あざなうへびのこどもたち

出有久

第1話 檜岳

 出来るだけ遠くへ。


 真っ赤な血が滴る腕を押さえながら、寝台の上で彼はそう囁いた。


 昨夜、身一つで王の館を飛び出してから、檜岳は月明かりもほとんど届かない暗闇の森を進み続けた。差し向けられたはずの追っ手から逃れるためには、夜の間に出来るだけ距離を稼ぐ必要があったからだ。


 幸運なことに、季節は晩夏で天気も良かった。深夜になっても空気はそこまで冷え込まず、必要以上に体力を削られることなく着実に歩を進めた。

 そして、今ようやく木々の間に薄い日が差し込み、小鳥のさえずりとともに森が目覚め始めていた。

 夜を徹して歩いても、樹木の種類や地形の様子は、見知った故郷の森とあまり変わらない。

 この国を離れたことがない檜岳には、ここが館からどれほど離れているのか、まだ四鳥国の領地内なのか、推し量りようもなかった。

 分からないので、とにかく進み続けるしかなかった。


 今のところ追手の気配は微塵もない。しかし油断なく周囲に気を配りながら進んでいると、右手の大きな岩場の一部が青く発光しているのを、透き通る茶色の瞳が捉えた。


「水だ」


 思わず小さく声を上げた。近づくと、予想通り、それは小さな池だった。大きく縦に開いた岩の割れ目から、こんこんと清水が湧き出て岩の窪みに溜まっていた。

 顔中濡れるのも構わず、青く光る冷たい水を掬って思いきり喉を潤す。

 そうして本能のまま甘露を貪っていても、檜岳は頭上に小さな物体が動く微かな気配を逃さなかった。素早く顔を上げれば、向かい合うの岩の上に小鳥がちょこんと止まっている。

 物珍しそうに檜岳を見つめる黄緑の小鳥の、体の中央は仄かに赤く光っていた。


「おはよう」


 控えめに挨拶すると、小鳥は即座に飛び立ってしまった。目で追えば、薄暗い木々の隙間に赤い光の粒が消えていく。小さな命の灯す、小さな光だ。


 檜岳にとって、小鳥の放つその赤い光は、薄い布越しに透かして見る炎のように見える。


 つまり、黒と焦げ茶の羽毛模様の布の下に、そのささやかな体温が温かい色として宿っているように見えるのだ。

 それは別に鳥に限ったことではなく、檜岳にはこの世界にある全てが二重の色を持っているように映っている。


 物が元々持つ色に加えて、冷たいものは青く、熱いものは赤く、その中間は黄色く、段階的に変化して光って見える。

 また、周囲との温度差が大きいほど光り方は強くなる。たとえ離れた場所からでも、目に映るもの全ての熱量を感知することが出来た。


 見ようと意識してそう見えるのではなく、生まれた時から、目を開くと見える世界がそういうものだった。

 むしろ他の人間にとってそれが普通のことではないと気づいたのは、物心ついてかなり経ってからだった。

 逆に、他者の見ている熱のない世界は一度も経験したことがないので、ただ想像することしか出来ない。それも、熱が見えないなんて少し不便かもしれないと思う程度だ。


 しかし実際は、暗い森の中で、この性質は本人が自覚するよりもはるかに有利に働いていた。


 明かりがなくとも温度差を感知して樹木や地形の輪郭をぼんやりと把握できるうえ、ほとんどの生き物は赤く光って見えるから、危険な獣に不用意に近づくことも避けられ、害のない小さな動物の立てる音に無駄に怯えずに済んだ。


 これがもし、足元を照らすために館から松明を盗んで逃げていたとしたら、暗闇の中を移動する光が居場所を教え、追っ手にすぐ追いつかれていただろう。


 夜通し歩き続けたわりに、檜岳の体はほとんど疲労を感じていなかった。むしろ夜が明けるにつれ、追われている身の恐怖よりも、心身の束縛から解放された高揚感の方が強くなっていた。


 湧き水でたっぷりと喉を潤し、一息つくと、檜岳は立ち上がり、明るくなってきた森の中をゆっくりと駆け始めた。


 立ち並ぶ杉や檜の隙間を、縫うように走り抜けると、心もどんどん軽くなってくる。尖った枝や鋭い木の葉が腕や脚にぴしぴしと当たる、その刺激すら爽快で、檜岳は徐々に速度を上げていった。


 今身につけているものは、獣の皮を鞣して作った靴と継ぎはぎだらけの粗末な衣だけだった。元々何も持てない身の上だったが、たった一つだけ与えられた短剣も、昨夜彼のところに置いてきてしまったのだ。


 癖のある長い茶色の髪を靡かせて、木々をすり抜けて走る檜岳の姿は、十四歳の少女というより、まるで一匹の獣のようだった。


 檜岳は小鹿が跳ねるように大きく足を広げ、行く手を遮る木の根を軽やかに飛び越えた。

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