エピソード14

「綾乃ちゃん、調子はどう?」

日課になった雪乃ママからの電話。

「はい、大丈夫です」

私のこの答えも挨拶みたいなものになりつつある。

「そう、良かったわ。次の出勤はいつにする?」

お店でアリサと乱闘騒動を起こしてから今日でちょうど一週間が経った。

「明日から出勤してもいいですか?」

「もちろん」

雪乃ママの優しい口調で私に発令されていた“出勤禁止令”は解禁となった。

明日の出勤が決定した私は雪乃ママとの通話を終えたケイタイを閉じてから溜め息を吐いた。

その溜め息は安堵の溜め息。

……やっと出勤できる……。

そう思ったら、心の中に引っ掛かっていたものが少しだけ流れたような気がした。

“仕事命”って訳じゃないけど……。

これ以上、雪乃ママやお店に迷惑は掛けたくなかった。

ただでさえ、毎日忙しいお店。

私はいてもいなくてもさほど困らないかもしれないけど、アリサは違う。

認めたくはないけど、アリサは現No.1。

私と一緒に“出勤禁止令”を受けたアリサはお店の第一線で売り上げをあげているトップクラスのホステス。

他のホステス達の先頭に立つ存在。

そんなアリサが一週間もお店にいないだけで、大きな損害を受ける事は私にも簡単に予想出来る。

アリサの心配をするつもりは全くないけど、アリサがいなくて雪乃ママが困ってしまうのは私も心苦しい。

私の“出勤禁止令”が解禁になったんだから、きっとアリサも今日から出勤するはず……。

そう考えると、心が少しだけ軽くなった。

「明日から復帰すんのか?」

隣に座っている瑞貴が横目で私を見ていた。

「うん、やっと解禁になった」

「そうか、良かったな」

「うん」

「よし、じゃあ、お前の復帰祝いに飯でも食いに行くか?」

「えっ?マジで!?瑞貴の奢り?」

そう言って嬉しそうに表情を輝かせたのは、私じゃなくて、テーブルを挟んだ向かいで今まで黙々と眉毛を抜いていた凛だった。

「は?なんで、俺の奢りなんだよ?」

突然、会話に乱入してきた凛を怪訝そうに見つめる瑞貴。

「えっ?だって、綾の復帰祝いなんでしょ?」

「あぁ、そうだ」

「だったら、やっぱり瑞貴の奢りじゃん」

「綾の分は俺が出すけど、お前は自分の分は自分で出せよ」

「え~!?なんでよ!?」

「……てか、何でお前も一緒に行く事が前提になってんだよ?」

「はぁ?だって瑞貴が言ったじゃん」

「なにを?」

「『復帰祝いに飯でもって食いに行くか?』って……」

「あぁ、確かに言ったけど、別にお前を誘った訳じゃねえだろ」

「は?じゃあ、なんで私の目の前でそんな話をするのよ?」

「あ?」

「誰だって目の前でそんな事を言われたら、自分も誘われてるって思うじゃん!!」

「……思わねえよ……」

「それは、瑞貴が変人だからでしょ?」

「……変人!?」「誘わないなら、私がいない所で話たらいいじゃん!!」

凛は、プリプリ怒って、視線をテーブルに置いてある鏡に落として再び眉毛を抜き始めた。

……さっきまでとは比べものにならない速さで……。

「……だったらいい加減教室に戻って、授業でも受けてこいよ……」

そう呟いた瑞貴の声はとても小さかった。

隣にいる私だってなんとか聞き取れたくらいの声だったから、凛には聞こえていないと思った。

きっと瑞貴だって、凛に聞こえないように小さな声で呟いたはず……。

……それなのに……。

「私がどこで何をしてようと瑞貴には関係ないでしょ!!」

凛はすごい形相で顔を上げて、怒鳴った。

私と瑞貴の身体がほぼ同時にビクッと揺れた。

……聞こえたんだ……。

驚きの余り固まっている瑞貴に向かって、凛は手に持っていた毛抜きを投げつけた。

「……アブねえな……」

凛が放った毛抜きは勢いを保ったまま瑞貴に向かって一直線に飛んでいき間一髪のところで瑞貴の掌に収まった。

呆れたように溜め息を吐く瑞貴と怒りで鼻の穴を大きく膨らませている凛。

そんな2人を見て私は苦笑してしまった。


ここは、学校の空き教室で、今、他の教室では授業の真っ最中だったりする。

ここにいるのは私達3人だけじゃない。

学年なんて全く関係なく入り混じる赤、青、黄の上履き。

結構、大きな教室にも関わらず、ここの人口密度はかなり高い。

生徒が登校して下校するまでの間、この教室には誰かしらいる。

特に授業中の時間帯はかなりの盛況振りだ。

この教室で何をしているかと言えば……

男の子達同士談笑していたり、

漫画や雑誌を読みふけっていたり、

ケイタイを見てニヤニヤと軽く不審人物に変身していたり、

教室内にシンナーの匂いを充満させながら、壁をデコッてたり、

音楽をガンガン掛けて、ダンサーを気取ってたり……。

挙げ句の果てには、どこから持って来たのかビリヤードテーブルを持ち込んで来て、スティックを振り回しながらゲームを楽しんでいたり……。

ゲームに興奮しすぎた男の子がスティックを振り回しガラスを割るという事件まで発生した。

そんな事件も、瑞貴の「うっせえぞ」という一言で解決した。

……そう言えば、あの時割れたガラスがいつの間にか元に戻ってる……。

誰がガラスを替えたんだろ?

今頃になってそんな疑問を感じた私。

結局今まで忘れていたんだから、大した問題じゃなかったんだ。

そう納得してみた。

中には、こんなに騒がしいのに、爆睡している強者までいる。

授業中にも関わらず、なんで私が空き教室にいるのか……。

これには、ちゃんと理由がある。

その理由とは……。

瑞貴と凛が私の傍から、離れようとしないから。

◆◆◆◆◆

凛と瑞貴が私のマンションに来た次の日から、私は毎日学校に来ている。

ちゃんと朝のHRまでに登校して、帰りのHRが終わるまで校内にはいる。

あの日を境に凛と瑞貴は私の傍を離れようとしなくなった。

毎日、朝の決まった時間になると凛がマンションに迎えに来る。

帰りのHRが終わると瑞貴がマンションまで送ってくれる。

その数時間後、再び迎えに来た凛と繁華街の溜まり場へと向かう。

そして、深夜にまた瑞貴がマンションまで送ってくれる。

毎日その繰り返し。

空き教室や溜まり場では、2人とも私の傍にいる。

その他の場所でもどっちか1人は絶対に私の傍にいる。

そんな、2人の異変に私が気付いたのは、あの日の翌日だった。

いつもは朝のHRが終わったら、いつの間にか空き教室に行く瑞貴がその日は席を立とうとはしなかった。

『空き教室に行かないの?』

『お前も行くか?』

『行かない』

授業中は寝ようと思っていた私はそう答えた。

『じゃあ、俺も行かねえ』

『は?』

その言葉通り瑞貴は席を立とうとはしなかった。

……まぁ……いいか。

本来なら、教室で授業を受けるのが本当なんだし。

私は大して気にしていなかった。

でも、私は気にならなくても他のクラスメートや先生達は気になって仕方がないようだった。

いつもは、教室にいない瑞貴が授業を受けてるってだけで、クラスの雰囲気が一変した。

教室内には変な緊張感が張りつめている。

先生達も教室に入ってきて教壇に立ち、瑞貴の姿を見つけた瞬間に驚いた表情を浮かべる。

授業中だってなんか緊迫感が漂ってるし……。

その原因を作っている瑞貴は、そんな教室内の空気に気付いていないのか、気付いているけど気にならないのか……。

授業中の教室にいるくせに机の上に教科書すら出していない。

両手をポケットに突っ込んで、イスに深く腰掛け教壇に立つ先生を睨んでいる。

瑞貴の“俺様”全開な態度がより一層教室内の空気を悪くする。

とてもじゃないけど寝れるような雰囲気じゃない。

そんな空気に耐えきれなくなった私はその日の午前中の授業が終わった時点で、空き教室に行くことを決意した。


別に私が何かを言った訳じゃない。

何で2人が私から離れようとしないのかが分からない。

どんなに考えてみても答えは出ない。

ただ、分かるのは、瑞貴が送り担当で、凛が迎え担当って事ぐらい。

もしかしたら、私が乱闘騒ぎなんて起こしたから2人で見張ってんのかもしれないと思った。

だけど、もしそうだったら見張られるのは私じゃなくて、瑞貴や凛のほうだ。

この数日間で、凛は3回の乱闘を繰り広げた。

男相手が1回と女相手が2回。

相変わらず、一緒にいた私の出番は全くないケンカ。

瑞貴に至っては、1日1回は暴れてる。

そんな2人にたった1回きりの乱闘騒ぎを起こしたくらいで見張られたんじゃ納得出来ない。

そこで、私は尋ねて見た。

『なんで、いつも一緒にいるの?』

『……お前、薄情なヤツだな……』

『綾、冷たい!!』

私のどこが薄情で冷たいんだろ……。

そう思ったけど……。

なぜか、冷めた視線を送られた私には、それ以上聞く事が出来なくなった。

それから、ずっとこの生活を繰り返している。

不思議な気持ちがなくなった訳じゃない……。

だけど、私が瑞貴や凛とこんなに長い時間一緒に笑っていられるのは、あと数日間。

バイトに復帰したら、また時間に追われる生活が始まる。

その生活は、この高校を私が卒業するまで続く。

そう思ったら、こんな生活も悪くない気がした。

好きな時に好きな事を好きなだけ出来る。

それが、私にとっての幸せ。

私が一番に望んでいたこと。

だから、私は凛や瑞貴と出来る限り一緒にいる事を選んだんだ。

◆◆◆◆◆

「あ~もう!!イライラする!!」

不機嫌度MAXの凛。

そんな凛を見て瑞貴が溜め息混じりの声を出した。

「……たく、分かった。お前も奢ってやるよ」

「……本当?」

凛は疑いの眼差しを瑞貴に向けた。

「あぁ」

瑞貴が諦めたように頷いた瞬間、

「ラッキー!!」

嬉しそうに表情を輝かせた凛。

そんな凛を見て疲れ果てた表情を浮かべた瑞貴。

この2人はいつもこんな感じ。

2人のやり取りは私を退屈させない。

「……なぁ、凛」

「なぁに?」

さっきまでとは正反対のご機嫌な声を出した。

「……眉の形おかしいぞ」

「……」

「……」

また、凛がキレると思った私は大きな溜め息を吐いた。

……なんで、瑞貴は余計な事ばかり言うんだろう?

瑞貴は指摘したけど……。

凛の眉の形は全然おかしくない。

おかしいって言われた凛の眉の間には深いシワが刻まれていた。

だんだん険しさを増して行く凛の怒り爆発のカウントダウンはもう始まっているようだ。

……4……。

……3……。

……2……。

……1……。

……0……。

勢い良く立ち上がった凛は、くるりと後ろを振り返り……。

「みんな~今日の夜、瑞貴がご飯を奢ってくれるらしいよ!!」

大きな声で叫んだ。

「……おい……マジかよ……」

瑞貴が信じられないって感じで呟いた声は、男の子達の喜びの歓声にかき消された。

「瑞貴、みんな喜んでるよ」

ニッコリと可愛らしい笑みを浮かべた凛を絶対に敵には、まわしたくないと私は思った。

結局、瑞貴は余計な一言の所為で私と凛だけじゃなくて、

空き教室にいた男の子達全員にまで奢る羽目になった。

しかも、あの時、空き教室にいた男の子達が、

ウッカリなのか計画的かは、分からないけど、チーム内の他の男の子にまで話てしまい、

その日の夜、私の“復帰祝い”の会場となったファミレスには、瑞貴の想像を遥かに超える参加者が集まった。


予定の時間を少しだけ過ぎて、訪れたファミレス。

『みんな、来てるかな?』

ニコニコと無邪気な笑顔の凛。

『別に来てなくても、全然、構わねえけどな』

横目で凛を睨んでいる瑞貴。

ファミレスの自動扉の向こう側に足を踏み入れた瑞貴と私と凛は、一瞬固まった。

店員の『いらっしゃいませ!!』の声を完全に掻き消す『お疲れ様です!!』の声。

そこには、ガラの悪そうな男の子達が店内のテーブルを埋めて尽くしていた。

「……おい、おい……なんか増えてねえか?」

瑞貴が呆然と呟いた。

この状況の原因を作った凛でさえ、びっくり顔で固まっていた。

「み……瑞貴」

凛の動揺しまくりな声。

「あ?」

「……財布の中は大丈夫かい?」

……あっ……。

今日は、瑞貴の奢りって事になってるんだった。

……。

……っていうか、絶対無理でしょ?

これって何人いるの?

しかも、成長期真っ只中の男の子達ばかり。

ドリンクバーだけだとしても、これだけの人数がいれば相当な額になるのに……。

ここにいる男の子達の胃袋を満たす為には諭吉さんは何人必要なんだろう?

何人で足りるの?

何十人の出番がきたりするかもしれない……。

瑞貴の財布の中には、諭吉さんが何十人もスタンバってるの?

「……出す……」

「あ?」

「えっ?」

瑞貴と凛が私の顔を見つめている。

「私も出すから!!」

瑞貴の財布の中に、そんなにたくさんの諭吉さんがスタンバってない事を悟った私は、

無意識のうちに財布の入ったバッグを握り締めていた。

そんな私を瑞貴は、怪訝そうに見つめてて……。

「わ……私も出す!!」

私の危機迫る意気込みが感染してしまったのか、凛までもがバッグを握り締めていた。

バッグを握り締めた私と凛を交互に見た瑞貴は、なぜか呆れたように溜め息を吐いて……。

「……バカか……」

これまた、呆れたように呟いた。

「……!?」

「……!?」

……この人……。

今、『バカか』って言った?

『ありがとう』ってお礼を言われる事はあっても『バカ』呼ばわりされる覚えなんて、ミジンコほどもない。

「俺は言っただろ?」

「は?なにを?」

「今日は俺が金を出すって……」

……まぁ、確かに。

最初から、私には奢ってくれるって言ったし、結局は凛の分だって奢るって瑞貴は言ったけど……。

私は、こんな人数が集まるなんて予想すらしてなかった。

それは、多分瑞貴と凛も同じ。

最初から、こんな人数になるって、分かってたら、私だって、瑞貴がどんなに『奢る』って言っても丁重にお断りしてたと思う。

「……でも……」

「男に恥掻かせるんじゃねえよ」

瑞貴がポツリと呟くように言った言葉に、私も凛も口を閉じた。

別に恥ずかしい事じゃないのに……。

私達はまだ高校生なのに……。

きちんとした職に付いてる訳じゃないのに……。

「男が一度口に出した事を実行出来ねえなんて最悪じゃねえか」

瑞貴は変なところで男らしいというか、男気が通ってるというか……。

プライドを主張してくる。

「お前らは、変な心配なんてしねえで、素直に腹一杯食ってろ」

そう言って、瑞貴は不敵な笑みを浮かべた。

そんな瑞貴に、私は凛と顔を見合わせて溜め息を吐いた。

凛は呆れてた。

そして、私も……。

だけど、それが瑞貴なんだ。

瑞貴は、そういう奴。

そういう奴だから、瑞貴の周りにはいつも人が集まってくる。

そんなに愛想がいい訳じゃないし、

滅茶苦茶、人当たりがいい訳でもない。

それでも、瑞貴が慕われるのにはちゃんと理由があるんだ。

「ねえ、瑞貴」

凛が瑞貴の顔を見上げた。

「あ?」

「フルーツパフェも食べていい?」

「……仕方ねえな……」

凛のおねだりに瑞貴は、呆れたような口調で言葉を吐き出したけど、

その表情は、私達がお金を出すと言った時よりも全然嬉しそうで、

『無理』だとも『だめ』だとも言わなかった。

それが、瑞貴の『いいぞ』の意思表示だって分かってるから、

「綾は?」

凛に尋ねられた私は、

「……チョコレートパフェ……」

って、素直に食べたいものを言った。

そんな私を瑞貴は、鼻で笑った。



結局、瑞貴はその日集まった全員分の食事代を全て1人で払った。

さすがに男の子達も『瑞貴1人には出させられねえ』と思ったらしく、

瑞貴が大量の伝票を持ってレジへ向かうとその後ろから財布を手にしてゾロゾロとついて行っていた。

そんな光景を目の当たりにして、一番困ったのはレジ担当のお姉さんだった。

全員が財布を手に持ったガラの悪い集団を見て、かなり焦った表情で『お……お一人様ずつのご会計ですか!?』って

営業スマイルを引き吊らせていた。

お姉さんの動揺しまくりな質問にレジを包囲した全員が『当たり前じゃねえか』って表情で頷いた。

手元にある大量の伝票にお姉さんがチラッと視線を落としたのを私は見逃さなかった。

お姉さんの気持ちは良く分かる。

私があのお姉さんの立場だったら、こんなに面倒くさい事はない。

『一度にレジに来るなよ』とか

『もう、全員分一緒に纏めてでいいじゃん』とか

『こんなに大人数なんだから、誰かを幹事にして全員分集めてから、会計しに来いよ』とか

『全員分の会計が終わるまでにどれだけ時間が掛かると思ってんの!?』とか思ってしまうはず。

この状況で引き吊りながらも営業スマイルを浮かべているお姉さんはいろんな意味で偉いと思う。

『全部一緒でいい』

お姉さんの真っ正面に立っている瑞貴が手に持っていた有名ブランドの財布から諭吉さんを取り出し会計用のトレーの上に置いた。

それは何人とかのレベルじゃなくて、“団体様”レベルだった。

きっと、お姉さんにはいろんな意味で瑞貴が神様に見えたはずだ。

その証拠に『ありがとうございます!!』って言ったお姉さんの顔は本当に感謝してるって感じだった。

でも、お姉さんがホッとしたのも束の間で、これからが本当の闘いの始まりだった。

纏めて払うって言っても、結局は全員が食べたものをレジで打つという気の遠くなる作業がお姉さんを待っていた。

地道で根気のいる作業。

周りをガラの悪い男の子達に囲まれての作業。

失敗は許されない。

間違おうものならば半端なく文句を言われるのも目に見えている。

合計金額を告げられる前に瑞貴がお札の束を出してしまったから、

財布を握り締めている男の子達の間にも『どうするよ?』的な空気が流れている。

この流れでは、瑞貴は奢る気満々なのは、分かる。

だけど、黙って奢って貰う訳にはいかない……的な微妙な空気。

いつでも、どこでも大騒ぎする男の子達が誰1人として口を開く事なく、

どんどん増えていく合計金額を見つめていた。

私達がレジの前を占領して10分以上の時間が経過して、やっと総計金額が発表された。

出していた“団体様”の中から数人の諭吉さんと英世さんが瑞貴の財布にご帰還された。

『ありがとうございました』

疲労困憊気味のお姉さんの声に見送られてファミレスを出ると、

瑞貴はあっという間に男の子達に囲まれた。

男の子達の中心から瑞貴の声が聞こえてくる。

『いらねえよ』

男の子達は瑞貴にお金を渡そうと必死だった。

でも、あの瑞貴が四方八方から差し出されたお金を受け取るはずが無かった。

お金を差し出す男の子達と受け取りを拒否する瑞貴。

それはとても奇妙な光景だった。

道行く通行人達も不思議そうに見ていた。

私と凛はタバコをふかしながら顔を見合わせて苦笑した。

数分続いたその奇妙な光景は『金はいらねえから全員、俺にタバコを一個ずつ奢れ』と言う瑞貴の提案に男の子達が渋々納得して終結を迎えた。

別に瑞貴は“今日”とは言ってないのに……。

律儀な男の子達は近くにあったコンビニに慌ただしく消えて行った。

「今頃、あのコンビニ大忙しだね」

私はガードレールに腰を下ろした瑞貴の隣に立ち呟いた。

男の子達はコンビニに消えて行き、取り残された瑞貴と凛と私。

だけど、凛は男の子達がこの場を離れてすぐにケイタイが鳴り、

今は少し離れたところでケイタイ片手に大爆笑している。

「……だな」

私の呟きに、瑞貴は苦笑気味に鼻で笑った。

「ちょっと、私も行ってくる」

「あ?どこに?」

「コンビニ」

「なんで?」

「タバコを買いに」

「誰の?」

「……」

私は無言で瑞貴を指差した。

「……お前……」

呆れ果てているって感じの表情で言葉を吐き出した瑞貴。

「なによ?」

「お前は、俺をタバコの吸い過ぎで病気にしてえのか?」

「は?」

この人は何を言ってるんだろう?

自分が『タバコを奢れ』って言ったくせに……。

なんで、私が企んでるみたいな言い方をするんだろう?

「そんなにタバコばかり持っててどうすんだ?」

「……別にいいんじゃない?腐るもんじゃないんだし……。それに、『タバコを奢れ』って言ったのはあんたでしょ?」

私の言葉に、瑞貴は本当にどうしようもねえって感じで大きな溜め息を吐き出した。

「……別に、タバコが欲しくて言った訳じゃねえよ」

「は?」

「ああでも言わねえといつまで経っても収まりがつかねえだろ?」

そう言って瑞貴はポケットから取り出したタバコをくわえた。

それから、その箱を私に差し出した。

箱からはタバコが一本飛び出している。

私は迷うことなくそれに手を伸ばした。

手にとってそれをくわえると火が私へと伸びてくる。

その火にタバコの先端を翳す。

火に触れたタバコは先端を紅く染め、口の中には苦味が広がっていく。

「……ありがとう」

煙を吐き出しながら、瑞貴にお礼を告げると

瑞貴は口端を少しだけ上げて笑った。

瑞貴はたまにこんな表情をする。

口端を上げて笑う時の瞳はとても優しい。

その表情は嫌いじゃない。

なんか、見ているこっちまで優しい気持ちになる。

ボンヤリとその表情を眺めていると、

瑞貴の手が伸びてきた。

その手は、私の手首を掴むと、一瞬、強い力が込められ、

ただボンヤリと瑞貴を眺めていた私の身体は抵抗する暇もなく引き寄せられた。

バランスを崩した私は、瑞貴の胸に受け止められた。

「……危ない!!」

私は慌てて手に持っていたタバコを下に落とした。

一歩間違えば、瑞貴の服は焦げていた。

服だけで済むなら、まだいいけど、火傷したらどうするのよ!?

「ちょっと!!」

私は瑞貴の腕と胸に包まれたまま口を開いた。

「ん?」

焦りの所為でちょっとキレ気味な声を出す私とは対照的に穏やかな口調の瑞貴。

「危ないでしょ!?」

「なにが?」

「……私、タバコを持ってたんだけ……」

言葉が言い終わる前に、私の身体は瑞貴の胸から引き離された。

「火傷してねえか!?」

瑞貴が珍しく焦っている。

いつもはマイペースな俺様のくせに……。

瑞貴が焦っているという珍事に、なぜか私まで動揺してしまい、

「わ……私は大丈夫だけど……」

噛んでしまった。

「……良かった」

私が動揺して、噛んだ事なんて全くノータッチの瑞貴は安心したように大きく息を吐き出した。

「ねえ」

「ん?」

「危なかったのは私じゃなくてあんただったんだけど……」

「俺?」

「うん。危うく胸に根性焼きを作るところだった」

指で瑞貴の胸を指すと、

「……」

瑞貴の視線は、私の指を辿るように自分の胸に落ちた。

「……ね?危なかったでしょ?」

「……別にいい」

「……はい?」

「お前が怪我してねえなら、別にいい」

瑞貴はそう言って手に持っていたタバコを弾き飛ばした。

アーチ形の弧を描くように飛んだタバコは排水溝に吸い込まれるように消えていった。

溝蓋にタバコの先端が触れた瞬間、火の粉が紅い光を放った。

小さな光はすぐに色を失い闇に飲み込まれた。

「ねえ、瑞貴」

「ん?」

「ご馳走様」

「あぁ」

瑞貴は私の言葉に満足気な笑みで顔を崩した。

どうやら、瑞貴はこの言葉だけで満足らしい。

「良かったな」

「なにが?」

「お前の“復帰祝い”が大盛況で」

「えっ!?」

「……」

私のすっと呆けた声に、瑞貴が怪訝そうな視線を向けてくる。

「“復帰祝い”じゃなくて、“食事会”が大盛況だったんじゃないの?」

「は?」

「えっ?」

「……お前、落ち着いてよく考えてみろ?」

「……?」

“落ち着いて”って私は充分落ち着いてるけど?

「もし、“食事会”って名目ならあいつらは、俺が直接誘わねえと来ねえよ」

「……?今日、いっぱい来てたじゃん」

「だから、あれはお前の“復帰祝い”があるって聞いたから集まったんだろーが」

「そ……そうなの?」

「……お前、本当に気付いてなかったのか?」

「……うん」

「……しっかりしろよ」

瑞貴は、心底呆れてますって感じで溜め息を吐き出した。

確かにここ数日間、瑞貴や凛と一緒に空き教室や溜まり場で過ごす時間が長かった。

そこに来る男の子達と顔を合わせる事も必然的に多くなっていた。

瑞貴がチームを作ってからも、殆ど顔を出してなかった私。

そんな私を初めは遠巻きに見ていた男の子達。

顔を合わせる回数が増えるにつれて、男の子達は私に声を掛けてくれるようになっていた。

最初は挨拶を交わす程度だったけど、

まだチームになる前から溜まり場に来ていた男の子達が普通に話し掛けてきてくれて、

それを見ていた男の子達も声を掛けてくれるようになっていた。

「もしあいつらが奢って貰う事前提の“食事会”だと思って来てたら、財布持ってレジの周りを囲んだりしねえだろ」

「……だね」

私は、罪悪感に襲われた。

なんで気付かなかったんだろ?

人の優しい思いやりに……。

瑞貴がたくさんの諭吉さんを使ったことも……。

男の子達がわざわざ私の為に時間を作って集まってくれたことも……。

なんで素直に受け止めれなかったんだろう?

自分の捻くれ度に嫌悪感を感じる。

「……ねえ、瑞貴。……もしかして……」

「……?」

「今日、凛に意地悪を言ったのも、計画的犯行だったりする?」

瑞貴は、私から視線を逸らして、

「さぁな」

車道に視線を向けた。

曖昧な答えを口にした瑞貴。

だけど、連なる車のテールランプを眺める瑞貴の横顔はどこか楽しそうで……。

もし、瑞貴が直接男の子達を私の“復帰祝い”に誘っていたら、

それは、“お誘い”じゃなくて“強制”になってしまう。

だから、瑞貴は凛がみんなを誘うように仕向けたんじゃないだろうか。

私の予想が正しかったら瑞樹のお財布にあれだけの諭吉さんが入っていた事も納得出来る。

今日、瑞貴が支払った金額は普通の高校生がポンっと支払えるような金額じゃなかった。

瑞貴はあまり話したがらないけど……。

瑞貴のお父さんは大きな会社の社長さんらしい。

そのお父さんを瑞貴は嫌っている。

瑞貴の家はとても複雑で……。

今、瑞貴の実家にいるのはお父さんと再婚した義理のお母さんとその連れ子のお兄さんと妹。

そこは、瑞貴が生まれ育った家なのに……。

瑞貴の居場所はないらしい。

そんな瑞貴にお父さんはマンションを用意し、毎月の生活費を振り込んでくれるらしい。

でも、瑞貴はそのお金には、全く手を付けていない。

生活費も高校の学費も、そして遊ぶ為のお金も……。

瑞貴はバイトをしている訳じゃない。

昼間は授業を受けてないにしても、必ずと言っていいほど校内にいるし……。

夜は繁華街の溜まり場にいる。

チームを作ってからは、入り浸ってるっていうか、そこに瑞貴がいないとチームの子達が困るらしいし……。

バイトをする時間なんてあるはずがない。

それなのに、なぜ瑞貴はお金を持っているかは、確実に七不思議の一つに入ると思う。

まぁ、瑞貴が裏でお金を稼いでいる事は何となく想像出来るけど……。

何をやってるかは、例え私が聞いても瑞貴は言わないだろうし、

私も聞こうとは思わない。

『あいつに頼らなくても俺は生きていける』

そう言った瑞貴の瞳は鋭かったけど、どこか寂しそうでもあった。

私と瑞貴はどこか似ている。

どこがって聞かれたら、答えるのは難しいんだけど……。

なんか、そんな気がする。

もしかしたら、瑞貴もそう思ってるのかもしれたい。

だから、私と瑞貴はお互いの事を放っておけないのかもしれない。

「……ありがとう……」

私が発したその声は、とても小さくて……。

すぐに、繁華街の様々な音に埋もれた。

だけど、私はその言葉を再び口にする事はしなかった。

小さな言葉で伝えた大きな感謝の気持ちは、しっかりと瑞貴に伝わっていたようで……。

瑞貴の手が私の手をギュッと握りしめた。

数分後、男の子達がコンビニからゾロゾロと出てきた。

その手にはしっかりとタバコが握られている。

ガラの悪い男の子達が、同じ銘柄のタバコを手にコンビニが出て来る光景は……。

かなり異様だった。

『ごちそうさまでした』

その言葉と共に差し出されるタバコの箱。

瑞貴は『タバコを一個ずつ奢れ』ってしっかりと個数まで指示していたのに……。

その個数を守る男の子達はいなかった。

3個、4個、5個……。

中にはカートンで差し出す子までいた。

これだけの人数がいれば1個ずつでも相当な数になる。

それなのに、男の子達なりに気を使ったらしく……。

「……マジかよ……」

小さな声で呟いた瑞貴に、私は思わず吹き出してしまった。

瑞貴が唖然としていた時間は数秒で、すぐに差し出されたタバコを受け取った。

「……サンキュ」

1人1人の目を見てお礼を言う瑞貴を私は隣で見つめていた。

瑞貴の言葉に男の子達は満足そうに顔を崩した。

あっという間に、瑞貴の両手はタバコの小さな箱達に占領された。

「綾」

「なに?」

「ちょっと、それ貸せ」

瑞貴が顎で指したのは私のバッグだった。

「……?」

不思議に思いながらも私は手に持っていたバッグを瑞貴に差し出した。

私が差し出したバッグに瑞貴は両手に持っていた大量のタバコを入れた。

全員が瑞貴にタバコを渡し終わる頃には、私のバッグはパンパンになっていた。

電話を終え戻って来た凛は、私のバッグを見て一瞬、瞳を丸くしたけどすぐに大爆笑していた。

タバコ贈呈の儀式が終わると、瑞貴は深い溜め息を吐いた。

でも、それは嫌な溜め息じゃなかった。

温かい気持ちをたくさん受け取り心地いい疲れが引き出した溜め息。

それを見ていた私の心も温かくなった。

心が温かくなった所為か私の口からは自然と言葉が出てきた。

「ありがとう」

私の言葉に、それまでいつもと同じように大騒ぎしていた男の子達が私に視線を向けた。

「今日は、私の為にありがとう」

その言葉に、男の子達は照れたような笑みを浮かべた。

なんだか、私も照れ臭くなり男の子達から視線を逸らして俯くと、隣にいた瑞貴が私の手を握った。

俯いていた視線を上げると、瑞貴はとても優しい瞳で私を見つめていた。

場の雰囲気が和やかになったのが分かる。

照れ臭さはあるけど……。

私の心はポカポカと温かくなっていた。

「そろそろ戻るか」

瑞貴がガードレールから腰を上げると、地面に直接、座り込んでいた男の子達も立ち上がった。

瑞貴の言葉に『どこに?』なんて尋ねる人なんて誰もいない。

みんながゾロゾロと同じ方向へ向かって歩き出した。

私達の居場所はそこしかない。

瑞貴は、私の手を掴んだまま一歩前を歩き出し、

私は凛と並んで、瑞貴に引っ張られるように足を踏み出した瞬間……

『綾』

低い声が聞こえた。

その声は特別大きな声だった訳じゃないのに……

やけに私の耳に響いた。

どうやら、それは私だけじゃなかったらしく……

足を止めた瑞貴が、ゆっくりと振り返った。

瑞貴の視線は、私の頭上を通り越し、

私の背後に向けられている。

瑞貴の眉間に深いシワが寄ったのを、私は見逃さなかった。

私の手を掴んでいる、瑞貴の手。

その手がギュッと力を込めて私の手を握った。

瑞貴の前を歩いていた男の子達も足を止め振り返った。

でも、みんなの視線は、やっぱり私を通り越して一カ所に集まっている。

同じ行動をとった瑞貴と男の子達。

だけど、振り返った後の行動は全く正反対だった。

険しい表情の瑞貴はどちらかと言うと“威嚇”しているような感じ。

一方、男の子達は、振り返った瞬間、驚いたような表情を浮かべ……。

その後、一斉に頭を深々と下げた。

『お疲れ様です!!』

口々にそう言いながら……。

その光景は、とても威容だった。

「……綾……」

凛が焦ったように私の服を引っ張ってくる。

その声でようやく我に返った私は、みんなの視線の先を辿るようにゆっくりと背後を振り返った。

車道の脇に停車している黒の高級車。

その後部座席のドアに手を掛けている黒いスーツ姿の人は明らかに一般人じゃないオーラを出している。

そして、その傍らに立っている男の人は、振り返った私と瞳が合うと穏やかな笑みを浮かべた。

だけど、その人は隣にいる人以上に独特なオーラを身に纏っていた。

「……響さん……」

私がその人の名前を口にした瞬間、瑞貴の身体がビクッと揺れた。

響さんは、私から視線を逸らす事なく優しい笑みを浮かべたまま、ゆっくりとこっちに近付いてくる。

そんな響さんに、私は迷う事なく近付こうとした。

でも、私の手を瑞貴は、しっかりと握っていて……。

私は瑞貴の方に視線を向けた。

鋭い視線を響さんに向けたまま逸らそうとしない瑞貴。

放そうとしない私の手。

「……瑞貴?」

私の呼び掛けに、瑞貴は小さな舌打ちをしてから、ようやく響さんから私に視線を向けた。

「……どうしたの?」

「……別に」

……私は気付いていた。

瑞貴がどんな気持ちで響さんを見ていたのか。

小さな舌打ちが誰に向けられているのか。

どんな気持ちで舌打ちを吐き出したのか。

瑞貴が言った『……別に』がウソだという事も……。

……だけど、私は気付かないフリをした……。

私にとって、響さんも瑞貴も大切な存在。

どちらも失いたくない存在。

だから、気付いていたのに気付かないフリをしたんだ。

もし、気付いてしまったらこの関係が崩れてしまう事が分かっていたから。

「行って来いよ」

「……えっ?」

「お前に用事があるんじゃねえの?」

私に視線を向けたまま顎を微かに響さんの方に動かした瑞貴。

「……うん」

「ここで待ってる」

瑞貴の言葉に胸がチクンと痛んだ。

「……ごめん……」

「なんで、謝ってんだよ?」

苦笑した瑞貴。

私が、謝罪の言葉を口にしたのは……。

きっと逃れたかったんだと思う。

ズルい自分に対する罪悪感から……。

「すぐに戻るから」

「……あぁ」

私は瑞貴の傍を離れて、響さんに近付いた。

響さんが足を止めていたのは、停車中の高級車と瑞貴達がいる場所のちょうど中間の辺り。

近付く私を、響さんは優しい瞳で見つめている。

その瞳に吸い込まれるように私は響さんの元へと足を進めた。

「響さん、こんばんは」

「こんばんは」

響さんは優しい口調で挨拶を返してくれた。

「お仕事中ですか?」

私は、車の横に立っている男の人に視線を向けた。

「……あぁ。今から事務所に戻らないといけない」

「そうですか。お疲れ様です。お忙しいんですね」

「そうでもないよ。それより、元気になったみたいだね」

「えぇ。もう、すっかり元気になりました。響さんのお陰です」

「いや……俺は別に何もしてないよ」

響さんは照れたように鼻の頭を掻いた。

「あっ!!」

「うん?どうした?」

突然、大きな声を出した私を不思議そうに見つめる響さん。

「冷蔵庫!!」

「冷蔵庫?」

「はい、たくさんの食材や飲み物ありがとうございました」

「あぁ、あれか……。何が好きか分からなかったから、とりあえず目に付いたモノを買ってみたんだが……買い過ぎだよな」

困った表情の響さんがなんだか可愛くて、私はクスクスと笑いを零した。

私が笑うと、響さんは困ったような、照れたような複雑な表情を浮かべた。

「店にはいつから出るんだ?」

気を取り直すように咳払いをして尋ねた響さん。

「明日から出勤する予定です」

「そうか」

響さんは、何かを考えるように宙を見つめた。

「……?」

宙で止まっていた視線がゆっくりと落ちてきて、私の顔で止まった。

「少し遅くなるかもしれないけど、顔を出すから」

「本当ですか?ありがとうございます」

思わずテンションが上がった私。

そんな、私を響さんは楽しそうに見ていた。

「……でも……」

「うん?」

「響さん、お忙しいんじゃないですか?」

この前、お仕事を休んで看病をしてもらった事もあるから、私の為に時間を作って貰う事が悪いような気がした。

「だから、店に行くんだよ」

「えっ?」

「忙しくて、疲れているから店に行くんだよ」

「……?」

「疲れている時に、綾の顔を見たら元気になる」

疲れている時に私の顔を見たら元気になる?

……。

……えっ?

……今、サラッと凄い事を言われなかった?

……なんか……。

ものすごく、顔が熱い。

響さんの顔を見上げる事が出来ずに俯いていた私は頭の上に温もりを感じた。

その温もりが、響さんの手だと気付くのに時間は掛からなかった。

ゆっくりと撫でるように動く大きな手。

その大きな手の温もりはとても心地良い。

「あまり遅くまで遊んでいると、また寝坊するぞ」

笑いを堪えたような声に思わず視線を上げると、

響さんが楽しそうな瞳で私を見下ろしていた。

この前、寝坊をして学校をサボった事を響さんは知っている。

前科がある私は、なにも言い返せず……。

「……ですね……」

と小さく頷いた。

「それに……」

「……?」

「綾は女の子なんだから、遅い時間にこんな所にいたら危ないだろ?」

……響さんはいつもそう……。

私を“女の子”扱いしてくれる。

その扱いも、私や凛が大嫌いな『女だから』って卑下した扱いじゃなくて、

弱く儚いものを守るような扱い方。

だから、嫌な感じは受けない。

私は、“弱い”や“儚い”って言葉が似合うような女じゃない。

自分でも分かっている。

だけど、そういう扱いをされるとなんだか嬉しい。

私は女らしくは無いけど、やっぱり女なんだ。

「……はい」

私は、響さんの言葉を素直な気持ちで受け止めた。

「……でも……」

「えっ?」

「友達と遊ぶのは楽しいよな」

私を見ていた響さんの視線が、私を通り越し後ろへ向けられた。

「はい」

私の答えに、響さんはニッコリと笑った。

「だよな。楽しいことをするなって言う方が間違ってるよな。でも、忘れるなよ?」

「何をですか?」

「約束」

「約束?」

「ケンカはダメだぞ」

「……あっ……」

……そう言えば、そんな約束を響さんとしたんだっけ……。

「どうやら、すっかり忘れていたようだな」

呆れたように溜め息を吐いた響さん。

「い……いえ……全然覚えていましたっ!!」

焦り過ぎて強い口調になってしまった私。

そんな、私を見て響さんが言った。

「嘘がつけない性格なんだな」

「……!!」

絶句する私を見て響さんは声を出して笑った。

「今日ここで会えて良かった」

「……?」

「約束を思い出してくれたみたいだから」

「……そうですね」

気まずく頷く私に向ける響さんの瞳は、やっぱり楽しそうで……。

間違いない。

この人は、“ドS”だ。

私はそう確信した。

「それじゃ、明日な」

響さんは、笑いを飲み込み優しく穏やかな瞳を私に向けた。

「はい。楽しみにしています」

それは、ホステスとしての営業の言葉じゃなかった。

明日も会える。

それだけで、私の胸は弾んだ。

私は、軽く頭を下げ響さんに背を向けその場を離れようとした。

「綾」

低い声が私の名前を呼び、それと同時に腕を掴む感触を感じた。

「はい?」

なんだろう?

そう思いながら再び振り返ると、至近距離に響さんがいた。

いつもより近い響さんとの距離に私の胸は大きく高鳴り、ものすごい速さで動き出した。

そんな私に響さんは顔を近付けた。

……キス!?

私の頭は瞬時にそう判断した。

こ……ここで!?

完全にパニック状態の私。

だけど、響さんの唇が私の唇に触れる事はなくて……。

ゆっくりと近付いてきた唇は私の耳元で止まった。

大きく鳴り響く鼓動が、至近距離にいる響さんに聞こえてしまうような気がする。

私は自分の心臓が早く正常に戻る事だけを祈っていた。

「綾」

耳元で囁くように話し掛けられ、響さんの息が私の耳に掛かる。

くすぐったくて私の身体はビクッと反応した。

「は……はい?」

「今日も可愛いな」

その声は、低くて……。

「……好きだよ」

とても甘い。

響さんは、大人だから……。

これまでにたくさんの恋愛をしてきたんだと思う。

だからこんな言葉をサラッと自然に言えるんだ。

恋愛経験のない私には、刺激が強すぎる。

こんな時に返す言葉も分からない。

どう反応していいのかも分からない。

響さんの言葉が本心なのかも分からない。

……ただ分かるのは……。

そう言われるのは嫌じゃない。

むしろ嬉しいと思ってしまう。

……って事は、やっぱり私は響さんの事が好きなのかもしれないって事ぐらい。

「……あ……」

「うん?」

「……ありがとうございます……」

テンパって自分でも意味不明なお礼を口にしてしまった私。

自分でもなんのお礼なのか分からないのに……。

響さんが私のお礼の意味を理解出来るはずもなく

「……あぁ」

そう答えた響さんの肩が小刻みに揺れている。

……また、笑われてる……。

響さんがよく笑う人なのか……。

それとも、私がすっと呆けているのか……。

そこは、ものすごく微妙だけど。

こんなに笑われたら、なんだか私まで笑いが込み上げてくる。

私は我慢出来ずに笑いを零した。

クスクスと笑う私に気付いた響さんが、耳元から顔を離した。

響さんの顔が私の正面まで移動してきた。

その表情は、私が想像していた表情ではなかった。

私は、響さんが笑っている表情を想像していたけど……。

今、目の前にある顔はとても不思議そうな驚いたような表情だった。

『なんで?』って言葉が聞こえてきそうな表情。

その疑問詞の続きが私の頭の中に浮かんだ。

『なんで笑ってるんだ?』

もしかして、ここは笑っちゃいけないところだったとか!?

微かな不安が過ぎった時、響さんの表情が緩んだ。

私を見つめるその瞳はとても優しくて……

夜の空と同じ色の瞳には私が映っている。

そして、形のいい薄い唇の端は上がり嬉しそうな表情を作っていた。

暗い闇が支配している繁華街。

夜の繁華街の象徴的な人工の灯りに照らされた響さんは眩しいくらいの存在感を放っている。

だけど、私が感じる響さんの雰囲気はとても穏やかで温かい。

響さんの雰囲気を全身で感じた。

その雰囲気は、私を包み込んで、

私まで穏やかで優しい気持ちにしてくれる。

刺激。

魅惑。

誘惑。

高揚感。

笑い声。

雑踏。

怒声。

叫び声。

様々なモノが溢れるこの街の中で、

響さんが纏う雰囲気が作り出した私の周りの空間だけが別世界のように感じた。

「なぁ、綾」

「はい?」

「笑顔」

「笑顔?」

「あぁ、すごく癒された」

響さんの言葉に、私は自然に笑顔を零した。

そんな私を見つめていた響さんが動いたと思った瞬間……。

頬に柔らかい温もりを感じた。

……私の頬に響さんの唇が触れていた。

それは一瞬の事で……。

周りにたくさんの人がいても誰も気付かないくらい、

触れたのか触れていないのかさえ、自分自身でも分からないくらいの早業だった。

だけど私の頬には感触が残ってて、響さんのあの香水の匂いも微かに残っている。

状況が飲み込めない私は身動き一つ出来なくて、

私の頬から離れ、いつもと同じ位置に戻った響さんはニッコリと満足そうな笑みを浮かべた。

響さんの髪を夜風が微かに揺らす。

「友達が待ってるから行きなさい」

響さんの低い声が、夢の中にいるような気分の私を現実に引き戻した。

「……はい」

なんだろう?

このモヤモヤとした気分は……。

瑞貴や凛達を待たせているんだから早く戻らないといけないって思う私と、

もう少しだけこの空間で響さんといたいと思う私がそこにはいた。

心の中に立ち込める、モヤモヤとするモノを吐き出すように小さく息を吐き出した私は、笑顔で響さんに言った。

「明日、楽しみにしています」

「あぁ」

「それじゃあ、失礼します」

軽く頭を下げ、響さんに背中を向ける。

……もう一度、呼び止めてくれないかな……。

そんな想いを胸に抱えて私は、足を踏み出した。

少しずつ離れていく響さんとの距離。

寂しさを感じたけど、私は足を止める事も、振り返る事もしなかった。

……響さんは忙しい人。

私の我が儘の所為でここに引き留めておくことは出来ない。

明日も会えるんだから。

私は自分にそう言い聞かせながら、止まりそうになる足を動かした。

背中に視線を感じながら……。

瑞貴達に近付くと楽しそうな声が聞こえてくる。

ガードレールに腰掛けてタバコの煙を吐き出している瑞貴。

その隣に立って笑っている凛。

その2人を囲んでいる男の子達。

ゆっくりとその輪に近付く私に一番最初に気付いたのは瑞貴だった。

男の子達の方に向けられていた視線が私に向けられる。

私を捉えた瑞貴はどこか安心したような表情を浮かべていた。

瑞貴はタバコをくわえたまま私に手招きをする。

私はまっすぐに瑞貴の元へと向かった。

私に気付いた凛や男の子達が笑顔で迎えてくれる。

私が凛の隣で足を止めると、瑞貴は口にくわえていたタバコを親指と人差し指で掴んだ。

そのタバコは瑞貴の指に弾かれて飛んだ。

ガードレールを飛び越えて車道へと落ちたタバコ。

先端が赤々としていたタバコは走ってきた車のタイヤに踏まれ色を失い、ぺったんこになった。

私は視界の端で今はゴミとなったタバコの吸い殻を捉えていた。

タバコを弾き飛ばした瑞貴はゆっくりとガードレールから腰を上げた。

立ち上がった瑞貴は、私の背後に向かって頭を下げた。

それを見ていた男の子達も慌てたように、私の背後に向かって頭を下げた。

振り返らなくても分かる。

瑞貴や男の子達が誰に向かって頭を下げているのか。

大人なんてどうでもいいと思っている子供が尊敬の意を表して頭を下げる相手。

その人は、夜の繁華街で眩い程の存在感と独特の雰囲気を放っている人。

その人は、この繁華街を仕切る組のトップに立つ人。

その人は、大人を尊敬出来ない子供から尊敬される存在の人。

その人は、羨望と畏怖の視線を集める人。

そして、その人は私に生まれて初めて特別な“好き”という感情を抱かせた人。

しばらくして、車のドアが閉まる音が聞こえ、エンジン音が遠ざかって行った。

車のエンジン音が聞こえなくなってやっと顔を上げた瑞貴は、相変わらずダルそうだった。

……っていうか、瑞貴が人に頭を下げる姿を初めて見た。

いつも自己中な俺様なのに……。

響さんの車がいなくなると男の子達の間に張り詰めていた緊張感が緩んだ。

また、ザワザワと騒がしくなり始めた時、瑞貴が呟くように言葉を発した。

「……戻るぞ」

瑞貴の言葉に、緩んだ雰囲気のままゾロゾロと歩き始めた集団。

今日も溢れんばかりの人達が行き交う繁華街のメインストリート。

そこでも一際目立つ集団。

ひとりひとりでも充分目立つ男の子達が、これだけ集まれば目立つのは当然のこと。

何もしなくても、人は左右に避け自然と道が出来る。

その道を我がもの顔で歩く男の子達。

男の子達に集まる視線も半端じゃない。

だけど、そのたくさんの視線を気にする男の子なんていない。

注目されて当たり前みたいな雰囲気さえ醸し出されている。

全然知らなかったけど……。

この集団はモテる男の子達の集まりでもあるらしい。

たくさんの視線とともに至る所から飛んでくる歓声。

その声は、殆どが女の子独特の高い声。

この男の子達って……。

もしかして……。

芸能人とか!?

ゾロゾロと歩く男の子達の集団から数歩後を歩きながら、私はそんな想像を膨らませていた。

私と同じペースで隣に並んで歩く瑞貴は相変わらずダルそうで……。

至る所から飛んでくる歓声なんて全く気にならないご様子。

耳栓でもしてるんじゃないの?って尋ねたくなるくらい普通過ぎて……。

ダルそうなのを通り越してアクビなんかしちゃってる。

アクビをした所為で涙目の瑞貴が私の視線に気づいたらしく……。

「……んだよ?」

ダルそうな声を出してくる。

「眠いの?」

「腹一杯になったからな」

そう言って瑞貴はまた大きなアクビをした。

どうやら、瑞貴は相当眠いらしい。

「溜まり場に着いたら少し寝れば?」

いつもあまり寝ない瑞貴。

最近、特に大忙しだから。

学校の空き教室や溜まり場でも瑞貴が寝ているのを殆ど見た事がない。

たまにソファに偉そうに座り腕を組んで瞳を閉じている事がある。

もしかしたら、その時は寝てるのかもしれないけど……。

それは、そんなに長い時間じゃない。

5分とか10分とか……。

本当に短い時間。

なんであんまり寝ない瑞貴が生きていけるのか、私は不思議で仕方がない。

私なんか時間があれば寝ていたいのに。

寝ている時が一番幸せなのに。

だから、気遣いのつもりで言ってあげたのに……。

「もったいねえだろ」

「は?」

「寝ている時間がもったいない」

人をバカにしたように言い放った瑞貴。

「寝たら何がもったいないの?」

「だから時間だって言ってるだろーが」

「……」

……分からない。

なんで寝る時間がもったいないのか。

寝る時間は私の中でかなり貴重なのに。

……一体、瑞貴はなんでこんなに生き急いでいるんだろう?

私達はまだ若いのに。

時間なんてまだまだあるのに。

まるで人生の3分の2を終えたおじさんみたいなセリフを吐いてる。

……まさか!?

瑞貴は高校生の皮を被ったおっさんとか!?

「おい」

「……えっ!?な……なに!?」

「お前、今、心の中で俺の悪口言ってただろ?」

「そ……そんな事……」

有りまくりだけど……。

ダメ。

正直に言ったら、倍返しされちゃう。

『ない』って言わないと!!

ほら……

早く……

頑張れ私!!

「……」

……ダメだ。

言えない。

無言のまま、疑いの眼差しを向けられた私はさり気なく瑞貴から視線を逸らした。

逸らした瞬間、舌打ちが聞こえた。

その舌打ちは決して大きくはなかったけど、瑞貴の不機嫌さを表していた。

……ヤバい……。

ご機嫌斜めモードだ。

これは緊急事態だ。

なぜか頭の中で赤灯が回り、サイレンが鳴り響いている。

焦った私は慌てて口を開いた。

「あ……あんたのチームの男の子達ってスゴいね」

「スゴい?なにが?」

「歓声」

「歓声?」

「そう、聞こえるでしょ?あれ」

私は、前を歩く男の子達を指差した。

「……?」

怪訝そうに私の指先に視線を向けた瑞貴。

「なんか有名人みたいじゃない?」

男の子達の背中を見つめている瑞貴は、呆れたように言った。

「有名人みたいじゃなくて有名人なんだ」

「はい?」

「あいつらは有名人なんだよ」

……。

有名人?

じゃあ、やっぱり……。

「芸能人とか?」

ドキドキしながら尋ねたら……。

「……バカか……」

瑞貴は呆れ果てたように大きな溜め息を吐いた。

「……なっ!?」

「芸能人がこんなチームのメンバーなんてやるわけねえだろうが」

「……そう言われてみれば……」

「……ったく……言っただろーが」

「何を?」

「チームを作るってお前に話した時、メンバーに加入する奴はほとんどが繁華街で名前を売ってる奴ばかりだって言ったよな?」

「……」

そんな話、聞いたような聞いていないような……。

「元々、俺とツルんでた奴等だってここで充分過ぎるくらい自分の名前を売ってた奴ばっかだ。新しく加入した奴等もそいつ等に負けねえくらい有名な奴しか選んでねえよ」

「……」

「だから、こいつらは有名人みたいじゃなくて有名人なんだ」

「……」

……知らなかった。

瑞貴がそんなにすごい男の子達ばかり集めてたなんて……。

……っていうか、元々いた男の子達がそんなに有名人だった事さえ知らなかったんだけど……。

「……あのさ、ちょっと質問なんだけど……」

「なんだ?」

「どうやってそんな男の子ばかり集めたの?」

それが簡単な事じゃないって事ぐらい私にも分かる。

それだけの知名度を誇っている彼等が、瑞貴に『今度チームを作るからメンバーにならないか?』って言われて『うん、いいよ』って承諾するはずがない。

それも1人や2人とかの話じゃない。

一体これだけの人数をどうやって集めたんだろう?

「簡単だ。欲しいモノは力尽くで手に入れればいい」

……はぁ?

それって……。

もしかして……。

「ケンカしたの!?」

思わず大きな声を出してしまった私。

自分でもビックリするくらいの大きな声に瑞貴は鬱陶しそうに眉間にシワを寄せた。

前を歩いていた有名人達も足を止め『何事だ?』って表情で振り返ってくる。

男の子達と大爆笑しながら前を歩いていた凛が「どうしたの?」と不思議そうに尋ねた。

「……なんでもねえよ」

凛の質問にダルそうに答えた瑞貴。

「なんでもないらしいよ」

大した距離じゃないのに。

凛はなぜか瑞貴の言葉を男の子達に通訳した。

凛の通訳に頷いた有名人達はまたゾロゾロと歩き始める。

「お前、人聞きの悪い事を絶叫してんじゃねえよ」

瑞貴は横目で私を睨んだ。

「……でも、ケンカしたんでしょ?」

「条件を出しただけだ」

「条件って?」

「『俺が勝ったら大人しくチームに入れ』って」

……いや、いや……。

瑞貴さん。

それって、ケンカで負けたらチームに入れって事でしょ!?

やっぱりケンカしたんじゃん!!

「あんた、バケモノだね」

「あ?」

「……ある意味尊敬するわ」

これだけの人数を集めたって事は、それだけの人とケンカをしたってこと。

その体力とタフさを尊敬せずにはいられない。

しかも、男の子達が今このチームにいるって事は勝ったって事で……。

「……お前、絶対尊敬なんてしてねえだろ……」

瑞貴は不満そうな声を出した。

「いや……尊敬してるわよ、かなり……」

私がそう言ったにも関わらず瑞貴は訝しげに私を睨んでいる。

またしても瑞貴と私との間に流れる気まずい沈黙。

その沈黙に苦痛を感じ始めた時、瑞貴が沈黙を破った。

「……ところで……」

気まずい沈黙という窮地に突然差し込んだ救いの光。

このチャンスを逃しちゃいけない!!

瞬時にそう判断した私は逸らそうとしていた視線を再び瑞貴へと向けた。

瑞貴の言葉を拾って、そこから会話を別のところに持っていかないといけない。

この窮地から抜け出せるかどうかは私のトーク力にかかっている。

私は、頭をフル回転させる準備をして瑞貴が発する言葉の続きを待った。

「神宮組長はなんの用事だったんだ?」

「……は?」

突然、瑞貴の口から飛び出した響さんの名前にせっかくフル回転する準備をしていたはずの私の頭は真っ白になった。

……なんで?

今、このタイミングで響さんの名前が瑞貴の口から出てくるの?

唖然と瑞貴を眺めていると……。

「なに、すっと呆けた顔してんだ?」

瑞貴が暴言を吐いた。

「は!?」

真っ白になり、全く機能しない頭でも、自分が馬鹿にされている事は理解出来た。

込み上げてくる怒りの所為で自分の顔が険しくなっていくのが分かる。

そんな私の額にゆっくりと瑞貴の手が伸びてきて……。

眉間を指で弾いた。

「……痛っ!!!」

「お前、そんなに深いシワを寄せてっと戻らなくなるぞ」

……はぁ?

私のシワの原因を作ったのは瑞貴なのに……。

まるで人事のような瑞貴。

「……誰の所為よ……」

おでこを押さえて抗議の視線を向けると、瑞貴は……。

なぜか笑っていた。

楽しそうに……声を押し殺して……。

……はぁ?

……ちょっと待ってよ!!

なんで笑ってるの?

ここは笑うとこじゃないでしょ?

私は痛い思いまでしたのに!!

私の怒りが頂点に達した時

「……ぶっ!!」

瑞貴が勢い良く吹き出した。

「……なっ!?」

両手をポケットに突っ込んだまま顔を崩して笑う瑞貴に私は言葉をなくした。

瑞貴との付き合いは決して短くはない。

私の数少ない友人の中でも一緒に過ごした時間はズバ抜けて長いはず……。

顔をみれば、何を考えているのかが分かる……なんて偉そうには言えないけど……まぁ、なんとなく分かりはする。

……だけど……。

分からない。

なんで瑞貴がこのタイミングで盛大に吹き出して、遠慮なく爆笑しているのかが私には全く理解できない。

呆然と瑞貴の顔を見上げていると……。

「……おかしな顔してんじゃねえよ」

瑞貴が笑いすぎた所為か苦しげな声を出した。

……失礼すぎる……。

暴言を吐いて人を怒らせておいて、デコピンをした挙げ句、大爆笑しながら『おかしな顔』なんて……。

……もう、だめ!!

ムカつく!!

あまりのムカつき具合に瑞貴に文句を言ってやろうと思った瞬間、

「いい加減……」

「んで?」

私の文句の言葉を遮り瑞貴が口を開いた。

「は!?なんの話よ?」

「神宮組長だよ。なんの用事だったんだ?」

いつの間に笑いが収まったのか瑞貴はもう笑っていなかった。

爆笑していたのが嘘みたいに真剣な瞳で私を見下ろしている。

瑞貴の真剣な瞳は、私が爆発させそうだった感情さえもどこかに吹き飛ばしてしまった。

「……明日、お店に来てくれるんだって」

ちょっとだけ冷静さを取り戻した私は素直にそう答えていた。

「……ふ~ん」

真剣な瞳で聞いたわりには大して興味もなさそうな声。

興味が無いなら聞かなければいいのに……。

そう思いながらふと浮かんだ疑問。

私はそれを瑞貴に聞こうか迷った。

もうこの話はここで終わらせた方がいいのかもしれない。

この質問を瑞貴にぶつけて、その答えを聞くの怖い気もする。

だけど、心の中に引っ掛かったままにしとくのもどうかと思う。

どうしようかと瑞貴に視線を向けると、またしても大きなアクビをしていた。

眠そうではあるけど不機嫌な感じではない。

相変わらずダルそうではあるけど、多分それは眠い所為に違いない。

……聞くなら今しかない。

時間が経てば経つほど、自然には聞けなくなるような気がする。

明日とかだったら『なんで今頃聞いてんだ?』って言われるかもしれないし……。

何よりも、私が忘れてしまっている可能性が大きい。

忘れてしまうくらいなら、大して重要じゃないのかもしれないけど……。

聞いておかないと、後悔してしまうような気がする。

……だから、私は口を開いた。

「……ねえ」

「あ?」

瑞貴がダルそうにこっちを見ているのが分かる。

……分かったから、私は前を向いたまま言葉を紡いだ。

「瑞貴は響さんの事が嫌いなの?」

自然に……軽い感じで聞いたのに……。

私の問い掛けで瑞貴が纏う空気が張り詰めた。

すぐには返ってこない返事。

流れる沈黙が、私の答えを肯定しているようにも思えた。

瑞貴の答えを聞かなくても私は分かっていたのかもしれない。

ただ、『……んな事、ねえよ』ってダルそうに瑞貴に否定して欲しかったのかもしれない。

さっき瑞貴が響さんに向けた瞳は明らかに、瑞貴が“敵”と見做した人間に向ける瞳だった。

冷たくて……。

威圧的で……。

鋭くて……。

……あぁ、やっぱりそうなんだ……。

その事実は私の心を少しだけ重くした。

自分が自己中だって分かっている。

“いつまでも、今のような時間が続いて欲しい。”

生まれて初めて特別な感情を抱いた響さん。

何でも言い合えるかけがえの無い友達である瑞貴。

欲張りな私はそのどちらも失いたくはない。

瑞貴が私に抱く気持ちに答える事は出来ないくせに、強く突き放す事も出来ない。

だからと言って響さんに惹かれる自分を止めることもできない。

それが二人に対してとても卑怯な事だって分かっている。

それでも、私は望んでしまう。

“この時間と関係が永遠に続いて欲しい”と……。

「……尊敬してる……」

そう呟いた瑞貴の声はとても小さくて、

「えっ?」

聞き間違ったのかと思った。

「神宮組長の事はとても尊敬してる」

聞き直した私に瑞貴ははっきりとそう言った。

「……尊敬……してるの?」

「あぁ」

「……そっか……」

「あの人は、人間としても男としてもすげえ人だからな」

瑞貴は独り言のように呟いた。

その言葉に私は違和感があった。

瑞貴は、人を噂話で判断したりはしない。

どんなに他人が『あの人はいい人だ』って言っていても、逆に『あいつ最悪!!』って言っていても、瑞貴は自分で話してからじゃないと人を判断しない。

どんな噂話を聞いていても先入観なしにその人と言葉を交わし自分自身でどういう人間なのかを見極める。

そんな瑞貴が響さんを尊敬しているって事は……。

「響さんと話したことあるの!?」

驚いて瑞貴に視線を向けると

「あぁ、あるけど?」

『それがどうした?』みたいな顔をされた。

「そ……それっていつ!?」

「は?」

瑞貴は『なんでこいつはこんなに驚いてんだ?』って表情で……。

私を不思議そうに見下ろしている。

その瞳はまるで“珍獣”を見ているようだったけど、今はそんな事にいちいち構っている場合じゃない。

「ねえ!!いつ!?」

再び私は瑞貴に問い掛けた。

そんな私に瑞貴は微かに顔を引き攣らせたように半歩後退りしながら口を開いた。

「……チーム創る時……」

「そうなの!?」

「あぁ……お前にもちゃんと言ったぞ」

「はぁ!?」

私は記憶を辿った。

だけど、瑞貴の口から響さんの名前が出た事なんて数えるほどしかなくて、しかも、瑞貴と響さんが話したなんて一度も聞いた記憶がない。

「……聞いてない……」

私は、瑞貴を横目で睨んだ。

「……言ったって……」

そんな私に瑞貴は呆れたように溜息を吐いた。

「……いつ言ったのよ?」

「お前が学校の空き教室で昼寝してバイトに遅れるって顔面蒼白になってた日だよ」

バイトに遅れそうになって顔面蒼白?

……。

……。

……そう言えばそんな事もあったような気がする……。

「……」

「あの日、お前にチームを創るって言ったよな?」

「……うん」

「その時『繁華街を仕切ってるヤクザにも、他のチームにも話は通した』って俺が言ったの覚えてねえか?」

「……覚えてる」

「ほら、言ってるじゃねえか」

「はい?響さんの名前なんて全然出てきてないけど!?」

「……」

「……?」

「……なぁ、一つ聞いてもいいか?」

「なによ?」

「この繁華街を仕切ってんのはどこの組だ?」

「えっ?響さんの組でしょ?」

「あぁ、じゃあその組のトップは誰だ?」

「……瑞貴……なにボケてんの?響さんに決まってんじゃん」

得意気に答えた私。

「……」

勝ち誇った気分の私を瑞貴は呆れ果てた表情で見つめている。

なんで瑞貴はこんな顔しているんだろう?

……あぁ、そうか。

きっと私の言う事の方が正しかったから悔しいんだ。

言ってないんだから正直謝ったらいいのに……。

……。

……。

……あれ?

……ちょっと待って……。

……もしかして……。

「瑞貴が話を通したヤクザってもしかして……」

「……やっと気付いたか……」

「……!!」

確かに瑞貴は言っていた。

“神宮 響”って名前は言っていないけど『繁華街を仕切っているヤクザ』ってちゃんと言ってる。

その言葉に当て嵌まるのは一人しかいない。

なんで気付かなかったんだろう。

瑞貴がチームを創る時に、話を通したのが響さんだったなんて……。

ちょっと考えればすぐに分かることなのに……。

自分のバカさ加減に私は肩をガックリと落とした。

私の落ち込み具合は瑞貴にも伝わったようで

「……気にすんな」

瑞貴には珍しく慰めの言葉を掛けて……

「お前がボサっとしてんのは今に始まった事じゃねえ」

くれるはずもなく、より一層落とされた……。

「あの人は、俺達が嫌っているような大人じゃない」

どん底のテンションの私の耳に届いた瑞貴の声。

私は足元のアスファルトから隣にいる瑞貴に視線を向けた。

瑞貴の瞳は私じゃなくて前を見据えている。

だから私は足元に視線を落とした。

赤い花の咲いた黒いサンダルの隣には、黄色のラインが入った緑のスニーカー。

サンダルとスニーカーが同じ速度で前に進んでいく。

その動きを私はぼんやりと眺めていた。

「俺みたいなガキの話を真剣に聞いてくれたんだ」

「……」

「あの人の生き方も男としての

器のデカさも人間としての魅力も……尊敬する事はあっても嫌う事なんて出来ねえよ」

「……」

「……だから苦しいんだろうな……」

「……」

「あの人がもっと最低な人間だったら……」

「……」

「俺が大嫌いな大人だったら……」

「……」

「俺も、少しは楽だったのかもしれねえけどな」

そう言って瑞貴は鼻で笑った。

私は、顔を上げることが出来なかった。

瑞貴の顔を見る事が出来なかった。

ひたすら視線を落として、人工的な灯りが照らし出すアスファルトの上をゆっくりと動くスニーカーとサンダルを見つめていた。

瑞貴が何を言いたいのかは分かっているのに。

言葉を返す事が出来ない。

ズルくて卑怯者の私は黙って瑞貴の話を聞いていることしか出来ない。

瑞貴がまるで独り言のように言葉を紡いだのは瑞貴の優しさ。

私が何も答えれない事を見通した瑞貴の優しさ。

その優しさに甘えている自分に嫌悪感と罪悪感を感じた。

「……ごめん……」

俯いたまま搾り出すように出した声は、前を歩く男の子達の楽しそうな笑い声と周りから聞こえてくる歓声に掻き消された。

その歓声の中からは瑞貴の名前を呼ぶ女の子の声も聞こえてくる。

私は知ってる。

瑞貴がものすごくモテる事を……。

今、この瞬間に瑞貴を好きだと思っている女の子が何人いるんだろう。

本気で付き合いたいと思っている女の子が何人いるんだろう。

私が瑞貴を本気で突き放したら、瑞貴は苦しまなくていいのかもしれない。

瑞貴を幸せにしてあげられるのは私じゃない。

今、瑞貴は私を見つめている。

……悲しく寂しそうな瞳で……。

こめかみ辺りに痛いくらいの視線を感じた。

……もう、瑞貴を楽にしてあげなきゃ……。

私のわがままで瑞貴を苦しめるのはもう止めよう。

私は喉の奥から込み上げてくる熱いモノを飲み込んで、小さく深呼吸をした。

そして、口を開こうとした瞬間……。

頭の上に載せられた大きな手。

その手の温もりと少しの重みに驚いた私の身体は大きく揺れた。

慌てて顔を上げようとした私の動きを止めるようにその手に微かな力が入れられた。

それが顔を上げるなって事だと分かった私は抵抗する事無く、素直に視線を足元に落とした。

「……勘違いするなよ」

「えっ?」

「お前の所為じゃねえよ。これは俺が自分で選んだ事だ」

「……」

「だから、変な気を使って俺から離れようとしたりするな」

「……」

「分かったか?」

私と瑞貴の関係は何も知らない人から見たら滑稽なのかもしれない。

自分以外に気になる男がいるのに傍に私を置いておきたいと思う瑞貴と

自分の気持ちに気付いているのにそれを隠して必死で瑞貴との関係を守ろうとしている私。

この関係が崩れればお互いに幸せになれるのかもしれないのに……。

こんな関係を続ければ続けるほど傷は大きく、そして深くなっていくのに……。

私はこの手を振り解く事が出来なかった。

「……うん」

私は小さく頷いた。

頭の上にある大きな手が、小さな子供を宥める様にポンポンと私の頭を撫でる。

その手の動きに私は小さな安心感と大きな罪悪感を感じた。

この時、私は気付いていたのかもしれない。

この関係がいつか終わりを迎える事を……。

だから必死で守ろうとしていたのかもしれない。

一分でも……。

一秒でも……。

少しでも長く……。

そう強く望んでいた。

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