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 そうだよな、自分も絶望的な気持ちで傍聴しているよりは、何かしらでも生き残る為の努力を試みた方が良いよな、と、前向きな気持ちになった彼ではあったが、しかし、ムスリム夫婦を待ちながら食を進めるカハシムーヌの面々の会話、例えば、

「この豆の煮物で思い出したのだがね、もしもエサウが帰り道に木の実か何かを食して空腹を託っていなければ、イサクが家督を継いだり、その子ヨセフが 埃及エジプトの国司になったり、ということも無かったのだろうかな。――アンタらの信ずるところによれば、」

と蟠桃が皮肉げに述べ、不意安が、

「旧約聖書よりもずっと確からしい歴史的事実においても、小さなきっかけで大きく命運が左右されたように見える、という例は枚挙に遑が無いでしょう。それよりも寧ろ、その辺りで私が皮肉を感ずるのは、『出埃及記』ですね。そのヨセフは散々苦労して埃及へ辿り着き、兄らや親を涙ながらに迎え入れたのに、しかし後々のモーセの代に至っては、凄まじき努力や覚悟を伴って埃及から――しかも神の奇蹟にすら助けられて――出た訳ですから。」

と添えるのに対し、守谷が、

「そういう不合理な点ですがな、しかし寧ろ、我々には好もしく思われますよ。もしも聖典の全てが絵空事であったなら、そういう、矛盾までは行かなくとも物語上奇妙に聞こえてくる点は全て筆者によって、丁度調理人が魚の骨を抜くように、除去されていたことでしょう。ですが、実際に起こったことの描写であるからこそ、そういった不合理が存在しているのだと、つまり、歴史的事実性の傍証であるのだと、少なくとも私には思われますな。」

などと返す会話、すなわち、相手を殺す為に研ぎ澄ませている訳でもないのに、それなりに鋭く聞こえる応酬によって、少々意気を毀たれもするのだった。

 とにかく、礼拝から戻ってきた白沢と氷織が、冷め始めて艶々と汗を搔いていた食料箱の蓋を開けたところで、殆ど食し終えているイロハが口を開く。

「お二人はまぁ、口を付けながらでも良いでしょう。そろそろ、場を再開させていただきましょうか。」

 視線で蟠桃の意嚮を質すと、彼も首肯したので、続けてイロハは、

「さて。私ですが、先程の〝サーヴ権〟とやら、折角頂いたので誰へ差し向けようかと食しながら考えていたのですけれども、……そう、ですね、」

 彼女は、堂々と腕を伸ばすと、他の誰にも予想だにされなかった人物を指し示した。指された夫、蟠桃は、目を見開きつつも寧ろ熙々ききとした様子を見せる。

 丁度平らげていた、食料箱の蓋を閉じつつ、

「おや、俺ですか。……別に普段から毎日論を突き合わせているでしょうに、という憾みは残りますが、勿論歓迎いたしますよ。何を、お聞きになりたいのです?」

「何故、人の生けとし世界が、しかも少なくとも二つ、存在するのでしょうか。」

 この、少々削ぎ落とされすぎた問いに緊張した蟠桃は、腰の位置を直しつつ、

「もう少し、具体的に述べていただいて宜しいですか?」

「つまり、貴方方のする自然科学によれば、元々宇宙には原子、或いはそれを構成する陽子なり電子なりクォークなりという、無機質でしかない、〝物体〟と呼んでよいかすら怪しげな、〝事象〟しか無かったらしいですが、そこからどのように知性が、しかも少なくとも二ヶ所に――此処と黒野さんの故郷世界と――発生したのでしょうか。」

 蟠桃は、二三度慎重げに瞬いてから、

「先に反問しておきますが、イロハさんは、その点をどう理解するのですか?」

「そもそも神が宇宙を創り給うたのですから、其処に住まう知性を創るのも、神には造作も無いことでしょう。」

「……ま、そうなりますよね。」

 蟠桃は、気怠げに頭を搔いてから、

「しかしそうなると、まぁ黒野君の世界を創ったのは、その勤勉な、『創世記』とやらで六日間連続働いた神であるにしても、……、世界についてはどうなのです?」

 イロハが、不穏げに眉を顰める。

「蟠桃。此方の世界ならではのこと――特に歴史に関して――は、話頭とするのを差し控えるのが、学語世界を尊ぶ知の綺羅、カハシムーヌにおいて、貴方が定めた会則でなかったですか?」

 そんなルールが有ったのか、と黒野が思っていると、蟠桃が肩を竦めた。

「そりゃ、積極的にはしませんがね、しかし、こればかりはやむを得ない反論でしょう。機械論が、世界の興りを語れないことで責められるのであれば、啓典の民も、世界の興りを知らないことについて、非難を逃れることは出来ない筈です。……勿論、それを知らなければ、の話ですが。」

 末尾に付された揶揄を不穏げに聞いたらしいイロハが、些か声調を強めつつ、

「聖書その他に世界の創造が語られていないのですから、そこは知ることが出来ません。……蟠桃、貴方方も同じような話では?」

「いや、違います。」攻守の翻ったような、鋭い口調で、「例えば、現状自然科学は、宇宙の発生について確定的なことを述べることは出来ませんが、しかし、いつまでもそうという訳では決してないのです。かつては全く訳の分からなかった原初の渾沌に、少しずつでも光を投じ始めているのですよ。その中で比較的筋が通っているのが、ビッグバン仮説な訳ですが、

 とにかくそうして、宇宙の生成された瞬間すら解明し始めようとしているのですから、いつかは、その時点と現代の間のミッシングリンク、つまり、世界の発生や成長を解明出来ても、全くおかしくはありませんし、少なくとも、試みは為されています。

 それにイロハさん。そもそも貴女の問いですがね、我々科学信奉者にとっては、もしかしたら、今から述べる程度のことなのかも知れないのですよ。すなわち、――二つの知性世界が発生したのは、ただの、である、と。」

「……偶然?」

 当惑を仄見えさせる妻へ、堂々とした口調で、

「つまり。イロハさん、貴方方啓典の民においては、『偶〻』というものは受け入れ難いのでしょう。大いなる符合、大いなる契機、大いなる出来事には、必ず、大いにして神聖な意志、つまり、手が関わっていると思わねばならない訳です。だからこそ、俺への問いも発生したのでしょう。

 しかし、我々、自然を尊ぶものは、そんなもの別段必要ない訳です。何故知性が発生したのか、と問われれば、……さあ、偶〻では?、数知れぬ星々や銀河が有り、それら各〻の中で無量の物質が蠢いているのだから、それら星々の幾つかにおいて、、遺伝子のような自己複製の性質を持った存在が発生して、それが生物らしくなり、そしてその進化の過程が、『魔力』を帯び、知性を導いたのでは?、……と、

 実際、黒野君の世界においても、巨大隕石か何かで恐竜種が絶滅しなければ、猿の延長の二足歩行生物ではなく、未だに図体ばかりでかい蜥蜴の化け物が、ひしめいていたかもしれないではないですか。我々、神ではなく宇宙や自然を尊ぶものは、歴史の契機の一々に、神聖さを見出す必要が無いのですよ。全ては、神とやらの意志ではなく、重力と静電力が殆ど支配することです。」

 納得しかけたのかそれとも気折れたのか、とにかくイロハが口を噤んだ隙に、蟠桃から、

「ところで不意安。同じく無神論者であり、しかし仏の存在は認める貴様は、この点についてどう考えるのだ?」

 私ですか、とだけ述べて間を置いてから、

「そうですね、……然程其処に関心を持たない、というのが飾らないところですが、」

「浄土宗徒としては、そんな細かい話気にならないってか。」

「と言いますより、浄土門云々の前に、そもそも仏教というものが、世界の創造にはあまり興味を持たないのではないでしょうか。

 蟠桃。今貴男が私――や煝煆さん――を『無神論者』と名指したことを受けまして、その視点から切り込みますと、仏教徒が無神論者と称されるのは、我々の尊ぶ如来や菩薩が、宇宙や法則を創造していない為でしょう。そもそも語弊を恐れなければ、仏は単に偉大な師匠であって、菩薩も、精々あまりに偉大な先輩に過ぎないのですよ。つまり、我々が帰依するのは、既成の宇宙や法について教導して下さるのみの存在であり、人々や世界を支配したり、ましてや罰を下したり、などということをなさる訳ではないのです――この点、旧約聖書で描かれる〝神〟とは、いとも対蹠的ですが。

 ならば、世界の創造について、我々は二重の意味で興味を喪失するでしょう。御仏がそれに関わっていないのだということと、そして何よりも、仏の下す〝ばち〟を我々は殆ど恐れない以上、一神教徒のように、神仏の御業について真剣に考察しなくとも良いのです。恰も科学教室の徒の如く、教えて頂けることを、ただ真摯に学べば良いのだ、と。……恐れずにたとえ話をしてしまえば、その教室における講師やテキストの著者が、プライヴェートで何をしていようと、生徒としては知ったことではありません。」

 これに感心した様子の白沢が、つまり、「法前仏後」というやつですか、と述べてから、

「しかし、不意安さん。……明王、でしたか? 忿怒に顔を赧らめた仏が仏教においては存在しているらしいですが、あれは、何に対して怒っているのですか? てっきり、人々の不義理なり不摂生なりに、と思っていたのですが、」

「ああ、その点は、」と、滑らかに返答しようとした不意安であったが、矢庭に言葉を止めると、視線だけでその先を煝煆へ委ねた。

 お前が問われたのに、私が答えるのかい?、と彼女が文句を言えば、

「こればかりは、仕方ないでしょう。明王、つまり、専ら密教で帰依される存在の話なのですから、浄土門の菩薩である私よりも、東密に造詣の深い煝煆さんの方があまりに相応しい語り手でしょうから。――仮に、貴女が既に棄教しているのだとしても、」

 金眉を更に顰めた煝煆は、仕方ないという素振りで溜め息を吐いてから、

「明王は、孔雀明王などの例外を除けば、確かに全て忿怒形であり、鬼のような形相と炎纏い、そして剣などの露骨な武器を携えるのを特徴としている。しかしその怒りは、古代パレスチナの民が屡〻神から浴びたとされるような、身勝手で人間臭い瞋恚しんになどではなく、衆生を救わんとする為の、愛に満ちたものなのだよ。

 三輪身りんじん説について詳しく述べる暇は無さそうだが、とにかくそれによれば、本来、万物を包含しつつあらゆる徳を具備している、つまり、力強くとも穏やかな存在である五仏――大日・阿閦あしゅく宝生ほうしょう・阿弥陀・不空成就ふくうじょうじゅ――は、必要に応じて、衆生に反省を促させる為に、恐ろしい姿、明王へ変身して現れるのだ。弘法大師の『秘蔵記』に従えば、例えば大日如来は不動明王となり、阿弥陀仏は大威徳明王と化す。」

 蟠桃は、ほお、と呟いてから、ネス湖の怪物の首のようにと、手首を曲げた腕を伸ばして、

「仏様は普段は高いところで澄ましているが、場合によっては、明王に姿を変えて人々を𠮟り飛ばしに来る。そしてそれは、慈悲故なのだ。……簡単に言えばそんなところかな、」

「どうも嫌みに聞こえるが、まぁ大きくは外していまいよ。

 そして、……私が専ら帰依していたのが、この、不動明王だった訳だが。」

 この、煝煆の悄然とした言葉を聞いて、あ、と漏らしてしまったのは、隣に座る黒野だった。

 すぐに、やらかした!、と後悔したものの、皆の注目がぎょろりと集まってしまったので、彼は仕方なく、

「ええっと。煝煆さんって、真言マントラの形式で魔術行使の呪文を唱えますけど、つまりあれって、不動明王に縋っていたと?」

「不動尊ではなく他の明王や仏のことも有るが、まぁ、概ねはそうだな――恥ずかしながら、」

「しかし、……そうなると、不思議ですね。」

「何がだい?」

「確か貴女によると、なんとかヴェーダに記された真言マントラは、異性を惚れさせるだとか出世だとか、実に俗っぽい効能が網羅された、あまり高尚でないものだということでしたよね。そうだとすると、真言マントラという即物的な祈り、お願いが、何故よりにもよって、厳しい愛を差し向けてくる明王へ請われるのですか?」

 煝煆が、狐につままれたような顔を見せると、蟠桃は意気揚々と手を叩きつつ、

「はは! やるじゃないか、黒野君! いやはや失礼ながら、君がそんな一丁前に斬り込めるだなんて、全く期待していなかった、すっかり見逸れていたよ!」

 煝煆は、この大声の隙に気を持ち直したらしかったが、困ったように相好を崩して、

「こんな情況下だと複雑な気持ちになるが、……まぁ、君の素直な疑問をぶつけられているだけだと信じようか。

 それで、答えると、まず、明王よりも天部神の毘那夜迦びなやかの方が、俗な願いを向けられやすいし、ちゃんと真言も存在している。何せ、この象頭の神は、まず衆生をすっかり満足させることで、欲望に塗れた心を静めて菩提心を起こしやすくしよう、という、浄土思想も驚きの方法で人々を救わんとするのだからな――禁酒の前に酒を鱈腹飲ませるような方法が、上手くいくのかは疑わしいが。とにかく、商売繁盛、無病息災、恋愛成就、夫婦円満、……上げればキリが無いが、無数の強力な現世利益げんぜりやくで毘那夜迦は知られ、実際に信仰されるのだ。

 しかし結局、一番でないにせよ、どうして明王へも厚い祈願が為されるのかと問われれば、身も蓋もない言い方をしてしまえば、明王が世間でであったからだろう。毘那夜迦はそもそも姿が象頭であまり威光を感じさせず、しかも基本的に男女神で抱擁しているものだから、滅多に表へ描画図等を出されずに、庶民から分かりやすく信仰を集めるのが難しかったのだと思うよ。それに対して、如何にも頼もしい姿、威厳たっぷりの明王らは、立派な仏像や曼荼羅が数多作られたことにも助けられて人々の心を摑み、名が知られ、そうして専ら頼りにされるようになったのではなかろうかな。

 まぁ、これは日本仏教的な動きの話であって、厳密には、そもそも真言マントラの成立した印度での動きについても語らねばならないのかも知れないが、この場では一旦省略させてもらって構わないかい?」

 そう、莞然と言葉を閉じた煝煆へ、黒野はとっくり頷いたのだが、

 しかし、

「偶像崇拝、ですか。」

 その、吐き棄てるような錆声は、戻って来て以降初めて口を開いた氷織からである。

 煝煆が睨み返せば、礼拝行為を経て心が安らいだのか、氷織は元通りの完全に澹然とした無表情で、

「そのようなまやかしに縋らねばならないなど、……仏教というものも、中々大変そうですね。」

 この、嘲弄的な同情へ、煝煆は威勢よく、

「なんだい氷織、ハンバリ学派の連中ならばいざ知らず、ばりばりのスーフィーのお前が偶像を軽蔑するのかい? お前達も、神や預言者以外に、聖人を事実上崇めるじゃないか。」

 この不穏な反問を隣で聞いて、黒野が瞠って息を飲む中、氷織は、目を逸らしての少考の後、

「偶像、とは申されますが、……煝煆。貴女は、伊斯蘭美術を何か御覧になったことは有りますか?」

「……美術?」怪訝そうに八字眉を顰めて、「例えば、モスクの壁にのたくっている伊斯蘭書道のことか?」

「それも、該当しますね。美しいでしょう?」

「まぁ、文字には全く見えないが、大したものだというのには肯んずるよ。あとは、天井に中々精緻な模様も有ったかな、」

「はい、そういった幾何学紋様も素晴らしいですね。」

「確かに、正直魅されるよ。」

「他にも、象牙工芸や絨毯など、伊斯蘭文化はいとも美麗なものを作り出しています。

 さて、何故ムスリムがそれほどまでに数々の技術を洗煉させたのか、と言えば、実は、偶像崇拝が禁ぜられていたからなのですよ。」

「……うん?」

 そう、飛躍に引き込まれ掛けた煝煆を、逃さじとばかりに素早く、しかしやはり澹然と、「貴方方仏教や、或いは天主公カトリック教会と違い、教祖による偶像崇拝禁止を守り続ける伊斯蘭では、その情熱を、美事な人物描画へと昇華し難かったのです。そこで仕方なしに、書道を始めとして、聖なるものを装飾せんとするための、種々の技巧が発達した訳ですが。

 これについての傍証は、伊斯蘭世界における宗教画に良く現れていますよ。……煝煆。書道などではなく、そちらについては御覧に?」

「いや、」

「では、想像していただくしかないのですが、」茫然と息を吐いてから、「当然制約によって、それらの伊斯蘭的宗教絵画においては、神やムハンマドの相好は削除或いは省略されている訳ですが、……それにしても、これがまた、」

「素晴らしい出来だと?」

「いえ、」頭を振りつつ、「これが、酷いのですよ。」

 溜らず椅子の上で崩れかける煝煆へ、

「あくまで、同時代の東西洋美術と比べると、という枕は必要ですが、しかし、どうにも稚拙に見えてしまうのです。ぼんやりした陰影は有れど、基本的に平板で、生気が籠もっておらず、まるで、ただ紙へ落書きをして色をつけたような、

 このような、神や基督を描いた美麗な絵画、仏や明王を象った力強い像、そう言ったものとは比較するのも恥ずかしくなるような伊斯蘭絵画の野暮は、しかし寧ろ、啓典の民としてとても誇らしいものなのです。そもそも何故天主公カトリックや仏教においてそのような美術が発展したかといえば、……Allāhアッラーフ或いは釈迦による偶像崇拝への戒めを、嬉々として破って技術を磨いた、ということに他ならないのですから。」

 当然に守谷、そしてカトリックではないイロハも、寧ろ快く聞く様子で、よって仏教徒のみへの攻撃となったこの言葉へは、当然に煝煆からの反撃が期待されたのだったが、しかし彼女は、

「ま、……だろうよ。」

と、そもそも他人事である、つまり自分はもう仏門徒ではないことを漸く思い出したかのように、ただ流すのだった。

 仕方なく、不意安が、

「先刻も申し上げましたが、仏門の教えは変遷するものです。仮に釈尊の教えをその儘受け継いでいたら、例えば死後についても何も扱えないのですから、今日において幾つかの点が――一例として偶像崇拝への戒めが――反故になるのは致し方ないでしょう。」

 これを聞いた氷織は、ただ肩を僅かに竦めて、

「その言葉も、釈尊の言葉になりますかね。」

とだけ皮肉げに述べたが、不意安はいたって莞然と、

「さて、話題があまりにも逸れてしまいましたが、ところで氷織さん、貴女は、世界や人類の創造についてどう思われますか?」

 氷織は、小首を傾げて、

「どう、と言われましても、我々も啓典の民ですので、当然アダムとイヴの、

「いえ、」不意安が差し止める。「『我々』、ではないのです。私は、ムスリムではなく、氷織さんにお聞きしているのですよ。」

 氷織は、意外そうに固まったが、しかし少し背筋を伸ばすと、やはり淡々と、

「貴女が何を期待しているのかは分かりかねますが、……生憎、其処については私も至って尋常ですよ。何せ我々の教団の大祖師、ルーミーも、聴聞サマー――神聖に音楽を聴くこと――を讚えた詞において、こう述べられているのですから。

 ……『回転する天球の歌は、人が琴と声で歌う歌である。、天国でこれらの旋律を耳にしたのだ』」

 この、醜い声によって哀れに諳んじられた詞に籠もった、一神教徒にとって常識的な感覚を聞いて、つまらなそうな顔を正直に見せた不意安は、そうですか、とだけ返したのだったが、しかし氷織の方は、そこから自主的に、

「ですが、正直なところを申し上げれば、……教団というよりも私個人として、疑義も抱いてしまっておりますよ。Allāhアッラーフが種々の生物を創造し、その中で、罪の果実を齧ったアダムとイヴが偶〻知性を得たということですが、……ならば、人間以外の知的生物はどのように生まれ、どのように知性や魔力を獲得したのか、にとっては真剣な疑問なのです。」

 その銹声は痛ましく沈んでおり、体の方も、頭を抱えかねない勢いである。

 こんな突拍子も無い、暗い告白に対し、少し目を瞠った不意安は、どう言葉を返そうか悩ましげな様子であったが、結局、この優婆夷が何かを口にする前に、氷織は勝手に手を伸ばして遠くの煝煆を指し示した。

 謂われなく指呼され、眉根を寄せている煝煆へ、

「例えば煝煆、貴女もですよ。貴女のその、奇妙な赤系の髪色、金髪は、〝旅人〟の血を先祖に持つことが明白ではないですか。」

 煝煆は、快くなさそうに肩を竦めつつ、

「以前も言ったがね、遡れる範囲では、此方の世界の人間しか私の血筋には居ないよ。」

「それは単に、赤系色が遺伝上強烈に優性な形質ということでしょうが、とにかく、Allāhアッラーフが生物を創りたもうたというのならば、つまりその遺伝子を編み上げたということになる訳ですが、ならば何故、学語世界とこの世界のが、それほどまでに長い血脈を紡げるほどに遺伝上同一に創られているのでしょうか。私は生物学にあまり明るくないですが、しかし確か、例えば馬と驢馬なら、子は作れど孫は作れないのですよね?」

 蟠桃や煝煆――ついでに黒野――が頷けば、

「ならば、学語世界と此処の人間は、単に、似ている、というのではなく、本当に同一の生物ということになる訳ですが、先程イロハの言い出したような疑問に付け加えて、更に私は、何故逆に他の知的生物は、そのような同一性を得ていないのだろうかと、真剣に惟みるのです。

 例えば、……そうですね、此方の世界の人魚は、他の知的生物との間にを作れないのに加え、どうやら学語世界にも相当する生物が居ないのに、何故、人間だけが、そんな、佐藤煝煆という遙かな子孫を許した程の、融通性を獲得しているのでしょうか。……私にはいとも奇異に思われ、そしてイロハも語ったように、神の言葉にその点が述べられていないことを、実に残念に感ずるのです。」

 この、あまり一般的でなく、共感を呼ばない、しかしどうやら赤心から述べられたらしい苦悩は、座の者にとっては、無用な手土産の如く始末に困るものだったが、そもそも彼女をつついた不意安が責任を取って、卒ない適当な挨拶を返して間を凌いだのだった。

 以上のような争論を受けて、黒野は心中で氷織のことを、宗教上の理由とは言え、自分は完全に頰被って何もかも隠しているのに、人の髪色を論うとは少々御挨拶だな、と暢気に評したのだったが、その後は話題のレヴェルが一挙に上がり、彼はまるで追いつけなくなったのである。

 そうして、折角彼の母語に合わされている筈なのに、まるで外国語の遣り取りの中に放り込まれたかのような困惑と疎外感を感じ続けた黒野だったが、夕食の後も暫く続いた議論の陪聴に彼が疲れ果てた頃、漸く、蟠桃が徐ら立ち上がって、

「よし、今日はこの程度にするか。どうせ、まだ向こうへは暫く着かないからな。」

 この瞬間に、退屈な式辞がとうとう終わったような安堵を得て、自分の足の痺れに気付いた黒野だったが、隣の煝煆は寧ろ困ったような様子で、

「蟠桃。そうやって解散の雰囲気を醸すのはいいが、しかし、具体的にどうするんだい? 個室を宛てがうつもりだった、とさっき言っていたが、しかし過去形ということは、そうはならんのだろう?」

「おうおう、そうなんだよ煝煆。いやぁ悪いんだが、実は、全員、この部屋で雑魚寝でもしてもらおうかなと思っていてな。そうでないと、互いに監視出来ないだろ?」

 学者筋らしく逞しい経験を積んでいるのか、煝煆は呆れて天を仰ぐのみであったが、

「いやいや蟠桃、」遠くからの、白沢の慌て声。「我々や貴男はともかく、イロハ婦人を床で寝かせるつもりですか!?」

 その声が段々と大きくなって、つまり彼が駈け寄って来たので、距離の離された氷織が右手の痛みに顔を顰めつつ、仕方なく夫に追い縋って来る。

 彼女らしくない、慌ただしくかつ音高く椅子から立ち上がる様子を、黒野が面白く見ていると、蟠桃は、

「ま、命には代えられないだろうよ。夜間が寝ている隙に、『悪魔』に何かされては堪らないだろ?

 それと白沢、あんまり、イロハさんを見縊るなよ。何せイロハさんは、目的の為に必要ならばどぶ渫いでも何でもするお方、……ですよね? どうやら、」

 あまり褒めているように聞こえない夫の言葉を受けて、イロハが苦笑する。

「政治家というものは、蟠桃、学者や神官と違って綺麗なものばかり触っていられないのですよ。

 とにかく、私は構いませんよ。新顔の不意安さんだけは気掛かりですが、まぁ、仏僧ならば清貧な扱いにもそこまで苦しまないのでは?」

 まだ僧ではないですよ、ただの在家信者です、と漏らした不意安も、とにかく肯んじたばかりか、「煝煆さんの方こそ、きっと、不坐臥高広大床戒ふざがこうこうだいしょうかいとして親しいでしょうしね!」と、両者以外に意味の通じない軽口を叩いたので、この優雅至極であった筈の旅路の初夜は、しかし修学旅行さながらの光景と成ったのだった。

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