第三章「穿山甲」⑩

 自室に戻ったのは数時間後の事だった。不由彦は呆然としたまま、椅子の背もたれに深く体重を預けていた。

 地下に眠る異形の先祖達。一族の悲願。当主としての覚悟。そんなものを見せられて、いったい自分にどうしろというのだろうか。

 不由彦はたった一人の妹に自由に生きてほしかった。本当に、ただそれだけだ。

 考えが、うまくまとまらない。

 首元のボタンを外し、ネクタイを解く。

 そのまま呆けて天井を仰いでいると、自室に近づいて来る足音があった。軽いノックの音がして、扉の向こうから声がする。

「不由彦さん……少しお邪魔しても大丈夫ですか?」

 使用人の道津雪子だった。遥香を巡る会議が行われている事を教えてくれた人物だ。

「……雪子さんですか。今、開けます」

 立ち上がり、戸の鍵を開ける。

 扉の前に立っていた雪子は、目の周りが真っ赤だった。頬に涙を流した跡が見える。

「……遥香さんの鱗、私が見つけたんです。あの時、それを黙っていれば……」

 雪子の目にまた涙が溢れる。不由彦は震えるその肩をそっと抱いた。

「自分を責めないでください……雪子さんが悪いわけじゃない」

 泣きじゃくる雪子を、不由彦は自室へと案内した。電気ポットのお湯を沸かし、急須で温かいお茶を淹れる。

 湯呑みに注いだそれを胃に入れると、雪子の様子も少し落ち着いたようだった。

「遥香さん、当主の部屋に呼ばれていきました。たぶん、明日にはもう……」

 そこまで言って、雪子は口を噤む。言葉にしてしまうのが恐ろしいのだろう。

 遥香は『苗床』となり、隔離される。

 何があっても、その決定は覆らない。

 不由彦は歯噛みする。

「……若輩の私には、止める事ができませんでした。無力です。あまりにも」

「……お家の事情がある事はわかっています。でもそれは、小さい遥香さんの人生を犠牲にしてまでも優先されることですか?」

 雪子の言葉が、不由彦に突き刺さる。

 その通り、遥香の人生は、遥香のものだ。

 しかし、あの地下室の棺に収められた先祖達もそうだったはずだ。既に多くの犠牲が支払われている。この先で止まる事は許されない。少なくとも今の当主はそう考えている。

「……この家は、雁字搦めです」

 ぽつり、と不由彦は呟いた。

 幼少の頃から感じていた事だ。年齢を重ねるにつれて、もっと自由に振る舞えるようになると思っていた。けれど、そうではなかった。むしろ、制限される事ばかりが増えて、自由とは縁遠くなっていく。

「こんな家、無くなってしまえばいい……」

 そんな言葉がつい口から溢れた。

 ずっと思っていて、けれど一度も言葉にはしなかった事だった。

 俯き加減だった雪子が、その顔を上げて不由彦をジッと見つめた。

「本当に、そう思いますか?」

「思いますよ。いっその事、三人で逃げませんか? 私と遥香と雪子さんで」

 不由彦は、その案を自然に発した。

 ずっと思い描いていた夢のようなものだった。この屋敷を出て、街で自由に暮らす。

 そんな事が本当に出来たらいいのに、と不由彦は強く思った。

「……もっと、良い方法がありますよ」

 雪子がそう言った。

「……え?」

 不由彦は思わず聞き返した。

「この家からみんなが解放されて、自由に生きられる方法があるんです」

「……ははっ。そんな事、出来る訳が……」

「出来ますよ。……あなたのお力があれば」

 雪子は立ち上がり、それまで向かい合わせに座っていた不由彦の背後へとまわった。その肩に軽く手の平を乗せる。

「自由を阻む檻があるのなら、それを壊してしまえばいいんです。あなたは、その要がある場所を当主から知らされているはず……」

 雪子の腕が、するりと不由彦の首元にまわった。甘い花のような芳香が、鼻腔をくすぐる。不由彦は、以前にも良く似た香りを嗅いだ事があったような気がした。

「遥香さんの為に、あなたの為に。私がそれをお手伝い致します」

 雪子の足元に、灰色の靄が漂っていた。蛇がとぐろを巻くように、渦をつくっている。不由彦はそれに気が付いていない。

「あなたはただ一言、手伝ってくれ、と言うだけでいいんですよ」

 視界がぼんやりと滲んでいく。薄れゆく自我の中で、不由彦はその甘い香りが何だったか思い出した。

 それは『月鱗』と同じ匂いだった。

 人を魅了し、狂わせる香り。

「さぁ、言いなさい。不由彦さん……」

 雪子の指が、不由彦の唇に触れた。

 焦点の定まらない瞳で虚空を見つめながら、不由彦は口を開いた。その端から、つーっと涎が垂れる。

「……て、てつだって、くれ……」

 雪子の形をしたものは、ニコリと笑った。不由彦の瞳は、もうその姿を捉えていない。

「契約成立ですね」

 不由彦の意識は、そこで途切れた。

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