第37話 紀行文パート~スパニエル訪問記~

〈――ワチワ湿地帯を抜けて三日ほどが経った。またぞろジャックが古代の史跡群を見つけたらしく、馬車を止めろとうるさいので、やつが駆け回っている時間を使って紀行文の執筆をしてしまおう。


 スパニエルを出発する際に宿屋の主人に聞いた話の通りなら、もうあと一日もしない内にバーニーズ山脈を越える為の山道の入り口に着く所まで来た筈だ。道すがら出会った旅人たちが言うには、バーニーズ山脈は旅人の間でもかなりの難所としてその名を轟かせているらしい。


 典型的なインドア派である筆者に果たして山登りなど耐えられるのだろうか。道中、少しでも休める場所があれば良いのだが。


【スパニエルの街】


 ペンブローク王国スパニエル領の中心地。当面の目的地であるレークランドへの足掛かりとして筆者たちが立ち寄った、人口約二万二千人の中小都市である。


 バーニーズ山脈の南麓に広がるロットワイラー台地の切り立った崖に面した場所に、初代領主コッカー・スパニエルによって作られた小さな街を前身としている。


 バーニーズ山脈から発する河川がロットワイラー台地の断崖絶壁によって滝となっている場所、すなわち滝線の付近に位置する地形上、古くからその水位差を水車動力源とした織物業や製粉業などが盛んであり、王国黎明期より王都とスパニエル領各地との中継都市として発展していったという。


 筆者たちが立ち寄った時にも、ちょうどペンブローク王国の重鎮が訪問していたこともあり、街は大変な賑わい様だった。そこかしこに食い物の屋台が立ち並び、筆者も取材を兼ねて食べ歩きをしてみた。


 筆者にとってはどれもこれも見たことのない料理だらけで、その上故郷の料理よりはるかに美味。とある屋台で供されていた「サカダチウオのソテー」という、脂のたっぷりのった白身魚を何種類かの香辛料と柑橘系の果汁で味付けした魚料理などは、「思わず逆立ちしたくなる美味しさ」という売り文句通りに絶品だった。


 初日に一口食べた瞬間から「これを毎日食べるんだ」と心の中で決めていたのだが、その夢が、間の悪いことに治りかけていた口内炎が倍の大きさになって再発したことで滞在二日目にして脆くも崩れ去ったことだけがとても悔やまれる。


 この先の旅で、またあのような美食にありつけることを祈るばかりである。


【スパニエル糸】


 スパニエルの街で古くより製造されてきた特産品。スパニエルを隠れた織物のメッカたらしめている要因の代表的な例である。


 細くて丈夫な上に手触りも申し分ないということで、スパニエル市民には勿論、王都や大都市の住民にも、衣服や家具など様々なものの素材として重宝されているとか。筆者らも街の市場に寄った際に見かけ、ジャックが防具の素材として大量に購入した。


 この糸の不思議なところはその色で、水に濡れるとはっきりと色が変わるのだ。例えば元々白い糸は水に濡らすと赤色に、青い糸は黄色に、といった具合である。


 また、複数の色を組み合わせることによっても濡れた後に変わる色が違うらしく、一度色が変わっても再び水に濡らすと元の色へと戻るそうだ。こういった特徴から、今もスパニエルの織物職人たちによって、日々新しい色や組み合わせの開発が進められているという話だ。


 ちなみに、これはまったくの余談であるが、筆者が街の酒場で小耳に挟んだ、街の中でも都市伝説扱いされている噂がある。


「水に濡らすと透明になる組み合わせがある」というものだ。非常に興味深い。とあるな織物職人によって秘密裏に開発されたらしい。非常に興味深い。更にはその糸を使って仕立てられた、「濡れると透ける服」なる代物もあるらしい。


 非常に、興味深い。興味深いのである――。


【アンブル】


 アンブルとは、〈アイベル大陸〉が筆者に向けて放った「刺客」である。


 というのは半分冗談で、正確には〈アイベル大陸〉に住む人々にとって老若男女、士農工商、王侯貴族から一般庶民問わず幅広く愛されているらしき、ごくごく一般的な飲み物である。


 本書でも【ウィペット村】の項目で少し触れたのだが、その圧倒的な存在感を鑑みて、この度単体の項目を作ることにした。


 薄く半透明なオレンジ色の見た目をしたこの発泡性の飲料は、そもそも目の前に出された時点で思わず殺意が芽生えるほどの強烈な臭気をまき散らしているのだが、それを辛うじて耐えて手に取ったとしても、今度はその液体のりのようなドロリとした質感に更に嫌悪感を抱かされる。


 そして、全てを捨てる覚悟でそれらの洗礼を掻い潜り、いざ口に入れた瞬間、己の行いが蛮勇ではなくただの愚行以外のなんでもなかったことを悟るだろう。


 筆者がアンブルの味に関してこれまで詳細に記述してこなかったのは、なにも思い出したくもない味だから、などという精神的な話ではない。あまりの不味さに脳が突発的な記憶消去を行った為に思い出すことができない、という物理的な可能性が高いからだ。


 筆者の後に続く〈アイベル大陸〉への渡航者諸君は、くれぐれも興味本位でこの悪魔の飲み物に手を出すようなことはせず、またもし酔狂にも一気飲みなぞしようと考えた際には、味覚が使い物にならなくなった後の人生をどう生きるかを真面目に考えることをお勧めしたい。


 ※ ※ ※ ※


 スパニエルの街を出発してしばらくが経ったが、新たに筆者ら一行に加わった〈竜人種〉の少女騎士ラヴラも、この旅人生活に少しずつ慣れてきたようだ。


 元々故郷を出てからスパニエルの街に落ち着くまでに多少の一人旅はしていたらしいので、正確にはカンを取り戻したと言った方が良いかも知れない。ただ、筆者が彼女の名前を呼ぶと時々短く悲鳴をあげることがあるのは気がかりだ。


 何か怖い事でも思い出しているのだろうか。これから一緒に旅をする仲間として、出来る限りの心のケアをしていきたいものである。 

                    大陸歴五〇××年 オデムの月 三日〉

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