第15話 帰らぬ秘書と静かな部屋~唯人~


 先に帰った筈の谷岡がまだ帰っていない。


 親父との話しが終わって帰って来たが、玄関で谷岡のパンプスがない事に気が付いた俺は首を傾げる。


 アイツは早く帰れる時は早く帰って、部屋で何かしている事が多い。ごくたまに、奇妙な声が聞こえてくる場合もあるけれど、それは聞こえないフリをしてやる。


 まあ、谷岡だってどこか寄り道くらいはするかもしれない。腹が減ったら帰って来るだろう。なんたって、アイツは俺の手料理は気に入っているみたいだしな。


 メシの用意をしてる間に帰って来るかもしれない。


 あまり深く考えずに俺はジャケット脱ぎ、ネクタイを外す。袖を捲り上げながら冷蔵庫を覗きつつ、何を作るか考える。


 谷岡と結婚してから、冷蔵庫の中身はかなり充実した。一人暮らしをしていた頃から、それなりに自炊はしていたから独身男性にしては冷蔵庫にはそこそこ食材はあったが、アイツはそれ以上に食う。


 何かと言うと拒否される事が多いが、食事に関しては拒否も遠慮もしない。それどころか、かなり食わせ甲斐があるので、懐かない野良猫か小動物に餌付けをしている気分になる。


 作っている間に帰って来ると思っていたけれど、用意ができても谷岡は帰って来ない。一応、メールを送ってはみるが返信はない。


 出来上がったメシを俺が自分の分だけ食って、風呂に入って、ソファーに座ってテレビを観始めても谷岡は帰って来ない。


 さすがにおかしいんじゃないか…


 時間はもう遅い。普段の谷岡は無駄に夜遊びするような事はない。ここに至って、俺はようやく何かトラブルに巻き込まれた可能性を考えた。


 アイツのスマホに電話をかけるが、返ってくるのは「おかけになった電話は、電波の届かない場所にいるか、電源が入っていない為お繋ぎできません」と言う音声ガイドが流れるだけだ。


 「クソっ!」


 一度、電話を切るとリダイヤルで再度谷岡のスマホに電話をかける。けれど、聞こえてくるのは音声ガイドの無機質な声だけで、本人は出ない。苛々とかけては切って。切ってはかけるを何度も繰り返す。


 何で出ないんだよっ!


 何度目かわからないリダイヤルを切った俺は自分を落ち着かせる為に深呼吸をした後、谷岡が電話に出ない理由について考えをまとめる。


 まず、一つ目に考えられるのが自分の意思で出ない場合。何かに夢中になっていて邪魔されたくないんじゃないかと考えられる。この場合は単なる夜遊びであるから、問題はない。せめて連絡くらいしろ!と説教して終わりである。


 二つ目、出たくても出られない場合。この場合、考えられるのは誘拐だ。しかし、誘拐なら身代金の要求があってもおかしくない。加えて、俺は先程から鬼のように電話をかけ続けている。要求があるなら電話に出て、俺に告げた方が早い。


 三つ目、営利目的の誘拐ではなく、谷岡本人が目的である場合。アイツは外見はいい方だから、中身が残念だなんて事を知らなければ変質的なストーカーがいないとも限らない。


 警察に通報すべきか。だが、誘拐や拉致の証拠はない。日本は治安のいい国だが、まったく犯罪がないとは言い切れないのだから。


 谷岡本人からの連絡を待つか、それとも警察に通報するか悩んでいると、手にしていたスマホから着信音が鳴り響いた。


 すぐさま画面を確認すると、発信者は『親父』となっていた。


 何だよ。まだ何か用があるのか?


 放置してもよかったが、何度もかけてこられたら面倒だ。


 俺は不本意ながら、電話に出る。


 「はい」


 『ああ、唯人。言い忘れた事があってね』


 「用なら手短に。今、ちょっと…」


 『すぐ済むよ』


 親父の声が何やらイタズラが成功した子供のように楽しそうに弾んでいる感じがした。


 『美桜ちゃんはとーこさんと椿と葵と女子会をするから、今夜は帰らないよ』


 「はあぁぁぁ~?」


 親父が告げた言葉に今の今まで心配してた自分が馬鹿みたいじゃねぇかっ!電話、出ろやっ!


 『美桜ちゃんを怒るのはお門違いだから。美桜ちゃんは椿に連れて行かれるまで、何も知らなかったからね』


 俺の胸の内を読んだかのような親父の台詞。


 「…椿と葵が主犯か」


 母さんがこんな事を計画するとは思えない。やるとしたら椿か葵。又は椿と葵。


 「まったく、あの姉妹はロクな事しやがらねぇ」


 『君にも責任の一端はあるよ。早く美桜ちゃんを会わせておけば、少なくともこんな事してないよ』


 「で、親父も共犯なんだな。いや、旭もか?」


 疑問符付きで聞き返すが、俺は確信している。でなければ、タイミングよくアイツが一人で帰宅する所に出くわすなんてできない。親父は『う~ん?』と曖昧に誤魔化す。目の前にいれば、きっと親父の目は泳いでいる筈だ。


 「場所は?」


 簡単に口を割るとは思わないが、一応聞いてみる。


 『それは僕も聞かされてないんだよね~』


 用意周到な姉妹だなっ!ここまでするとは…その悪知恵をもっと別な方に生かせないのか?


 『大丈夫、大丈夫。日曜日になればさすがに帰してくれるよ』


 『翌日は仕事だからね』と親父は呑気に請け負うが、俺は別の事が心配だった。


 アイツ、母さんや椿や葵に偽装結婚だってバラさないよな?


 そのまま、今夜は母さんがいないから寂しいみたいな話しに突入し始めた親父の電話を無言で切る。


 母さんの事を語らせたら、ちょっとで済む訳がない。延々と惚気を聞き続けるハメになるのはすでに経験済みだ。


 今の俺に親父の惚気に付き合ってやる精神力は欠片も持ち合わせてはいない。


 谷岡はとりあえず俺が想定した最悪なケースではないみたいなので、一安心と言った所だが別の意味で落ち着かない気分だ。


 ソファーに座ったまま、天井を見上げる。


 「…静かだな」


 この部屋はこんなに静かだったか?一人暮らしの頃は寝るか着替え程度にしか帰って来なかったから気が付かなかった。


 谷岡と暮らすようになってから、人の気配がある事が当たり前で、アイツとくだらない事で言い合うのが普通になっていた。


 だから落ち着かない気分になるのは、静か過ぎるのもあるのかもしれない。


 「…早く、帰って来いよ。馬鹿」

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