第2話「根絶」

 薄暗い部屋からは、眼下の街の輝きが宝石のようにも見えた。久しぶりに見た景色は変わらず美しかった。


 窓に張り付いて下界を眺めていると、窓にうっすらと反射して、彼がこちらへ近づいてくるのが見える。


「ねえ、見て、あそこ。信号が連鎖的に変わっていくの。なんだか生き物みたいじゃない?」


「どれどれ、昭和通りかな」


「ううん、もっと奥の方」


 彼はわたしに覆いかぶさるように、後ろから抱き着いてきた。ふんわりと柔らかなバスローブの襟元から彼の素肌の熱が感じられた。

「ねえ、今日は本当に大丈夫だったの?」


「なんとか仕事も片付いたし、明日は土曜日だ。生憎、休日にまで仕事をするような人間じゃなくてね」


 そう言うと、彼は後ろから強引にわたしの唇を奪った。

 彼の舌が入ってくる。絡み合った唾液が混ざり合って、生ぬるいにおいがした。


「ここ、窓際よ?」


「地上から百メートル以上あるんだ、誰にも見えやしない」


 その体勢のまま彼はわたしのバスローブ内へ手を差し入れた。


「準備万端じゃないか」


「ちょっと待って」


「待つなんて無理だ」


「待って、今日はいつもと違うことしない?」


 彼は柔らかな目をしたまま「いつもと違うこと?」というふうに首を傾げた。


 わたしは彼の腕から抜け出し、彼が脱いでハンガーにかけていたネクタイを手にした。

「ちょっと、じっとしてて」


「なになに」


 彼が受け入れてくれているようなので、わたしは彼の視界を塞ぐように顔にネクタイを巻きつけた。


「これじゃあ何にも見えないよ」


「たまにはこういうのも興奮するでしょ?」


 わたしが彼の耳元で吐息を吹きかけると、彼は聞いたこともないような情けない声を漏らした。


   ◇


 彼とのこういう関係が始まってから、半年ほど経過していた。


 半年前、日比谷公園のスターバックスで出会った。当時のわたしは、そこで読書をするのを日課としていた。彼が座る席につまずき彼の頭からキャラメルマキアートをぶちまけてしまったのだが、彼は怒るどころかわたしの読んでいる本について話がしたいと言った。彼が言うには、毎日決まった時間に熱心に読書しているわたしのことが気になっていたという。


 彼と話してみると、初対面とは思えないくらい会話が弾んだ。わたしが好きだというミュージシャンや俳優を彼も好きだと言うし、お気に入りの洋食レストランには彼も通っていたらしく、数年前まで住んでいた地域は一緒だった。


 簡単に親しくなって、そのまま一夜を過ごした。


 それから、毎週末になると彼とまぐわうようになった。


 いつだって彼はわたしの身体をなぞりながら、綺麗だと呟く。舌を這わせて、綺麗だと呟く。目が合うと、綺麗だと呟く。わたしの陰部を愛撫してても、ペニスを挿入した時も、体位を変える時も、何度も綺麗だって言う。


 そして、射精するときには必ず、わたしに好きだと言うのだ。


 最初の三か月ほどは朝まで二人で過ごしたものだが、ここ最近は様子が違った。事後になると彼が帰ってしまう。ある時は後輩から仕事の相談が持ち掛けられた、ある時は上司から急に飲みに誘われて断れない、ある時は奥さんに追い出された友人が家に来る、といった理由をさも面倒くさそうに語っていた。


   ◇


 彼のネクタイをハンガーから取る際に、スーツのポケットをそれとなく探ってみた。


 そこに何があるのか確信をもって、ポケットへ手を入れた。ポケットの底に、確かな感触があり、指でなぞってその形を把握する。


 思っていたとおりだった。


 普段は彼の左手薬指にはめられているはずの結婚指輪が隠されていたのだ。


 スターバックスで頭から滴るキャラメルマキアートを拭う彼の左手薬指には指輪が見えていた。彼は既婚者にもかかわらず、わたしに身体を求めてきた。それに応えてしまっているわたしにも責任はある。


 わたしは気付いていないフリをして、あの日から今日まで過ごしてきた。彼とは不倫関係であることを知りながら、自分の快楽のために応じてしまったのだ。


 きっとわたしが問い詰めたところで、「あれ、言ってなかったっけ」なんてとぼけた声を出して、「もうじき離婚するんだ」なんて神妙なふざけた顔をするに違いない。


   ◇


「目隠し、興奮するけれど、君の綺麗な姿が見えないじゃないか」


 彼をベッドに仰向けに横たえた。指先を彼の胸板から腹部へ這わすだけで、彼の陰茎が脈に合わせて膨張した。


「わたし、本当はぜんぜん綺麗じゃないの。整形してるのよ?」


「そんな嘘、つかなくてもいいんじゃないか」


 亀頭をもたげ始めた彼の陰茎を軽く握った。血液が集中して来て、硬さを増す。根元を強めに握ると、艶が出るほどに張った。


「あれ、言ってなかったかしら。嘘じゃないの。昔、酷いこと言ってわたしを捨てた男を見返してやりたくて整形したの」


「酷い男なら別れて正解だよ。だからこうして俺と一緒になったんだ」


 この後に行う行為に備えて、彼の陰茎を刺激した。彼が好む場所を刺激すると弱々しい吐息が漏れる。刺激が強すぎると「もうだめだ」と言うけれど、目隠しを外そうともせず、下半身をわたしに委ねているのは可愛かった。


 この後の行為の準備は整った。


「そうね、わたしを妊娠させたくせに、それを告げたらわたしを罵って、汚い女だと言ったわ。しかも、その男、他に女つくってたのよ、別れて良かった」


 彼は何も答えてくれなかった。


「そのときもこの部屋だったわ」


「えっ……」


「だからそいつのこと、ずっと探していたの」


「どういうことだ」


 スターバックスで彼と出会ったのは偶然なんかじゃない。故意に彼への接触を試みた。きっかけ一つから進展するようにと、彼の好みに合わせて整形をしたし、スターバックスでは彼が好きな作家の本を読んでいたし、彼の話題に合わせていたから会話も弾んだ。


 全ては、わたしの快楽のために。


「ずっと探していたの、アナタのこと」


 そしてわたしは、隠していた刃物で彼の陰茎を根元から切り落とした。

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