事故愛

ラビットリップ

第1話 差別意識の強い親

「まった、そんなきったないもん持って帰ってきて!そのまま洗濯機に放り込まんといてや!一緒に洗えんわいね。別にしてま!。」

毎度ことではあるが、母親の汚声が体内に入り込むと胃が溝色の溜息をつく。

 楓は玄関先から風呂場に直行し、固く結んだスーパーのレジ袋をほどき、押し込んであったジャージを洗面器に投げ入れ、お湯を入れた。今日は排泄物が大量にジャージに飛び散ったから、丁寧に何度もお湯で洗わなければならない。楓は何度も押し洗いを繰り返し、ジャージを固く絞った。そして、洗濯機に入れ、洗剤を投入した。

「ちゃんと洗ったんかいね!」

「洗ったよ。」

 母親の汚声は背中をさらに硬直させる。楓は振り向かず答え、自分の服も脱ぎ始めた。下着からすべて洗濯機に放り込み、スイッチを入れてから風呂場のドアを開けた。

「ったく、いつまで続けるんや。そんな仕事。大学まで出てやる仕事かいね。ほんと、町内会の人に聞かれても言われんわ。こないだも木下さんの奥さんに会って、実家に戻ってきた長女の娘さんは仕事何をしとるん?って聞かれたけど、この仕事は言えんかったわ。学校で事務してますって答えといたわ。言えっかいね。馬鹿正直に。」

 楓は母親の音声をかき消すようにシャワーを勢いよく出し始めた。

県立ひいらぎ特別支援学校に勤めるようになって半年が過ぎようとしていた。気が付いたら帰宅後すぐ、母親の罵声を浴びながら、勤務着であるジャージをお湯洗いし、洗濯機を回しながら、風呂に入ることが習慣になっていた。顔を入念に洗ってから、楓は湯船に身を沈めた。

      

祖母が死んで二日後の三月二十二日。火葬中に楓の携帯電話がなった。入電先は教育事務所となっている。楓は静かに待合室から出て、落ち着いてから電話に出た。

「もしもし。森川です。」

「おー、楓ちゃんか。わしや。亀ちゃんやぞ。」

おおよそ、この場に不釣り合いと思われる陽気な声が瞬時に耳元を温めた。楓は待合室の廊下から足早に離れ、ロビーへ向かった。

「あぁっ!先生、ご無沙汰しております。」

電話の主の亀ちゃんとは、楓が小学校五・六年生の時にお世話になった担任の亀岡先生である。

「元気かいねぇ。楓ちゃんの名前が講師登録にあったさかえ、わし、この子知っとるって言うて、わしが楓ちゃんのことを担当することになったんや。楓ちゃん元気そうでよかったわぁ。今、何しとるんやぁ。」

亀岡の方が先に懐かしさに浸っているようだった。先生の特徴である語尾を伸ばす喋り方は、楓を一気に小学生時代へ引き戻した。ロビーの椅子に腰を下ろし、楓は現況を話し始めた。「うん、うん。」と細かく、細かく相槌をテンポよく入れ、心配そうに聞いてくれる恩師。楓は思わず、東京時代最後にあった重い出来事まで話してしまいそうになり、命がけで心に固く鍵をかけた。そして一息ついた後、亀岡の近況を聞いた。楓の溜息を腹いっぱい食べてくれた亀岡は、二年前に教員を退職し、現在は教育事務所で臨時職員になったんだと話してくれた。

「楓ちゃんな、特別支援学校での非常勤講師だったら、すぐになれるわ。楓ちゃんの登録情報を見ていると、東京で特別支援学級の担任の経験があるやろ。」

楓の脳裏に、南星中学校勤務時代の悪夢がじわじわと蘇ってきた。悪寒が背中を全力で駆け上がる。温かいはずのロビーで楓はひとり、全身で寒気を覚えた。

「先生、私、特別支援の免許持っていないんですよ。教育学部出身ですが、追加で取らなかったんです。だから中学校と高等学校の社会の免許しかないです。」

楓は急いで言葉を投げた。電話口の向こうから、亀岡の柔らかい笑い声が漏れてくる。

「なんも大丈夫やって。特別支援教育に従事している人の大半が持っとらんげんて、実は。まぁ正規職員は持っている人が多いけど、特別支援学校って、非正規雇用の講師ばっかりで成り立っていてね、ほとんど持っとらん。君と同じ社会の免許しか持ってない、社会教師の卵も佃煮にできるくらいおる。免許が取りやすい体育系の教師の卵もおるけどいね。特支の免許がないことは気にせんでいい。先輩教師の言うことを聞いて、サポートしとりゃいいからさ。」

楓の投げた言葉のコントロールが悪かったのだろうか。亀岡に本心は伝わらず、逆に励まされる結果になってしまった。

 東京も地方田舎も同じか。やはり特別支援の仕事は誰もやりたがらず、年中空席がある。楓の声のトーンがグレーに変わったことを敏感に察知した亀岡は、なかなか社会科で空きがない現状を知らせてくれた。

「社会科は免許を持っている人も多くてねぇ。空きができたとしても前から指導している人に仕事の声がかかりやすい現状があるねぇ。あと楓ちゃん、履歴書に特別支援の経験を書いたでしょう。こういうのを書くとねぇ、こういう分野でもお仕事を引き受けてくれる人なんだと思われてさ、そっちの枠に組み込まれちゃうんだよ。先生がね、楓ちゃんの名前を見つけたのは、たまたま見ていた特別支援学校勤務要請の一覧表なんだよ。経験があるということで、無条件でそちらの枠に入ってしまっていたんだな。」

 経歴詐称するわけにもいかず、馬鹿正直に経歴を書いたのが、自身の首を絞める結果になったのか。楓はため息しか出なかった。

「今回この辞令を飲んだら、次、社会を指導できる辞令をもらえるかもしれんし。まぁ、公立学校の中で作られる特別支援学級と違って、特別支援学校は部活指導もないに等しいから、早く帰宅できていいって言う人もいるくらいだよ。教員採用試験の勉強する時間も確保しやすいと思うし。一度、やってくれんけ。」

恩師に頼まれて、断ることはできない。過去の重苦しい記憶を心の奥底に封印する決心をし、楓は亀岡に何度も丁寧にお礼を述べ電話を切った。


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