第9話 悪魔という存在

 リリスはふわふわとした感覚の中を漂っていた。

(なんだろう、この感触)

 目を閉じたままぼんやりと考える。

 肌に当たる感触はふわふわと柔らかくて優しくて、なんだか落ち着く。それに重ねて、心地よい温かさが伝わってくる。

 今までに感じたことのない感覚だが、懐かしいような気もする。ああそうだ、羽毛布団に似ているかも知れない。

(羽毛……羽根?)

 リリスは思考を止めて、ゆるりと目を開けた。

(ここ、どこ?)

 暗くてよく分からないが、窓からかすかに漏れる月明かりを目にして、そこがあの聖堂に隠された暗く陰湿なアジトではないことがわかる。

(夢、だったのかな)

 などと自分に都合の良いように考えてみるが、身体の節々が悲鳴を上げていることから、あれは夢ではなかったのだと認識せざるを得ない。

 あの男にいくつもの斬り傷を負わされて、心も身体もすっかり疲れ果てていた。彼はリリスの流す血を求めていた。お陰で全身がまだヒリヒリと痛む。こうやって命があること自体が不思議なくらいだ。

 思い出して、リリスはまた身震いをした。

 痛みも当然だが、それよりも思考を読まれることが怖かった。

 逃げようと足を踏み出しても手を伸ばしても、その行く手には必ず男が立ちふさがった。やろうとすることを全て先回りされる。発する言葉の先回りをされる。

 ただ無になるしかなかった。なんの抵抗も出来ないのが悔しかった。傷口から流れ出す赤い血を見ても、泣くことすら出来なかった。悲鳴も上げられなかった。

(忘れよう)

 そう結論を出して、リリスは再び目を閉じた。全部忘れて、もう少しだけ、このふわふわとした感覚に酔いしれていたかった。今感じているこの温もりが、全ての後悔や罪悪感、恐怖を包み込んでくれるような気がした。

 まるで祭壇に祈りを捧げるときのような、あの感覚に似ている。

 目を閉じるとやっぱり心地よくて、リリスはそのふわふわの中心に顔を埋めた。

 そのとき。ふいに、彼の頭に誰かの大きな手が触れた。

「!」

 リリスは勢いよくそこから身体ごと引き離した。まさか、まだあの男が傍にいたのかと触れた手を振り払う。

「……警戒しなくてもいい。俺だ」

 暗がりの中で優しくささやくように聞こえた声は、カンナのものだった。

「……カンナ」

 リリスはその名をよびながらようやく安堵した。

 どうやら自分はカンナにもたれかかって眠っていたようである。

 安心したところで新たな疑問がわき起こる。

(じゃあ、さっきのふわふわした感覚は……カンナ?)

 そう思いながら小首をかしげる。さっぱり合点がいかない。

(……どの辺が?)

 ぼんやりとカンナの顔を見上げてみるが、触れていたのはふわふわした髪の毛、ということでもなさそうだ。

 あの感覚の中で触れていたのは、もっと白くて光っているような、羽根のような綿毛のようなものだった。

「疲れただろう? ゆっくり休め。安心しろ、ここは昨日の納屋だ」

 ぼんやりと思考を巡らせるリリスの意識とは違う遠いところからカンナの声が聞こえた。かと思えば、頭からぐいと引き寄せられる。抱き寄せられたカンナの胸は、当たり前だがふわふわではなかった。

 けれどリリスにとって、そんなことはこの際どうでもよかった。今はただ、安心できる誰かの傍にいられれば、それだけで心が救われるようだった。

 その居心地の良さに瞳を閉じながら、カンナに尋ねる。

「カンナは……大丈夫なのか?」

 そういえば、彼もまたひどいダメージを受けていたのだと思い出す。

「ああ。お前の親父さんに助けてもらったから大丈夫だ。今は自分の心配だけしてろ」

「うん……ありがとう」

 そう言ったところで、強烈な眠気が訪れた。カンナと再会できて安心したからだろうか。もう少し彼と会話を交わしたいのに、もう目を開けていられない。リリスは再び眠りに落ちていった。

「やっぱりお前、魔法村の……」

 彼が眠りに落ちていくのを見届けながらカンナは言いかけてやめた。リリスが『魔法村』という集落の人間であることを、たった今、確信してしまったからだ。

 今はこうやってカンナの力でリリスの傷を癒やしているところだが、カンナの種族と魔法村の人間にとって、回復の術は深い眠りを伴うのだ。彼がカンナと同じ種族でないことは気配で分かっている。そうすると後者しかない。

 それからカンナはふと、あのときのことを思い出した。自分が吹き飛ばされたときのことだ。

(あの男……)

 あのうごめく黒い球体。あれは人間の力で出来るものではない。

(普通の人間には使えないし、魔法を使える者であってもあのような黒い力は使えないはずだ)

 そうすると考えられるパターンはひとつしかなかった。

「悪魔に心を売った……か」

 思わず呟く。

 しかしそう考えれば、今までの不可解な出来事にも納得がいった。

 たとえばリリスの行動を把握されていたこと。使い魔をつけていれば、自分がその場にいなくてもリリスの様子は分かるだろう。

 それからリリスを欲しがったこと。悪魔とそれに準ずる者は、魔法村の住人を喰うことにより力を得て、より強くなることができるという。まあこれは言い伝えのレベルであるが、目の前に素材があれば試さない手はないだろう。

 しかし。

(今日のこれは酷すぎる)

 リリスは一人で旅が出来ているとはいえ、まだ年端もいかない子どもだ。それを切り刻んだうえに、使い捨てのように放置をする。相手が悪魔だからと言って納得できるものではなかった。カンナにはそれほどに衝撃的だった。

 それから。

 何も出来なかった自分にも反吐が出るほど嫌悪した。

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