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「オウ、……!」

 膃肭臍おっとせいの啼き声のようにそこまで述べて絶句してしまう不意安が、まず一座の注目を集めたが、しかし、その次の瞬間には黒野へこそいぶかりが注がれる。

 半ばからのが、黒野の言葉の意味が分からないという素朴な疑問の視線、もう半ばが、何をもわきまえぬ話頭を持ち出したことに対して、正気を疑う視線であった。

 まるで顔を突然殴られでもしたかのように、表情をぐちゃぐちゃに狂わせつつ上体を揺らめかせた不意安は、ぎこちなく腕を躍らせつつ、乱れに乱れた声音で、

「黒野、さん、……何を、とんでもないことを!」

「仏教に関連した重大な社会現象でしたし、この場に挙げても良い程には、興味深い議題と自分は思います。」

「しかし、そんな、学語世界の、しかも殆ど現代のこと、」

「散々、自分の居た世界の史実について、これまで皆様で話して来たじゃないですか。あの教団による国家転覆企図と夥しき殺人行為は、歴史に残らない筈もなく、事実、自分が居た頃にも宗教団体一般への嫌悪や警戒など、世にもたらされた影響は小さくなかったです。」

「ですが、仮に、あの集団を仏教系とするならば、明らかにそれは一般の大乗と言うよりも密教的であり、私よりも煝煆さんの方が、ずっと適切な役者の筈でしょう!」

「一騎討ちをしよう、……と言い出したのは、貴女でしたよね?」

 多少の泡を喰いながらも、ここまで寸隙も許さず口迅くちどに抗ってきていた不意安が、とうとう黙り込んでしまう。

 そこを、逃さずに、

「ならば、貴女の出番となるのも、仕方ないじゃないですか。それに煝煆さんは棄教を、少なくとも試みてはいるのですから、仮に知識が有ろうと、仏教の弁護を担うには如何にも不適切な人物でしょう。

 貴女ですよ、不意安さん。……この船においては、貴女が、貴女の言葉で、御仏の教えを護るしか無いんです。」

 黒野なりの、乾坤一擲の一撃だった。真っ当な神学的知識、宗教的知識においては、やはり自分は全く敵わない。

 しかし、とにかく不意安を破らねば縊り殺さかねぬ以上、どうにかして、自分の方が彼女よりも詳しく、かつ、仏教に関わる話柄わへいをぶつけるしかないのだ。それを満たせる題材は、新興宗教――彼にとっては嫌が応にも卑近であった一方、カハシムーヌの面々、迂腐な知識に忙しく、異世界の俗世間をそこまで学ぶ暇の無さそうな彼らにとっては、さぞかし疎遠となるであろう、それをおいて他無かった。顕彰会、創価学会、幸福の科学と、仏教系の団体を彼は幾つか思いついたものの、その中で「瑣末である」「歴史ではない」と袖にされる不安が無いのは、この、オウム真理教のみだったのである。そこで彼は、自らも躊躇ってしまうような物凄まじさを乗り越えて、これを已むなく選んだのだった。

 正に切り札、最後の一手を放った彼が、椅子の上で、耳へ聞こえて来そうな自分の鼓動に苦しんでいると、

「曖昧、ですねえ。黒野さん、」

 不意安の、不穏な、怨霊のような声。

 彼女の、「口伝鈔」の話を持ち出す前に黒野が不思議な感覚を得させられていた、優雅、端正、洗煉は、すっかり影を潜めていた。その口は、言葉を切る度に、笑む為でなく喰い縛る為に横へ広がるのである。

「少々、曖昧が過ぎますよ。もう少し、具体的に訊ねていただいて宜しいでしょうか?」

 苦しんでいる。あの、不意安が、

 黒野は、そんな観測事実によって大いに励まされた。相手が怖じた分、踏み出るようにして、

「では、」まだ片づけられていなかった、不意安の食糧箱へ露骨な視線を送りつつ、「貴女が、浄土真宗徒とは異なって肉食にくじきを憚ることに表れているように、元々仏教においては、殺生は禁忌とされているのですよね? 恐らく、輪廻と言う発想がある以上、畜獣や羽虫も親や先祖の生まれ変わりかも知れぬという懸念が一々生じるのでしょうが、そうやって、動物の殺害すら避ける――というよりは最早、、仏教から生じたオウム真理教が、どうして、あれほどまでに多くの命を奪おうなどと思い立ち、そして、その邪心をある程度完遂したのでしょうか。」

 ちゃんと詳しくただせ、と要求したのは不意安であったものの、しかし彼女は、この黒野からの問い掛けを受けて、深く後悔するように渋面を振った。彼女、というよりも、誰一人として、彼がここまで立派に挑戦しうるなど、先の、「口伝鈔」の話題を問うたことによる小さな名誉挽回を経ても尚、思ってみなかったのである。その上彼の言葉は、高祖智顗ちぎが「菩薩戒義疏ぎしょ」によって解説した、円頓戒における「快意殺生戒」の理由付けの一部、転生した父母を殺すことへの憂懼ゆうくを、教えられもせずに美事再現していたのだった。門前の小僧がどうこうという言葉が有るが、正にそれであり、此処二日の傍聴によって啓蒙された彼は、おのずから、法における確からしき論理を編み出したのである。

 この、神掛かった智顗の教えの再現については、不意安だけでなく煝煆も当然に気がついていた。そこで彼女は、それまでの、如何にも心配そうな態度、やや前傾して手を揉みつつ眉を顰める姿勢を、すぐに解除したのである。椅子を後方へ下げ、そこへどっかりと身を委ねると、ただ、静かで、そして真剣な顔で、黒野の背中を見守るのだった。

 何も、心配は無さそうだ。お前の命運は、お前が、お前自身で、斬り拓くが良い。

 この無言の信頼、援護を見咎めて、不意安は露骨に苛立った。しかし、とにかく一騎討ちの相手へ斬り返さねばならない彼女は、口惜しそうにしつつも、

「良いですか黒野さん、そもそも、あの教祖――松本と申しましたか?――が本当に菩薩であったのか、というのはかなりの疑問です。何せ

「まぁ、当人曰く『最終解脱者』だったそうですから、菩薩よりも遙か上の、仏か何かだったのでしょうね。」

 黒野の後ろで煝煆が噴き出すが、不意安は点燈したように顔を赤くして、

「お戯れを! ……とにかく、その男を仏門の者として呼んで良いのかは、甚だ疑問なのですよ! 良いですか。あの男が、悪名高き軽率至極な殺生にも関連して放言した思想は、魂――蟠桃らの使うような『魂』とは違いますよ――とやらを清らかな状態で確保しておけば、いつか肉体を蘇らせられるという謳い文句を含んでいたのです。……これは釈尊の語った、この世に『アートマン』、つまり『実体』はなく、全ては現象の重なりであるという教え、それと明らかに矛盾しているものであり、寧ろ啓典宗教における、最後の審判やナザレのイエスの復活を意識しているものでしょう! そのような男がこの上ない愚行を働いたからと言って、御仏の教えが貶められる言われは御座いませんね!」

「そこです。」

 ぎょっと口を閉ざす彼女へ、黒野は静かに、しかし力強く、

「そこです。例えば、そこなんですよ。不意安さん、」

 不意安は、ただ怪訝そうに、

「何が、です?」

「貴女方が復活や魂と言うものを想定出来ないのならば、つまり、生命の実体、これこそが黒野塔也だ、これこそが永空妙碩だと取り出せる『もの』が、我々の中に無いと言うのならば、……一体、、往生するのですか?」

 若き秀麗な大奇術師は、この問いによって凍りついた。目口を張り裂けんばかりに開いて、絶句する。これはまたおかしなことを言い出したな、などという暢気な絶句ではなく、己が信仰の大樹の根柢をし折られつつある者、『悪魔』裁判で追いつめられつつある者の、苦悶の緘黙であった。

 黒野が、仮借なく続ける。

「先程の『口伝鈔』の話において、往生に際して体を伴うだの伴わないだのという話が有りましたが、ならばやはり、体が、往生を為すのですよね? 魂魄や『我』というものが無いのならば、それは、一体何なのでしょうか?

 より言うなれば、もしも輪廻が有ると言うならば、その流れに乗る、しかし魂でも『実体』でもない何か、……それは、何ですか?」

 どうにかして呼吸だけは繰り返していると言う風情の不意安は、やはり、何も言い返せない。豊かな紫苑色の生え際に、暑くもないのに脂汗が結ばれて、それが茫然たる顔を縦断して滴っては、彼女の服に染みを作る。

 悚然と黙り込んでしまう不意安を黒野が睨み続けるという、ありえまじき、奇妙で居心地の悪い静寂。これを破ったのは、カハシムーヌの首魁による大笑だった。

「面白い、面白いね黒野君!」

 只管ひたすら怡然いぜんと、

「成る程! 偶〻たまたま信心を近しくしていたテロリスト集団が存在していたことをあげつらうなどという、そりゃ驚かせは出来るだろうがすぐに反論されて尻つぼみになるであろう馬鹿げた論筋を突然持ち出して、何を考えているのかと思えば、……成る程な、余りの無法さに乱された不意安から、言質を取った訳だ!

 良く説かれた言葉は釈尊の言葉である、などという訳の分からぬ文句に象徴されるように、教えの変幻自在性を主張する仏教へまともに宗論を挑んでも、適当に流されて終わってしまいかねぬ訳だが、……おい、不意安! 今回ばかりはそうはいかんぞ! たった今、衆生に実体は無いと述べたのだし、だからといって、往生や輪廻を否定するようでは、最早浄土門の菩薩ではあるまい!」

 黙り込んでいた不意安は――恰も逃げ道を見つけたかのように――屹と彼を睨むと、

「何ですか蟠桃、……貴男は、誰の味方なのです!」

 蟠桃は、ぎょっとしたような顔を作ってから、

「誰の、って、……少なくとも、お前のではないだろうよ。」

 至極当然なことを言う彼であったが、しかし、不意安は抱えた渋面を振りつつ、

「そうではない、そうではないのです!」

 彼女の隣に座らされている蟠桃は、まるで泥酔者を世話するかのような態度で、

「おいおい、……訳の分からないことを喚いてないで、いい加減黒野君へ抗弁したらどうだ? 実際、俺としても興味深いのだがね。往生や成仏という概念と諸法無我との撞着、仏教においてはあまねき物だと聞いたことが有る気もするが、例えばお前は、この問題をどう整理するのだ?」

「そんなこと、……もう、どうでも良いのですよ!」

 苦く崩れていた蟠桃の相好が、一瞬裡に研ぎ澄まされる。

「おい、」親の敵を糺弾するかのような、毅然とした声。「お前、滅多なことは言うなよ。今この場で、議論が『どうでもいい』などと宣言するということは、……縊られる運命を、素直に受け入れると言う意味だぜ?」

「ええ!」

 不意安が、今度は立ち上がる。つまり、その右手には彼女の信仰の象徴にして、そして得物である、錫杖がしっかと握られているのだった。

「貴様、」

 煝煆も、黒野の後ろで立ち上がる。

 彼が振り向けば、彼女も得物の剣――黒野はパラケルススのアゾット剣のあやかりと思い込んでいるが、その実、不動明王のそれを模した三鈷剣――を抜いていた。彼女の魔力、戦意が漏れ出るように現出した炎が、切っ先で燦然と輝いており、黒野の目を厳めしく灼く。

 その剣を、胸の高さでほぼ水平に構えつつ、

「敵わぬと思えば、実力行使か? 不意安、

 論者として、いくらなんでも下種が過ぎるぞ。」

 黒野は椅子から抜け出るようにして、彼女の背へ回った。残んの者も、蟠桃を除いて臨戦、或いは、防禦体勢を取り始める。

 俄に不穏な、血なまぐさい空気が議場室に立ち籠める中、しかし当の不意安は、空いている方の手で項を搔きつつ、

「副会長様としての御忠告、ですかねそれは。新入りとして、御迷惑をお掛け致します。」

「杖を下ろせ。」

「しかし、この情況はカハシムーヌがどうこうというより

「杖を下ろせと言っているのだ!」

 落雷の如き、煝煆の大音声だいおんじょう

 その余りの圧によって、殆どの者は風に煽られたかのように上体を反らしたが、しかし肝腎の不意安のみは、聾者であるかのように平然としている。

 寧ろ彼女は、勢いで手首を内側へ巻き込むようにしつつ、錫杖を確乎と握り込むのだったが、……その顔は、綻んでいた。

 笑み。蠍の不意安が、その毒針を構えたことを示す莞然。

 戸惑いを覚えて煝煆が顔を顰める中、不意安は相変わらず、この女神官の怒声など意に介さぬ様子で、

「まぁ皆様、どうか大袈裟に構えないで下さいませ。私が杖を抜いたのは、別に、野蛮を働く為では御座いませんので。」

 そこまで述べてから、暢気に首を傾げつつ、

「ああ、いえ。……お一人だけは、気の毒なことになるかも知れませんが。」

 杖を没収されて殆ど無力となっている妻の前へ、立ちはだかるように飛び出て、しかしそもそも戦闘力を持たない筈なのに、懸命に武張っている白沢が、

「何を、先程から訳の分からないことを、……と言いますか、蟠桃! 貴男は何を暢気にしているのです!」

 そう。彼が憤った通りに、カハシムーヌの長にして随一の実力者である筈の蟠桃は、一人、不意安の隣の席で座り込んだままなのである。

 彼は、頭を搔きつつ、

「あー、……やっぱそうだよな、おかしいよな。

 いや、何、……不意安がも何も無視して突然ぶち切れやがるものだから、うっかり、身構える機を逸したと言うか、」

 この、真に謎めいた言い分に、白沢は、はあ?、と呻いてしまうのみだったが、決死の覚悟によって理智を研ぎ澄まされていた黒野は、まもなく一つ気付いた。

「何ですか蟠桃さん。もしかして、……貴男は、不意安さんと何かを共謀していたと?」

「ああ、まあ、」気怠げに、「いや、もっと賢明にことを運ぶつもりだったんだがなぁ。『悪魔』騒ぎのせいで、すっかり訳が分からなくなっちまった。

 それでも、昨日不意安と話して、逆手に取った打開策を思いついてはいたんだぜ? つまりよ、不意安とお前を、『悪魔』としての被疑者の筆頭にしちまえば、実に自然な運びとなる筈だったんだが、」

 大きな溜め息の後に、

「畜生。黒野君、お前は存外大した論者だったんだな。完全に、見逸れていたよ。まさか、不意安を此処まで美事に追いつめてくれるとはなぁ。」

 夫がこんなことを胡乱に宣う中で、イロハは、臨戦態勢ではありつつも、不意安が何をしようと捩じ伏せられると言う自負が有るのか瀟洒しょうしゃに佇んでいたのだったが、その背に隠れるようにしている守谷は、おどおどと、

「蟠桃、殿。……どういうこと、ですかの。不意安殿と、黒野殿が、……なんですと?」

「ですから!」

 うら若き優婆夷が、解答権を朗然と奪う。

「そもそも私にとって、この船は、ええ、始めから不帰の旅路だった訳ですよ!」

 彼女は、その耀く錫杖を琅然ろうぜんと振り上げると、彼を指し示す。

「黒野さん! 貴男を、伴だってのね!」

 少し茫然としてから、は?、と漏らしてしまう彼を、煝煆は、手で押し戻すようにして庇うのだった。

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