第44話 決別



「フィーリア」


 今日初めて、彼に名前を呼ばれた。


「お前は今、幸せなのか」


 感情を削ぎ落したかのような平坦な声、感情の読みにくい表情、書類に落ちたままの視線。しかし紙に添えられた左手に、僅かに力が籠ったのを見た。

 ただの質問の筈なのに何故か引き留められたような気がしたのは、きっと気のせいだろう。

 


 もし彼にそういう気持ちがあったとしても、それはおそらく未だ拭えぬ心配心や同情だろう。

 そう思ったから、否、それ以上に彼の問いに嘘など吐きたくなかったから。私はふわりと微笑んだ。


「はい」


 愛おしむように告げた二文字は、心からの本心だ。

 彼は一瞬眉をㇵの字にし、しかしやがて小さな声で「そうか」と言う言葉が返った。


 サラリと彼の最後の一文字が書類に記入され、書き終わった書類をスッとテーブル越しに渡される。


「ありがとうございました、ザイスドート様」


 今はもう色褪せてしまった過去は、悲しみではなく懐かしい思い出だ。

 お礼を言って受け取って、私は部屋を暇にした。

 

 扉が閉まる直前、背中越しにレイチェルさんが「これで私はやっと名実共に、貴方の正妻ですね」と声を弾ませていた。





 来た時と同じメイドに案内されながら、客人として玄関に向かう。すると廊下で、歩いてきた人影とかち合った。


 ウェーブかかった金髪に、綺麗な碧眼の少年――マイゼルだ。


「貴様、うちの屋敷に何をしに来た! あんな恥をかかせておいて今更『やっぱり雇ってください』と言っても、もう二度と叶わないからなっ!」


 彼は私を見つけると、一瞬驚きすぐに怒りの表情を迸らせる。

 反射的に出たらしいそれは、先日の一件を示唆しているのだろう。

 

 もしこれを聞いていて話をつつき、ディーダとノインの不敬が明るみに出てしまったら、きっとよくない事が起きただろう。

 この場にザイスドート様とレイチェルさんが居なくてよかった。

 私は小さく息を吐き、彼にまっすぐ目を向け口を開く。


「私の用事はもう終わりました。今、ザイスドート様に婚姻契約破棄手続き用の書類に記入をしていただいたところです。すぐに出しに行ってきます」

「はっ、これでやっと貴様と俺の関係も正式に切れるという事だな! 清々するわ!」


 下から私を見上げる瞳が、私を明らかに下に見ていた。

 しかし彼にこんな言葉を言わせてしまっているのは、彼をきちんと叱ってあげられなかった私の責任でもあるだろう。

 少しでも彼のためになることをしたくて、母親としてできる事をと思って彼の身の回りを密かに世話していた。でもそれは、ただの自己満足だったのだと、今なら分かる。


 彼のためを思えばこそ、最初にあの言葉を言われた時にきちんと叱ってあげるべきだった。あの場で黙ってしまったのは、誰でもない私の弱さだ。

 そんな情けない私が今更母親面だなんて、もう遅いかもしれない。それでも。


「マイゼル、お願い。たった一度だけ、母親として貴方にあげられる最後の言葉だから聞いて」


 たとえぶっきらぼうであってもきちんと相手を想って言葉を使えている同年代の二人ディーダとノインを見れば、彼の未熟さがよく分かる。

 幼い彼を犠牲にしてしまった自分を、ひどく恥じる。

 だけどもう十分、この子も分別の付く年頃だ。だからもういい加減、彼も言葉の使い方というものを理解しなければならない。


 私はもう、この家の人間ではなくなる。その事に未練はないけれど、申し訳なく思う事が、一つだけ。彼を残していく事だ。


 でもきっと、彼はこの家の一員である事を望むだろう。実際にその方が不自由しない。彼の選択は間違っていない。


 彼ともし関係が修復できるのなら根気よく付き合っていきたいとも本心では思っているけれど、ここを去る身で彼に会うために私自ら再びここに足を運ぶことは許されない。

 彼だって、私に会いには来ないだろう。 


 だからせめて、まだ彼の母親であるうちに。今の私が息子に何かできる最後の機会を行使する。


「貴方の言葉一つ、行動一つで喜んだり傷ついたりする人がいる事をちゃんと知っていてください。言われた相手がどう思うか。誰かの受け売りを信じるのではなく、自分の頭できちんと考えてください。そうする事が、きっと貴方自身を守る事にも繋がりますから」


 誰だって、きっと誰かに必要とされたい。

 それを軽んじる気持ちは、言葉一つ、行動一つで良くも悪くも相手に伝わる。

 軽はずみな一つの言葉や行動が、誰かを傷つけるかもしれない。ほんの少しの尊重や配慮が相手を救うかもしれない。

 たった一つが起こす作用を、決して侮ってはいけない。


 もしかしたら、この先彼も大切な誰かに出会う事があるかもしれない。その時に、考えも悪気もなく、安易に相手を傷つけたりしないように。

 この言葉が彼の心に届くかどうかは分からないけれど、たとえばいつか壁にぶち当たった時に、頭のどこかでこの言葉を覚えていてくれたら。そんな気持ちで彼に告げた。


 僅かに困惑に揺れる、下手をすればどこかもの寂しげで不安そうにさえ見える青い瞳が、真面目な顔の私を映していた。

 少なからず、葛藤が見てとれる気がする。

 少し前までの彼ならば決してしなかった目だ。もしかしたら先日の一件で二人に言われたいずれかが、彼を今変えようとしているのかもしれない。


 その成長を見れない事が少し寂しいだなんて、本当に自分勝手な感情だ。それが彼に伝わってさらに困惑させてしまわないように、私は彼から目を逸らす。


 一歩前に踏み出した。

 彼の隣をすり抜けて、屋敷を後にしようとする。が、一つだけ言い忘れがあった事を思い出した。


「そうでした。貴方の好きなあのクッキー、レシピをメモしておきました。もし必要であれば、コックに渡して同じ味のものが作れるでしょう」


 そう言いながら、書いてきたレシピをメイドへと渡した。

 急に迷子になった子どものように戸惑いの表情を浮かべた彼をもう一度だけ見て微笑した後、今度こそ本当に横をすり抜ける。


「お元気で」


 添えるように告げた一言が、彼の耳に届いたかは分からない。

 しかしもう、振り返ったりはしなかった。





 屋敷を出て、街への道を一人歩く。


 以前一人で歩いた時は、服が吸った水の重さに体を引きずるように歩いた。しかし今、軽やかな風が頬を撫でて私を追い抜いていく。

 行き場を無くしたあの日の私はもう居ない。

 今はもう信じられる居場所がある。そこへ向けて一歩ずつ進む。


 見通しのいい一本道の向こうに、二つの小さな人影があった。

 もうぶつかってこない代わりに暇を持て余したノインと、仏頂面を向けてくるディーダ。


「遅ぇよ!」


 誰も待っていてとは言っていない……とは、口にしなかった。

 

 緊張していた心がやっと、ここでほどけてくれたような気がした。

 彼らの心遣いに思わず口元がほころぶのを感じながら、私は「お待たせしました」と告げた。

 

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