第二章「眇」④

『僕はその日、母の言いつけを守らずに、お山の神社へと遊びに行きました。

 数日後に神社でお祭りがある事は知っていました。祭りの準備で人が騒がしくしているから、邪魔をしてはいけない。そう言われていたのにも関わらず、子どもだった僕は浮かれてしまっていたのでしょう。

 境内の中からは、美味しそうな良い匂いが漂っていました。あまり嗅いだことのない匂いでした。僕はそれに誘われるように、鳥居の内側へと入って行きました。

 その匂いの元は、本殿の方にあるようでした。僕は身を屈めて、そろりそろりと拝殿を通り抜け、奥へと進んで行きました。

 本殿の中には人の気配がありました。まずいなぁ、と僕は思いました。本当なら、僕はお祭りの日までここに来てはいけなかったからです。けれど、食欲を刺激する芳しい香りの誘惑には逆らえませんでした。

 僕は障子の戸をスッと引き、その中に身をスルリと滑り込ませました。

 本殿の中は御神体があります。普段、それを目にする事は人には許されていません。けれど、その日はいつもと違っていました。

 本殿奥の台座の上に、御神体である像が晒されていたのです。御身体の左眼にあたる部分は抉られ、左脚は削られていました。その手前には、見たことのない誰かが座っていました。

 その誰かの周りには、所狭しと料理や食べ物が並べられていました。この辺りでは滅多に見ることのない鯛や鰰もありました。

 僕はごくりと喉を鳴らし、つい身を乗り出してしまいました。

「そこに誰かいるの?」

 僕が動いたことを察知したのか、座っていた誰かは声を発しました。

 抑揚の少ない、落ち着いた声でした。

 僕は慌てて、身体の動きを止めて自分の口を塞ぎましたが、時すでに遅しでした。

「ねぇ、そこにいるの? 怒らないから教えてちょうだいな」

 その人は、僕の方に身体を向けてそう聞いてきました。よく見ると、その人は顔の両目がある部分にグルグルと赤く滲んだ包帯を巻いていました。きっと目を塞がれていて、僕の姿を見ることが出来なかったのだと思います。

 観念した僕は、障子の影から姿を現し、食べ物の匂いに釣られてここに忍び込んだことを正直に話しました。

 すると、その人は口元を抑えてクスクスと笑いました。僕はその姿を見て、すごく綺麗だと思いました。

 身に纏った鮮やかな着物も、長く美しい黒髪も、この世のものではないみたいでした。

「だったら、こっちにいらっしゃいな。お腹が空いているのなら、どうぞ召し上がれ。私一人で食べるのには、少し多すぎるから」

 優しく手招きされ、僕は本堂の奥へと入っていきました。

 用意されていた食べ物は本当に美味しくて、僕は数日後にお祭りがある事も忘れて、お腹いっぱいに食べてしまいました。

 満腹になって、僕はようやく一つの疑問を抱きました。目の前で座しているこの人は、いったい誰なのだろう。

 僕がそれを尋ねると、その人は少しだけ悩む素振りを見せた後に、こう答えました。

「カミサマだよ。私はカミサマ」

 そう言ってカミサマは微笑みました。

 赤黒く滲んだ包帯の端から、つーっと赤い液体が頬を伝っていました』

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