赤い口承

葉島航

第1話

 これは一人の男が道を踏み外すまでの話だ。

 男の名前は斎藤伝助。こいつは頭の毛が金ぴか、ついでに頭の中身もおめでたい。髪形は何というのだろうか、こいつの通っていた高校では「パイナップル」だとか言って陰口をたたかれていた。その当時、本人が気づいていたのかどうかは知らないが、少なくともそれを気にしているようなそぶりは見せなかった。

 今、伝助はボコボコの軽自動車を走らせている。後部座席に並んで座っているのはじいさんとばあさん。伝助の祖父母だ。

「そろそろこの車も買い替えにゃならん」

 じいさんが言うと、伝助は「さんせーい」と間の抜けた声を上げる。

「この車、ボコボコだし、最近エンジンも変な音するしー。新しい車買ってよ」

「馬鹿言え、この車をお前に譲って、俺が新しい車を買うってことだ」

「なんでよ。ケチくさいなー」

「この車をボコボコにしたのは誰だと思ってるんだ」

 じいさんの言う通り、車をボコボコにしたのは伝助だ。運転が荒っぽく、ガードレールやら縁石やらにすぐこする。対人や、著しく他の人に迷惑をかけるような対物の事故がないのが不思議なほどだ。そもそもじいさんは、伝助が免許を取ってすぐに自分の免許を返納している。ばあさんははなから免許なんて持っちゃいない。

「それよりも、お前、仕事の方はどうなんだ。頑張ってるのか」

「まあ、それなりって感じ?」

 現代人らしい回答にため息をついてから、じいさんは笑った。

「高校の時は悪さばかりしていたからな。大学なんて夢を見ずに、体を動かして働くのがお前の性に合ってるのかもしれん」

 高校時代、金ぴかパイナップル野郎の成績は、当然地を這っていた。働き始めてからの人とのやり取り――いわゆるコミュニケーション――を見るに、そこまで地頭は悪くはないようにも思える。しかしこいつは、如何せん努力というものをして来なかった。努力とも言えない少しの積み重ねもして来なかった。小学4年のころから宿題は一切出せなくなり――それまでも出せたり出せなかったりだったが――、結局のところ、分数の掛け算割り算が分からないやつに二次方程式が分かるわけもないのだ。ただ、こいつの場合は「怠慢により積み重ねに失敗した」というわけじゃない。「積み重ねができる環境になかった」というのがしっくり来る。シンプルに言えば、こいつに口やかましく「宿題はやったか」と聞いたり、「宿題ができるまでテレビは消すぞ」と叱ったりする大人が周りにいなかっただけだ。

「それはそうかも。勉強はからっきしだったからなぁ。お二人に甘やかしてもらったおかげで」

 伝助が皮肉たっぷりに切り返すと、じいさんばあさんは反論できない。きっと伝助としては「誰が甘やかしたって?」などと返されて、ひと笑いして終わり、くらいのつもりだったのだろう。しかし、仕事で家にあまりいなかったじいさんと、伝助に対して強く言えなかったばあさんには、伝助の言葉は図星すぎた。

「まあ、確かに、わしらが甘やかしすぎたのかもしれんな」

 じいさんの言葉に、伝助は「ほら、認めたー」と切り返す。どうやらこいつは、気まずい雰囲気を勢いでごまかすことにしたようだ。

 じいさんは再びため息をつく。

「またお前は、話が真面目になりかけるとすぐに茶化す」

 それは伝助の、長い時間をかけて形成された傾向だった。

 また話は高校時代にさかのぼるが、成績が悪いと言うと、たとえば教員のような連中は「それでも光るところが一つはある」とかなんとか言う。たしかに伝助は、家庭環境を考慮すれば相当まともに育った部類だろう。しかし、人を包み込むような優しさはない。むしろ、悩みだったり真剣な相談だったりを、茶化して場を収めようとするところがある。同級生たちの中で、伝助に対する好き嫌いが分かれたのもそのせいだろう。悩みを笑い飛ばされてスッキリできるやつは仲よくなれる。そうでない人間にとっては、こいつの発言はひたすら苦痛でしかない。

「でもまあ、昔と比べると、相当立派になったな、お前も」

 じいさんがぎこちなく言う。これまで黙っていたばあさんが、「そうね」とおっとりした声で言う。ばあさんは、じいさんの手を固く握っている。

 伝助は何も言わない。突然褒められて、戸惑っているのかもしれない。それとも単純に、混雑した道路で路上駐車の車をよけようと必死になっているだけなのかもしれない。

「お前は、悪さばかりしていたからな」

 じいさんの言うとおり、伝助は品行方正とも言い難かった。髪の色がその筆頭だ。人を傷つけ、貶めるようなやんちゃはして来なかったが、「迷惑をかけたかどうか」という点では、周囲の悪友に負けも劣りもしない。

 高校時代――またまた高校の話だが――には、仲間と共謀して「一つの事件に複数のトラブルを仕込む」ことに熱中していた。中三が模試を受けている最中に、チームAが廊下でドタバタと鬼ごっこを開始する。文字通り鬼の形相となった教員が、廊下に集まってきたところで、チームBが校庭で打ち上げ花火を上げる。教師の目が離れた隙に、チームCが放送室へ忍び込み、当時人気だったアイドルのライブCDを全校にかける。廊下、校庭、放送室と、教員の注意が散漫になった瞬間を狙って、模試を受けていたチームDが集団カンニングを起こす。この「ドタバタ花火ライブカンニング事件」は未だに語り草だ。ちなみに、伝助はチームB。

 ともあれ、斎藤伝助とはこのような男なのだが、そのくせ大のおじいちゃん子だった。一般的には「憎めないくそったれ」とか呼ばれるのだろう。

 三人の乗った車は、道路を進んでいく。

 伝助のじいさん――今まさに後部座席に座っているじいさん――は、名を斎藤勇と言い、文学・民俗学の研究者だ。鷲鼻に黒縁の眼鏡を掛け、額が広く、そのくせ襟足は束ねるほど長い。昨年まで大学に勤めていて、フィールドワークやら、インタビューやらで学生と一緒に飛び回っていた。家にあまりいなかったというのは、そのためだ。

 当時小学生だった伝助を連れ、この村に越してきたときは、完全によそ者の扱いを受けた。じいさん自身、寡黙で人好きのする性質ではなかったのだ。しかし、口承文芸が専門とだけあって、村人の話には誰よりも丹念に耳を傾けた。そのためか、次第に周囲の当たりも和らぎ、今では「学者さん」の呼び名で一目置かれている。

「それで、体調はどうなのよ。後部座席で吐かないでくれよ」

 伝助が尋ねる。じいさんは、昨夜、ばあさんと伝助の目の前で吐血したばかりだった。夕飯を食べている最中、伝助の冗談で笑い、少しむせたと思ったら、パシャリ。今までになかったことで本人も周囲も驚いていたが、すぐに回復し、きっと昼に食べたトマトスライスが出てきたのだろうということで話は落ち着いた。伝助もばあさんも、吐いたそれがトマトにしては赤すぎることに気付いているはずだ。ただ、本当のことを口に出すのは、誰だって怖い。

「問題ない。今なら100mだって走れる」

 さすがは伝助のじいさんと言うべきか、こういうときも減らず口は健在だ。昨夜、救急車は呼ばなかったものの、大事をとって病院に向かっている車内なのだ。

「分かった。それなら病院まで自力で走って行ってくれー」

「わしは平気でもばあさんがしんどい。お前は鬼か」

「鬼って、じいさんの大好きな伝承じゃないんだからさぁ」

 別にじいさんが鬼の伝承を好んでいるとかいうわけではない。ただ、口承文芸を専門にしている以上、鬼だとか、祟りだとか、そういった情報に触れることはとても多い。その土地に伝わる伝説、昔話、言い伝え、風習、etcetcetc……。今では学校の怪談でさえ民俗学の範疇なのだ。

 じいさんが民俗学的な口承を蒐集している以上、それを伝助が耳にする機会も多かった。とはいえ、ネット上に転がっているような怖い話と比べても、オチもなく山場もなく、やはりどこか盛り上がりに欠けるようなものばかりだったのは否めない。しかし、じいさんは食事時になると――特に酒が入っていると――見聞きした事柄を伝助へ語りたがった。伝助も伝助で、「面倒くさい」「俺に聞かされても」などと憎まれ口をたたきながら、それでも最後まで聞いて、一言二言コメントするのだ。やっぱり、こいつは大のおじいちゃん子なのだ。

 今まで祖父の話した中に、たとえばこんなものがある。

 この村の村長から聞いた話。この村の三つ目の鬼門は、どうやら西の祠にあるらしい。そこは昔、土地神を祀る神社だったそうで、昔は鳥居も本殿も、しっかりと造ってあったそうだ。しかしこの村が隣の市町が開拓されたあおりをくって、少しずつ整備されていく中で、その神社は取り壊されてしまった。移転も何もなし、実に罰当たりなことだ。今じゃ、何の変哲もないブロック塀が建てられた竹やぶになっている。竹やぶにして放置するなら神社を撤去する必要なぞなかったようにも思うが、ともあれ、そのブロック塀の裏手に、人目につかないようにこっそり祠のような祭壇のようなものが設けられていて、そこが鬼門になっているらしい。祭壇は、鬼門を封じ、安全な霊道を確保するためのものなのだ――

 一般的な目で見れば、村長はこの上なくいかがわしい。まだ四十代で、しかも隣の市町にそそのかされて開拓を強引に進めている張本人だ。そんなやつの口から、鬼門がどうのという話が飛び出るとは到底思えない。神社が取り壊されたというエピソードはさすがに本当かもしれないが、誰が見てもリップサービス以上のものではないだろう。そもそも、この村には鬼門の伝承が多すぎるのだ。村長の話は「三つ目の鬼門」だったが、じいさんの情報によると、すでに五つほど、鬼門の話が集まっている。

 しかし、じいさんもバカではない。じいさんが仕入れた話を人に話すときは、どこかしらで裏が取れているはずだった。複数の村人から同じ話を聞くことができたのか、あるいは風水や易学に当たって確かに鬼門がその方角にあることを突き止めたのか。信頼性を重視する点では、村人が言うようにさすが「学者さん」なのかもしれない。

「まあ、元気になったら、またフィールドワークに出ればいいじゃん。この村なら、たぶんもっと鬼門の話が出てくるでしょ?」

 伝助の言葉に、じいさんがうなずく。心なしかうれしそうに見える。

「もう鬼門の話はこりごりなんだがな。もっと、この村の政とか祭事とか、そういったことの方が聞きたい」

「それは前、調べ尽くしたって言ってたじゃん」

「それもそうだが……。別に怪談だって悪かないが、もっとバラエティ豊かなもんがいい。花子さん、口裂け女、いくらでもありそうじゃないか。鬼門なんて地味だ」

「じいさん、そんなこと言ってたら村の人たちにいじめられる」

 車はいつしか渋滞の中にはまり込んでいた。数十メートル先に病院は見えているのだが。

「久しぶりに隣町まで出てくるとこれだぁ」

「本当ね、何かあったのかしら」

 ばあさんは心配そうな声を出す。さっきから口数が少ないが、じいさんの体調のことで気をもんでいるに違いない。どおりで、伝助がいつもより饒舌なわけだ。

「たぶん、何かあったわけじゃない。この時間だから出勤ラッシュだと思う」

 ばあさんの希望で朝一の診療を目指したのが裏目に出たようだ。病院を過ぎた向こう側は町の中心部で、役所もビルも学校も商店もある。くたびれた顔の人々がこぞってそこを目指しているのだ。

「こういうときこそ、退職者として優越感を感じるなぁ。ざまあみろ」

 じいさんが歯抜けの口で、ろくでもないことを言う。

「本当は俺だって今日出勤だったんだぞ。電話したら社長が許してくれたけど。『じいさんを病院に連れて行って、安心してから働け』だってさ」

「社長って、鈴村さんか。あの人には頭が上がらんな。今度菓子折りを持って行こう」

 伝助は「鈴村製鉄」なる工場で働いている。夏場は特に灼熱地獄で、2リットルのペットボトルを勤務中に4本は飲み干すほどだ。給料も高くはなく肉体的には過酷だが、伝助にはぴったりと言える。そもそも、こいつはニートになりかけたところを、じいさんのつてで鈴村社長に拾ってもらったのだ。鈴村社長は、学生時代、じいさんの講義を大学で受けたことがあったらしい。

「菓子折りなんかいいって。俺からお礼言っとく」

「バカたれ。そういうのはしっかりしておくもんだ」

 じいさんは口が悪いから、すぐ「バカたれ」「アホたれ」と言う。しかし、伝助に対して本気で怒ったことは一度しかない。

 あれは伝助が小学六年生のころだったはずだ。バカたれの伝助はほんのはずみで、「伝助って名前、かっこ悪い。俺、別の名前がよかった」みたいなことをほざいたのだ。

 そのとき、じいさんは「バカたれ」も「アホたれ」も言わなかった。ただすばやく、伝助の頬を張り飛ばした。ばあさんが青くなって、ちょっとあんた、と叫びながら止めに入った。じいさんはそれ以上、泣きそうな伝助にどうこうしようとはしなかった。ただ、「お前の父ちゃんと母ちゃんがどんな思いでお前に名前を付けたのか、今晩寝ずに考えろ」と重い口調で告げた。

 伝助がその晩本当にそのことを考え続けたのか、それとも立ち直ってすぐに寝入ってしまったのかは分からない。ただ、自分の名前や見てくれを否定することはそれ以降一度もなかった。

 これがじいさんのマジギレエピソードだが、無論、伝助の方にもマジギレエピソードはある。回数は、同じく一回だ。金髪をパイナップル型にしている若者としては、非常に少ないのではあるまいか。そう考えると、こいつも捨てたものではない。

 マジギレの理由は、それほど大したものではなかった。ただ、タイミングと、じいさんばあさんの言い方が悪かっただけだ。じいさんもばあさんも伝助のことを甘やかしてはいたが、古い人間らしく世間体を重んじた。だから、高校生になった伝助が突然髪を金色に染めたときは、二人してぐちぐちと文句を言った。年頃の若者が、カッとなるのも無理はない。

 そのとき、伝助は拳でじいさんの顔を殴りつけていた。手の甲はじいさんの口に当たり、血と歯の欠片がぼとぼとと垂れた。じいさんが歯抜けなのはそのせいだ。

 その場で一番青ざめていたのは、口を押えてうずくまったじいさんでも、タオルをもって介抱するばあさんでもなく、自分の手を見ている伝助だった。こいつが何を考えていたのかは知る由もないが、どこか、「肉体的にじいさんを超えてしまった自分」「じいさんばあさんを傷つけうる自分」に怯えているような感じだった。だからこそ、こいつのマジギレは一回だけで済み、「家庭環境を考慮すれば相当まともに育った部類」に入ることができたのだろう。

「こりゃ、進まなさそうだな。じいさんもばあさんもここで降りて、歩いて行ったらどうだ?」

 歩けない距離ではない。じいさんも体調は落ち着いているようだし、合理的な判断だと言えそうだった。

「そうだな。そうするか」

 じいさんが言うと、ばあさんがすかさず心配する。

「体調はいいの? 大丈夫なら、私はいいんだけれど」

「問題ない。行こう」

 後部座席の扉を開け、じいさんとばあさんは歩道に出た。ばあさんがじいさんの手をしっかり握り、病院へと歩いていく。伝助は煙草に火をつけた。

 車の列が動き出したのは、それから2、3分後のことだった。一車線の道路で右折の車がいたことが渋滞の原因だったらしい。伝助はあっけなく渋滞を脱してしまった。

 診療が終わったら、じいさんかばあさんが電話をかけてくる手はずになっている。それまで時間をつぶさなければならない。

 軽自動車はパチスロ店へと吸い込まれていった。

 店に入ってからスマホに電話がかかってくるまで、ちょうど一時間だった。伝助はその間、ひたすら煙草を吸い続けた。パチンコ台のレバーを何度も引いた。買ったばかりの煙草が空になった。ATMで貯金を下ろした。玉をじゃらじゃら入れた。十万を使い切った。

 電話を取った。ばあさんの声は震えていた。じいさんは即日入院となった。当面の着替えや洗面器具を運んだ。翌日、伝助は小型テレビを購入した。病室に、本や小型テレビを運び込んだ。一週間後、じいさんは帰らぬ人となった。

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