15

 再開された論議を殆ど陪聴しつつ、黒野は、先程煝煆によって妨碍されてしまった不意安の疑問を顧思していた。信仰も科学も無くして興る歴史が有ったとすれば、それは数多の危機、災害、疾病、戦争などをどう捉え、どう乗り越えて来たのだろうか。

 とにかく、今彼の目前では、白沢がイロハへ問い掛けている。

「司教ヤコブス・デ・テラモの『ベリアルの書』における逸話だったと思いますが、そこで悪魔ベリアルは基督のについて、取り調べを行うように神へ要求し、神も了承して裁判が行われています。しかし、カトリック司教として当然『三位一体』を認めていた筈のヤコブスは、何故こんな、本来一体である筈の神が基督を計るという、奇妙な記述を残したのでしょうか。」

 グラスも無しに何故かそれだけを持ち込んだのらしい、水差しを目の前に置きつつ、うんうんと聞いていたイロハは、殆ど間を置かずに、

「一応確認ですが、それは、三位一体の教義の確定した、第一コンスタンティノス公会議よりも後の話なのですね?」

「そっちの年代は失念しましたが、『ベリアルの書』の方は1328年です。」

「では、比べ物にもなりませんね。公会議は381年ですから。

 で、お答えいたしますと、そもそも、『三位一体の盾』を良く御覧になっていただきたい、というのが第一の感想です。」

「ああ、あの逆三角形の、……あまり、良く覚えておりませんが、」

「西方教会が一般に用いるあの象徴には、こう書かれております。神は父である、父は神である、神は子――つまり基督――である、子は神である、神は聖霊である、聖霊は神である。」

「正しく、三位一体ですね。」

「しかし、更にこうも書かれているのです。……父は子ではない、子は父でない、子は聖霊でない、聖霊は子でない、聖霊は父でない、父は聖霊でない。

 つまり、父は子ではないのですから、子を裁くように父が命ずることは、――儒家が何というかはともかく――別段矛盾を為していないでしょう。」

 推移律への愚弄だね、と煝煆が呟くのを、隣席の黒野だけが聞き留める。

 白沢も同様に納得せず、イロハへ再び挑んだのだが、

「お付き合いはしますが、しかし、恐らくあまり甲斐はないですよ。三位一体が難解なのは、それこそ、ニカイア・コンスタンティノスポリス信条を採択した時ですら、前提となっていたのですから。

 ここで言う難解、とは、法律問題ですとか複雑な数式操作ですとか晦渋かいじゅうな言辞ですとか、そういう素朴な意味のではありません。神秘主義や禅の公案のような、理詰めで考えてみても定まらない、という意味での、です。不意安さんや煝煆の好きな言葉で言えば、不立文字ふりゅうもんじ、となるでしょうか。

 理解しようとするのではなく、信ずる。三位一体の教義とはそういう対象なのだと、私は思います。」

 蟠桃から、伊斯蘭などと比べて早期に固まった故に、論理が未熟なだけでは、と一言入ったものの、概ねにはイロハが美事に対処したと見做された結果、彼女が次の発議権を獲得したのだったが、

「そう、ですね。」

 そう呟いてから黙り込んだイロハを、どうしました俺が代わりましょうか、と蟠桃が揶揄うのだが、彼女はいたって深刻に、

「いえ、……今朝方、守谷さんから面白いお話をお聞きしたんですが、」

 ラビが、イロハの横でピクリと身を顫わせる。

「守谷さんのまじないですが、二人組の束縛の他にも、面白いことが出来るらしいんですよ。先程それについてお聞きしたのですが、……この状況を打開にするのに、実に、相応しい効力だと思いましてね。」

「勿体振るね、全く、」煝煆が、組んだ手で項を寛然と支えつつ、「さっさと、話してみたらどうなんだい? お宅の旦那によると、ぼやぼやしている時間は無いらしいからね。」

「嘘を、見破れるのです。」

 眠たげだった煝煆が目を瞠り、残りのものの少なからずが、立ち上がらん勢いで前のめる。

「なんですかそれ、」寧ろ本当に立ち上がって、両手を卓へ突いた白沢が、「守谷! そんなまじないが有るなら、さっさと教えてくれれば、全員に『貴様は人間か?』とでも突きつけて解決する話だったでしょうに!」

 ラビは豊かな白髯を震わせつつ、少々口籠ってから、

「いや、それがですな、……月齢やらとの兼ね合いで、この船旅において、一度しか施せないまじないなのですよ。ですから、イロハ殿には明かしましたが、しかし慎重に行かねばと、」

「守谷さんはこう仰言る訳ですが、」イロハが、朗々と割り込んでくる。「私は、そうは思わなかった訳です。最も如何わしき者へ、早々に、確乎かっこたる審判を下すべきでしょう! 『悪魔』を引き当てればそれで良し、そうでなくとも、最悪の容疑者への疑義をその後省略出来るという、大きな利益が有るのですから!」

 いつの間にか煌めく髪を再び固く整えており、清濁の、議会を通じた強大な権力、更には実力をも持つ者らしい威厳を遺憾なく放っている、イロハの弁舌は、黒野にただならぬ説得力を与える。

 この様な、この上なく裏打たれた迫力が、イロハという論者の強みであり、他の者も危うく呑み込まれそうな雰囲気を見せたが、しかし、耐性が有るのか夫の蟠桃だけは毅然と、

「少々お待ちを、イロハさん。それは危険な賭けですよ、もう少し慎重に、」

「危険なのは、そういうまじないが有ると知られると、『悪魔』が対処してくるからでしょう?」速やかな返事。「しかし、私が明かしてしまった以上、その点についてはもう心配しても無駄なのでは?」

 空気を嚙むように、蟠桃は二度三度虚しく下顎を上下させたが、しかし、肩を落としつつ見上げると、

「全く、……貴女には、敵いませんね。」

 好きにしてくれ、と言わんばかりに、彼が掬うように両腕を挙げれば、イロハは、

「では今から、この、一度しかない権利、確実に『悪魔』か否かを決定出来るまじないを、誰へ施すか決めねばなりませんが、」

 イロハがここで効果的に言葉を切ると、一座の視線がムスリマへ集中した。当の氷織は、持ち前の、瑕瑾かきんなき氷像のような澹然たんぜんを保ったままだったが、しかし、隣の白沢は穏やかでなく、

「馬鹿な、あんな鶏なんかで、何故氷織が怪しまれねばならぬのです!」

「おいおい、冷静になれよ。」と、蟠桃が諭すも、

「これが、冷静なんかに、」

「いやいや、待て待て。本当に、待て。ちゃんと考えてみろ。そりゃお前の女が『悪魔』にげ替っているのだったら気の毒なことになるが、しかし、お前も含めた俺達が生きる為には仕方ないし、何より、『悪魔』でなかった場合は、その場で容疑が晴れるんだぞ? どっちにしても悪いことではない、というより後者ならば寧ろ最高だし、何よりお前は、妻の無実を信じているのだろう? ならば、何ら迷惑なことは無いじゃないか。」

 白沢の熱は冷めやらず、

「下らない理窟りくつを! ……もっと、確乎とした根拠が無いと、到底認め難いですね! そんな、神でもなく、また神の言葉によるのでもなく、人が人を裁くなどと、」

「何を言うんだい、……ハワーリジュ派でもあるまいに、」

と冷然と蟠桃が腐すのだが、いきり立つ夫と対蹠たいせき的にいたって平然としたままの氷織は、腕を出して白沢を押し留めてから、その、錆びた声で、

「白沢の言うことや、私の名誉とやらはともかく、軽率に決められては実際困りますね。もっと慎重に、最も訝しき者を確定させるべきでは? 確かに私へそのまじないを施せば、潔白が証明される私は刹那的に助かりますが、しかし、私にとっても他の皆様にとっても、最大の救いは、美事『悪魔』を的中させて、この馬鹿馬鹿しい騒動を終わりにすることでしょうから。」

 好い冷熱のコントラストを示した、このムスリム夫婦の語りは説得力を持ち、では今一度、最も疑わしき者を定めよう、という話になったが、

 まず蟠桃が、

「しかし、……残念ながら、『悪魔』、つまり偽物と断定出来るほど愚かな弁を立てた者は、まだ居なかった筈だよな。」

「やっぱり、その方法は無理筋なんじゃないかい?」と煝煆。

「今朝も言ったが、それならそれでも良いよ。

 そうしたら、……船内で疑わしい行動を為した者を――鶏云々うんぬん以外に――誰か見たかね?」

 すっと、守谷が手を挙げつつ、

「昨夜――或いは今朝未明ですかな――この部屋で浅い眠りに耽りていると、何か、眩しい感覚に襲われたのです。そこで目を開けば、火をともした煝煆さんが黒野さんと何か話し込みつつ、二人で外へ出て行くではないですか。」

「ああ、」首を振る煝煆。「見られていたのかい、」

「あれは、一体何を?」

「何でもないよ。塔也が厠へ行きたいというから、付き合っただけさ。当然、塔也と私同士で証明出来るし、それに、」上方を指差しつつ、「白沢、お前も、屋上から私らを見なかったか?」

「ええ、」多少は、平静になった様子で、「確かに今朝の礼拝の際、北側の甲板で何か燈火の様なものがちらついていましたが、あれは、貴女の炎だったのですか。」

「踏み外して転落しては、大変だからな。」

「当然の処置でしょう、納得出来ます。」

 この遣り取りによって、守谷から提出された疑義は解決されたのだったが、その守谷から、疲れたような様子で、

「しかし、……つまり、常に我々は二人組で動いているのですから、今の煝煆さんのように、相方によって行動の正当性を証明されてしまう訳ですかな。このような方向で考えてみても、余り意味はないかも知れない、と。」

「まぁ、生憎そういうことなんだろうが、……そう言えば、」

 煝煆が、そこから睨め付ける。

「白沢。」刺すような声。「お前、何であの時一人だったんだい?」

 少し慌てた様子で、

「何を、おかしなことを。氷織と共に行動しなければならないのですし、ちゃんと、二人で礼拝を行いましたよ。」

「しかし、確かあの時、屋上には、」

「貴女の位置取りが、視座として悪かっただけでしょう。」

「でも、」黒野が、おずおずと、「自分、気になって貴男のことを見詰めながら船内へ戻りました、つまり、視点を変えながら見上げ続けていたのですが、それでも、氷織さんの姿は全く見えなかったですよ?」

「馬鹿なことを、言わないで下さい黒野さん。いや、確かに君から氷織が見えなかったのかも知れませんが、しかし、先程も言いましたが守谷による猶太ないましめが有り、そして特に轟音も鳴っていなかった以上、私が氷織と共に居たのは明白ではないですか。」

「確かに、……そうですけど、」

 黒野は、カハシムーヌの弁士達へ自分なんぞが斬り込みつつあるという事態に、足許が浮つくような感覚を覚えていたが、しかし、彼の中の、理工系の学生らしい、真理や法則を冀求ききゅうする性癖が、畏れを乗り越えるのを強い、彼を一歩前へ、転げ落ちるように踏み込ませた。

「そうです。確かに恐らく、氷織さんはどこかしら貴男の近くに居たのでしょう。しかし、……それでも、のでは? だって、立ち上がっていれば、きっと甲板から見えた筈ですから。」

 何を、と、白沢が何かしら反駁しかけたところで、突然、大音が鳴り響いて全員の耳をつんざいた。見れば、どうやら凄まじい威力の柏手を打ったらしく、両手を半端に捧げている蟠桃がそこに居る。

「お前等、……少し、黙って居てくれるか。」

 昨日から鶏騒動やイロハの強気に振り回されて、滑稽な様も見せていた蟠桃だったが、しかし、カハシムーヌの長にして強大な神官であるらしい、威厳を、突如、声音と表情に発揮していた。

 恰も峻厳な法務官の如き、その態度のまま、彼は、

「まず氷織、答えてくれ。今朝黒野君からも似たような疑問が提出されていたのだが、マッカやカーバ神殿が存在しないこの世界において、お前達ムスリムは、何処へ向かって礼拝するのだ?」

 氷織は、突然何の話だ?、とばかりに些か眉を寄せたが、しかしすぐに無表情へ戻って、すらすらと、

「通常は、貴方の勤め先ですよ。つまり、マッカへ最も近い場所、〝旅人〟たちが漂着する場所、学語世界との接触点である、この世界の神殿へ向かってです。」

「だろうな。それが、自然だ。」

 横の白沢が、目を円かにする。露骨な動揺だったが、しかし蟠桃は其方を相手にせぬまま、

「煝煆、黒野君。次は二人に問おう。お前達が今朝未明に白沢を目撃した時、そいつは、どちらへ向かって叩頭していたのだ?」

「ええっと。……私は、サジダの瞬間は見ていないが、」

「自分は、見ましたよ。確か、向かって左へですね。……済みません、曖昧な表現になっちゃいますけど、」

「いいや、でかしたぞ黒野!」

 蟠桃はそう叫ぶと、物凄まじい勢いで立ち上がり、その余勢を活かすかのごとく、斧を振り降ろすようにして向かいの一人を指弾する。

「おい、白沢! 命が惜しければ釈明しろ! ……何故、という黒野君から見て、左方、つまり、?」

 雷にでも打たれたように、両腕を目茶苦茶に動かして当惑する白沢以外は、この糾問の意味が分からずに困惑したが、その中で最も早かったのはイロハだった。

「成る程、……この船は東の☆△□王国へ向かっているのですから、神殿の方、つまり我々の国へ礼拝を行うならば、……西を、向かねばならなかったのですね。」

「その、通りですとも! おい白沢、この不一致は

。」

 矢庭に殷々と、圧力を持つ瘴気のように部屋を満たした銹声が、あれほど意気軒昂としていた蟠桃の口を噤ませる。

 そこから、おもむろな、踏みにじるような口調で、

「下らないのですよ、蟠桃。私の白沢が不束者なのは貴男も知っているでしょうが、そんな、偶〻一度方角を誤ったからといって、鬼の首を取ったようにされても困りますね。」

 皺一つ刻まない、白亜の仮面のような顔から繰り出される、太く、醜い声が、伴侶を護るべく氷織から発せられている。

 一瞬怖じた蟠桃であったが、しかし、すぐに恢復して、

「下らない、とは言うがねえ! 礼拝という、お前達にとって最も大切である筈のものを、そう簡単に誤るものかね? 大方、何かを企んでいたお宅の旦那が、煝煆の気配に驚いて、急いで適当な方角へ頭を打ち付けたのではないのか?」

 球技のラリー応酬のように、澱みなく、

「あれはそもそも、今朝未明というか暁闇といいますか、とにかく、周囲が良く見えない彼誰かわたれ時での出来事でした。だからこそ、煝煆も火を焚いたのです。」

 ああ、まぁ、と、彼女が肯えば、

「ならば、迂闊に方角を取り違えても、仕方ないでしょう。」

「成る程な! 確かに、そこの論は通るようだよ。だが氷織、お前はただ、間抜けだったということだけを主張しているが、ならば、……やはり貴様は、礼拝をしていなかったということだな!」

 悠然と座ったまま、肘置きから伸ばした手を杖のようにして、顳顬に走るゴーグルのベルト辺りを、頭巾の上から支えつつ、

「ええ、白状しましょう。守谷に穿たれたセフィロトの縛めに従い、私は白沢と共に屋上に居ましたが、しかし、ただ座して、彼の近くに控えていたのですよ。立ち上がっていたのは白沢のみで、そこで、私は方角に無頓着だったのです。確かに褒められた話ではないでしょうが、しかし、そこまでおかしなことでもないでしょう。」

「何、得意げにしていやがる!」更なる咆哮。「白沢と同じくムスリムであるのに、何故、定刻の礼拝を怠るという、訳の分からないことを、貴様だけが出来たというのだ!」

 至極真っ当に聞こえる蟠桃の、更なる糺弾だったが、頬被りの中の氷織の顔は露と乱れない。

「それが、色々と、事情が有ったのですよ。……情況に応じて断食が免ぜられるように、礼拝も――特に女身においては――屡〻、免ぜられるというよりも、最早禁ぜられるのです。」

「……ああ、」そこまで、恐らく自動的に呟いた不意安は、一旦、「F」の発音でも為すかのように脣を嚙んで躊躇ったが、しかし、結局意を決して、

「月の物、……ですか?、もしかして、」

 この、センシティヴな言葉の登場にもかかわらず、氷織は、ただ頷いてから、

「はい。月経中の者は、礼拝参加を認められぬのです。

 昨日も私は、礼拝を口実として、白沢と共に何度か中座しましたが、しかしその実、屋上の隅で座っているのみだったのですよ。一々そんななまぐさい事情を説明するのも、恥ずかしいというか、皆様も別に聞きたくなかったでしょうから、省略してしまっていた訳ですが、」

 静々とこの言葉を聞いていた蟠桃は、顔を顰めつつ、舌を一つ打ってから、

「なんだよ、……それなら、まぁ筋は通るな。畜生、悪くない、論筋だと思ったんだがなぁ、」

 恰も、そうして意気を蒸散させるかのように、大きく口を開きつつ見上げ、はぁ、と一息吐いた蟠桃が、徒労にうんざりした表情で座ろうとする、

 その、刹那。

 黒野の内に、悪寒が走る。

 不味い。

 彼は、目を屡叩く。

 何だ?

 何が不味いのか、分からない。しかし、このまま場を流してしまっては、何か、決定的なことを取り逃すような気が、

 直感。

「あの、」

 氷織が、彼へ、最小限に首を動かして、

「なんでしょう、」

「あの、ええっと、」

 何か、捻り出さねば、

「氷織さんが、ええっと、昨日説明して下さったような、その、」

「はっきり、なさって下さい。責めたくはないですが、あまり、無駄な時間は無いので。」

 言葉選びこそ鄭重なれど、褐色の冷たいゴーグルを帯びた氷の表情から及んでくる、刺々しく罅割れた声は、黒野を効果的に攻め立てて来、そこでますます彼の思考は散逸して、訳の分からない、埋め合わせのような言葉が、巣を叩かれた羽虫の如く、彼の口から無秩序に飛び出て行った、

 の、だが、

「ええっと、」何かを、言わねば。何か、彼女と少しでも関わったこと、「あの時、ええっとあの、……そうだ! そう、昨日、貴女がクルアーンを読み返して下さった時のような、」

「……!?」

 文字に出来ぬ奇妙な音が、突如黒野へ聞こえた。見れば、氷織が、氷の平然を崩して、眉根や脣を戦慄わななかせている。その、間抜けに大きく開かれた口から、言葉にならぬ呻き声が漏れたらしい。

 彼女らしい、寡黙や余裕ではない。明らかに、追いつめられた者の絶句。

 無敵の澹然、万年雪に凍てついた岩盤。昨日不意安の一撃に揺らぎはすれど踏み留まっていたそれが、今、とうとう爆ぜ飛んだ。

 しかし、……何故?

「氷織! 手前ぇ!」

 不思議がる黒野を他所に、蟠桃は、具現化しかねない勢いの気焔を、再び恢復させている。

「てめえ、……俺達を、御強おこわに掛けやがったな!」

 熱り立つ彼とは対蹠的に、氷織は未だに椅子に残っているのだが、しかし、先程までの様に、鷹揚な余裕として座り続けているのではなく、最早、腰が抜けて立てないという有り様である。彼女の荒い息の音が、遠い黒野の耳にまで届いた。

 それまでの感情に憤激まで加わって、昂奮の極みにあった蟠桃だったが、しかし、黒野を始めとして他の何人か困惑しているのにどうにか気付いたらしく、大きな息を吸ってから、

「いいかお前等! 確かにムスリムは礼拝や断食を禁じられる事が有るが、それは、その者が『汚れ』の状態にあるからだ。この、伊斯蘭観における『汚れ』には種々の要因が有り、その内の一つは、確かに生理期間なのだが、……しかし、礼拝が出来ぬだけではない。

 本当に『汚れ』の状態にある者は、……筈だ!」

 しんと静まった部屋の中から、なんとか、煝煆が、

「そうか、……お前、蟠桃、居なかったな。昨日氷織が緑園について語ったとき、お前は、まだ船に乗り込んでいなかった、」

「そういうことなんだろうよ! ……黒野!、でかした、本当によくやった! 殆ど聞くに堪えない呻きだったが、その実、お前の発言は最高の効果をもたらしたぞ!」

 こんな傲岸ごうがんな激賞が響く中、しかし、黒野自身が最も驚いていた。あんな胡乱な譫言うわごとが、氷織を追いつめて、

「氷織、」

 黒野がそんな、渦巻いて落ち着かぬ感想を抱く間に、蟠桃の双眸が血走った。彼と氷織の間には遙かな距離が有るのに、まるで、怒れる巨人が足許の市民を踏みつぶさんとしているかのような、おぞましき悲劇の雰囲気が迸る。

「お前は、嘘をいた。お前は、譎詐きっさをもって俺達を騙そうとした。ならば、……神とやらの裁きを下されること、流石に、免れえぬよなぁ!?」

 彼は、慄然とする氷織を、まるで捨て置くかのように、くるりと守谷へ向けて体を直して、

「さぁ! 出番だぜラビ先生よ! この不直な女に、神とやらの聖槌を遺憾なく下してやれ!」

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