第2話 箪笥事件

箪笥事件から五年ほどたち、私が小学二年生になった頃、母親はパート勤務を始めた。その仕事は、たまに土日も業務があったため、出勤することがあった。そんな時、父親は祖父母の家に私と妹を連れていくことがあった。孫に会いたい、という祖父母の願いをコッソリ叶えていた父親の行動を、母親は黙認していた。単純な私は、箪笥事件は自然に時効が成立したのかな、というくらいに捉えていた。

 祖母は昔の事件を忘れたかのように、孫を本当に可愛がってくれた。デパートのおもちゃ売り場では、いつも持ちきれないくらいにおもちゃを買ってくれたし、八階のレストランフロアでは、いつもごちそうを食べさせてくれた。そして口癖のように言っていた。

「楓ちゃんのパパが小さかった時は、戦後間もない頃で、食べていくことに精いっぱいやったから、おもちゃなんかは、一個も買ってやれんかったんや。果物一つ、買い与えてやれなんだ。七階の食堂で、お子様ランチすら食べさせてやることも、できんかった。だからせめて孫には昔、息子にはしてやれんかったことを、精いっぱいしてやりたいと思っとるんや。」

 このような祖母の償いは、姉妹が大きくなってからも続けられた。そして私が大学生になり、上京してからも、帰省するたびにお小遣いをくれた。

「アルバイトもしとるし、もう貰えんわいね。」

と私が遠慮しても、必ず一万円を握らせた。

         

 それは私が二五歳を迎えた二月の終わり、まだまだ白い季節だった。

優也との縁の切れ方に身も心が疲れ、廃人のようになっていた私は、妹が地元で就職が決まり、実家に帰ることになったのを受け、両親の懇願もあり、一緒に実家に戻ってきていた。そして知り合いのコネの力を、ほんのちょっとだけ拝借し、市内の中学校で臨時的任用講師として働いていた。

公立高校の入試に向けて、調査書や願書の最終チェックなどの業務に追われ、疲れ切って帰宅した私に、母が突然ものすごい剣幕で怒りをぶつけてきたのだ。

「楓、学校の金を使い込んどるって本当かいね?生徒の集金のことや。今日、泉出町に住んでいる親戚から連絡があって、新金石のいとこから聞いたって言うんや。」

 寝耳に水とはこのようなことを指すのか。

どこからそんな話が湧き出てきたのか。小型の金槌で後頭部を思いっきり殴られたような衝撃を抱きながら、私は母の額を穴が開くほど、じっと見つめた。

「あのさ、あたし講師やよ。正規職員じゃないんだよ。金勘定なんか学校側はさせんわいね。そんな責任を講師に持たせん。あたしは非正規雇用なんだからね。それに地元では今年、初めての中学校勤務だよ。常識的に考えたら分かる話じゃん。それに第一、学校の金庫の在処すら知らんよ。どっからそんな話が沸いたんや?」

「昼間から、パパの方の親戚からいっぱい電話がかかってくるんや。楓ちゃんが勤め先の中学校のお金を使い込んどるそうやけど、本当かいねって。パパの弟のほうにも、そんな話が来たみたいで、今、パパが弟のところに、どこから飛んで来た話なのか聞きに入っとるわ。」

 全くをもって迷惑千万な話である。私は冷えて少し固くなったエビフライをもたもたと食べながら、頭の中で犯人の捜索に精を出していた。 


故郷に戻ってきて一年も経っていない。

一体誰が、こんな話を作り、流しているのか。

一〇カ月足らずの間で、早くも私は敵を作ってしまったのか。

 ともかくこんな噂、さっさと収束させることに越したことはない。私は正規職員ではなく、非正規雇用だ。この時期に、変な噂が教育委員会管轄の教育事務所に入ったら、来年度、辺鄙な山奥ところに飛ばされるだけで済まなくなる。来月の中旬には、次の赴任校が決定し、携帯電話を通じて伝えられる手はずになっている。今、教育委員会がせっせと講師連中の、来年度の赴任先を振り分けている真っ只中だ。この時期におかしな噂は、どんな些細な物であっても揉み消しておかなければならない。四月からの生活がかかっているのだから。 

悶々とした気持ちを抱えながら夕食を終え、さっさと風呂に入り、父親の帰りを待った。来月中旬に行われる卒業式に向けて、髪を伸ばしていた私は、丁寧にタオルドライをし、洗い流さないトリートメントを、いつもよりもしっかりと髪になじませながら、ゆっくりと呼吸をしていた。     

七割がた髪が乾いた頃、父が帰宅した。外はたいそう寒かったようで、目の中までしっかり冷え切った様子だった。

「どうやったいね、あんた。」

「どうもこうも。」

「どうもこうもって。」

母は父のコートを受け取りながらも視線は、父の顔から外さなかった。父はため息を何度もつき、私の顔を見た。

「おふくろが、親戚中に電話しとったんや。」

「お婆ちゃんが?」

生乾きの髪が急に冷却を始めたかのように、頭皮が急に冷え込む感触を覚えた。

寒い。

痛い。

私は意外な真犯人の逮捕に、急に吐き気を覚えた。

「お婆ちゃんが、なんで?」

父はこたつに足を入れ、ミカンを手に取った。

「おふくろの家に弟と行って、おふくろに、なんでそんなことを言い触らしたんや、誰から聞いたんや、って聞いても、話にならんがや。」

「話にならんて、どういうことや。」

母は父のコートを持ったまま、声を荒げている。気に食わない相手の名前が久しぶりに出てきたからか、なお声に赤みが帯びたようだ。

「わしの質問に答えんと、ずっと終始、私は箪笥を開けとらん、中を見ていない、って言い続けるんや。こっちは今、その話をしとらん、楓の学校の話をしとるんや、って言っても、なんもずっと箪笥の話から離れんがや。だから会話にならんし、わしらが疲れてしもて、もう帰ってきた。」

「箪笥を開けてないって、ずいぶん昔の話やがいね。もう二〇年以上も前の話や。まだ、あんたのお母さん、そんなこと言っとるがかいね。しつこい人やね。やっぱりおかしな人や。もう終わったことをまだ出してきて。」


いや、まだ終わっていなかったのだ。

あの箪笥事件は、まだ続いていたのだ。

二十三年前のあの大雪の日からずっと祖母の魂は、座敷の隅に鎮座したままだったのだろう。

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