ここは俺に任せて先へ行け!

田賀次郎

<鈴木誠司/43歳/フリーター>

 今の、地震だったよな?

 地下鉄に乗っていてそうとわかるなんて初めてだ。相当な震度に違いない。スマホは……ダメか。アナウンスも非常用バッテリーがどうのとまくし立てたきりだ。

 うお、停まった。

『只今線路内に人が立ち入ったため停車しております。お客様にはご迷惑を―――』

 おいおい。地下鉄でもそんなことが起こるのか。

『―――うわ、やめてください! 何をするんです!』

『逃げろ! みんな、死にたくないなら走れ! 都心はもうダメだ!』

 何だ。誰だ。どうしたってんだ。

「逃げろ逃げろ! 皆死んじまうぞ!」

 さっきの声が窓の外から。すごいな、地下鉄の線路を走っていくじゃないか。

 しかも1人じゃない。老いも若きも必死な顔していてドラマチックだ。

 おうおう、乗り合わせた男も女もソワソワしちゃって。いかにも群衆って感じだ。体格のいい兄ちゃんが扉を開けるのも頼もしくていい。配役がわかっている。学生の時にエキストラをやったことがあるから詳しいんだ。

 ……あの頃は楽しかったよなあ。バカでもピカピカの大学生でさ。

 みじめだね、どうにも。

 道なき道を走るのなんてもうたくさんだし、そもそも立ち上がるのすら億劫だ……停電しやがった。真っ暗はさすがに怖いが目をつむるのが得意でね。

 どうせ、どうにかなる。どうってことないさ。どうでもいいんだから。

 光。懐中電灯のそれ。先頭車両の方からフラフラと近づいてくる。

「申し訳ありませんが、お客様、逃げてください」

 運転士も大変だな。こんな中でも車内点検なり乗客チェックなりするなんて。

 まあ邪魔しちゃ悪いから従うか……ちょっと待て。どうした、お前。

 顔が、半分ないじゃないか。

「ああ、これ、何だか透けちゃいまして……あの水に濡れたのが良くなかったのかな……そう、水ですよ水。どうも向かう先で大規模な浸水があったようで。最寄り駅まで避難してください。先導しますので。さあ急いで」

 何なんだ。悪い夢でも見ているのか。

 本当は座席でうたた寝でもしていて……嫌なものを見た。顔の断面って動くのか。そりゃ生きていれば動くか。生きているのか、半分もなくなってしまって。

 そんなやつの後について暗いトンネルを走らされる……どういうホラーだ。

 もしかして、俺、死んでいるのか? 地獄へでも連れていかれるんじゃないか?

 ほら、この世の物とも思えない風景が見えてきた。

 のっぺりとした暗闇の底に淡く光る水面……数十数百という小さな光の粒が浮いたり沈んだり、流れたりして……まるで夜空だ。地下鉄線路が夜空へ沈んでいる。

「排水ポンプが動いていないのかな……それとも……この先は下りだし……」

 全部水なのか。流れ込んできたのか、それとも漏れ出ているのか。

 進めなくないか? 触れちゃまずいんじゃないか? 

 酸性だかアルカリ性だかは知らないが、この水はとにかくも人体を溶かすようなやつらしい。線路や壁は何ともなさそうだが……ん、あれは?

 ベビーカーだ。水に浸かりきった車輪の周りに光の粒が漂っている。

 何か動いた。足だ、足が見えた! いる、赤ん坊が取り残されている!

「……申し訳ありませんが、お客様にお願いしたいことがございます。あちらのお客様をお連れしますので、一緒に避難してもらえませんか?」

 助けに行くっていうのか。お前、顔が半分しかないのに。

 懐中電灯を渡してくる手が、こんなにも震えているのに、お前さんは。

「鉄道員ですから。この責任からだけは逃げたくないんですよ。こんな僕でも、カッコイイ帽子をかぶって、ビシッと制服を着ているからには……」

 おいおい。一歩、また一歩と進むたびに背丈が縮んでいくじゃないか。溶けちまうんだよ。やっぱり駄目なんだよ、その水は。

「さあ、お客様。避難しましょうね」

 赤ん坊を両手で抱きかかえて……脚がすっかり消えちまったら、片手抱きになって、もう片方の腕を溶かしてでも進んで……あと少し、もう少し……受け取った! 赤ん坊を受け取ったぞ! 運転士!

「少し戻ったところの壁際に非常口へ上がる階段があります。鍵はかかっていないはずですから、どうかそこから避難して……く……」

 ひとりの男が、波ひとつたてないで、帽子も制服も残さず全部溶けちまって……ポツリと灯った光の粒がひとつ。

 まさか、そういうことなのか?

 星みたいなあれもこれも、そういうことなのか?

「あう」

 俺なら、いいさ。

 どうしようもないおっさんなんだ。義務とか責任とか色んなものから逃げ続けてきたその挙句に消えちまうのもいいさ。自業自得だろうさ。

 でも、赤ん坊は違うよな。

 自分の足で立つこともできないんだ。まだ何の成功も失敗もしていない。真っ新な未来しかない。何もわからないままに消えちまっていいわけがない。

 運転士だってそうさ。まだまだ若くて、ああも立派だったのに。

 くそ! 代わりに行けばよかったものを、ここでも俺ってやつは……!

「あうう?」

 避難するぞ。あれほどの男に任されたんだ。逃げ延びて、この赤ん坊を安全なところへ連れていく。絶対に。

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