第1話

「みんな、こんばんわ〜。ねくねくだよ、音量大丈夫ー?」


 「ねくすと@」のライブ配信における平均来場者数はおよそ百人前後で、コミュニティ参加者は三〇〇〇人にあと一歩届かない。

 コンテンツは雑談かゲーム実況というありふれたもので、けして本物の人気配信者ではないけれど、ひとたび配信開始のボタンを押せば、体育館を埋め尽くすくらいの人は集まる。生温いコメントと、幾らかの投げ銭もだ。それらは心と懐を温めてくれる。

 少なくとも、配信に必要なモチベーションを保てる程度には。


「えっと、今日はね。新しいホラゲーを始めるよ。ねくねく、怖いの苦手なの? んー、どうかな〜? 月並みだけど、お化けより人間のが怖いって言うじゃん?」


 有名ではないが無名でもない。食べていけるほどではないが、実入りがないわけでもない。

 そういう、石を投げれば当たるような配信者であること。


「はーい、じゃあ、今日はここまで。やばい、喉痛い。おつねく〜」


 それが私のささやかなる趣味、だった。


『はじめまして、ねくすと@さん。いえ、東雲次乃さんとお呼びしたほうがいいですか?』


 この日、「ねくすと@」のTwitterアカウントに匿名のメッセージが届くまでは。


 †


 くたびれた1Kアパートの角部屋に、クーラーの稼働音が響いている。ルームウェアの隙間から忍び込む乱暴な冷気に、背筋が震えた。

 恐怖を味わう暇もなく、二通目のメッセージが届いた。内容は更に不穏だった。

『明日の十三時、海浜大学の第二学食で待ってます。』

 有無を言わさぬ呼出には、しかし強制力が伴った。海浜大は私が通う私立大学だ。そして第二学食は、私が所属する文学部の学部棟を出てすぐの場所にある。

 偶然か、あるいは配慮か。

 もちろん偶然であって欲しかった。けれど、それを望むほど馬鹿にはなれない。通う大学どころか、このアパートの住所を暴かれていないと誰が保証してくれる?

 ふわマロ。

 フォロワーからの応援メッセージや、ネタ出しが欲しくて使い始めた、匿名メッセージの受付サービス。時折ご意見やセクハラの類いが届くこともあったけれど、概ね配信の感想や好意的な語りかけばかりで、こんな事態は想定していなかった。

 本名バレ。自宅バレ。だけじゃない。こっちは顔出しでやっている女性配信者だ。ネットストーカー紛いの被害に遭ったことだって、一度や二度では収まらない。

 配信内容にも、全く傷がないと言えば嘘になる。どんな配信者だってそうじゃないか? 例えば、まだ十九歳だった半年前に敢行したテキーラ泥酔配信とか。

 このメッセージの送信者が、全てをネットに公開したらどうなるか。

 SNS上では、善意も悪意も加速する。大学なら教授にさえ見逃される十代の飲酒行為は、タイムラインではどれくらいの罪だろう。ぞわぞわと背筋に冷たいものが走り、増加を望んでいたコミュニティの三〇〇〇人が途端に恐ろしく見えてくる。

 炎上、の二文字が生々しい。注文していない宅配ピザが十枚届く未来を想像して、吐きそうになった。


 とにもかくにも、取れる手段はひとつしかない。

 メッセージの送信主が、どの程度の発信力を持っているかはわからない。捨て垢しか持っていないかもしれないし、万を超えるフォロワーを抱えているかもしれない。

 会って話す。どうにか口止めする。それ以外に何があるだろう。十三時の学食なら、少なくとも直接的な身の危険は無い筈だ。


  †


 第二外国語も、近世江戸文学の概論も、まるで身が入らなかった。何度も確かめた時刻をもう一度確認して、スマートフォンをパンツのポケットに落とす。

 引きずるような足取りで、第二学食に向かった。盛夏の日差しは殺人的だ。僅かな距離でさえ背中が汗ばむ。

 配信活動のせいで、こんな事態が我が身に振りかかる日が来るとは、想像もしていなかった。別にピラミッドの頂点を目指している訳じゃない。投げ銭で食っていこうなんて虫の良いことも考えていない。

 ただ、ささやかな居場所が欲しかっただけだ。私を、東雲次乃を知らない誰かに、肯定して欲しかっただけ。今更、逆転満塁ホームランのチャンスなんて、期待してもいない。

 それなのに、今、私は夏空の下を歩かされている。


 海浜大学の第二学食は、名前から連想するよりも遥かに小洒落た建物だ。学食というより、カフェテリアと呼ぶほうが実態に沿っている。

 自動ドアを抜けると、すっと汗が引いた。暖色系の色彩でまとめられた食堂は、ほどほどに混み合っていて騒々しい。それは安心できる要素だけれど、この中にメッセージの送信者がいるかもしれないとなれば、あまり心穏やかではいられない。

 細身のマッシュ、筋肉質なトゲトゲ茶髪、肥満気味の黒髪天然パーマ。

 通りがかる誰も彼もが怪しく見える。

 まず間違いなく、相手は男だと踏んでいた。

 動画配信サービスのアナリティクス機能によれば、「ねくすと@」の視聴者の七割は男性だ。配信内容に性的な要素は無いし、基本的にはマスクを付けているとはいえ、若い女の顔出し配信だ。むしろ女性視聴者が三割もいることに驚く。

 大学を指定してきたということは、おそらく同世代の男。もしかしたら同じ大学かもしれない。

 正体不明の悪意は、ひたすら不気味だ。そして怖い。

 暗惨たる気分で、レーズン入りのキーマカレーを注文した。

 いざとなれば、全てのアカウントを閉鎖して警察か弁護士に相談しよう。改めて心に決める。

 席の指定までは無かった。向こうは私の顔を知っているのだから、どこでも構わないのかもしれない。しばし迷って、中央の大きな円卓席を選んだ。人目につきやすく、逃げ出しやすそうな席だ。

 周囲を伺いながらカレーを咀嚼する。顎を動かしていると、いくらか緊張がほぐれる気がした。何の根拠もなく、大丈夫だろうという楽観が湧いてくる。

 そうだ。そんなに悪いことが、簡単に起きるわけがない。呼び出しなんてただの悪戯だ。そうに決まって、


「ああ、本当によく似てますね。次乃さん」


 背後から掛けられた高い声に、ガチンとスプーンを噛んだ。

 椅子を引く音がする。ゆっくりと口からスプーンを引き抜いて、横を覗き見た。


 女だった。

 それも、夏物の制服を着た高校生だ。


 頭の天辺から爪先まで、全てが私の予想外だった。

 窓から差し込む鮮烈な夏の光を浴びた横顔は、腹立たしいくらいに整っていた。色の濃い真っ黒なミディアムヘアに、きちんと手入れされた眉と睫毛。真っ白なブラウスの半袖から伸びた腕が驚くほど白い。

 青と浅葱のチェック模様をしたリボンタイに、見覚えがあった。美浜大附属高校。この地域で一番の名門校だ。手には生クリームが載ったカフェオレ。女子高生のアクセサリとしては最適解に思える。香辛料の匂いを纏ってこの場に臨んだ自分が、馬鹿みたいだった。


「あ、あんたが、」


 声が乾いて、掠れる。

 いつの間に接近していたのだろう。気配のようなものが無かった。足音もだ。合皮のローファーを履いているのに。足音を殺すのが癖になっているのだろうか。暗殺者一家かよ。


「先に言っておきますね」


 私の困惑をよそに、彼女は語り始めた。


「私は一果先輩の後輩です。美浜大附属高校吹奏楽部の。まあ一果先輩は去年の春に卒業しちゃいましたけど。あっ、サボリじゃないですよ。今日は高校の創立記念日なので」


「美浜大附の……一果の後輩?」


 東雲一果(いちか)。

 それは、私の姉の名前だ。ただの姉ではない。

 双子、それも一卵性双生児の姉だ。中身の出来はまるで違うが、大学生になった今なお顔の造形だけは瓜二つのままでいる。

 優秀で、人気者で、万人に愛される私の半身。

 一果は、確かに美浜大附属高校の出身だ。


「あんた、一果の友だちなの」


「いえ、友人ではないです」


 友人、のイントネーションに不自然な強さを感じた。

 つやつやとパールみたいに輝く爪。それくっつけた指先が、くしゃりと重めのミディアムヘアを掴む。

 思わずぎょっとした。

 黒々とした髪の裏側に、目の醒めるような群青色が潜んでいた。インディゴブルーのインナーカラー。

 東雲一果が好きな色。

 そして、そうであるが故に、東雲次乃が嫌いな色。

 彼女は、ところで今日の空は青いですね、みたいな口調で告白した。


「友人ではなく、元カノなので」


 私の手からスプーンが落ちて、からからと白磁の皿の上を転がる。私の動揺を愉快そうに見つめて、ようやく彼女は言った。

「初めまして。白頭はこべです。名前の由来は、春の七草。ご存知ですか?」

 知るかそんなもん。そう思った。


  †


 この場に臨むまでに、幾つかのシミュレーションはしていた。ただ、空想の中において、仮想敵は常に男だった。女が、それも年下の女の子が現れた時点で既に私は機先を制されている。しかも姉の恋人だと? マジか。一果、そっち側だったのか。

 マジか。

 いけない。すっかり呑まれている。速やかに体勢を立て直す必要がある。

 オーケイ。この高校生は一果の元恋人。オーケイ。衝撃的だが、それは本題じゃない。本題は、この白頭とかいう女が、私の個人情報を握っているということだ。「ねくすと@」の正体が、東雲次乃だと知っているということだ。

 ルゥで汚れたスプーンを突きつけて、言う。


「何が狙いなの」


「狙い?」


 白頭は、わざとらしく首を横に倒した。さらりと流れた髪の合間から、鮮やかな群青色が覗く。カリブ諸島に住む、ハチドリの頭みたいな青。清楚な黒髪に隠れた毒々しい青さは、この女の本質そのものかもしれない。


「わざわざ呼び出したんだから、なんかあるんでしょ」


 元々想定していたのは、金か性的なアレコレ。そこまで直接的ではなくても、どこかへ遊びに行こうとか、そういうこと。

 私は白頭の身なりを見返す。

 到底、金銭に不自由しているようには見えない。見せ方が上手いだけかもしれないが、脅迫まがいの行為に手を出すほどの困窮は見て取れない。ではもう一つの可能性は? いや同性だし、じゃない。こいつは姉の恋人だった。ということは、その。

 そういうことだ。


「ふぅん。何を言われると思ってたんですか?」


「……はあ?」


 質問を質問で返すなよ。


「ここに来るまでに、色々想像したと思うんですよね。相手は男か女か。何を要求されるのか。お金? 身体? とか、そういう諸々」


 違いますか、と身を乗り出してくる。香水だろうか。バニラビーンズに似た、甘い匂いがした。後ろに下がりたいが、今の私に逃げ場はない。


「あんた、どこまで調べたわけ」


「もし夕食の予定がないなら、ピザでも注文しておきましょうか? 代引きで」


 最悪だった。ハッタリとは思えない。こんなに簡単に個人情報は漏洩してしまうものなのか。


「いらない。夜は食べない主義だから。あと、お金なら」


「要りませんよ、そんなの。困ってないんで」


 あくせく働いているようにも、夜の街に縋っているようにも見えない。高校生ならそんなものだろうか。それとも今どき珍しい、実家が太いタイプなのか。


「じゃあ、その、か、から、」


「まあ、ぶっちゃけそっちですね」


「はあ⁉︎」


「私、まだ一果先輩のことが好きなんですよ。まだっていうか、多分一生好きだと思います。自分で言うのも何ですけど、重い女なので。でも振られた以上は、付きまとえないじゃないですか。こっちは高校生で、向こうは大学生だし。嫌われたくないし」


 まくしたてる言葉を聞きながら、私はひとつだけ確信していた。

 賭けてもいい。自分で自分のことを「重い女」と評価する女に、ロクなやつはいない。


「そんなとき、偶々次乃さんの配信を見つけて。そういえば一果先輩、双子の妹が海浜大にいるって言ってたなって。それで、少なくとも顔は同じだし、まあこっちでもいけるかなって」


 肩甲骨の間辺りから、じわじわと不吉な予感が迫り上がってくる。私はごくりと唾を飲んで、言った。


「いけるって、何がよ……」


「決まってるじゃないですか」


 白頭が唇の端を吊り上げる。悪魔みたいだ、と思った。表情に悪徳が滲み出ている。自分のために誰かを犠牲にすることを躊躇わない女の笑い方だ。


「代用品に出来るなぁ、って意味ですよ」


 そして彼女は、私の手の甲に自らの手のひらを重ねた。ぞっとするほど冷たい、氷のような手。それでいて、どこか縋り付くように儚げで華奢な指先。

 親指の腹が、私の手の甲をなぞる。

 ぞわりとした。


「言ってる意味、分かりますか?」


「わ、わかる訳ないでしょ……」


 頭の中身はあんまり似ていませんね。そう、口に出して言われた。くすくすと笑う。小馬鹿にされている。怒りが閾値を超えるより先に、白頭が、私の耳に唇を寄せる。


「つまりこういうことです。『一果先輩の代わりに、私の恋人になってください』」


 それは想像し得る限りで、最低の告白だった。発言者が姉の元カノで、歳下の女であるということを差し引いてなお。


「……本気?」


「本気です。この上ないくらい」


「そんなの、いやに決まって、」


「やだな、次乃さん。拒否権があると思ってるんですか?」


「な」


「ピザ十枚、じゃ、済まないかもですね」


 白頭が翳したスマートフォンの画面には、メモ帳アプリが展開されていた。そこには入力されていたのは、間違いなく私の住所だ。


 逆らったら全部晒す。

 煌めく瞳が、そう告げていた。


 脅迫者は、王女のように背もたれへ身を預け、桜色の唇にストローを寄せた。どっさり生クリームが載ったカフェオレをちゅるちゅる啜る。

 今更なんのSNSをやってるかなんて、聞きたくもなかった。こういう女が本気になれば、火種は確実に燃え上がる。それくらいのことは分かる。


 美しさには暴力性がある。

 脳内で姉を罵倒した。

 せめてもう少しマシな女と付き合え、馬鹿一果。

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