第二部:悪霊憑き、恐怖を乗り越える

##1奴隷少年、悪霊に憑かれる

 誰からも忘れられた洞窟の中、眼下。

 

 獣人の少年が、死んでいる。


 リスの耳、リスの尻尾。白いシャツにハーフパンツ。

 その少年は純真だ。名は、フォボスという。


 ここは奴隷集落だ。

 正しくは、つい先程まで奴隷集落「だった」。


 たった二人の英雄の手によって、文字通り崩壊させられたのだ。

 集落には大きな建物がいくつかあった。奴隷主の館、食料庫。奴隷が集団で暮らすプレハブ。

 そのどれもに、人の気配がない。英雄が、全員連れて行ったのだ。発見しそびれたフォボスを除いて、一人残らず。

 勘違いしてもらっちゃ困るけど、彼らは悪人じゃあない。フォボスがこうして死んだのは、事故だ。

 英雄の片方には、以前親交があった気がする。

 ボクの記憶はもう殆ど消えているから、声も思い出せないけれど。

 

 でも、その英雄を、人殺しにしてしまうのは、流石のボクでも胸が痛む。


 だから、この、目の前のフォボスくんを、生き返すことにした。


 ボクは、彼の中に潜り込む。

 造作もない。こういう事ができるのも、ボクがヒトじゃないからだ。

 風の精霊。瓢風の神に造られた、ヒトが素材の人外だ。


 ボクが入り込むと、彼の指先がピクッと動く。

 時間は、それほど残されていない。


 鉛のごとく重い彼の口を動かし、呪文を発する。

 

 「《リアニメイト》」


 この呪文は、蘇生の呪文。

 英雄が置き去りにした魔力の残渣を拝借し、フォボスの体内に集めてゆく。

 フォボスは、魔術師ではない。

 いくらボクが体を動かしているからと言っても、彼に魔力を貯めるのは、穴の空いたバケツへ水を注ぐかのように非効率だ。

 集めたそばから漏れていく魔力を再度かき集め、循環させる。

 

 大仕事だ。

 生命の復活は、基本的に個人でやれることじゃない。

 基本的には複数人での儀式を必要とする。それは、ヒトの身ではないボクだって同じこと。

 

 何の因果か、英雄が振りかざした異常なまでの魔力が、今回それを可能としていた。


 洞窟の中の闇が、深くなる。

 近くに生えていた苔も瑞々しさを失い、フォボスに生命を献上している。

 死者の蘇生は禁呪だ。ボクの使った呪文は、闇の領域にあるからなおのこと。


 この調子で、だいたい十分くらい経った。


 「すぅ……」

 やがて、フォボスから寝息が漏れる。

 心臓が動き出し、かりそめに傷の癒えた体に、体温を供給する。


 いじらしい。


 これは彼から自然と漏れ出た音だから、生命の注入はできたようだ。


 そして、ひとまず呪文の第一段階は終わりということでもある。

 

 ここは、獣も寄り付かない洞窟の中。邪魔されることはない。

 暫くは手を加えずとも安定するだろう。


 そういうわけで、ふつふつと湧いてきた好奇心に、逆らえなかった。


 このフォボスという少年は、どういう子供だったのだろう?

 奴隷集落の人間が、英雄によって念入りに捕縛ないし保護される中で、彼はひたすら逃げて、この洞窟に隠れていた。


 (少しだけなら、見ていいよね)

 魔が差した。もっとも、ボクは“魔”そのものな気もするけれど。


 脳のあたりに意識を集中させる。

 力ない脈動を感じる。


 (あれ?)


 そういえば。


 (体の中に入ったはいいけど、“考える”とか“思い出す”って、どうやるんだっけ?)

 分からない。

 フォボスの体の中をぐるぐる動き回って、体を動かすことはできるけれど、それだけだ。

 

 (えっと、どうするんだっけ。おーい、神様ー。なにか知らない?)

 ボクを造った神に、問いかける。


 かの神の答えは、すぐ得られた。

 呆れと苦笑だった。

 同時に、適切な呪文をよこしてきた。

 

 (ありがとー)

 無邪気に礼を言い、早速唱える。

 「《リバース・マジック》《アンチ・バインド》」

 フォボスの唇を動かし、何も考えずに行使する。

 拘束抵抗の呪文を逆流させ、己を肉の檻に閉じ込める。


 (おっ)

 効果はすぐに表れる。

 ボクの魂がフォボスの肉体に縛られると、ぼんやりとしていた彼の記憶が、少しずつ読めるようになってゆく。


 (じゃあ、彼の人生を、生まれた時から辿っていこう)

 娯楽小説を読むような気分で、フォボスの過去をたどる。


 直後、彼は絶句することとなる。


 ◆◆


 (なんだ、これは)

 

 まともな記憶が、ない。

 

 例えば、彼が生まれて数日のことだ。


 二人の男女が、なにかやり取りしている。目はまだぼんやりとしか見えないから、音だけだ。

 男の方は興奮している。下卑た笑い声を立てながら、まくし立てる。

 「生まれたねえ、生まれたねえ!」

 直感でわかるが、彼は父ではない。

 また、愛人でもない。眼の前の利益に期待する者の声だ。

 「……はい」

 女の方は、鎮痛そうにしている。

 そして、これから起こることに、恐らく極めて激しい罪悪感を感じている。

 「じゃあ、これあげるねえ、あげるねえ!」

 数枚の硬貨が音を鳴らし、女が持つ、脆い石の器に落ちていく。

 女はそれをそそくさと手に取り、確認する。

 「……ありがとうございます」

 言葉ではそう言っているものの、声は上ずり、今にも悲しみで泣き出しそうだ。

 「持ってくねえ、持ってくねえ! 今度もよろしくねえ!」

 男は契約が成立したことを確認すると、まだ首の坐らないフォボスを抱きかかえ、ギシギシと床のきしむ、あばら家から外に出る。


 直後、女の泣き叫ぶ声が、背中に突き刺さる。

 男は歯を食いしばり、あばら家へ戻りたい衝動に耐える。


 つまり。

 この赤子は、売られるためにこの世に生を受けたのだ。


 「やってられっか、クソが」

 男は道化を繕うことも忘れ、吐き捨てる。

 下手に共感し、子供の売り手に同情すれば情がわき、すぐさまこの仕事は成り立たなくなるだろう。

 ゆえに、赤子を回収する場面では、彼は自身の力量を隠すこともなく、異常者を演じる。

 仕事は仕事、己は己で切り替えているのだ。

 それでも、己がどう解釈しても悪人である自覚もある。

 彼は、まだ振り切っていない。だから、苦しいのだ。


 「うあ? あー」

 何も知らぬ赤子は、柔和に笑いかける。

 当時の彼には、それ以外に何もできなかった。


 「おっと」

 我に返る。感情移入するわけには行かないが、大切な商品だ。粗雑には扱えない。

 「とりあえず、泣き出さねェうちに引き渡しのポイントまで行くか。《アクセラレーション》」

 靄のケープを羽織り、気配を弱める。加速の呪文を唱え、移動速度を上げる。


 奴隷商人の尖兵は、こうしてフォボスを社会から取り去った。


 ◆◆


 他の記憶はどうだろう。


 胸がムカムカする感覚を覚えながら、精霊は記憶をシークする。

 現代社会の読者には、『SNSを読むと嫌な気持ちになるのに、何故か一時間くらい読んじゃった』過去をお持ちの方も居るだろう。


 この精霊も同じだ。気になってしまったものは、どうしても気になる。


 (フォボスくん、いつ名付けられたんだろう)

 恐怖フォボス。ミトラ=ゲ=テーア共和国では、ありふれた単語だ。

 気弱で、小動物みたいな彼が、なぜそう呼ばれるようになったのか。


 (このへんかな。意外と最近だ)

 すぐに探り当てる。

 肉体との同調度が上がっているためか、あるいは、精霊が慣れてきたためか。

 とにかく、彼は目当ての記憶を読み取った。


 この記憶は、昨年の火の季節。

 森林地帯においても、貫くような日差しと、もわっとした熱気。

 わかりやすく言うと、夏だった。


 その年は、やけに火炎の魔力が強かった。

 (火炎と言えば、そーいや南東の国家で革命が起こった時期もそうだったっけな。火の神の領域。神様、精霊に投入する記憶としない記憶の基準がよくわかんないんだよね)

 ぼんやり考えながら、読み進める。


 場所は屋外。

 食料加工棟のすぐ近く。丁寧に雑草を処理した土の、小さな広場。

 プラタ木製のテーブル、同じくプラタ木製の椅子。

 普段は品質チェック係がここに居て、ビスケットの瓶詰めを始めとする商品を検品している場所である。


 哀れな少年の視界には、屈強な人間の、引き締まった脚。

 見上げると、腕を組み、意地の悪い笑みを浮かべている女が居た。


 一方、彼の方は正座させられている。

 蛇に睨まれた蛙のように固まり、逃げ出すことなど考えられないようだ。


 「なあ、レヘ74くん」

 ねっとりと言葉を発し、追い詰める。

 彼は、奴隷としてのナンバーで呼ばれていた。

 肩をこわばらせ、目に涙をたたえている。

 

 こうなった原因は、テーブルの上に置かれた瓶。

 封は開けられ、量は半分ほどとなっている。


 要は、商品を食べたのだ。

 

 「分かっているね? これは、この施設の大事な収入源だ。間違っても君ら奴隷が口にして良いものではない」

 諭すように、刺すように。奴隷集落でのルールを刻み込む。

 「だから、キミは罰を受けなくちゃいけない。ここまでは良いね?」

 「ふ、ふぁああ……」


 彼はいよいよ泣いた。

 自分が悪いことはわかっている。

 でも、それ以上に、成長期の彼にとって、量だけが担保された食事は辛かった。


 「スカーセ黙れ

 感情が抑えられない彼の心を、言葉による強制力で麻痺させる。


 「とにかく罰だ。キミは、痛みを覚える必要がある。ワタシがレヘ74に罰を……ふふ……」

 笑みを隠しきれない彼女は、食料加工棟から一つの物体を持ってくる。

 複数の革のひもが、一つの持ち手から触手のように生えている。


 鞭だ。

 彼は思い出す。

 これで背中を何度も叩かれた奴隷が、赤い傷だらけとなっていた姿を。

 

 「尻を出せ、少年」

 女は鞭を上段に構え、彼に命令する。


 嫌だ。だけど。


 立ち上がり、背中を向ける。

 膝丈のズボンに手をかけ、下ろしてしまう。


 彼は、完全に屈服していた。

 正確には、逆らう発想すら持てなかった。

 声を上げ、泣きながら白いパンツも下ろそうとする彼の様子を、女は見とがめる。


 「ん? ちょっと待て。お前」


 地面に、雫が垂れている。

 パンツには大きな黄色いシミができており、そこから柔らかな太ももをつたい、ちょろちょろと垂れているのだ。


 「えっ? あれっ……!?」

 彼女は予想外のことに一瞬固まるが、すぐに気を取り直す。


 「鞭を見て、その恐怖フォボスで漏らしたの!? ちょっ、ごめんねえ! そこまでする気はなかったんだ、ホントごめん!」

 「ふえええええ……」

 騒ぎを聞きつけた他の奴隷が寄ってくる。

 「どしたんす! 姐さん!」

 やってきたのは男女の獣人。

 彼らはなんだかんだでここでの暮らしが気に入っている。違法なほどの薄給だが、一応三食と賃金は出るのだ。

 「鞭見ただけで泣いたってマジか、これからこの子のことフォボスって呼ぼうぜ」

 「やめてあげようよ。なんかしっくり来るからアタシもそう呼ぶけど……」

 フォボスは知らないが。この奴隷集落は、一次資源の産出から加工まで一箇所で行えるプラントとしては、そこそこ成功しているのである。

 「ほら、レヘ44! 45もだ! こっち見てないでスコップ持ってきてこの辺の土入れ替えろ! ワタシはこの子と一緒にシャワー室だ! ああ、もう!」

 「ふあああん!」

 女はフォボスをあっさりと抱きかかえ、奴隷主棟に向かった。


 彼がフォボスと呼ばれるようになったのは、こういう事件があったためである。


 精霊は、二十秒ほど固まる。

 (あだ名ってやつ? 割としょーもないことで呼ばれ始めたりするよね)

 ため息。

 息が出るのは、当のフォボスの口からだが。


 (まあ、見てて可愛いし。なんというか周りの人に嗜虐性が出るのは分かるな)

 精霊の倫理は、それはそれで狂っていた。

 フォボスは、大切にされているとはとても言い難いが、それでも可愛くは思われていたようである。

 

 (さて)

 

 名前の由来については、知ることができたが。


 (この子の記憶、基本的に同じ一日の繰り返しなんだよね)

 朝、起きる。

 麻の服に着替えて顔を洗い、歯を磨く。

 大量のオートミールを食べ、仕事の割り当てを確認する。

 農作業。昼頃に味付きオートミールを食べて、休憩して、また農業。

 日が暮れたら夕飯。今度は一品おかず付き。

 共用のお風呂に入って、歯を磨いて、そのまま寝る。

 コミュニケーションを取ろうにも、周りも全員奴隷だ。教養も、話題もない。強いて言うなら、新入りについてやりとりするくらい。


 五歳頃から、この生活を、何度も。

 

 何度も。


 一日も欠かさず、今まで何度もやっていたようだ。

 

 (子供の扱いとして、あんまり褒められたことじゃないよね)

 恐らくフォボスは、文字通り何も知らない。

 ボクが強制的に読み取った出生のことだって、もはや思い出せないはずだ。


 今の彼にとっては、奴隷集落が文字通りの全てだったのだ。


 (となると、その“全て”が崩壊する瞬間に、フォボスくんは何を思ったんだろう?)


 彼の記憶をシークする。

 止める位置は、今からちょうど一時間前だ。


 異世界で言うところの、中秋。

 水の季節序盤の、狩猟の月。


 農場が収穫期を終え、加工部隊に人員が割かれるようになった頃。


 ビスケットを焼く、甘い香りの漂う加工棟に、よく通る声が響く。

 「うーし、チームCは休憩! 時間はいつも通りきっかり三十分だ! 飯行って来い!」

 声とともに、ベルトコンベア型機械種族ディータを囲んでいた奴隷が、加工棟からぞろぞろと退出する。

 その隙間を埋めるのは、今まで休憩に出ていたチームBだ。休憩のある時間は、他のチームが人員不足分をカバーする手筈となっている。

 チームBに配属されていた、レヘ44(フォボスと名付けた獣人だ)が、すれ違いざまにフォボスへ声をかける。

 「お疲れ、フォボス。今日のオートミールはそこそこ美味いぞ。詳細は食べてのお楽しみ」

 「わあ! いいな!」

 顔を輝かせ、手にタッチして別れる。

 周囲の奴隷との関係は、良好。

 何もなければとても元気な子だ。ひねくれてもいない。

 フォボスは、皆に可愛がられる子に育っている。

 食堂へ走り、干しぶどうの入った甘いオートミールを食べ、腹を満たす。


 でも、今の彼には、美味しい食事よりも興味の惹かれることがあった。

 「最近、食べるのが早いじゃない。また調教棟に行くのか?」

 給仕の奴隷が問う。


 調教棟。

 反抗的とみなされた奴隷を収容し、魔法や機械を用いて従順な奴隷に変える施設。

 言うまでもなく、非人道的施設である。

 そして、そのプロセスは他の奴隷に公開されている。


 「うん! 新しく来たおじちゃんが、また会いに来いって!」

 「そっか。でも気をつけろよ? あいつ、五日目になってもまだ精神抵抗に成功し続けてるって聞いてるぜ? 前代未聞だ。何より図体がデカいし」

 「わかった! 行ってくる!」

 フォボスは話を聞かず、すたこらと行ってしまう。

 身軽な彼は、通行人にぶつかることもない。四肢をすべて使い、走り去る。

 「お、おーう! マジで気をつけろよー!」

 給仕の声を背中に受けながら、一目散に調教棟へ。

 「あ! ふぉー君だ!」

 毎日、何かしら理由を見つけて奴隷集落を駆け巡る彼は、半ばマスコットのような扱いを受けていた。

 好奇の視線を受けても、彼は立ち止まらない。休憩時間を無駄にするわけには行かないからだ。

 

 獣人の疾走で、おおよそ三分。

 受付のエルフ紳士が、砂埃を上げながら近づく彼の存在に気づく。

 「ぜーっ、ぜーっ」

 フォボスは息も絶え絶えに、受付にたどり着く。

 「レヘ74。丁度いつもの時間に来たね」

 「ぜーっ。クレオネスおじちゃん、まだ居る!? おはなしがしたいの!」

 クレオネス。話題の新入りの名前である。

 「ああ、奴は腹立たしいことにしっかり抵抗しているよ。君からもなにか言ってやってくれんかね」

 行け、というジェスチャーを受け、フォボスはそのまま、調教棟の地下に。

 

 地下には、調教棟に送られる奴隷の中でも、ひときわ自我が強いものが送られる。

 クレオネスもその一人だ。

 

 下半身が象の、ケンタウロス型獣人レゲル

 立てば全長四メートルともなるはずの彼は、脚を折りたたみ、窮屈そうに牢で縮こまっていた。


 「クレオネスおじちゃん!」

 初めに見たときと比べ、幾分か痩せた彼は、挨拶の代わりに目線を投げる。

 「来たか」

 弱々しく呟く。

 しかし、今のクレオネスにとって、フォボスが唯一の楽しみでもあった。

 「お話、聞かせて!」

 しっぽを振り、好奇心を隠そうともせず、会話を要求する。

 「……良いだろう。今日は、“井の中の蛙と、それを襲う蛇”の話だ」


 ◆◆


 話の時間は、丁度十五分。

 フォボスの休憩を、半分も使う。

 それでも、彼は聞くことを選んだ。

 奴隷集落には持ち込まれない、世界の外の話を。


 クレオネスの語った言葉を要約すれば、狭いコミュニティで無双し、増長していた彼を、『獣人狩り』と呼ばれる凄腕の戦士が滅多打ちにし、奴隷集落に叩き込んだ、ということである。


 話が終わると、フォボスは目を輝かせ。

 「じゃあ、おじちゃんって強かったんだ!」

 「ああ、それなりには強いとも。最強でこそなかったがな」

 「すごーい!」

 物語を聞き、感じ入る。

 

 「あっ、でも、もう時間だ! 帰らなきゃ!」

 長年に渡るルーチンで叩き込まれた生活リズムが、フォボスに正しい時間感覚を与えている。

 「そうか。もう、終わりか」

 クレオネスは、寂しそうにしている。

 この時が終われば、また気を張り続けなければならない。

 

 「じゃあ、ぼくはもう行くね! また明日!」

 無邪気なフォボスは、地下から出るためのはしごに手をかける。


 そこで、クレオネスは違和感に気づいた。


 「待て!」

 とっさに声をかける。

 「えっ?」

 先程とは明らかに様子が異なる。フォボスは、一瞬固まる。

 「いや、まさか。これは……!」

 頭に手を当て、意識を強く保つ。

 

 無い。


 《インテリジェンス・マーキング》。知的生命一つを対象にとり、それに意識がある間、位置を参照し続けられる呪文。

 クレオネスが収容されてからというもの、彼はその呪文で、『獣人狩り』の所在を大体認識していた。

 言うまでもなく、リベンジのためだ。

 

 その反応が、昼間だというのに、消えている。


 「《エクステンド・マジック》《センス:エナジィ》」

 尽きかけの体力で、探知を行う。

 「なに!? おじちゃん、怖いよ!」

 うろたえるフォボスをよそに、状況を把握する。


 強力な魔力源が、奴隷集落に向けて、高速で近づいてくる。

 《フライ》のスピードではない。より疾い。

 この樹海の中、迷わず、一直線で向かってくる。間違いなく狙いは奴隷集落だ。


 ドクッ……。


 心臓が、強く脈打つ。


 『獣人狩り』に出会ったときと、同じ感覚。

 

 それどころか、呪文の情報から推察するに、『獣人狩り』はそいつにやられている。

 だから、それ以上に強い相手なのは間違いない。


 しかし、誰だ? 何のために奴を?


 「おじちゃん、だいじょうぶ?」

 気づけば、息が荒れていた。

 一瞬一瞬が、ここでの調教を遥かに超える影響を、彼にもたらす。


 やろうと思えば、クレオネスは、いつでもここから出られる。

 ただ、出たところで、良くてこの集落の全員を、最悪の場合それに加え『獣人狩り』を相手しなければならない。

 つまり、分が悪いからやらなかっただけだ。


 そうなると、『獣人狩り』が不在だとわかっている今は、絶好の好機である。


 だが彼は、その選択を取る前に、一つやらなければならないことをこなす必要があった。


 「フォボスくん、よく聞いてくれ」


 彼を、逃がす。

 高まる鼓動を抑え、理知的であろうとする。


 「う、うん」

 ただならぬ様子の彼の言葉を、素直に聞く。


 非常事態であることは、伝わったはずだ。


 「すぐに、ここから、逃げろ。何か、来る」

 「……え?」


 抽象的すぎたか。

 頭を掻き、言葉を選ぶ。


 「君が聞かせてくれた仕事のことは、今は忘れろ。安全そうな場所に逃げるんだ。ここは、戦場になる」

 「えっ? えっ?」

 混乱している、といった感じだ。


 息を吸い込み、落ち着かせるように。


 「行け。これ以上は何も言わんぞ」

 そう言って、背中を向ける。


 数秒の沈黙の後。


 「……うん。また、お話しようね」

 フォボスは、恐怖で痺れる四肢をどうにか操り、地下から這い出してゆく。


 暫く、待つ。

 彼が遠くに離れるまで、待つ必要がある。


 頃合いを見て、クレオネスは鉄格子をこじ開ける。

 筋力増強の呪文だ。『獣人狩り』戦では見せる機会がなかった。見られていなかったからこそ、この場面では使える。


 「じゃあ、行くか」

 

 少し縦に広くなった通路で、伸びをする。

 折り曲げた鉄格子を拝借し、即席の武器とする。

 地上に出て、例の魔力源が奴隷集落に到着したことを確認し。


 彼は。


 「グオオオオオオーン……!」


 一際強く吠え、己の存在を誇示するかのように、解き放たれた。

 

 ◆◆


 黒の神子。

 そう自称する化け物は、この奴隷集落にやってきて最初に降伏を要求した。

 曰く、政府からの依頼で、奴隷解放の一環だということである。


 ところがこの集落の人間は、ここで望んで働いている者が多い。

 だから、聞き入れられはしなかった。


 結論から言うと、それが馬鹿馬鹿しい開戦の合図となった。

 「《エクステンド・マジック》《マス・ホールド・パーソン》!」

 その一セットの呪文で、集落に居たヒトの半数、黒の神子に近かった側の全員が捕縛され、無力化された。

 いくら人口密度の高い部分での魔法とはいえ、これは。


 「……は?」


 加工棟前で検品していた鞭女は、手に持っていた瓶を取り落とした。


 「いや、いやいやいやいや! おかしいだろ! こんな範囲の広い束縛魔法があってたまるか!」

 彼女には魔法の素養がある。『獣人狩り』に稽古をつけてもらったこともある。

 その前提で、黒の神子の魔法を見たときに覚えた感情は、挫折だった。


 無理。あれには勝てない。


 そうと決まれば、後はいかに被害を小さくするか、である。

 彼女は加工棟内部に走り、叫ぶ。

 「野郎ども! この集落は終わりだ! 違法操業の証拠を建設中のキノコプラント予定地に全部放り込め!」

 「えっ?」

 「どしたんす!?」


 どよめく群衆を一喝し、状況を説明。

 彼らは流石に大人だ。理解が早い。

 

 黒の神子が調教棟に向け、樹木を蹴り移りながら移動するさまを横目で見ながら、死にものぐるいで書類を投げ込む。

 無理もない。奴隷は集落との契約に『同意』している。魔術的な拘束だ。それにより、己が有利になるような証拠であっても、疑問を持たずに廃棄する羽目になっているのだ。


 「証拠隠滅準備、整いました!」

 リーダー格のレヘ44が報告を入れる。

 キノコプラントとなる予定だった洞窟の入口付近には、大量の文書が投げ込まれ、足の踏み場はなくなっている。


 「よし! ご苦労! 爆破するぞ! 下がってろ!」

 奴隷はぞろぞろと下がる。当然、危険だ。


 鞭女はどこからか取り出したダイナマイトを取り出し、

 「《イグニッション》」で着火。

 すぐさま放り込むと、奴隷と同じ位置まで退避。


 三、二、一。


 KABOOM!

 爆弾は想定通り爆発し、狙い通り天井は崩落。

 

 「いよォし!」

 「やるねェ! 姐さん!」


 ガッツポーズ、そして、ハイタッチ。


 指笛を鳴らし、歓声を上げながら。

 一行は白々しく、黒の神子に捕縛されに行くのであった。


 さて。


 その、今しがた爆破された洞窟こそが、フォボスの逃げ込んだ場所である。


 爆風と落ちてきた岩によって、彼は誰にも知られることなく、その一生を終えたのだ。


 蘇生の呪文は、最終段階に移行している。

 それは、《リアニメイト》特有の副作用。

 肉体の強化だ。

 

 フォボスの、ふわふわとしたリス耳に、周囲の岩石がまとわりつく。

 岩石は密度を増し、リス耳を固めてゆく。


 「う、ん?」

 すやすやと寝息を立てていたフォボスは、流石に眉根を寄せる。

 聴覚の構造が書き換えられ、耳からは音を拾えなくなる。


 代わりに。 


 彼のリス耳があった位置には、立派なツノが生えてくる。

 その角が周囲の音を集め、新たな聴力器官として、にわかに発達する。


 (蘇生呪文、使ったの初めてだけど、こうなるのか)

 精霊は、彼の得た感覚を、彼と一緒に味わっている。


 (おっと、そうだった)

 蘇生直後に死なれたら、何もかもが水の泡だ。

 念のため、《ガスト・スタブ》を発動して近くの障害物を吹き飛ばし、安全を確保する。

 突風の拳だ。岩石に穴を開けるくらいなら、簡単にできる。

 そして、よろける彼の体を操り、洞窟の外に歩み出る。


 (ここなら安全、かな)

 空を見れば、月明かり。

 精霊が彼に気づいて、蘇生が完了するまで半日はかかったということらしい。


 (よし、と。じゃあ、後はこの子から出ていくだけだ)

 名残惜しくはあるが、お別れだ。


 精霊は、入ってきた時と同じように、彼の肉体を透過するイメージを行う。

 

 するりと。

 

 するり、と?


 (あれ)


 待って。


 (出られないぞ?)


 まさかの事態である。

 

 (神様! へるぷ!)

 困った時の神頼みだ。


 (なに? キミが与えた命じゃないか。責任取って、暫くその中で過ごしたら?)

 是非も無し。

 瓢風神は、斯くも気まぐれであった。


 「んう……ん?」

 やがて、フォボスが目を覚ます。


 あたりを見回し、すぐさま異常に気づく。

 「えっ? 夜!? みんなは!?」

 かつてはぴょこぴょこと動いていたはずの、耳のあたりにある重さにも、気づく。


 「あれっ!? ツノ!? なんで!?」

 魔力を帯びたそれは、じわりと温かい。


 「何がどうなってるの? 怖いよ……」

 夜の森に、一人残されたフォボス。


 当惑と、恐怖と、絶望と。


 しょわああ……。


 「あ……」

 漏れた。


 不快な感覚が、下半身を包み込む。

 

 「うえっ」

 たまらず、精霊が声を上げる。


 「誰か、居るの?」

 フォボスは、力なく呼びかける。


 お腹も空いた。お風呂にも入りたい。

 彼の幼い思考が、ダイレクトに共有される。


 精霊は観念する。

 黙り通すことは、不可能だ。こっちが耐えられない。


 じゃあ、表に出るしかない、か。


 勇気を出し、彼の口から声を出す。

 『とりあえず』の名前を考え、自らを定義する。


 「ボクは、ルゥ。なんやかんやあって、キミに取り憑いた悪霊さ」


 フォボスは、再度失禁した。


 【続く】

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