第51話 相月

分刻みのスケジュールで動くような生活を送ったことがないから、時間感覚が優れているほうではないけれど、明らかにこれはタイムオーバーだとわかる。


だってどう考えてもこれは10分ではない。


畳の上を這うように逃げた瑠璃を追いかけて来た西園寺の腕が、肩を捕まえて身体を反転させてきた。


さっきまで畳の縁を見ていた視界が一気に変わって、今度は目透かし天井越しに西園寺と顔を合わせることになる。


目を見てはいけなかったと激しく後悔した瞬間、唇が降って来た。


一瞬だけ瞳の奥に見えた情欲の炎を忘れようと必死に目を閉じる。


「んっ・・・・・・」


これ以上させてはいけないと引き結んだ唇の隙間を緩く舐めて、西園寺が低く囁く。


「瑠璃ぃ、口開けて?」


言いながら喉元を擽られて堪え切れず唇を開いたら、さっきまで絡ませていた舌が再び潜り込んできた。


「ぁ・・・っんぅ・・・っ」


緩く歯列を舐められて、上顎を擽られる。


反射的に背中を浮かせたら、肩を撫でていた手のひらが回されて背筋を指の腹でなぞられた。


器用にカットソーの裾をめくり上げた手のひらが、滑らかな肌を確かめに来る。


深くなったキスに息を吐けば、あやすように舌先を舐められて、従順になったそこを丁寧になぞた後で舌の根を扱かれた。


びくんと跳ねた腰を宥める手のひらがそろりと太ももを撫でてくる。


瑠璃の部屋から運び出す荷物を確かめに来た西園寺は、一通り確認を終えた後で腕時計を確かめて、縁側に続く障子戸を静かに閉めた。


太陽光が遮られて一気に薄暗くなった室内に、びくっと肩を震わせた瑠璃に、彼は短く言った。


『10分だけ、時間ちょうだい』


10分で出来ることなんてたかが知れているし、忙しい仕事の合間を縫ってここまで来てくれた彼を無下にして追い返すのも冷たすぎる。


抱きしめられたくないのかと言われれば、間違いなく答えは否。


だから、誘われるように頷いてしまったのだ。


瑠璃の返事に相好を崩した西園寺は、そっと腕を伸ばして大切な婚約者を囲い込んだ。


彼の愛用する香水の香りを吸い込んで、いつからこの匂いに落ち着きを覚えるようになったんだろうとぼんやり考えていたら、優しく包み込むだけだった手のひらが不埒な動きをし始めて、あれ?と思った時には畳の上に押し倒されていた。


器用に動く舌先は、瑠璃が悦がるところを的確に刺激してくる。


甘く吸って絡ませて、吐息を吸い込んで唾液を交換して。


そうやって瑠璃の思考をグズグズに溶かしてから、反応を確かめるように触れて来るのだ。


耳たぶを甘噛みされて、逃げるように顔を背ければ首筋に吸い付かれる。


鼻先を擦りつけて息を吸った彼が、何かに気づいて顔を上げた。


「いつもと匂いちゃう」


そんなことまで気づいてしまうのか。


気分でつけるのは大抵コロンで香りも軽くて、持続性も弱いものが多かった。


西園寺が瑠璃を迎えに来る機会が増えて来て、顔を合わせた時に匂いが無くなってしまっているのは寂しいなと思ったから、初めてパルファムを買ってみたのだ。


「・・・・・・・・・白井さんと、隣町まで出かけた時に・・・・・・ちょっと・・・香水を・・・」


大人っぽい香りは、自分には不似合いかなと思ったけれど、白井は大絶賛してくれた。


が、西園寺の反応が一番気になる。


視線を揺らす瑠璃の目の前で、西園寺がうっとりと目を細めた。


「・・・・・・なんか癒されるねんけどがっつきたくもなる香り」


「~っは!?」


「いやもう瑠璃がええ匂いっていうだけで堪らんねんけど・・・・・・これ、何の香り?」


「鈴蘭と・・・ゆり・・・」


「ふーん・・・・・・残り香じゃない匂い嗅ぐんは初めてかも」


クンクン匂いを確かめた西園寺が嬉しそうに囁く。


ずっと耳元で声がするので吐息が触れてくすぐったくてたまらない。


時折触れる唇の感触に、心臓は大騒ぎをずっと続けている。


「・・・べ、別に緒巳の為じゃ・・・」


「・・・・・・ありがとう」


西園寺の為じゃないと伝えたのに、どうしてお礼を言われるのか。


普通はもっと拗ねるとか怒るとかするもんじゃないだろうか。


「え、なんで?」


目を白黒させる瑠璃の赤い頬にキスを落として、西園寺が額の産毛を優しく撫でる。


「残り香じゃない瑠璃も俺にくれるんやろ?」


「~~~っ」


思い切り図星を差されて黙りこんだ瑠璃のこめかみに唇を触れさせながら、西園寺が吐息で笑った。


むずがゆい感触に身体を捩れば、すぐに腕の中に引き戻される。


「最近夜にしか会えてへんもんな」


新事業が本格的に始まって、かなり忙しくなった西園寺は、アートギャラリーで仕事をする回数がめっきり減っていて、最近は数日に一度仕事帰りの瑠璃を迎えに来るだけになっていた。


これなら夜になってもいい香りが持続するだろうとドキドキしていたことまで見透かされてしまった気がして、居た堪れない。


普通の社会人カップルは、夜に会えれば十分だと思うのだが、これまでしょっちゅう顔を合わせていただけに、西園寺の不在は瑠璃に妙な空虚感を与えて来た。


それも、結婚するまでの期間限定なのだけれど。


いまからこんな感じで大丈夫なのだろうか。


自分は決して夫の仕事を妨げるようなお荷物妻になるつもりはないのに。


「瑠璃も寂しい?」


「・・・・・・・・・緒巳は?」


「俺は寂しいし物足りへんよ・・・・・・アートギャラリーで仕事出来たら、ちょくちょく瑠璃に構えるのに」


「それ、仕事にならなくない?」


「その後倍働いとるから問題ないわ」


笑った西園寺が、瞼の上にキスを落としてくる。


「俺、今日も夜まで仕事やねん」


「うん・・・・・・・・・だから10分だけって言ったんでしょ・・・?もうとっくに10分過ぎてると思うけど・・・」


壁掛け時計の方を確かめようとした瑠璃の顎を捕まえて、西園寺が強引に引き寄せて来た。


「あかん。俺の中ではまだ5分くらいしか経ってへん」


「うそ!絶対10分過ぎてる」


「過ぎてへんよ・・・・・・だって全然満足できへん」


「・・・ま、満足ってどこまで・・・・・・」


相変わらず組み敷かれたままで、この後の流れは完全に西園寺次第の状態。


まだ陽も沈んでないし、彼はぎっしりスケジュールが詰まっている。


それでもこの状況で押されてたら、流されてしまう自信があった。


冷や汗を掻きながら、恐る恐る尋ねれば、西園寺がへらりと笑った。


「瑠璃が困らへんとこまで」

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