第四章「二つの月」②

 秋人が藍那堂の店舗に出勤したのはそれから数十分後の事だった。

 藍那の下で秋人が働き始めたのは、二十歳の頃だ。竜堂の屋敷を出て以降、秋人はずっとこの場所で勤めてきた。

 その理由は二つある。

 一つは巡り合せだ。竜堂家が訳あって崩壊した夜、偶然にもその場所に居合わせたのが藍那堂の店主である藍那だった。

 屋敷の外で生活をした経験がなく、他に伝手もなかった秋人は、そこで初めて知り合った藍那を頼る以外にすべを持たなかった。

 もう一つの理由は借金である。

 秋人は、藍那に二千万円を超える借金があった。正確にいえば金を借りた訳ではなく、まだ対価を払い続けている途中なのだ。

 竜堂家が崩壊したその日、秋人は「願いを叶える手」という名の奇妙な品を藍那から譲り受けた。その値段は二千五百万円という高額なものだった。

 支払い能力を持っていなかった秋人は、その莫大な金額を藍那堂で働きながら返していくことにした。

 藍那の意向で返済期限や貸付利子は設けられなかった為、借金がこれ以上増え続けることはない。

 しかし、四年の歳月をかけてもまだ完済にはほど遠かった。

 現在、藍那堂の会計を握っているのは秋人だし、返済額を誤魔化そうと思えば出来ないこともないのだが、自分の性格がそれを許さない。

 藍那に対しては恩義を感じている。秋人は実に生真面目に働きながら、日々の返済にあけくれていた。

「やぁ、秋人君。朝からナツキちゃんと大喧嘩したんだって?」

 店舗のバックルームに行くと、珍しく藍那が既に出勤していた。普段であれば、秋人より先に来ることはほとんど無い。

「喧嘩ってほどの話じゃないですよ。僕が、あいつの格好を注意しただけです」

「またそんなこと言って。あんまりうるさくしてると嫌われちゃうよぉ?」

 せっせと荷造りをしながら、こちらを振り返る事なく藍那はそう言った。

 倉庫から引っ張り出してきたのか、脇にある台車の上に多種多様な品が乗っている。

 藍那は品の状態を確かめつつ、大きめのザックにそれを一つずつ収めていった。

 よく見ると、藍那は普段のゆったりとしたアジアンテイストの服装ではなく、機能性の高そうなスポーツウェアを着ている。

「藍那さん、どこかに出かける予定とかありましたっけ?」

 それは、藍那が顧客の家に直接、行商に向かう時の格好だった。

「……あれ、言ってなかったっけ?」

「毎度のことですけど、聞いてないですよ。……まぁ、慣れてます。本音を言えば、先に伝えてもらった方がいいんですけど」

「はは……面目ないねぇ」

 藍那は、こめかみをポリポリと掻いた。

「それで、今回は何日くらいの旅になりそうですか? 現金は持ってます? 宿泊先のあてはありますか?」

 こうして藍那が突然出かける事は珍しくなかった。その都度、諸々の世話を焼いてきたので、秋人としても対応は慣れたものだ。

「うーんとねぇ……一年くらいかなぁ」

「成る程、一年となると……」

 秋人は電卓を手に取り、そこに数字を打ち込もうとして、はたと動きを止めた。

「えっ、一年!?」

 バッ、と物凄い勢いで振り向き、秋人は藍那の方に顔を向けた。

 藍那は申し訳なさそうに苦笑いを浮かべている。

「一年って、十二ヶ月で、三百六十五日の、あの一年ですか!?」

「そう。今回はちょっと遠くまで足を伸ばしたくて……。随分と長く顔を見てない得意先もいるし、せっかくだから海外の方にも行こうかな、って」

 秋人は、あんぐりと口を開いて固まってしまった。旅に出かけるといっても、これまでは長くても十日ほどだったのだ。

 それが突然、一年も店を空けると言われたのだから、流石に唖然としてしまう。

「み、店の方はどうするんですか?」

「んー、秋人君がいるから大丈夫だと思うんだよねぇ。この間、倉庫も綺麗にしたし」

「いや、だからって……」

「大丈夫、大丈夫。今だって仕入れ以外の業務はほとんど秋人君がやってるんだから」

 確かにその通りだった。

 この四年間で、既に一通りの業務は藍那から秋人へと引き継がれている。

 近隣の「得意先」とも、もう顔馴染みだ。

 藍那が店を空けていても、正直なところ日々の業務には支障はない。

「今の時代、世界中どこにいても連絡は付くわけだし。私もなるべく電話に出るようにするからさぁ。現時刻をもって、竜堂秋人君を漢方藍那堂の店長代理に任するよぉ」

 どうやら、藍那は考えを改めるつもりはないらしい。秋人は、頭を抱えてため息をついた。覚悟を決める必要がありそうだ。

「店長代理……ですか。それってつまり、役職ですよね」

「うん、まぁそうだねぇ」

「役職には手当が付きますよねぇ。それだけの責任を負う訳ですから」

「う、うん……」

 淡々と応じ始めた秋人の様子に、藍那は妙な迫力を感じた。タンタンッ、と音を立てて電卓を叩いている。

「現在の基本給に一般的な現場責任者の役職手当を加算して……。もちろんこれは賞与にも反映される訳ですから……。僕の年収ってこれくらいになるはずですよね?」

 液晶には、七桁の数字が示されている。

 それは現在秋人に支払われている給与の金額よりも大きい。

 責任を負うことを避けられないのなら、せめて今よりも報酬を多く貰おう。秋人はそう考えたのだ。

 目の前に提示された金額を、藍那は数秒の間見つめていた。

 そして、にっこりと笑った。

「うん、妥当な金額だねぇ。なんていうか、秋人君は律儀だよねぇ。交渉するんなら、初めはもっと高い金額をフッかけるものだと思ったけど」

「えっ、そういうものですか?」

 秋人は意表を突かれた表情を見せた。自分としては、賃上げの交渉に踏み切ったのも、随分と強気な行動だと考えていたのだ。

「商いの質にもよるけど、往々にしてそういうものだよ。けど、私は秋人君みたいな商人の方が好きだなぁ。モノの価値を正しく見据えて正直に売買する。シンプルだけと、簡単じゃないからねぇ」

「……藍那さんにそういっていただけると、ありがたいです」

「まぁ、正直過ぎるのも考えものなんだけどねぇ。その分、喰い物にしようと近寄ってくる輩も多くなるから。怪しい相手は、警戒しておくに越した事はないよ」

 藍那はパンパンに膨らんだザックを背負い、立ち上がった。

「報酬の件はそれで大丈夫だよ。その分、しっかりと稼いでね。秋人君のお給料は、秋人君の働きにかかっているんだから」

「……はい!」

 藍那は微笑み、秋人の肩をポンと叩いた。

 竜堂屋敷で出会ったあの時に比べて随分と大きくなった、藍那は感じていた。身体の話ではなく、精神的な意味で、だ。

「駅まで送りますよ」

「いや、ここでいいよ。もう店を開ける時間でしょう? 今日から秋人君は店長代理なんだから。お店を優先、ね」

「……藍那さんが、そう言われるなら」

 店舗から外へと足を踏み出し、藍那は空を仰いで大きく伸びをした。

 抜けるような青い空が広がっている。

「そうだ、長く出掛けるってナツキちゃんに言いそびれちゃった。秋人君から伝えておいてもらっていいかな?」

 藍那は振り返り、出口まで見送りに出てきた秋人にそう言った。

「え、僕がですか?」

 秋人は、つい怪訝な表情を浮かべた。

 ナツキとは先程言い争いをしたばかりで、自分から声をかけるのが嫌だっただからだ。

「そう、君が。……秋人君、ナツキちゃんとは仲良くするんだよ。君達二人は、すごく良いコンビなんだから」

「……そうですかね。僕とアイツは、それぞれの目的の為に互いを利用し合っているだけだと思うんですが」

 つれない秋人の態度に、藍那はつい苦笑いを浮かべる。

 竜堂ナツキは、その左腕で異能を喰らう。

 実体を持たないその自我がこの世界に存在し続ける為には、それが必要だから。

 竜堂秋人は、それを助ける。

 死の危険に瀕した竜堂魚月の肉体は、ナツキが憑依することでその命が保たれているから。

 現在のナツキの人格は「願いを叶える腕」と呼ばれる道具に宿っていたものであり、身体の真の持ち主である魚月本人とは別物だ。

 そのギャップに戸惑う秋人と、自由奔放なナツキとの言い争いは日常茶飯事だった。

「だとしても、だよ。そういうのにはね、もっと別の表現があるんだ。利用し合う、じゃなくて、協力し合ってるって言うんだよ」

「僕からしてみれば、同じことですよ」

「もう! 秋人君は、ナツキちゃんが関わる事となると本当に素直じゃないよねぇ」

 藍那は背負ったザックのハーネスを握り、荷物のすわりを正した。

「とにかく、二人仲良くね。約束だよ」

 後ろ手を振りながら、藍那は商店街の出口の方へと歩いていく。

「藍那さん……お元気で!」

 秋人は藍那堂の入り口に立ち尽くしたまま、去っていく藍那を見送っていた。

 やがてその背中が見えなくなると、気合を入れ直すように自分の頬をピシャリと叩き、藍那堂の開店準備を始めた。

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