第四章「二つの月」⑩

 その黒い入り江は、べったりとした不定形の粘液の塊で満ちていた。

 独特のリズムで蠢いている彼らは、入り江の奥深くで微睡む「彼」の眷属だ。

 ナツキは、彼らの傍を通り過ぎて入り江の奥へと向かっていた。

 肉体を持たないナツキに対し、彼らはさして興味を示さない。無形である、という点が似通っているからだろうか。

 とっぷりとした闇の中で繋がって蠢めく彼らは、胎動する臓器のようでもあった。

(「彼」は応えてくれるだろうか……)

 ナツキは「彼」との取引を考えていた。

 それは分の悪い賭けだった。

 元を辿れば一人の人間であるナツキと異なり、「彼」は人間という種に対し、さして特別な思いを抱いていない。

 あくまでも、捧げ物を運んでくる種の一つ、という認識だ。

 今のナツキに「彼」が喜ぶような捧げ物を用意する術はなかった。

 虫の居所が悪ければ、対面した瞬間に喰われてしまう可能性もある。

 けれど、他にこの世界を出られるような方法も思いつかなかった。

(はぁ。俺、なんでこんなに必死なんだろ)

 ナツキは形而上のため息をついた。

 この闇を出て、あの世界に戻りたい。

 けれど、自分という存在が「彼」に喰われてしまえば、それは永遠に叶わない。

 ここで動くのは、むしろ危険だ。

 なのに、行動を起こさずにはいられない。

(情が移るってのは、こういうことかな)

 無形の眷属達が脈動している。

 ナツキはその中を進んでいく。

 ときおり強く吹いていた風が、いつの間にか止んでいた。

 「彼」のいびきが止まったのだ。

(……目覚めたのか)

 入り江の奥深く。

 眠たげに閉じられた「彼」の赤い瞳が、ゆっくりと開いていく瞬間を、ナツキはイメージした。

 背中に生えた蝙蝠のような翼が動き、入り江に強い風が吹く。ヒキガエルのように表面がボツボツとしている太い腕が伸びて、ナツキを鷲掴みにする。

 ニチャア、と開いた口に、そのまま放り込まれて抵抗する間も無く咀嚼される。

 そんなイメージ。

 泡立つような恐怖が溢れた。

 やはり、恐ろしい。

 けれど、進まなくてはならない。

 中々決心がつかなかった。

 逡巡するナツキの周りで、無形の眷属達が奇妙な蠕動を見せている。

 ある一点に何体かの眷属が集まり、立体を形作るように折り重なって、盛り上がっていった。

 直立したそれには頭があり、手足があった。人の形によく似た粘液の塊が、ナツキの前に立ち塞がった。

(なんだ、これ……)

 無形の眷属達には目も耳もない。光の届かないン・カイの世界では必要ないからだ。けれど、捕食の為に口だけはある。

 目の前にある人の形をした塊にも、口がついていた。胴体に当たる部分でカパッと開き、歯を剥き出しにしていたそれは、身体の表面上をずりずりと移動して、顔に当たる部分にたどり着いた。

 頬を膨らませるような動作で口の位置を微調整したかと思うと、驚く事にその塊は声を発した。

「……あ、あああ。聞こえるかな」

 凛とした声だった。

 どこか、聞き覚えがある。

「そこにいるんだよね。……なんて、呼べばいいかなぁ。腕の人? もうひとりの私、とか? シンプルに君、でもいいかも」

 声を発するごとに、人の形をした粘液はその精度を増していった。指の先、髪の一本まで声の主の実像を再現する。

 ご丁寧に、身体の表面にセーラー服まで形作ったそれは、腕を組んで仁王立ちをした。

(……本物の魚月、なのか?)

 ナツキに応えるように人型は頷いた。

「時間が無いから手短に話すよ。私達の身体が乗っ取られた。目的は、竜堂の血に封じられた古の力。あの身体を完全に『先祖返り』させたら、良くない事になる」

 数年の間、ずっと沈黙していた真の人格。

 竜堂魚月の意識が、無形の眷属の身体を借りて目の前に現れていた。

 驚愕しているナツキに対し、魚月は急ぎ足で言葉を伝える。

 魚月の身体は、四年前の時点で既に『先祖返り』をする準備が出来てしまっていた。秋人の願いに応えたあの日から、ナツキは腕の「顎門」を通して、身体から迸る竜堂の異能を、このン・カイの世界に送り続けることで、その覚醒を防いできたのだ。

 腕輪によって門を封じられた今、覚醒はもう時間の問題だった。

「日の出を迎えれば、もう間に合わない。私達の身体は、月鱗に覆われて完全に変容してしまう」

(……そうなれば古の力が目覚めて、あの周囲一体の人間達の頭がおかしくなっちまうってことか……)

 魚月は、不思議そうに首を傾げた。

「何言ってんの?」

(……え?)

 話が噛み合っていない。

「外の人間なんて、どうなっても構わないよ。私が言ってるのは、あんな蛇みたいな見た目になりたくないってこと! 可愛くないじゃん、お洒落も出来ないし」

 しばしの沈黙。

(……はぁあああああ?)

 肉体があれば、ズッコケてしまうような、衝撃的な言葉だった。

 魚月は、当たり前でしょ、とでも言わんばかりにふんぞり返っている。

「そりゃあ私を褒め称える下位存在として、一定数の人間も必要だろうけど、大切なのはそこじゃないでしょ。あんな鱗が身体に纏わりついてたら、私の美肌が隠れちゃうじゃん」

(……そんな理由で?)

「一大事だよ! あ、それはそうとして、君の服のセンスは悪くないよね。中から見てて、いつも思ってたんだぁ。私と身体を共有しているだけはあるよ。一つ注文を付けるなら、もう少しガーリーな格好をしてみてもいいと思うんだけど……」

 そう言うと、魚月は無形の眷属達で構成された身体を操作して、纏っていた衣服の形を変えた。リボンやフリルの付いたワンピース、フレアスカートなどにクルクルと着替えてみせる。

「ほら、どう?」

(うん、可愛い……って、そうじゃなくて!)

「あぁ、そうだ。時間がないんだった」

 ギュル、と音を立て、魚月の格好が初めのセーラー服の形へと戻る。

 ナツキは少し呆気に取られていた。

 身体や記憶を一部共有しているとはいえ、自分が取り憑く以前の魚月の人となりを完全に把握していたわけではない。

 普段は身体の奥深くで眠っている魚月の意識と、こうしてコンタクトを取れたことも初めてだった。

 こんな性格だったのか、と意外に感じている自分がいた。

「君、捧げる対価も持っていないのに、この入り江の奥に進もうとしていたでしょ?」

 改めて真っ直ぐに身体を向いた魚月が、ピシャリと言い放った。少しだけ、責めるような口調だった。

(……うん)

「困るなぁ。自殺行為だよ。君の存在はまだ必要なんだから、勝手な事しないで」

(……ごめん)

「なんだか辛気臭いなぁ。君ってそんな性格だったっけ?」

 ナツキ自身、自分の調子がいつもと異なる事は感じていた。なんだか、元気が出ない。身体が無くなってしまったせいなのか。それとも。

「……兄様に言われた事、気にしてるの?」

 魚月は声のトーンを和らげてそう聞いた。

 じゃあな、バケモノ。

 封印される直前、秋人の放った言葉は、ずっとナツキの意識の裏に貼り付いたままだ。

 モヤモヤとした気持ちを言語化できずにいると、目の前の魚月が大きなため息を吐きようなジェスチャーを見せた。

「君、四年も一緒にいるのに、兄様の事全然わかってないなぁ。あれ、演技だよ?」

(……え?)

 魚月は苦笑を見せた。

「おおかた、相手の言う事を聞くフリをして様子を探ろうとでもしたんじゃないかなぁ。あれは、敵の言葉をそっくりそのまま使っているんだよ。その方が従順に見えるからね」

 ナツキは、あの時秋人の後ろにいた少女の姿を思い出した。たしかに秋人は、そちらの方にも常に気を張っているように見えた。

「兄様が私の事を間違えるはずない。この世界で、たった二人きりの兄弟なんだから」

 仰ぐように上を向き、魚月は掌を組んだ。

 それは何かに祈るような動作だった。

(……何だよ、アニキのヤツ……)

 言語化した思いの裏で、ナツキの緊張がホッと和らいでいた。

 秋人は、自分を敵視していた訳ではなかった。その可能性が示されただけで、随分と心持ちが変わっていたのだ。

「……ねぇ」

 魚月が声を発した。

 一転して、不機嫌な様子だった。

「その、アニキっていう呼び方……」

 腕を組んだ魚月は、睨め付けるような目付きをしている。

 嫉妬と羨望が入り混じった視線だった。

「……今だけは許してあげる。私の身体に入っている間は。けど、忘れないで。兄様は私のだよ。私だけの……兄様なんだから」

 拳をギュッと握りしめて、魚月はそう言った。

 魚月はまだ、自分の身体に戻れない。

 竜堂の血に宿る古の力は、まだナツキの力を借りなければ制御が出来ないし、その他にも様々な問題がある。今の時点ではまだ、こうして少しの間、ナツキに接触することが限界だ。

 触れられない。話せない。

 それは実体を持たないナツキがずっと抱えてきた苦しみと似ている。

(……ああ、分かっているよ)

 己はあくまでも仮初めの存在。ナツキ自身も、それをわきまえている。

 だからこそ、せめて今だけは。

「……もうそろそろ、時間みたい。こっちの方も限界だね」

 それまで魚月の仮の肉体を形作っていた無形の眷属達が、震えながらドロリと溶け始めた。四肢の先から崩壊が始まっていく。

「ねぇ、兄様を守ってね。絶対守って。私が兄様のところに帰るその日までええええ。ぃやああくそおおおおくううだよおおお」

 懇願するようなその声は、胴体と首の部分が崩れていくのと同時に、明瞭さを失っていた。

 形を失った黒い粘液が、入り江の地にとぷんと沈む。その表面で揺蕩っていた口と歯が、波間に揉まれるように姿を消していった。

(うん……約束だ)

 黒い入り江で、ナツキはまた一人きりになった。けれど、その心持ちは変わっていた。

 今は信じて待つ。それだけだ。

 ナツキは、魚月の言葉を深く噛み締めた。

 


 寝台に寝かせた遥香とその周囲に、秋人は結界の術式を組んだ。四つの支柱に注連縄と紙垂が結ばれている。

 上司兼師匠である藍那直伝の結界術である。

 これで、もう遥香の身体に何かが入り込んでくる事はない。

(なんとか遥香さんは助けられたが……)

 秋人は、下唇を噛んだ。

 魚月の名を語る存在が、遥香の身体を乗っ取ったと聞いた時、秋人が真っ先に考えたのは遥香の身体を解放させることだった。

 十二歳の遥香の自我では、外部からの強力な支配を自ら退ける事は難しい。

 だから取り憑いている存在に、自らの意志で身体を出て行ってもらう必要があった。

 その目論見は、結果的には上手くいったと言える。

 しかし。

(状況は……良くない)

 覚醒を迎えようとしている魚月の肉体は奪われ、その周囲を、操り人形と化した竜堂不由彦が守護している。

 不由彦にかけられた支配は根深い。

 四年前のあの日からずっと、不由彦は夢遊病にでもかかっているような感覚が続いているはずだ。

 あの支配を外すなら、一朝一夕では済まない。少なく見積もっても、一週間はかかるだろう。

 無理にでも拘束する必要がある。

 しかし、それ以上に問題なのは魚月の身体の方だった。

(朝までには、か……)

 魚月の身体を月鱗が覆い切るまであと数刻。明朝がタイムリミットだ。

 それまでに、アレを止めなくては。

 眠っている遥香の身体に薄い布団をかけ、秋人は諸々の準備を始めた。

 藍那堂の店舗と共に藍那から預かった多種多様な道具。その中には、異能の力を秘めている物もある。秋人は、倉庫の中から使えそうな物をピックアップしていった。

(すみません藍那さん……緊急事態なので)

 厳選した道具をひとまとめにして収納し、鞄の留め金をかけた。

 カチャリ。

 その音を聞いた秋人は、相棒のナツキに腕輪をかけた時のことを思い出した。

 勇ましい虚勢を裏腹に、ナツキの腕は震えていた。

(あいつは……許してくれるだろうか)

 遥香を救う為とはいえ、秋人は、ナツキを一度封印した。その事実に変わりはない。あの状況では、自分の考えや作戦を伝える時間は無かったのだ。

 だとしても、である。

 ナツキの目には、秋人が自分に敵意を向けたように見えただろう。

(怯えていたな……)

 あの腕輪を目にした瞬間、ナツキの様子が明らかに変わった。

 ン・カイの腕輪と呼ばれる封印具。

 あれには強い力が秘められているという。

 裏を返せば、あの腕輪さえ外せばナツキの意識が身体に戻る可能性もある。

 元々ナツキがいたからこそ、アレは魚月の身体を手に入れる事が出来なかったのだ。

 ナツキさえ戻れば。

 しかし、秋人には確証が無かった。

 一度強く封印されたナツキの意識が、すんなりと身体に戻る事ができるのか。

 アレを弾き出す事ができるのか。

 仮に戻ったとして、秋人に協力してもらえるのか。

 ナツキは元々、「願いを叶える腕」に宿っていた意識だ。これまでも、お互いに利益があったが故、手を組んでいたに過ぎない。

 もし、魚月の身体に戻ったナツキが、人間に牙を剥くような事があったら。

 秋人の脳裏に、四年前の竜堂屋敷で目にした光景が浮かぶ。

 正気を失った人々の凄惨な宴。

 あれはもう、二度と起こしてはならない。

 秋人は鏡の前に立ち、キュ、と新しいネクタイを締めた。

 そして、深く息を吐く。

 道具の入った鞄を手に取り、一度小さく振り返った後、藍那堂を後にした。

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