第42話 婚姻契約の破棄
「こんにちは、レイチェルさん。着飾っておられるようですが、本日はどこかへお出かけに?」
以前の私は、彼女を恐れていた。
実家ももうない私にとって、ここが唯一の居場所。それを彼女の言葉や態度が脅かすと分かってからは、特に。
本当はきっと、堂々としていればよかったのだ。だけど、誰かと争いたくなかった私には出来なかった。
ザイズドート様の安息の地を、妙な争いごとで騒がせたくなかった。そして私自身、誰かに嫌われたくもなかった。
しかし何よりも「レイチェルと上手くやってくれ」というザイスドート様からのお願いを叶えたかった。だから我慢し、彼女の圧政に耐え忍んだ。
でも、もう大丈夫。
私には帰る場所があるし、彼らが「時には立ち向かう強さも必要なのだ」と教えてくれた。私は私の意志に従って、話して、動いていいのだと、譲れない事には言い返したり怒ったりしてもいいのだという事を知っている。
私が私を大切にしないと、私を認めて、心配し、怒ってくれた彼らに対して失礼だ。
彼らの怪我に怒った私のために怪我をしないで帰ってくるようになった彼らのように、私もまた変わる努力をせねばならない。
「私がどうしていようとも、貴方に関係ないでしょう」
無抵抗でいるのをやめた私に、レイチェルさんは片眉を吊り上げた。
私は密かに両手の拳を握り込み、可能な限りの笑みを取り繕う。
「ならば貴方にも、私の事など関係ないのではありませんか?」
「あるわよ。だってここは私の屋敷だもの」
「ここの当主はザイスドート様です。そして私はまだこの家の第一夫人ですから」
こういった舌論はやはり慣れない。
額の汗が、人知れずツーッと下に伝うのが気持ち悪い。それでも自分の中のなけなしの『貴族』の部分を絞り出して、言葉を返す。
頭なんてフル回転だ。口を開く事に躊躇しない。もし言葉を間違えたり言葉を発するのを躊躇したら、その瞬間に取り繕いのすべてが崩れると分かっているから。
そうなれば最後、たちまち彼女の空気に呑まれ、以前の何も言えない自分に立ち戻ってしまうだろう。私は私の臆病さを、誰よりもよく知っている。
「貴女なんて、どうせ籍を抜かれていないだけのお飾りのくせに――」
「レイチェル」
苛立ったレイチェルの高い声を、低く通る声が堰き止めた。
彼女の後ろに立っている、背丈が高く肩幅があるシルエットに気がつく。
「彼女は私に用がある」
「ならば私も同席しますわ。何の用かは知りませんが、私は貴方の妻ですもの。同席の権利はある筈です」
「……いいだろう」
ゆっくりと見上げれば、私を見下ろす鳶色の瞳と目が合った。
大好きだったはずの人の瞳に、拒絶されてあれほどいたく感じた視線に、何故だろう。今はもう何も思わない。
「自ら帰ってくるとは思わなかった」
自らの内心をどこか他人事のように不思議に思っている間にも、彼が言いながら私の向かいのソファーに座った。すぐ隣にレイチェルが座り、彼に身をよせこちらを見てくる。
楽しげに上がった口角は、おそらく私に自分との現状の差を見せつけたい気持ちの現れなのだろう。
彼の隣に座る彼女、彼の向かいに座る私。思えばこのような事が前に何度もあった気がする。その度に私は隣に座れない自らを恥ずかしく思い、不甲斐なく思い、その感情を隠すように見なかったふりで自らがやるべきだと思っていた事に集中するふりをした。
本当に不思議だ。
今思えば、あれは一種の嫉妬だったのだろう。しかしもう、まったく彼女を羨ましいとも自分を恥ずかしいとも思わない。
こんなものはただの席順だ。そう思う自分が少し寂しくて、しかし心は思いの外穏やかだった。
だから彼に、緊張せずに口を開ける。
「本日は、お願いがあって伺いました」
「願い?」
元々変化の乏しい彼の表情が、ほんの少しだけ意外そうな色を見せた。
思えは私はこれまで一度も、お願いというものを彼にした事がなかったかもしれない。そんな新たな気付きを得ながら、彼にニコリと微笑んだ。
おそらくこうして彼によそ行きの作り笑いを向ける事も、初めてだ。家では素で笑えていたし、外で作り笑いを向ける相手は、決まって彼ではなかったから。
「私との婚姻関係を、正式に破棄していただきたいのです」
聞き間違いなど起こる余地がないように、はっきりとした声で彼に告げた。
一瞬の間は、おそらく驚きの現れだ。
今度こそ分かりやすく表情を変えた彼は、しかしすぐに表情を平静に戻す。
「しかし『婚姻契約』の保持は、帰る場所の無いお前のために――」
「分かっています。教会への契約破棄手続きが手間がかかる、お忙しいザイズドート様にはご負担なのだろう事は。ですからこの通り、こちらで準備をしてきました」
言いながら、持って来ていた封書をテーブルの上に差し出した。
封書に印字されているのは教会の紋、中には破棄手続き用の書類が入っている。
「既に私の記入は済んでいます。あとはザイズドート様のサインを頂くのみ。頂いた後は私が提出しに行きます」
貴方にこれ以上の迷惑はかけません。暗にそう伝える。
真っ先に喜んだのは、レイチェルだ。
嬉しそうに封書に手を伸ばし、中の書類を確認してザイスドート様の腕にギュッと抱き着く。
「ザイスドート様。優しい貴方はこの女に温情を与えましたけれど、本人がこういうのですからもういいでしょう。とっととサインをしてしまい、彼女をドゥルズ伯爵家の籍から抜きましょう。妻なんて、私がいれば十分でしょう?」
はずんだ声と上目遣いで、彼の行動を促す。
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