の授業にチョークで書かれた無数の文字群を避ける形で大きく、自習と書かれた二文字と、その下の僅かなスペースには自習範囲とされる問題集のページ数。鹿芝はそれを眺めたまま、呆然とした表情を浮かべたまま、淡々とした足取りで自分の座席へと戻っていく。

 そのとき、クラスメートたちの多様で微細な喧噪が、静寂を破った。


――なんかあいつ泣いてたけどさ、なんで?

――お前友達いないな、みたいなこと言われたとかで。

――は?そんなことで?ていうかさ、今日あいつ日直じゃね?黒板消してないんだけど。

――ほんとそれ。自分の仕事はしない癖に他人の文句は付けるとか、なんなんだろうなマジで。


 そんな声が、教室中の座席から滲むように湧き上がる。


――ていうかさ、どっちかというと白井の方が被害者だよな。

――俺もそう思うわ。実はさっき見てたんだけど、なんか一宮がしつこくネチネチ言ってて、白井はそれに言い返しただけっぽい。

――マジかよ。先生の前で急に泣き始めたとき正直ちょっと心配したけど、もう全然同情できねえわ。

――まあ、被害者面しないと死ぬ生き物なんだろ、ああいうやつは。


 そんな声の群れが、教室の密閉空間をずっと満たしていた。一宮と白井を引き連れた数学教師が教室に戻って来たのは、授業が始まってから十五分が経った頃だった。


 普通や常識、当たり前という言葉は、その存在だけで誰かを痛めつけている。そして痛みは、感情ではない。

 感情ではないから、どのような人間性や趣味嗜好を持とうと、痛みは誰しもが平等に味わう。

 痛みから目を背けることは出来ても、三大欲求を満たすなどといった些細な幸福による上塗り等で抹消することは不可能なのだから、必然的に誰しもが痛みを恐れている。

 人から視線を向けられたときに感じる不安感や、些細な言動から感じ取れる自分を否定しているのだというニュアンスによって覚える迷い。誰しもが、痛みを忌避している。

 けれど、皆一様にそんな現実に疑問を呈したり改善を図ろうとしないのは、きっと人の心の原動力の一部分に、痛みという存在が含まれているからではなかろうか。


―—それ故に、痛みとは恐ろしい。


 人に殴られたときの痛みは一瞬だ。誰に殴られたのか、どこを殴られてどこから痛みが発しているのか。原因が分かるから、思考がそこで決着する。

 けれど、言葉によって傷つけられた痛みはどうだろうか。

 間違っているのはどちらか、正しいのはどちらか、常識に則った判断が出来ているのはどちらか、合理的な思考を伴っていると客観的に評されるのはどちらか、責任を問われるのはどちらか。

 永遠に答えの出ることの無い疑問を繰り返し繰り返し想起し、自分自身を追い詰める。人の言葉によって与えられた些細な痛みを自ら増幅させ、怒り、哀しみ、吸った息が鉛のように重く感じられるほどの負の感情への転移を伴って、終わらない苦しみを味わう。

 そんな無意味な、自らの手によって行われる可視化することのできない疑似的な拷問こそが、言葉の暴力なのである。


 時刻は、放課後。雨は、止む気配が無かった。それどころか勢いを増すばかりで、鹿芝が昇降口前で立ち尽くしていた頃には既に、雷の音すら聞こえてくるほどの土砂降りとなっていた。

「将鐘じゃん。おつかれ」

 鹿芝が昇降口で立ち尽くしていると、背後から白井の声。

「おっ。おつかれ、白井」

「お前なんでまだ帰ってないの?」

「実はさ、今日雨だからバスに乗らないと帰れないこと忘れてて、バスダイヤ見てなかったんだよね。それで、一本逃がしちゃって。次のバスってどの乗り場も大体三十分後くらいだよな」

 昇降口から歩いて一分足らずのところに三箇所、到着駅のそれぞれ異なるバス乗り場があるが、どの乗り場にも人の姿は見当たらず閑散としている。豪雨が雨粒をばら撒いて無数の波紋を広げながら、水面の膜がコンクリート上に張られていく様だけが、視界を満たしている。

「確かそうだけど。マジかよ、ついてないなお前。ていうかさ、将鐘傘持ってなくね?」

「あー、うん。こんな土砂降りになるなんて思ってなかったから。こんぐらいの小雨なら自転車で帰っても問題ないだろとか思ってたんだけど、今日はバス安定だな」

「それな。昼休みの時はもうちょい雨、弱かったのにな」

 そこで言葉が途切れて、耳障りな水の衝突音が鼓膜を震わせるのをただ感じる。どうして二人しかいない空間とはこうも気まずいものなのだろう、と鹿芝は胸の内で呟いた。暇を持て余して白井の方へと視線を向け直すと、彼は何やら自分のリュックをまさぐって物を取り出そうとしているようだった。

「傘、要る?折り畳みだけど」

 リュックから引き抜かれた右手に握られていたのは、オレンジ色の小さな折り畳み傘。折り畳み傘にしては目立つ、単調でありながらも鮮やかな色合いで、どこか白井らしいとも思える色彩だと思った。

「あ...ありがとう」

 折り畳み傘を受けとって、鹿芝はそれを片手に持った。

「将鐘はさ、どうにかしてやりたいって思わないか?一宮のこと」

 すると、白井が真顔でそんなことを言ってくる。鹿芝は内心で少し、驚いた。

「どうにかしてやりたいって、珍しいこと言うなあ。まあ確かに、あのままだとあいつは、ずっとクラスで浮いたままの存在になるだろうし。でも、どうやって...」

「簡単だよ。俺が直接教えてやればいい話だ」

 けれど、何かが違和感を発している。

「直接って、何それ。教えるって、何を?」

「人が人を無視する理由。人が人を冷たくあしらう理由。人が人を、いない者として扱う理由」

 白井は、無数の雨粒を注ぐ分厚い灰色の雲を見据えながら、喋り出した。

「今日、俺はそれを一宮に教えたつもりだった。だけどあいつは、何も理解できていなかった。五限目の時さ、職員室に連れ出されて無意味な説教を散々と聞かされて...隣には一宮がいて、あいつは俺が説教されるザマをずっと眺めてたよ」

 やけに穏やかな口調で、言葉を紡いでいた。

「あのとき、一宮には自分にも多少なりとも原因があるっていう認識すら無いようだった。自分は暴言を吐かれた被害者だって、ただそのことしか頭に無いような面構えだった。そのとき俺、分かったんだよ。口で何か指摘したくらいで人は、何も変わらないんだなって。自分の身体で、自分の身体の感じた痛みで現実を教わらないと、あいつはずっとあのままだって」

 白井は、自分の拳を握り締めながら。

「これならあいつでも理解できるはずだ。人の成長にはいつだって、相応の痛みを伴うということを」

 その様子を見て、鹿芝はその表情からはっきりと滲み出るほどに困惑していた。

「白井...お前、これ何の話?どうやって、一宮がクラスに馴染めるようにするかっていう話を、俺に持ち掛けたんだよな?」

「どうやって、一宮に学校を辞めさせるかっていう話だよ」

 何の感情も込めずに白井は、そう言い放った。

「白井。お前、何するつもり?何のためにそんなこと...」

「お前のためだよ」

「は?」

 反射的に聞き返すが、白井は構わず続けた。

「だって、一宮のせいで一番困ってるの、将鐘じゃん。友達どころか知り合いですらないのに、急に話し掛けられたかと思えば文句付けられて、散々だったろ?だから俺が...」

「分かるよ...」

 鹿芝は、白井の全身を揺さぶるがごとく声を激しく震わせながら。

「そんな言葉が嘘だってことくらい、俺じゃなくたって分かるよ!説教食らってむかついてんだろ!その仕返しがしたいだけなんだろ!自分を正当化したいから...友人を守るための正当防衛っていう名目で一宮を吊し上げにして自分のストレスを発散したいだけだろ!」

 そこまで言い切って、鹿芝は呼気を荒げながら息を吸って、吐いた。白井は目を見開いて、そのまま互いに無言の時間が数秒、続いた。豪雨とコンクリートの衝突音が、空間を一瞬にして満たした。

「落ち着けよ、将鐘。そんなこと無いって。信用しろよ」

 白井が宥めるようにそう告げるのを見て、鹿芝は荒い呼吸を次第に整えたのち、言葉を続けた。

「信用は...してるよ。まあ別に、そこまで本気じゃないから...ただ、もしも本当に俺のためだったとしても、第三者からしたら加害者はお前だ。分かるだろ?ここでお前が何を言ったところで、客観的に見たらお前が悪いことになるんだ。だからさ...やめよう。こういうことするの」

 その言葉を口にした、その途端。

「ああ、本当にその通りだ」

 白井の紡ぐ言葉から、感情の宿した起伏が、感情の気配が消えた。

「お前が正しい。お前が言った通りだと思う。お前は俺の思ってることを正しく理解していると思う。だからな、将鐘。最後に一つだけ、簡単な頼みがあるんだ」

 その瞬間、白井の右手が鹿芝の肩を掴んだ。その動作によって視界が揺らぎ、反射的に白井の顔が鹿芝の視界へと降りてくる。雨音が少しずつ、意識から遠ざかっていくように感じた。

「空気読めよお前」

 身長が高く細い体躯を持つ白井の冷徹な眼差しが鹿芝の瞳へと、真っ向から注がれたそのとき、鹿芝は、無自覚のうちに頷いてしまった。


 本気で肯定した訳じゃなかった。一宮に直接文句を言いたいと思うほど、増してや一宮に対して何かしらの仕返しをしたいと思えるほど、彼に対する不快感は強くなかったからだ。ただ、白井が一宮に対して不満を抱くのは仕方の無いことだ。だから同意紛いの相槌を打った。

 翌日の昼休み。そうやって、鹿芝は必死に自分に言い聞かせていた。

「うわ、お前こんなん読んでんの?えっろ」

「白井くん、返して。あと、それはそんなにエロくないから」

 本来なら、この会話の時点で白井を止めるべきだった。

「ちょっと貸してよ。いいじゃんそれくらい」

「やめて、離して—―」

 悲痛な声を一宮が発すると同時に、白井と引っ張り合っていたライトノベルの巻頭カラーイラストが、物の見事にちぎれた。

 真っ白く膨らみのある胸の谷間をパーカーから露出させながら頬を赤く染める銀髪のヒロインが、この作品の主人公に対し向けているのであろう『この変態ッ!!』という台詞を綴る、ピンク色に塗り潰されたポップ体のフォントがその隣に添えられていて、描かれたそれがほこりまみれの床に落ちる。

「へえ」

 白井は、その様を目で追った。

「おう、すまんすまん」

 そして、上履きの靴底を擦り付けながら、イラストを踏みつけた。

「間違えて、つい踏んじゃったわ」

 鹿芝はその光景を目の前にして、何ら反応を見せることは無かった。白井を止めるでもなく、泣きそうな表情を見せる一宮のことをわらうでもなく、潔く堂々と、見えないふりをしていた。

「なんで、こんなことするの」

 一宮の声は、震えていた。震えを抑え込もうと必死に、喉からか細い声を発していた。そんな一宮の様を見て、白井はその真っ黒い瞳の奥を悪意で満たすように笑みを浮かべた。

「あー、ごめん。そうだ、お詫びになんか飲み物奢ってやるよ。だからさ、自販機のとこまで一緒に行こうぜ」

 直感的に、白井が何をしようとしているのかが分かった気がした。歯を覗かせながら浮かぶ笑みの底に、悪意に満ちた彼の真意を垣間見た気がした。今度こそ、心の底から思った。

(駄目だ、白井。これ以上は...)

 思っただけで、言葉には出なかった。不意に、予感したからだ。

「将鐘も一緒に来いよ」

 悪意の矛先が、自分へと向くことが怖かった。

「ああ、うん」

 鹿芝は教室を出て、一宮と肩を組んで歩く白井の姿を、張り詰めた眼差しで見詰める。逃げ出したい欲求を堪えながら昇降口から校舎外へと踏み出して、自販機のある角を曲がった先の、校舎裏までの道を辿った。


 白井から手渡されたのは、スマートフォン。液晶画面にはレンズ越しの光景が映し出されていて、その右端には真っ赤な録画ボタンが鎮座している。しかも、カメラは既に回っていた。

 鹿芝が視界から取り込んだそれら全ての事実を、彼の思考回路が飲み込むのに、数秒掛かった。

「やめて、ください...」

 鹿芝の手元に向けて手を伸ばす一宮。

 その下唇から顎先までが濁流のごとく溢れ出た血で赤く染まっている。声は、さっきよりも小さい。意識を向けなければ聞き取ることすら出来ない声量だ。だが、彼の指先はスマートフォンに届くことなく刹那せつな痙攣けいれんし、そのまま前のめりに倒れ込んだ。

 露わになったその背中には、土色の運動靴の跡がワイシャツの白色を塗り替えてしまうほど、鮮明に痛ましく、刻み込まれている。全て、白井の暴力行為によるものだった。

(これでいい)

 呻くように吐息を漏らす一宮の這いつくばる様を、鹿芝の握りしめるスマートフォンのレンズはピントを寸分違えることなく捉えていた。

(これでいいんだ)

 鹿芝は、意思を喪失していた。

 正義感という名の重りを、抵抗感という名のかせを、捨てていた。

 何が、意思無くして鹿芝の身体を動かしているのか。それを有り体に言うなら、場の流れ。空気を読んでの行動というものだった。

 誰だってそうするはずだ。常識的に考えて、自らの身の安全を最大限に憂慮したうえで他者に手を差し伸べるべきだ。歯向かえば暴力を受けることは分かっていて、なおかつ歯向かったことで自分が得られるものは何もないという状況で、悪戯いたずらに自分の身を傷つける行動に出る方が不自然だ。非合理的だ。間違いだ。そう結論付けるのが当たり前だ。そう考えて然るべきだ。

「もうやめて...死ぬ...死ぬよこんなの...いいの僕が死んで...いやでしょ...死んだら君も刑務所だよ十五歳だから...ねえ...」

「あ、そう」

 白井の薄ら笑いが、立ち上がる余力も無く倒れ込むように寝返りを打つことしかできない一宮の視界に差し込んで—――


 呼吸のやり方を、人は説明できるのだろうか。


 鼻や口から空気を吸い込んで、肺の中で酸素を空気から抽出して二酸化炭素を空気に戻して、鼻か口から吐き捨てる。けれど、具体的にそれはどの器官をどのように作用させて行っているかは自分でも分からない。

 例え知識でそれを理解していようと、どれほど理解した気になったとしても、呼吸なんて努力も工夫も何もしなくてもできることなのだから、大多数の人間からしたら所詮はどうでもいいことに過ぎない。産まれながらにして与えられた器官を、自分の本能に従って駆使しているだけなのだから。


 二足歩行はどうか。何をしたらできるようになっただろうか。親に立って歩くよう促されたからだろうか。違う。これといって何もしなかった。自分の意志で何かをやろうと思わなくても、一切の努力を要することなく勝手に身体がそれを学んで、成長したからだ。


 なら、人との意思疎通を取ることができないのは、その人が生物としての欠陥品だからなのだろうか。

 正しく言葉を扱えず、正しく情報を理解することができず、正しく感情を読み取ることができない、五体満足でありながらも中身が致命的なまでに破綻した、人と同じ外見を模しただけの欠陥品として、常識すら理解できない社会不適合者として、有り触れた些細な幸せを知ることに対する憧れを、自分に対して余りにも無関心で不愛想で、それでいて憐れみと侮蔑を織り交ぜた眼差しを向けてくる他人に対する怒りを、誰よりも無力な自分自身に対する絶望を抱きながら、死を待つしかないのだろうか。

 言語化できない些細な仕草とそこに忍ばせた心情の飛び交う騒然とした教室の隅で蹲っては、努力も工夫すらもできない有象無象からもそんな視線を浴び続けなければいけないのか。


――そんな人生が身の回りにありふれているという紛れの無い事実からまた、僕たちは、この文章を読んでいるあなたたちは、目を背けるのだろうか。


 一宮は、振り返る。吊り下げられた蛍光灯から滲み出る白い光が、二人きりの静寂に染み入るように降り注いでいる。

「久しぶり...もう、三か月くらいだよな。学校に来なくなったのが、ちょうど体育祭のちょっと手前ぐらいだったし...そ、その、元気してた?」

「元気というか、なんとなく...」

 虚ろだった。視線が全く動いていない。一宮の目は本を読むためだけにあるのだろう、と鹿芝が何度か思ったことがある理由も彼の虚ろな視線、人に興味の無さそうなところにあった。

「あ、ああ。じゃあ俺、忘れ物探したら帰るから。またな」

 鹿芝は近くの机にリュックを下ろし、一宮に背を向けた。音を立てないよう意識しつつ大きく呼吸する。

(大丈夫、なんてことない。水筒探して、帰るだけだ)

 そして鹿芝は振り返り、自分のいた机に歩み寄ろうとして、目を見開いた。

 一宮は、息を荒げていた。はっきりと聞こえるほどに。

「お前は、自分が何をしていたのか忘れたのか?」

 彼は極度なまでの猫背だ。いつも本を膝の上に乗せ、机の下に隠しながら読んでいるせいで。

外道げどうだ。下衆げすだ。クズが...死ねよ死んじまえよ!てめえらみたいな、人を虫のように扱って、気に入らないやつは暴力で黙らせて、黙らせただけでは飽き足らず殴って蹴って血を吐かせて、社会不適合者なんだよお前は!」

 加えて前髪が長いヘアスタイルのせいで、座っているときは愚か、立っているときですら額から両目まで前髪が被っている。

「僕が、何度願ったと思う?一体、僕が何度、お前らの死を願ったと思う?何度、お前らの死に様を妄想して思い浮かべてわらったと思う?一人きりの部屋の中で、ナイフや包丁でお前らを刺し殺す妄想をして、一人で勝手にスッキリしているような毎日ばっか過ごしてる僕を、お前はどう思う!気持ち悪いよなあ!僕は、お前らが心の奥で見下してるような最底辺の人間だ!社会のゴミだ!世間が、家の外では善人のフリしてネットの匿名性の陰では死ねばいいのにとか言いやがる世間様が袋叩きにしたがってる人間以下のきしょい何かだよ僕は!でもなあ...」

 だが、左右の瞳が髪で隠れていてもはっきりと分かった。

「僕は最初から、こんな生き物だったか?幼稚園とか、無邪気だった頃は、僕はこんな風じゃなかった!最初から、こんな腐り切った性格してたわけじゃない。最初から、僕は最初から、こうならなくちゃいけないって決められてたってことなのかあっ!?なあ....答えてくれよ...誰が...誰が...誰がっ!」

 十六年間、今まで生きてきて感じたことのない、黒く染まった怒気。

「誰が、僕をこんな生き物に変えやがったんだよぉおお!」

 一宮は、息を詰まらせたのか咳き込みながら、けれど視線は確かに鹿芝の瞳を捉えていた。

「なあ...」

 鹿芝が、口を開く。

「いったん落ち着け。お前、色々とヤバくなってるから今日はもう帰れって」

 少なからず動揺していることを、鹿芝自身も自覚していた。

 正直、言われたことの意味が分からない。理解が追いついていないし、一宮の言っていることを理解するべきではないとも思う。

 それに、一宮にどれほど罵倒されようと元より自分側に非があることも分かっていいる。それを分かっている以上、逆上するなどあってはならない。

 ここは、何も考えず、ただこらえるべきだ。

「もう六時だし、お前のうちどこか知らないけどそろそろ帰んないと晩飯の時間になるんじゃないか?」

 一宮が、おもむろにスボンのポケットから何かを取り出すも、鹿芝は構わず続ける。

「お前にしたことはほんとに、悪いと思ってるから」

 そこまで言い終えたとき。

 大きく股の開いた状態のコンパスがいつの間にか、鹿芝の手の中に握られていた。なぜそうなったのか、沈黙の間を置いて理解した。正面から真っ直ぐに空を切って、金属質な光沢をまとうコンパスの針。それが鹿芝の顔面目掛け飛翔していたことを認識するより早く、奇跡的にもコンパスの鉛筆部分を反射的につかんでいたからだ。

「なんの...つもりだ?」

 鹿芝の喉の奥から出たのは起伏の無い、声。

 手元にあるコンパスの針の先端を凝視する。そして、投擲とうてきを終えた態勢で硬直する一宮の姿を見据えた。

「違うだろ...違うんだよ...なんでお前がそんな平然としてられんだよ!お前が俺を苦しめた!お前が希望を奪った!お前が人生を狂わせた!お前は自分を責めるべきなんだ!生きることが嫌になるくらい、責めて責めて苦しんで悩んで、そうして当然なんだよ!それが当たり前なんだよ!それが常識なんだよ!悪いのはお前だ!お前が悪い!お前が悪い!お前が全て悪い!全部償え!全部責任を取れ!謝れ!謝れよ鹿芝ぁっ!!」

 一宮の文言は、鹿芝の耳には通らなかった。ただ、思考が回っていた。

 もしも、針が顔面に到達するよりも早くコンパスを止めることができていなかったら。もしも、掴んだのが鉛筆の方ではなく、針の方だったら。痛くなるだろう。血が出るだろう。想像なんてしなくても分かること。

 常識的な思考回路を持っているなら、当たり前な物の考え方をできるなら、『人に針の先端部分が露出したコンパスを投げる』という狂った結論に至るわけがない。

 鹿芝は手元のコンパスを折り畳んで、ズボンの懐に仕舞う。そして、一宮へと真っ直ぐ、歩き出した。

「本当は一宮に、言いたいことなんて何もないはずなんだ。ただ、言っておこうと思う」

 狂った思考に基づき動く人間は誤りであり、誤りは矯正しなければならない。どんな手段であれ、間違いは正さなければならない。

「その、思わず嬲り殺したくなってしまいそうな――」

 鹿芝は、一宮の肩に左手を置いて。

「被害者面をやめろ」

――固く握りしめていた右手を、振りかざした。


 机と椅子の群体が床へと崩れ落ちる重厚な衝突音が、床を震動させる。振るった拳に跳ね返ってくる痛みは生易しいものではないが、確かに、鹿芝にとって心地の悪いものではなかった。一宮は、横倒しになった机と椅子に寄り掛かる形で倒れ込んでいた。その口の端から、血液がしたたる。

「—―やっぱ究極的に百合と鬱の掛け合わせしか勝たんわ!この素晴らしき文化を後世に、そして全世界に語り継ぐべき!」

「—―見事にオタク文化に性癖狂わされた日本人の末路を体現してんな」

 その時、遠くから須床と土鯉の話し声が聞こえた。

(あれ...ちょっと待って...)

 鹿芝は我に返ったように狼狽ろうばいしながら辺りを見回して、この状況をどう説明するべきか思案を巡らせること四、五秒経つも、何一つとして打開策は浮かばない。

(これ...下手したら俺、ヤバい?)

 協同学習室のドアがスライドし、須床すとこ土鯉どこいが廊下から姿を現した。鹿芝はその様を見詰めながら、焦燥と共に加速していく心臓の鼓動の音が耳の奥で何度も響いた。

 しかし、須床と土鯉が協同学習室に入るのと同時に、いつの間にか起き上がった一宮は右腕で口元を抑えながら二人とすれ違う形で廊下へと出ていって。

「ちょっ、何があったの?」

「すいません、さっき通り過ぎた子いたじゃないですか。実は、あの子踊ってみた動画撮ってたみたいで。そこをちょうど俺に見られてビックリしたのかな、結構テンパって転んじゃって」

「え。ええ?マジ?」

「あ、はい。マジです」

(こんな堂々と嘘を吐いたのは、一体いつぶりだろうか)

 こうして土鯉どこいへの弁明を終え、鹿芝は滅茶苦茶な状態となった机と椅子を起き上がらせつつ、それらを元の配列通りに一通り並べた。

「それじゃ、須床すとこさん。今度こそ俺帰りますね」

 リュックを背負い直し、協同学習室から廊下へと半歩踏み出したまま振り返る。

「あ、うん。バイバイ。ていうか、鹿芝くんはなんでここに戻ってきたの?何か用があったんじゃないの?」

「そうでした!忘れ物取りに来たんだった!」

「おー、良かったじゃん思い出せて。たぶんだけど、あそこのノートpc鹿芝くんのでしょ?」

 コーラの泡立つ褐色に満ちたペットボトルを傾けながら、須床が鹿芝の背後にある机を指さす。そこには鹿芝の水筒があり、その隣では紛うこと無きノートpcが液晶画面を光らせながら机の上に鎮座していた。取り外し可能な薄手のキーボード、機種や配色などの特徴からして鹿芝の所有しているものと全く同種のようだ。

「いや、俺、水筒取りに来ただけなんですけど...」

「え。じゃあ、誰のだろ?」

「でもあの、もしかしたら俺のかもしれないです。俺が持ってるやつと瓜二つだし。一応リュックの中身見てみます」

 鹿芝はリュックを床に下ろし、チャックを開封して覗き込んだ。仕切られた空間の中に陳列された、筆箱やら弁当箱やらの容積によって蹂躙された居心地の悪そうな状態だった。その中に、鹿芝のノートpcは確かに健在だった。

「やっぱ、俺のじゃないっぽいです」

「そっか。なら隣の職員室に忘れ物として届けよっか」

「そうしましょう」

 鹿芝はノートpcへと近づいて、手を伸ばしかけて、止まる。視線が、ノートpcの液晶画面に表示されている一つのダイアログボックスを射止めたまま固まっていた。

「なんでしょうか、これ?」

「どうしたの?」

IsekaingイセカイングSoftwareソフトウェア、だそうです。実行ボタンを押すと球状半径十メートルの時空の門が開いて、範囲内の人間は異世界に飛ばされます、だって」

「いや、意味わかんないんだが。どっからどうみても動詞じゃなくて名詞に分類される異世界という単語にingアイエヌジー付けるとか、ノリがもう完全に海外ヲタクのそれなんだが」

「ほんとそれな、って思います」

 二人して首を傾げていると、そこへ土鯉も寄ってくる。

「須床、何見てるん?」

「いや、なんか異世界転生できるっていうイミフなソフトが開いてて...」

「面白そうじゃん。とりま開いてみようよ」

「えっ、ちょっ...」

 土鯉の人差し指が、液晶画面に浮かぶダイアログの実行ボタンに触れた。瞬間、鼓膜をつんざくような、レトロゲームに近しい音色の電子音がノイズ混じりに教室中に絶え間なく響き出す。

「須床ヤバい!これ、ヤバいぞ!」

「どうすんだ土鯉!」

 悶えながらも機転を利かせて、須床が咄嗟とっさにスピーカーの音量をゼロまで落としたが、それなのに鳴り止まない。それどころか秒数を刻むごとに電子音は膨大化し、砂嵐が吹き荒ぶようなノイズが徐々に獣の咆哮のような歪な轟音へと変貌していく。

「耳が、痛え...」

 鹿芝が両耳を抑えながらうずくまったその時、奇しくも音は止んだ。同時に、スピーカーはミュート状態になっているにも関わらず通知音が一つ、鳴った。画面の中央に現れたダイアログボックスが、須床の目に留まる。

「時空の門との接続が完了しました。間もなく転移を開始します、ってなんだよこのソフト、イカれてんだろ」

「コンピューターウイルスかなんかですかね。今の」

「このプログラム組んだやつ正気じゃないよな」

 鹿芝に次いで、土鯉もよろめきながら起き上がる。

「本当にすまん。まさかこんなやべえソフトだったとは...」

「大丈夫ですよ、土鯉さん。音はうるさかったけど、鼓膜イカれた訳でもないし少なくとも俺はもうそんなに気にしてないです」

「ありがとう、マサ。須床も、悪かった。次からは怪しいソフトはもう起動しないようにするから」

「いやまあ、俺もちょっと気になってたし別にいいって。それよりも、一旦この端末の電源を落とそう」

 須床はpcをシャットダウンさせようと電源ボタンに手を伸ばす。

「あれ?」

 電源ボタンに指が触れなかったにも関わらず、画面が暗転した。

「フリーズもしないでいきなり画面が消えるなんて、どうしちゃったんでしょう」

「思うに、そういうウイルスなんじゃないかな。まあ、もうこの状態で職員室に運んじゃおう」

 火花の散る音が聞こえた。ノートpcが、緩やかな熱波を放ちながら発光し始める。

「え?」

 動く余裕は無かった。微動だにする時間すら与えられることなく、爆炎が鹿芝、須床、土鯉の三人の人影を捕食する。彼らの視界を包む協同学習室の風景は眼前の灼熱に飲み干され、跡形もなく消失して。何もかもが黒く見えなくなった、そのとき。


―—視界は青く、澄んだ空の下。


「あれ?」

 鹿芝しかしば将鐘は、立ち尽くしていた。

 時刻は午後の六時だったはずなのに、日が照っていた。足元には陽炎の浮かぶ地面、そこから全ての方角へ草地が広がっていた。

 荒々しい丘陵の地形で、真正面の方角を見据えた奥には緑葉が密集した森林の姿。反対の方角では微かに浅瀬の水面が丘陵の隙間から顔を出して、数百メートルほど遠くからチラチラと光を反射している。どこにも、人の姿はない。

「ここ...日本、だよね?」

 鹿芝の衣服は、制服のままだ。一縷いちるの望みをかけてズボンのポケットを左右両方確認するも、財布やスマホも何もない。

「まいったな、これ」

 山などの場所で遭難したときに、余計な体力を使わずその場に留まっていた方が生存確率は上がるという話を聞いたことがある。だが、右も左も分からないこの状況で闇雲にただ助けを待つのは、どうしても得策とは思えなかった。

「こういうとき慌てちゃダメだよな。えーと、あれだ。なんか頭回んないし、歩きながら考えよう。まずは、水分だよな。次に食料、でいいのか?」

 頭をひねり終えた鹿芝は、ひとまず助けてくれそうな人を求め、川のある方角へ歩くことにした。


――しかしどれだけ進んでも、人の気配は無く。


「キツい...これは現役バリバリのインドア派現代っ子の身体に応えるぞ...」

 歩き出してからおよそ三十分。最初の目的地である河川にはどうにか辿り着いた。

 草地の上で靴下ごと汗で内側の湿った運動靴を脱ぎ捨てて、慎重な足取りで左足の爪先から徐々に浅瀬に入れていく。冷ややかな水流に安らぎを覚えながら、もう片方の足を水面に突っ込んだ。

「ああ、くっそ涼しい...」

 汗で背中に張り付いたワイシャツのボタンを外して、靴下の傍にクシャクシャにして放る。いきなり全裸になるのは抵抗感があるので下半身のズボンはそのままに、一旦浅瀬から上がり、腰から下を草地に寝転ばせて背中を水に浸して涼むことにした。

「さて、水も手に入り、どうにか初日から水分不足で死亡ルートは避けることができましたと。次は食べ物だな。とはいえ、俺に野生動物を狩る知恵も運動能力もないし、仮にここから人がいるところに辿り着けたとしても金がないから、食べ物は恵んでもらうしかない、と。いや色々と詰んでてワロタ」

 鹿芝はその後、水浴びを堪能し、存分に水分を補給した。汗まみれのワイシャツを着直して、その場から立ち上がる。

「でも、よく考えたら初手で川に辿り着けたのはほんとラッキーだな。ぶらぶら歩き回るよりも川を辿った方が、人の住処すみかに辿り着ける可能性は高いはず。ていうか人の住処が見回しても見当たらんって、良く考えたら末期レベルに過疎ってるよな。大丈夫かここ。まあそれは置いといて、問題は上流か下流か、どっちに進むかだよな...」

 上流方面、下流方面を交互に見比べるも、サバイバルにおいて素人である鹿芝にはどちらが安全かなど分かるはずもなく、とりあえずの勘で下流方面へ進むことにした。


――けれど見回しても、見渡しても、コンクリートで整備された道路の一つも見当たらない。


 川沿いを歩き続ける内に、黄金色の太陽は鹿芝の背後にある西の地平線へと沈みつつあった。足に溜まった疲労を堪えながら、一歩、また一歩。喉が渇いたら水を飲み、空腹を感じても食べるものがないのでその場合も水を飲んで、地道に突き進む。

「ようやく...ようやくだ...」

 生まれて初めて喜びで涙が出てきそうだった。ひたすらに感じる、足の重みと痛み。膝から崩れ落ちそうになるのを堪えて、視線を真っ直ぐ正面に向ける。

 辿り着いた場所は、農村だった場所らしき廃墟だった。剝き出しの地面と雑草に陣取られた枯れた畑、半壊状態の木製住居の壁面を埋め尽くす無造作な植物のつる。目に入るもの全てに漂う哀愁の雰囲気が、鹿芝を出迎えていた。

(見たことない場所だ。それに、俺が目を覚ました場所からここまで、たぶん十キロメートルぐらいはあったであろう道のりに、コンクリートで塗装された道路とか自販機とか電柱とか、そういった人工物が何もなかった)

 歩を進めながら、鹿芝は真上に広がる茜色の空に向けて言葉を吐き出した。

「ここは...本当に日本なのか?」


 農村の跡地を奥へ進むと、薄ぼんやりとした灯りが視界の端に映った。振り向いた方に伸びる道の先にある場所に、敷き詰められた薪から焚き火の炎が上がっていた。風に揺さぶられ、音と共に散った火花が虚空こくうをゆらゆらと昇って消える。

(人が、いるのか?)

 鹿芝がおぼつかない足取りで近寄っていくと、人の話し声が聞こえ始める。安堵と共に緊張が走った身体を動かして、人の気配のする場所へと歩み寄っていく。

「—――はまだか?」

「分からん」

 焚き火を囲うように座る、髭を生やした男の二人組が談笑している。焚き火を中心に少し離れた場所に点々と佇む男たちが、見回して数えたところ十四人。全員が金髪や茶髪で黒髪は一人もいなかったが、そんなことを気に掛けている余裕などない。

 皆一様に服装は薄い布で作られた簡素なもので、腰には異世界ファンタジーで見かける冒険者さながらの剣と思わしき武具を提げている。彼ら全員の影が地に這って伸び、風が吹くたび炎の動きとシンクロして震えていた。

「あの、すみません」

「どうした、小僧?」

 鹿芝は、焚き火から一番離れたところでしゃがみ込んでいた男に声をかけた。三十代後半くらいで、ここにいる者の中では鹿芝と一番歳が近いと思われる。

「何か食べ物を分けていただけないでしょうか。実は昼間から何も口にしてなくて」

「おお、そうかい。それは残念だったな。皆、ついさっき食事を済ませちまったから。もう鍋も片しちまったし。悪いな」

「いえ、ありがとうございます。それと、聞きたいことがあるんですけどいいですか?」

「ああ、構わねえが」

「ここは、何県ですか?ここって、日本ですよね?」

 十秒に満たない沈黙が流れた。男の不思議そうな表情を見て、鹿芝は内心、愕然がくぜんとした。

「じゃあ、あなたたちは何をしにここに来てるんですか?わざわざ、こんな大勢で」

「何を、って...小僧、知らねえのか?」

 鹿芝は首を傾げる。男はその反応で何か納得したらしく、意味ありげに笑みを浮かべながら。

「小僧、お前はまさか異界人かい?」

「ははは、ちょっと何言ってんのか分かんないです」

「なるほど。とんでもねえ奴が現れたモンだ。王宮まで連れていきゃあ、国から報酬が貰えるかもしれねえ」

「え?は?What'sワッツ!?」

 鹿芝は困惑しっぱなしだが、男の方はなぜか勝手に納得しているようだ。

「そうかそうか、そりゃあ疲れただろ。寝床はないが、まあそこらで寝っ転がって休んでいったらどうだい?朝になったら炊き出しで飯も出るから、そんときに俺の分の食い物をやるよ」

「ありがとうございます。それじゃあ、俺はこれで」

「あ、ちょっと待て」

「はい?」

 男から離れて身体を休めようと背を向けたところで、呼び止められる。

「お前、まさかナイフの一本も持ってねえのか?」

 男は怪訝そうに鹿芝の身なりを観察するように見つめた。

「あ...まあ、そうです」

「それで良くこんな場所うろつけるねえ。そんな身なりで竜の眷属に襲われたら死んじまう。危なっかしいし、なんか身を守れそうなのいくつかやるよ」

「え?いいんですか?ありがとうございます!(いや竜の眷属って何?そういう名前の暴走族?)」

 男は足元に置かれた大きく膨らみのある巾着袋を紐解き、中を掻き混ぜるように手を突っ込んで探った。やがて厚みのある刃に滑らかな木の光沢を纏う柄の刺さった手斧と、如何にも盗賊が使いそうな刃先が湾曲した短剣、そして所々に黒く錆の入った長さ一メートル近くに及ぶ長蛇の鎖を取り出し、それぞれを鹿芝へと手渡した。

「これ、何に使えばいいんですか?」

 斧を肩に担ぎ上げ、短剣を学生服の黒ズボンのポケットに仕舞い、やり場のない鎖だけは両手で握りながら、鹿芝は男に尋ねた。正直、銃刀法とかどうなってるんですか無法地帯ですかここ、とか色々聞きたいことはあるが。

「さあな。でも無いよりはある方がずっといいだろ。丸腰より遥かにマシだと思うぞ」

「まあそりゃあそうですけど...あの、鎖って何に使えばいいのでしょうか?」

「俺にも分からん。ただ、何がともあれ無いよりかある方がいいだろ」

「そんなもんなんですかね...」

 ふと、鹿芝が男の巾着袋に目をやると、そこに鉱石のような光沢を放つ黒色の塊が覗くのが見えた。

 奇妙な色をしている。色合いは黒曜石に近いが、よく見るとその闇一色に沈んだ色彩の中に僅かな紫色が滲み浮かんでいるのが分かる。初めて見た色だった。


―—ただ、不思議な何かがそこに宿っているのを感じる。甘美で、狂気的な、何か。


「なんですか。この黒くて、少しだけ紫色の石...」

 そこまで言い掛けて、鹿芝の開いていた口は気付けば立ち上がっていた男の掌に塞がれていた。その勢いがあまりにも素早くて、まるで張り手で顔面を叩かれたようにも感じられた。

 男は息を荒げていて、その両目の中で見開かれた瞳からも焦燥が滲んでいるのが分かった。

「静かにしろ。いいか、絶対に今見たもののことを周りにいる奴らには話すなよ。その瞬間に、殺し合いが始まってしまう」

 そう言い終えて、男は鹿芝の口から手を離し、再度腰を下ろした。

「わ、分かりました」

「さっき見たものの、名前は分かるか?はいかいいえで言え」

「い、いいえ」

「分かった。じゃあ、教えてやるから、あんま大きな声で話すなよ」

「分かりました」

 男は、自分の方に近寄るよう手招きで示した。それに従って、しゃがみ込んで男の声に耳を傾ける態勢を取った。

「あの石は死極石って言って、この世界に限られた数しかない代物だ。でもこれの恐ろしい所は、希少価値だとか、色が綺麗だなんてとこじゃない」

「と、いうと...」

 鹿芝がそう聞くと、男は神妙な面持ちで。

「こいつを握って力を貸せと命じたら、この石はその人間に無条件で馬鹿みたいに凶悪な力を与える。この石の力を一割でも身体に取り込めば、赤ん坊であれ何であれ、そいつ単体でものの数百人を素手で殴り殺せるぐらいの力を与えてしまう。至極石に込められた力を全て引き出しでもしたら、その瞬間に冗談抜きで街が一つ吹き飛ぶ。まあ、石を使ったその人間の身体も間違いなく一瞬で吹っ飛ぶけどな」

 鹿芝は耳を疑った。言葉の意味は分かるのに、その言葉によって示されている事実を上手く理解できずにいた。

「そんなとんでもないものを、どうしてあなたが持っているんですか?ていうかその石って、こんな原っぱみたいな場所に転がってるようなモノなんですか?」

「あー、それも分からねえのか。えーと、地下迷宮って知ってるか?」

「いえ。なんですか、それ?」

「この大陸における帝政の、初代皇帝の生誕以前、遥か昔、この大陸に存在していた文明はなんの前ぶりもなく、上空から降り注いだ凄まじく膨大な真っ白い砂によって大陸の大半をその地形ごと埋め尽くされ、姿を消した。だがその文明の一部が、未だ形を残したまま地下深くで眠っている。それが地下迷宮だ。ここら一帯の冒険者は皆、地下迷宮の一つであるムァスオ・ゴセ遺跡での探索に駆り出されてる。その他にもこの世界には無数に地下迷宮が存在するが、噂によりゃあ調律師って輩の管轄下にある迷宮もあるそうだ」

 眠そうに目頭を擦りながら、男は続ける。

「まあ、それはいいとして、俺たちはちょうど、迷宮の未観測地から近くの町に帰還する途中なんだ。未観測地は危険生物のいる可能性があるらしいから、限られた冒険者でしか足を踏み入れることが許されない。ここにいる奴らは猛者しかいねえ。だからこのメンツの中じゃあ新参者の俺が至極石を迷宮の通路でたまたま拾ったなんて知られて、奪い合いにでもなれば、俺は間違いなく真っ先に殺される」

「殺されるって、そんな...」

「心配すんな。お前みたいなガキの言葉を盗み聞きして鵜呑みにするような酔狂はこの場にはいねえ。それでも危険だから口止めしといただけだ。まあ、今日はもう寝とけ」

「は、はい」

 鹿芝は男から離れ、上半分が瓦礫がれきと化している、近くの石製の塀に寄り掛かって空を見上げる。

(正直言って、色々ヤバイ。もう何も考えたくない寝るしかない。今は明日の自分に全てを託して、とりあえず現実を忘れよう)

 遠くでまきが爆ぜるのを感じながら、瞼の裏側に占有された真っ黒い視界の中で鹿芝は独り、思う。文芸同好会のメンバーたちは無事だろうか。同じ協同学習室にいた彼らも鹿芝と同じ現象に巻き込まれ、鹿芝と同じあるいはそれ以上に過酷な境遇を味わっている可能性がある。

 須床と土鯉。二人の無事を願いながら、鹿芝の意識は空白へと沈んだ。


 それは、いつかの記憶。

「君は、私の息子にしたことについて、どう思っている?」

「俺は、取り返しのつかないことをしました。全てにおいて、俺のした行動は全面的に悪かった。そう思います」


―—白井が一宮に暴行行為を働いた日から、一週間と二日が経過した日のこと。


 事件から二日後、白井は退学処分を下された。また、校舎裏で事の一部始終をスマートフォンで撮影していた鹿芝も、直接的な行為に及んでいないとはいえ無実とはされなかった。

 謹慎処分を受け、学校生活から切り離されたどこか新鮮な一週間を終えて、これといって何事も無く普段通りの日常へと復帰したつもりのはずだったが、その日の放課後、鹿芝は担任教師に直接声を掛けられ、学校の応接室に呼び出されていた。

 ソファーを覆う黒い革張りの質感をズボン越しに感じながら、低いガラステーブルを挟んで鹿芝と対峙していた男は、一宮の父だった。

「本心から、そう言っているのか?」

「はい。それだけは、違いありません。俺はあのときの行動を悔いています。今後、同じような境遇に直面した際には、このような結末に至ることのないよう行動を取ります。そう動くことを誓います」

 一宮の父が、自分の顎を手で覆う思考の仕草を見せる。時計の秒針が律動を刻むがままに、引き伸ばされていく静寂の

「分かった。きっと、君は嘘を吐いてはいないんだろう。本心から、君は自分のしたことを誤りだと捉えているし、今回のような出来事を二度と起こさないよう君なりに努めるだろう」

 一宮の父は両手を組み、肘を卓上に乗せながら、真っ直ぐ鹿芝を見据えた。

「だからこれは、あくまで私の主観であり偏見でしかないが、本音を言えば、私は君が悪いとは思っていないし、何か責任を負うべきだとも思わない。君が、息子をいじめていた訳では無いのだから。ただ...」

 その口から漏れ出た重く深い溜息が、二人だけの佇む空間に響く。

「君は本当に、それでいいと思っているのかい?」


―—ただそれだけを告げて、一宮の父は鹿芝の瞳を見据える。その真意を尋ねるように。


 鹿芝は、その問いにどう答えを返せばいいのか分からなくなった。どういう意味なのか。なぜ、悪くもないし責任を負う必要もないと言っておきながら、そんなことを尋ねるのだろう。

「いや、余計なお世話だったね。息子とのいざこざのせいで、君の学校生活という貴重な時間を奪ってしまい、済まなかった」

「いえ、そんなことは...」

 黙って応接室のドアから去っていくその背を視線で追う余裕もなく、彼はその空間からいなくなった。未だ余韻よいんが脳裏にこびりついたまま、鹿芝には窓越しに滲む日差しを眺める他なかった。


―—そのとき。


 不意に、その空間の色彩が薄れて、眼前の風景が崩れ落ちるとともに協同学習室の風景へと切り替わっていく。普段は三角形を描く配列に揃えられていたはずの机や椅子は、横倒しになって散乱していた。

 この光景には覚えがある。鹿芝が、一宮を殴った直後に見たものだ。

「俺、なんで一宮を殴ったんだろう」

 ここが夢である自覚と共に、そんな疑問が口から零れる。

「一宮の行動が間違っているから、それを正すために制裁を加えた、だなんて上から目線な理由じゃないことくらい分かってる」

 頭を覆って背中を丸めて、自分の身体で影を作って視界から光を遮断する。

「じゃあ、なんだろう。何が原因だった?何のためにやったんだ?」

 二度と戻ることのできない場所を映した夢の中、鹿芝は拳を硬い床へと叩きつけた。

「俺は、何がしたかったんだ?」


 雫が水面を打って、幾重にも波紋を広げる音。

(なんだ...?)

 目覚めて間もない鹿芝の耳の穴に潜り込んだその音は、十数メートル遠くから聞こえた。

 音の正体を目の当たりにした時、鹿芝の喉から溢れ出たのは—―

(人が、殺されている)


—―文字に置き換えることの不可能な叫びだった。


 斬り裂かれ、崩れる肢体から真紅の塊が土に落ち、潰れる光景が、視線の奥で繰り広げられた。

「助けて...」

 そう呟く声が聞こえる。鹿芝の向ける視線の奥で、血液を撒き散らしながら悶絶した肉体を抱えながら呻く、男の声だ。

「助けて...助けて...助けて...」

 声量が、呟く度に少しずつ小さくなっていく。

「助けて...助けて...助けて...」

 声が、掠れていく。

「たす...け...て...」


―—その声が掻き消えた刹那、瞬いた視界の、瞼の裏側にどこか懐かしく思える光景が広がる。


 そこは、教室だった。何ら変わらない普段通りの、昼休みの光景。

「なんで初対面の将鐘にそんな失礼な態度堂々と取れるんだよ。無視する理由?それぐらい自分で考えろよ。なんでこっちがそんなことわざわざ教えてやらなきゃいけない義理があるんだ?」

 白井が一宮に言い放っている台詞を、除いては。

「なんでこっちがそんなことわざわざ教えてやらなきゃいけない義理があるんだ?でもまあ、いいよ。教えるよ。人が人を無視する理由はな...」

 あのとき、白井の言葉を強引にでも遮っていたなら。

「お前はちょっと黙ってろ、っていう意思表示だよ。言ってること分かるか?分からないよな。そういうごく普通の常識を教えてくれる友達、お前にいねえもんな」

 白井が貸してくれたオレンジ色の折り畳み傘を、返すことが出来たはずなのに。

 一宮を助けることが、出来たはずなのに。


――その瞬間、脳裏に蘇った教室の光景は掻き消えて。


(人が死んだのか?目の前で死んだのか?本当に、死んだ?)

 立ち上がることを許さないすくんだ鹿芝の足のすぐ傍の地面が、降り注ぐ飛沫で点々と赤く彩られていく。

(立て。立つんだ。じゃないと今度は、俺が――)

 耳の奥で鳴り響く血脈の音色が、全身を圧迫していく。

(殺される)

 膝に力を込めて立ち上がった鹿芝は、足元に置いていた斧と短剣を握ろうととして。

(無い)

 どこにも無かった。土色の地面があるだけだ。

(斧は?剣は?鎖も無い?盗まれたのか?いやおかしいだろだって...)

 だが、そんなことを臆している暇など無い。目の前で起こった、明確なまでにはっきりと血液を散らしながら死に至った男の苦痛に染まった眼差しと、鹿芝の視線が重なり合った、一瞬。

(違う。逃げるんだ。早く走れ。早く)

 思考することも呼吸をも忘れて、鹿芝はきびすを返して走り出していた。後ろを振り向く度胸もなく、ただ懸命に腕を振って蹴り進んだ。暗闇の黒と血の赤に濡れた光景が、駆け抜ける程に眼前から背後へと抜けていく。

「なんだ、これ...」

 農村の跡地の姿は、変貌していた。黒い空を点々と瞬く淡い光のなぞる民家の輪郭に視点が重なるたび、その異常さに息が震える。青紫の色をした太く長いこずえのような針が数千、毬栗いがぐりみたく覆い尽くすように生え並び、建造物を浸食していた。

 鹿芝は、記憶を頼りにひた走った。焚き火のあった広場に通じる一本道から角を曲がり終えた刹那、そびえ立つ何かが真正面の奥に見えた。

「嘘、だろ...」

 そこには、空に届くほど高く伸び、農村の出入り口となる道のりを横断し塞ぐ針山があった。太さや長さ、青紫の色合いから見て建造物から生え伸びていたものと同質であることは間違いない。それを乗り越えようとし、骨諸共貫かれた数人の人体から溢れ出たものによって、針山の正面はただれたように赤黒く染まっていた。

 鹿芝は絶句し、立ち尽くしていた。

(なんだこの臭い...初めてだ、こんなの...)

 針山にしなだれかかる遺体の群れのまとう激臭に、鼻孔の奥を捻じ切られそうになる。

「痛い...痛い...痛い...」

 そのとき、掠れた声がどこかから聞こえる。男の声だ。

「痛い...痛い...痛い...」

 繰り返し、呪詛を紡ぐように言葉を呟く、声だ。

「憎い...あいつが憎い...」

 眼前を覆いつくす針の山、その天辺に差し掛かる辺りから男の声が漏れている。血肉を貫かれながら這い上がっているが、気力と体力が共に限界に達しているようで、もはや息すら碌に出来ておらず呼気が薄れている。

「俺を痛めつけたあいつを...殺してやる...」

 不意に、血に濡れた視界が遠ざかって。


―—一宮が、密室の中で布団にうつ伏せになって、顔を埋めながら。


「痛い...痛い...痛い...学校が怖い...痛いのが怖い...」

 照明も付けずに真っ暗闇の中、近くに転がるスマートフォンの撒き散らすブルーライトだけが青白く、薄明りを放っていた。

「なんで僕が、こんな思いをしなくちゃいけないんだ...殺してやる...あいつらを...僕を痛みつけたあいつを...僕を裏切った...見捨てた...見殺しにした鹿芝を...」

 一宮の血走った目が、布団の上で這いつくばりながら見開いた彼の瞳が、白井によって踏みつけられたワイシャツの土汚れを、上履きの跡が付いたライトノベルの巻頭カラーイラストを見詰めた。

「僕の人生の全てを懸けて...あいつに復讐してやる...僕を痛めつけた報いを受けさせてやる...殺してやる!」


――幻想か、夢か、はたまた自らが脳内で捏造した虚偽の空間か。


「一...宮...」

 視界に現れた姿も鼓膜を震わせた声も、鹿芝が瞬きを一つ挟んだその瞬間、全て抹消された。

(俺は、何を考えているんだろう。俺は、何がしたい?生き延びるんだろ、俺は。なら、何をすべきか。分かるだろ、俺なら。今までと同じことを、ただやればいい。それだけのことだ)

 眼前の針の山から、鹿芝は目を逸らした。そう、今までと同じことだ。余計な損害、余計な損傷、余計な痛みを伴わないためにも迅速かつ正確に合理的に、正しい選択をしなければならない。

 鹿芝は地面を向いて俯いていた視線を弾き上げようと両手の平で頬を叩き、別の脱出口を求めて背後を振り向いた。


―—けれど、遅かった。今になって、その状況に気づいた。


 視線が捉えたのは、目を覚ました瞬間に垣間見た、襲撃者の人影。こちらを見詰めながら、近寄ってくる。

「おはよう」

 襲撃者である男の印象として近しいのは、浮浪者。厚布を羽織った格好も、縮れた紫色の長髪も一重に無頓着だ。そして、左手に握り締められている西洋刀サーベルには異様な厚みがあり、深く毒々しい色合いの赤と青が混沌としたまだら模様が鋼の刀身を塗り潰している。

「しっかし、理解できねえな。別に逃げようがその場でぐうすか寝てようが結果は変わらないことだし、わざわざこんな無駄足運ばなくても良かっただろうに。まあいい、やることは同じだ」

 襲撃者の眼差しが刃物の先端の如く鋭く、鹿芝の瞳孔を捉える。

「さあ、死ぬ前に地獄を味わいたくなければ、出すもん出しな」

「俺は...」

 必死に思考を巡らせ、場を切り抜けるべく文言を紡ぐ。もはや手段はそれしかない。

「金とか、道具の入った袋をさっきのとこに置いて逃げてきたんだ。ほらこの通り、手ぶらだろ?場所を教えてやるから、戻らせて欲しい」

 両手を挙げ、自身が武器を有していない、即ち抵抗する意思がないことを示す。これが今取れる最善策のはずだ。

随分ずいぶんと口の回るガキだなあ。まあ、心配ご無用だ。俺が一番欲しいのはぜにではないさ。異界人の首、それを得るための手掛かりが欲しい」

 薄ら笑いを浮かべながら吐き捨てた襲撃者の言葉を、鹿芝は思案の渦中で吟味ぎんみする。死の淵に立っているという自覚、そこから湧き出る恐怖を振り解くべく必死に、思考が加速していく。

 異界人とは何か。なぜ異界人を殺そうとするのか。なぜ焚き火の近くで会話した男の口から、鹿芝は異界人ではないかとの推論が出たのか。

「知ってる。噂で聞いたことがあって、一度だけこの目で見たことがある。でも、今は良く思い出せない」

 けれど、最終的に口から出たのはそんな出任せだった。表情から不安が滲んでしまっているのではないかと内心、危惧しながら唾を飲むが、存外、襲撃者の様子に変化はない。

「そっか。じゃあ思い出したら言ってくれると助かるよ」

 助かった。そう思い込み、安堵する余裕もなかった。

「お前が本当に異界人と出会えたのなら、俺はなんとしてでもそれを聞き出したい」

 襲撃者が朗らかな口調で、僅かな靴音を鳴らしながら鹿芝の方へと歩み寄り始める。

「けど、拷問は面倒だし飽きた。あと、ちなみに人ってやつは、死にそうになると走馬灯を見るっていうじゃないか。今回は、それを試してみようと思うんだ。お前が走馬灯の中で見たものを――」

 一の字を描いて、尾を引くサーベルの切っ先が鹿芝の眼前を過ぎていく。

「—―最期の声で、俺に教えてくれ」

 後方へバランスを崩して、倒れ込みそうになるのを堪えながら襲撃者の眼光と対峙する。殺意の光がその双峰に灯り、再度、刃が乱雑に薙ぎ払われる。縦横無尽に軌跡を辿って、斬撃が幾度となく鹿芝の四肢へと飛び掛かる。

 鹿芝は荒い呼吸と手足の震えに心身を縛られながらも、斬撃をかわすべく必死に後退あとずさった。それが限界だった。腰を抜かさないようにするだけでもやっとだった。だが斬撃は全て血肉を掠めることなく、鹿芝の目と鼻の先を通過するのみだった。

「死ぬのは、怖いか?そりゃそうだよな。安心しろよ。今はまだ本気を出さないでやる。俺が本気を出すのは、お前が生きることを諦めたと俺が判断した時だ」

 真上まで振り上げられた刃の先を見上げたその時、鹿芝は反射的に機を見出した。意識する間もなく地を駆けたその体躯のすぐ隣をサーベルの刃が鋭く迅速になぞり、襲撃者の横を鹿芝の全身が走り抜けた。そのまま鹿芝はサーベルの間合いから逃れ、その身を一時の安堵が包んだ。

 鹿芝が視界の端で襲撃者を見やると、その様には奇妙な余裕があった。獲物を逃したのに、襲撃者はそれを追いかけない。サーベルを構え直すことすらせずに両腕をゆらりと下ろしたまま、笑みを浮かべながら鹿芝と視線を交わすだけだった。そのやけに執念深そうな眼差しから目を反らせずにいるまま、鹿芝は襲撃者に背を向けて逃走していた。

 すると、五本の指で握り締められたサーベルの切っ先が俊敏しゅんびんに地面を突いた。刃先数十センチが土に埋もれ、そこから溢れ出た鈍い光が同心円状に地盤へと浸透していく。

「貫け」

 襲撃者の言霊が刻まれた紫色の閃光が、鹿芝の身体の向き直線上の地面に亀裂の紋様となって迸る。それに沿って点々と、青紫色の針が地の底から雲を穿うがつような勢いで土の表層を突き破った。

 足元を真っ直ぐ駆け抜けた閃光に気付き、咄嗟とっさに横に反れていた鹿芝は、突如、眼前を縦断した約二メートル間隔の針の列、その切っ先を視線で見上げ驚愕する。針はそれぞれ、一秒も満たない間に低木ほどの高さまで生え伸びて静止していた。

「さあ、どこまで耐えられる?」

 サーベルの刃をなぞる紫の光は土へと染み入り続け、無数に繰り出される閃光が鹿芝の足元を抉るがごとく地中を突き進んでいく。間もなく順々と一定の間隔ごとに針の頭が地表を破り、多彩な曲折を描いていくつもの列が成され、周囲の足場を蹂躙じゅうりんしていく。

 鹿芝は針が現れる場所とタイミングを見計らい、反復横跳びと同様の動作でそれらを躱す。冷や汗を伝うその顔は苦渋に満ちた表情を浮かべながら、重力が刻一刻と増幅していると錯覚するほどに、疲労が足に蓄積していく。その感覚に見悶えながら、鹿芝は針をかわしていく。

 一心不乱に動き回るうちに捻った足首の痛みにうずくまる余裕もなく、跳ぶ。焦ってはいけない。出遅れてはならない。狙い目は、自身の足元に到達する針の二つほど手前の針が顔を出すとき。

(駄目だ。間に合わない)

 それでも想像通りに避け切ることは不可能で、足には数か所の切り傷が付いた。体力にだって限りがある。何より、針によって足場は埋め尽くされ、あらゆる角度に伸び出た針はがんじがらめになって鹿芝の周囲を固めている。

 空間の不自由さを認識できた頃にはもう既に、気付けば身動きは取れなくなっていた。

「あー、うん。興覚めだ。思ったより早かった。まだ一分も経ってないよ。予定より早いが、仕方ない。お開きにしよう」

 襲撃者の口調はいつになく温和で、そして比べ物にならないほど淡々とした、殺しを実行することを示唆するようないびつさをはらんでいた。

「そのある種のオブジェみたいな針山の隙間を縫うようにお前の心臓を、思いっきり突き刺すこともできるが、どうせやるなら横薙ぎが一番気持ちいいんだ。手に、肉と骨を切り裂く感覚を強く感じられるから。な?分かるよな?」

 サーベルの先端部分が地中から引き抜かれ、その刀身が反射した星灯りをギラギラと宿す。にじり寄る襲撃者をどれだけ睨みつけても、恐怖しても、その足が止まることはなく、刃が一の字を描いて鹿芝の眼前をぎ払った。

 気付けば、鹿芝を全方位から捕えていた針山の輪郭が、サーベルと接触した瞬間に溶け消えていた。足元には針山の残骸であろう真っ白い粉塵の丘陵きゅうりょうが積み上げられていた。

「俺の刃は地盤の奥から針を生み、そして唯一、俺の生み出した針を砂に変えられる。面白いだろう?系統やら気風やらで凝り固められた由緒正しい技巧、与えられた騎士剣の言いなりになるような剣技では詰まらない。お前もそう思うだろう?」

 微動だにすることすらもできない状況から、針の束縛から解放されて、鹿芝には行動する自由が与えられている。ならどうすべきか。何をすればこの状況を変えられるのか。

 何でもいい。何でもいいから。

「うああああぁっ!!」

 その結果、鹿芝は拳を振るった。

 死を前に冷静さなど残るはずもなく、ただ叫びながら左足を一歩前に出し、肩を捻り、拳を放った。

 どこでもいいから当たれと、必死に。

「あー、うん。やっぱいいわ。お前もうつまらん。最初に見せてくれた冷静さの欠片もない」

 鹿芝の全身が放物線を辿って、舞う。襲撃者の膝が下腹部に喰い込む感覚に呑まれ、地面にもたれかかるようにして落下し咳き込んだ。

「斬首だ。臓物を斬撃で吹き飛ばすのが一番見応えがあるけど、お前は最後の生き残りな訳だし、記念に首を持ち帰ることとするよ。それじゃあ、最後に――」

 人としてどころではなく、生物としてすら鹿芝を見ていないその目が、鹿芝の喉元を捉える。

(俺は、何のために生きていたんだろう)

 襲撃者の握り締められたサーベルの斬撃が、腹を抱えてうずくまる鹿芝へと注がれる。

(俺が今まで生きていたのは、何のためだ?俺はこの、日本人としての平均寿命よりも遥かに短い時間で終わったこの人生で、何がしたかったんだ?何になりたかったんだ?いや、でも確か...)

 絶望が華奢な身体を満たしてガラスの器が破裂したような感覚を覚え、息を詰まらせながら、視線がピントを乱しながら虚空こくう彷徨さまよった。

(自分は自分のまま変わらず生きる。人は、自分以外の何かにはなれない。そんなことを誰かに言われた気がする。残酷なようでいて、ありのままの俺自身を認めてくれる言葉でもある...あれ、誰だっけ?でもまあ、別にいいか。人と関わって、クラスに溶け込んで、文芸同好会という居場所を得て、それなりに満ち足りた人生だったじゃないか。あ。あと、思い出した。今日、俺の誕生日じゃん。もう十六か)

 その瞬間、襲撃者の言葉が鼓膜をはっきりと震わせた。

「—―俺の刃によって死に至るまで、俺の手によって終わるために産まれた人生を今まで歩んできてくれて、今この瞬間まで、生きててくれて、ありがとう」

 全身が理解したのは、首筋に刻み込まれていく冷たい刃の感触。首筋を流れる流血の弾け飛ぶ音色が、宙を走って。

(この世界は、最低な世界だと思う。俺がなんでこの世界に生まれたのかも知らないまま、自分が死ぬ理由も良く理解できないまま、何もかもが分からないまま、勝手に人生の終わりへと突き落とされる)


――ほんと何のために、俺、生きてたんだろ。


 最期に見たのは、自分の右頬が地面に落ちて、広がる血の色を理解させられる光景だけだった。

「あっ、ミスったわ。走馬灯を見せてなんか情報吐かせるつもりだったのに。首斬ったら喋れねえじゃん。斬った首どうしよ。ノリで持ち帰るとか言ったけど...よく考えたら別に要らねえな。まあいっか、退屈はしなかったし」

 襲撃者は頭を掻いて、数秒前まで少年だったものから広がる血だまりを見下ろして。

「じゃあな異界人。あー、でも結局、変わんねえな。いつになっても俺を心の底から楽しませてくれるのは、やっぱ、無垢の殺戮者だけだ」


―—つぶった瞼の裏に、鮮明な音や光と共にぼやけた赤い色彩が流れる。


(ここは...?)

 水面を突き破って引き揚げられるような感覚と共に視界が広がっていく。

 鹿芝は見たこともない場所で、棒立ちをしていた。周囲は漆黒に覆われ、自分の身体の輪郭すら不鮮明に映っていた。湿った空気が辺りを充満していて、鼻から深く吸い込むと肺の中に重りを入れられたような心地になる。

 手探りで正面の方向へと歩き出すと、足元から水面を叩く音が聞こえた。見下ろしてもよく分からないので、屈んで顔を近づける。すると、覚えのある匂いが鼻孔を突き刺した。襲撃者と対峙した直前、道を塞ぐ針山にもたれかかったおびただしい数の死体から漂ってきた激臭の香りと同質のもの。頭がふらついて目をつむり、不意に鼻先が地面に触れる寸前まで顔が近づいた。

 再びまたたいた視界は、鮮紅色に満たされていた。誰のものか分からない血が水溜まりとなって足元に広がり、前のめりに倒れかけた鹿芝の膝から下と両手の平を濡らしていた。

『殺す』

 どこからともなく奇怪な声が響き渡り、短い言葉ながらもはっきりと、静寂を叩き壊した。この声音には覚えがあった。協同学習室に置かれていたノートpcから発せられていた、スピーカーを切っても鳴り続けたノイズの音。

 同時に、足元を埋め尽くしていた血液の水溜まりが独りでにその中心部に寄せ集められながら視界の中で肥大化し、夜空を塗り潰すオーロラのように、見上げた鹿芝の眼前を覆い尽くしていく。意思を持った液状生物として波打つようにうねり蠢きながら、それはノイズの咆哮を放った。

『許さない。お前には必ず俺の手で、一生物が感じられる限界まで痛みを与え続けて、最期の...最期のその瞬間まで凄惨な死を味わわせて殺してやる!』

 その言葉を聞き終えるや否や、皮膚の奥を貪られ喰いちぎられていくような痛みが鹿芝の肢体を飲み干し、遠退とおのき始める意識に焼き付けられていく。全身を誰のものかも分からない赤い血の色と熱に包み込まれた鹿芝は窒息に藻掻もがきながら。


―—胸の奥深くで脈打つ、得体の知れない生存本能が目を覚ました。


「は?」

 襲撃者は、なぜ痛みを感じているのか、理解出来なかった。

「なんだこれ?」

 自分の身体を見下ろして、衣服ごと突き破って流れ出る血流の様を目にして、ようやく気付いた。蛇のように曲がりくねった三本の鎖の先端で煌めく短剣の刃先が、襲撃者の左右の腕、脇腹、太腿ふとももを十数センチほど刺していた。

 同時に、襲撃者は変貌した鹿芝の背後を見詰め、思わず目を凝らした。目を反らせなくなった。

「そんな馬鹿な...」

 鹿芝の身体は、元の姿を取り戻していた。断裂したはずの首筋からは血の一滴も零れることなく、針の掠めた足の切り傷すらも抹消されている。そのうえ、彼の肉体の在り処は地上ではない。空中だった。翼で宙を叩き、飛んでいる。

 汚泥に似た粘着質な流動性とよどんだ赤黒い色彩に塗り固められた両翼、その内側から短剣を先端部分に構え蛇行する鎖が射出されたことで、襲撃者の肢体を射止めていたのだ。片翼の横幅は一メートルにも及び、縦幅も鹿芝の背丈のほとんどを覆うほどに広がって羽ばたき、鹿芝の全身から重力を奪ったかのように身体を宙に固定していた。

(翼...?俺、飛んでるのか...?)

 初めて感じる両翼の重さ、羽ばたく度に背中がうごめく感覚に鹿芝は混乱していた。だが、状況を理解するより先に、翼は鹿芝の意思などお構いなしに襲撃者の肢体に刺さっていた短剣を鎖ごと引き抜き、それらは一様に槍先が水面を突き破るような音を発しながら、翼の内側へと直線上に舞い戻った。

「へえ」

 刺突を受けた襲撃者の傷口から、いくつもの血液の粒が零れ落ちて土の中へ浸透するも、その表情は顔色一つ変わらない。

「ごめん。さっきのつまらんってやつ無し」

 その視線を微塵も揺るがすことなく、流れるような指先の動きで刹那に剣を構え直して。

「最高だよお前」

 襲撃者は爪先に重心を乗せて地中の底を踏み抜くがごとく、その体躯が一直線に駆けた。刃先が鹿芝の胴体を間合いに捉えた刹那、鹿芝の右翼の内側から短剣が先端にくくられた五本の鎖、左翼からも同様に鎖が襲撃者の眼前へと真っ直ぐ射出される。

 金属質の火花を弾く音が群れを成した羽虫のごとく短く速く散りばめられながら、サーベルは向かい来る短剣を弾き返した。その度に鎖が独りでにうねり、軌道が強引に捻じ曲げられ、再度、刃の向く先が襲撃者の肢体へと切り替わっていく。

 だが、無限に織り成される剣閃の応酬は突如として一時の静寂に塗り替えられた。それは、頭部から下を両断された蛇のような様だった。一斉に斬り落とされた鎖がジャラジャラととぐろを巻く。十本の短剣の軌道は一瞬にして流動性を失い、一直線に地上へ落ちた。

 襲撃者の握り締めるサーベルが鹿芝の腹部を掠めてくうを薙ぐ。鹿芝は両翼で飛翔し、後退しながら斬撃を回避したものの、襲撃者は即座に無音に程近い足運びで、両翼の飛翔で取られた距離を詰めていく。だが、鹿芝の右翼の裏側が蠢いたその直後、両翼が羽ばたくと同時に。

(なんだ...?鎖ほど速くはないが、大きい)

 鎖で括られた短剣とは別種の投擲物とうてきぶつが、翼の内側から射出された。

(これは...斧?)

 弧を描く重厚な刃先を荒々しく回転させながら、鉄の斧が襲撃者へと真っこうから突き進んでくる。それは一見、宙をうねる短剣ほどの速度も機動性も無い、シンプルな飛び道具。けれど、一秒にも満たない間、視線を対象物に向けて一瞥するという僅かな間では思い至らないであろう息が詰まるような鬼気を、その鉄の斧ははらんでいた。

(これは...まずい)

 そして、襲撃者の身体は反応に遅れた。自身の握り締めるサーベルの刃に、斧の刃が触れる。それと同時に生じた、四肢の端まで溢れ返る程の衝動と痛みを伴う痺れが全身を満たし、気付けば土を踏んでいたはずの爪先からかかとが、緩やかな放物線を突っ切りながら宙を流れていた。

 手放し掛けた意識を視界の鮮明さと共に取り戻した直後、靴底を大地との摩擦で削りながら着地し、足元を土埃が薄っすらと舞う。足場を失ったことによる些細な混乱と、斧の打撃に触れただけで両脚の重心が吹き飛ばされ、身体が宙を舞ったことによる重苦しい動揺が、心臓の脈動と重なって襲撃者の全身に伝播していく。

 サーベルと衝突し、地面に突き刺さった斧の姿が視線の先にともる。数秒後、狼煙のろしが揺らめくように赤黒い瘴気しょうきが昇り、斧の輪郭はその色彩と共に溶け落ちた。

「なるほど、凄まじい。恐ろしい力だ、これは」

 襲撃者の瞳はその身には不相応なほどの夢を見る子供のように爛々らんらんと輝き、眼光から歓喜と共鳴して殺意が溢れ出ていた。

「俺が自分の肉体を自分の意思で操作できる時間には限りがある。だが、それを消費することぐらいなんてことない。これ以上生きていたいという欲求なんてない。俺はもう、最初から死体だから」

 サーベルを両手で固く握り締め、地面を向いていたその切っ先を、半円を描きながらゆっくりと空へ掲げた。そして、振り下ろされた切っ先が土に触れることはなく、その寸前に静止した。

「終焉剣技・針ノむしろ

 振るわれた刃の軌道に呼応して襲撃者と鹿芝を繋ぐ地殻が圧し折られ、暗雲を駆ける稲妻のごとく腹を揺さぶるような音と共に亀裂が極太く刻まれ、割れた地層から溢れる深い闇の黒色が直線状に露わとなった。

 瞼を閉ざす間も与えることのない迅速さで、瞼を閉ざす気力もなくなるほどの壮絶さで、真正面を向く鹿芝の視線の奥に毬栗いがぐりのような針山が顔を出した。刺々しい切っ先を四方八方に撒き散らして膨大な影を地上に落としながら、針の大群は亀裂をなぞって鹿芝の全身を埋め尽くす寸前まで到達していた。

 翼の羽ばたく残響一つをその場に放って、鹿芝は体躯を仰け反らせながら上空を突き抜ける。眼前にまで迫り静止していた無数の針の射程外からその圧巻の光景に絶句するが、不思議と恐怖心は無かった。

 移ろう鹿芝の視線は、サーベルを振り下ろし終えた態勢でいた襲撃者の瞳を捉え、鹿芝と襲撃者、互いに熱の通った殺意を瞳孔の奥から放っていた。

「あれだけの技を出しても仕留め切れないか。つくづくお前は面白い」

 襲撃者は両手で握り締めたサーベルを足元に深々と、その刀身の半分まで突き刺し、直後、紫色の淡い光に地表がひたされていく。襲撃者はサーベルの柄から手を離し、人体の軸との垂直方向に両腕をそれぞれ左右にかざし、握っていた五指を緩やかに広げた。

「地形支配術式・影槍」

 襲撃者が、鹿芝が佇む空へと右手の平を突き上げる。その動作からゼロコンマ数秒後に連なって、地表を穿ち抜いた一本の針が右手の平の向いた方面の空間を円柱状に貫く。しかし、上空から血の一滴も落ちることはなく、既に鹿芝の姿は襲撃者の視覚から消失していた。

「お前の一方的な殺しは、もう終わりだ」

 口の端から自然と溢れ出た言葉に応えるかのように翼が宙を叩き、鹿芝の頭身が空を穿うがった。それを追尾して、地表に染み込んだ雨霰あめあられが雲の奥へ巻き戻されていくかのように無数に注がれる針。鹿芝の羽ばたく軌道を妨害していく内に、一瞬にしてそれらは青紫色の樹林と化した。

 それと対峙する鹿芝の両翼は急激な旋回と加速を経て、減速の隙を見せる間をも最小限にとどめた。疾風をまといながら直線状に宙を駆け、真正面から襲撃者の立つ地面を向いて滑空する。

 はためく鎖の擦れる金属質な音色をなびいて、翼の内側から短剣が射出される。襲撃者が土の中から瞬時に引き抜いたサーベルの刃は、上空からの刺突を弾き返した。しかし、目で追うことのできない両翼を背負う鹿芝の姿は、一瞬にして視界の枠を真上に突き抜けて背後に消えていった。

「逃がさんッ!」

 その方向へと身体ごと振り向くと、襲撃者の目線の先には鹿芝がいた。彼の体躯は、両翼に導かれながら上空を舞ってはいなかった。地上に降り立ち、しゃがみ込む鹿芝の姿があった。彼の背中、飛翔と滑空により体力を激しく消耗したのであろう無防備な背中がそこに曝されていた。

 襲撃者はその光景を前に、獲物を仕留める絶好の機会を前に反射神経を刺激され、思考を挟む間もなく真正面へと走り抜けた。

(なんだ、こうも呆気なく終わるのか。まあここは無難に、頭頂部から両足に掛けての一刀両断で終幕を飾ろう。せいぜい、目の保養になりそうな、全てを飲み干すような血飛沫を浴びせてくれ)

 鹿芝の背に斬撃を落とすその寸前、首筋を無機質な殺気の舌先で冷たく細くなぞられたように感じた。意図的に踏み込みを遅らせた爪先の半歩奥の地面に、斧の刃型に沿った亀裂が開き、遅れて重厚な落下の衝撃が足下を震わせる。

(罠、だったか)

 襲撃者は続く気配で認識した。十数に及ぶ斧が歯車のように淡々と宙を回りながら落ち、上空から対象物を丸ごと口腔で包み込んで捕食するように襲撃者の全身を捉えていた。

 なぜ、そうなったのか。鹿芝は視線で追うことを許さない速度を纏って相手の視覚を空中で撹乱かくらんした直後、襲撃者の背後で斜め下に滑空しながら翼から斧を連続的かつ乱雑に投下し、そのまま着地した。背を向けた状態でしゃがみ込んで格好の的を演じ、ばらまかれた斧の有効射程内に標的である襲撃者を誘い込んだのだ。

 唯一の誤算は、この万死ばんしに等しい状況に置かれてもなお鈍ることの無い冷徹なまでの反射神経と、音を極限まで立てず地上を滑るように抜ける足運びの脅威。襲撃者は上空から自然落下する斧の軌道全てを、鋭利えいりな目の端で裂くような視線の流れで読み解き、体躯を反らしながら足場から足場へと縦横無尽に渡っていく。

 降り注ぐ十数の斧は、その刃先で地面を重く叩きつけ、赤黒い狼煙のろしみたく瘴気を放つのみだった。

流石さすがだ。ここまで追い詰められたのは想定外だった。だが今度こそ、ここで終わらせよう」

 襲撃者は目線を向けた。視界の中央で立ち上がり、こちらへと振り返りながらたたずむ鹿芝の姿を見据える。鹿芝と襲撃者、互いの眼光が熾烈しれつに衝突する。

 剣先を天へ掲げた。その構えは、大地に深い亀裂を走らせ、その狭間から視界を埋め尽くすほど巨大な針山を進軍させる、奇怪ながらも驚異的な剣技『針ノむしろ』の構えに他ならなかった。

 土砂の砕ける音を鳴らしながら踏み込み、浮遊するように地上を滑り抜け、一瞬にして襲撃者が間合いを詰めてくる。その動作を認識すると同時に鹿芝の両翼は瞬時に広がり、その身を再度上空へと運ぼうとくうを叩くが。

「同じことを繰り返すようでは、駄目だ。楽しくない」


―—遅かった。


 襲撃者は鹿芝へと突進する態勢のまま呟いて、サーベルの柄を一瞬だけ離し、指先で半回転させた。半円を描いた切っ先は真っ平な大地を向き、襲撃者は構え直されたサーベルの柄を両手で包み込むと、力の限り真下へと振り下ろした。

 サーベルの刃渡りの四割相当が一直線に地中へ沈み、直後、地の底から脈動と共に跳ね返ってくる青紫色の光が足場から一心不乱に放射され、視界を包み込んでいく。

「地形支配術式・壺峡谷つぼきょうこく

 視界から星灯りが遮断され、地平線が消滅した。

 それは、見上げてもキリの無い程まで高く、四方八方から大地を突き破る轟音を響かせながらそびえ立っていた。交錯こうさくする毒々しい青紫の色彩をまとう針により構成された壁が、周囲を外界から遮断し、壺の形状を象りながら辺りを闇で埋め尽くした。

「逃げる避ける受け流す...そういうのもう飽きてんだよ」

 端的な文言を口の端からこぼし、地を蹴って進む襲撃者の体躯。暗くて目では分からないが、そこにいるのは確かだった。サーベルの切っ先はとっくに地中から引き抜かれていて、再度、真上へと剣を掲げている。『針ノむしろ』の構えだ。

 鹿芝の肌をなぞる死の予感が、その心身に語り掛けてくる。上空に逃れるか、このまま迎え討つか。後者は非常に危うい賭けだ。こちらの攻撃速度が相手よりも劣っていた場合、打つ手がない。襲撃者が放つ広範囲攻撃は相殺不可、かわすという選択肢も周囲に蔓延はびこる針の絶壁、壺峡谷つぼきょうこくにより塞がれている。

 決断せざるを得ない。鹿芝は最高速度での上下運動をその両翼に強制し、背中に走る疲労感と激痛に悶え、身をよじりたい衝動を抑えながらもひたすらに高度を上げていく。真上を見上げると、絶壁のふちから零れ落ちた星灯りが一つの点となって闇の中に浮かぶのが見えた。すがるようにその光へと早く届けと睨みながら上昇速度を一層、加速させていく。

「終焉剣技・針ノむしろ

 無数の針が地殻を蹴り破ったことで生じた土埃つちぼこりの舞う、些細な気配。

 もはや、それすら鮮明に感じられる。それほどに、死が近くにあることを自覚できた。故に、分かった。逃れられない。ここで死ぬ。死ぬのだ。

 雪崩のように圧縮された針の群れに全身が飲み込まれる。静かに閉ざした瞼の中、全てを理解できた。


—――調整が足りなかったようですね。


 そのはずだった。その瞬間に、どこかから脳内に響くように聞こえてきた少女の声を皮切りに、気配が止んだ。

 眼前を満たす夜空。視界を包む針の姿はどこにもなく、周囲を見渡せば砂の粒が濛々もうもうと土色のヴェールを掛けるように漂っているのが分かった。だが、それも段々と重力に引き剥がされ、薄れていく。

 気付けば、全身が真下へ吸い寄せられていた。無気力に呑まれた両翼は体力をほとんど枯渇させており、せいぜい、着地寸前に全身を浮遊させて落下速度を相殺させるくらいしか機能しなかった。

 地面に降り立つと、膝から崩れ落ちた態勢の襲撃者がいた。近くに襲撃者のサーベルは無く、周囲では針の輪郭が溶けて生じた砂塵さじんの山が辺りを包囲していた。

 襲撃者は呆然とした眼差しで、鹿芝の背後をただ見詰めている。誰かが、後ろにいるのだろうか。神経を研ぎ澄ますと、微かに土と布のれる、こちらへ向かってくる物音が後ろから聞こえてくるのが分かった。

 その方向へ上体ごと振り向いてみるも、月の浮かぶ地平線の奥まで淡々と平たい地面と木々の群ればかりが続いている。

(気の、せいか...?)

 首を傾げながら、襲撃者がいる方へと向き直すと。

「私はどうやら、買い被り過ぎていたようですね」

 そこにはいなかったはずの人影が、あった。

 人影が、少女の声を発していた。襲撃者の頬に吐いた息が届くほどに近い場所で、顔を覗くようにしゃがみ込みながら。彼女の後ろ姿は、背中が丸められて一回り小さくなっていた。うなじまで伸びた桃色の毛先をも、真っ白い薄布の装束に包み込まれていた。

「お前が...お前が俺の、剣を破壊したのか」

「はい、人間の視覚では認識できない程度に粉々にしました。あの剣によってかたどられているあなたの肉体も同様に、やがて消えます」

「そうか。なら、いっそのことここで...」

 背後から眼前へと、風が吹いた。身を起こした襲撃者の右腕がその形を失って、砂埃すなぼこりとなって空気中を流れ、中身を失った服の袖がバタバタとたなびいた。その現象は、襲撃者が鹿芝の目の前で披露ひろうした、サーベルの斬撃によって針が崩れ、砂と化す光景と同様のものだった。

 それにも構わず、襲撃者は白装束の少女から距離を置くように、歩を進め始めた。

「使うか。至極石しごくせきの全てを」

 襲撃者がその左手の中で握り締めているのは、漆黒の中に浮かぶ深い赤紫色の色彩の鉱石らしき塊を掴む、切り離された誰かの片手。手首の断面を曝したまま、必死に至極石を手放さないよう握り締める、片手。

「こいつを持っていた男はどれだけ俺が迫ろうともこれを渡そうとはしなかったから、めんどくさくなって結局、手首ごと斬り落としたんだよ。まあむしろその方が、一度死んだ俺もこの世界で、自分の身体で生きている心地になれる」

 そして襲撃者は、至極石を大切に五指で包み込んで握るその片手を、引き剥がして。

「力の全てを寄越せ、至極石」

 その中心に光の筋が束になったかのような輝きが宿り、放出されたそれらは五つの真っ白く太い曲線を宙に描き出した。五つだったものは裂かれ、枝分かれし、全身を満たす血流のように散り散りの管となってて上空を駆けたかと思えば、その全てが襲撃者の胸部へと収束し始めた。

「戦いはまだ、終わっていないぞ。異界人」

 白装束の少女は襲撃者を見詰めながら、緩やかな動作で立ち上がった。直後、彼女の右目にある黒い瞳孔が一切の前触れも無く、真紅の鈍い光をたたえながら混沌とした色彩を帯びて変色する。

「いいえ。あなたはここで、終わる」


―—少女の声が、血の粒が地上で砕ける音に遅れて、聞こえた。


 赤みがかった熱風が鹿芝の頬を撫で、顔が液体の感触に拭われる。視線の奥で空中を走り抜けて、揺らめき、粒になって落ちていく流血。

 足元を、腕が転がっていた。切り離された襲撃者の左肩から下は土砂の色で薄っすらと染まり、濡れたすそが湿った熱と鼻を刺す激臭を吸い込んで、音も無く赤黒い水溜まりに浸されていく。

 その指先から、至極石しごくせきが転がり落ちる。血管のように無数に分岐していた光の曲線は襲撃者の胸部から切り離され、既に薄れ、消滅していた。

「な...んだ...」

 少女の姿は

の異界人は生者せいじゃであり、あなたは死者です。死者に加担することは、この世界の為にならない。なにより—――」

 突如、鹿芝の眼前に広がる地面を裂いて空へと突き抜けた炎の螺旋が、白装束の少女の全身を囲うように円形に駆け巡る。立ち昇る火炎の奥に滲む彼女の影が振り返り、その両目が鹿芝の顔を眺めたように思えた。撫でるような視線を肌の奥から感じた気がした。そして、彼女はこちらに向かって微笑ほほえんだような気がした。

「—――ここで死なれては、あなた方をこの世界に連れてきた意味が無くなりますから」

 炎熱に空間が捻じ切られたかのように螺旋状に歪んだ眼前が、火花の音一つと共に静寂へと変わる。白装束の少女の輪郭は消失し、業火が渦巻いたその奥に、微かに人の面影の滲む形跡を残した真っ白い砂塵の山が風に吹かれて舞っていた。

 残されていたのは、漆黒を基調とした薄紫色の鉱石、至極石しごくせき。そして、その場に立ち尽くす異界人、鹿芝将鐘しかしばまさかねだけだった。

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