第4話(12)

「じゃあ俺はここで」

 すっかり良い気分になって二次会の相談をしている連中に、まったくシラフな俺は別れを告げた。

「なんだ山田、付き合いわりぃぞ! 飲め! そんでオレんちに泊まってけ!」

 べろべろに酔っ払ったラクダが絡んでくる。

「えぇ、お前んち子ども三人いるんだろ?」

「山田一人くらい寝るスペースはある! 台所に!」

 さすがに台所で寝る趣味はない。

「まあまた別の機会つくるからさ、今日は勘弁してよ」

 ぺこぺこ頭を下げる俺の側で、梨花は腕時計を見た。

「じゃ、私もそろそろおいとましようかな」

「え〜マネージャーも帰っちゃうの?」

 紅一点の退場に一斉にブーイングが起こる。

「すみません、私ももうちょっといたいんですけど。でも電車があるうちに戻らないと、旦那が心配するし」

 と言った途端、歓楽街にラクダの奇声が響き渡った。

「あぁヤだ! マネージャーの口から旦那とか聞きたくない! 梨花ちゃんは永遠の女子高生なんだああぁ!」

 そして下される三好の鉄拳制裁。当然だ。


「それじゃあまたな、連絡しろよ」

「江崎によろしくな〜」

 俺と梨花は手を振って、ラクダを引きずるようにして夜の街へと消えていく連中を見送った。

 その背中が人混みに紛れて点になったころ、少し離れて立っていた梨花が口を開いた。

「さっきのあれ、ウソ」

「は?」

「旦那が仕事で来れないってやつ。あいつ、本当は山田先輩に会うのが怖くて来れなかったのよ」

 そういえば江崎は明日の仕事が早くて来れないって話だったっけ。そうか。嘘だったのか。

 野球部の面々が知っていたということは、当然江崎も俺と梨花の付き合いをわかっていたってことだ。

「別に、俺なんて気にすることないのに」

「先輩は気にしなかった?」

 下からじっと覗き込まれる。やめてくれ、そんな目で見つめるのは。

「あぁ、くそ」諦めた俺は、天を仰いでため息をつく。「気にしたよ。正直言ってほっとしてる」

 いまだに俺はこの目に見つめられると、嘘もつけないのか。

 そうだ、もし今目の前に江崎がいたら、俺は普通に会話する自信がない。俺と江崎は、元彼と現旦那。周りも黙ってはいないだろう。いや、今日以上に気遣ってなにも言及されないかもしれない。そうなれば俺は、きっと今よりも色んな感情のぶつかり合いで打ちのめされてしまうだろう。

 梨花はフンと軽く笑って続けた。

「旦那が心配してるってのも嘘。今頃あいつもどっかで勝手に飲んでんのよ」

「はは!」

 あまりにしれっとした顔でこともなげに言うものだから、俺はついつい声を出して笑ってしまった。

「なんだ、お前も色々大変なんだな」

「ま、それほどでも」

「ウソつかれるの、二度目だな」

「え……」

 ふいに梨花の顔が曇る。笑い話のつもりで軽く口にしたんだが、棘のある言い方だったろうか?

「ねえ先輩、車で来てるんでしょ?」

 と思うと、またすぐにパッと顔を輝かせる。ころころ変わる梨花の表情。声と一緒であの頃のままだ。

「そうだけど」

「これから暇?」

「暇ってわけじゃ──」

「暇ね! 少し付き合ってもらえません? 行きたいところがあるの、ね、ちょっとだけ!」

 突然の誘いに、当然俺は焦った。なぜ今になってこんなことを。

「早く帰らないと江崎が余計な心配するだろ」

「もう、そういう話はよしてよ! 大丈夫、今日はそのまま実家に泊まるって言ってあります」

 潤んだ大きな瞳は、ヒールのせいかあの頃よりも俺に近くって。頼むから、そんな目で見つめないでくれ──

「じゃあ……、車で送りがてらな」

「やったあ!」

 観念した俺はポケットから車のキーを取り出し、梨花を連れて駐車場へ向かった。


 焦る心の裏側で、なにか別の感情が頭をもたげはじめる。

 期待? ……まさか。



 梨花を助手席に乗せた車は、繁華街を離れ行きたい所とやらに向かっていた。

「先輩の運転する車に乗るなんて、思いもしなかったなあ」

 大した車でもないだろうに、梨花は珍しそうにしきりにキョロキョロしている。俺は前の車から目を離さずに言った。

「なあ、この歳じゃ一つの差なんてあってないようなもんだし、先輩なんて呼ばなくていいよ」

 本音を言うと、その声で「先輩」と呼ばれると、気持ちが高校時代に戻ってしまうようで辛かった。

「だって、ずっと先輩って呼んでたから。じゃあ太一くん?」

「うぅん……」

「それとも、たっちゃん?」

 久しぶりに聞いたその名前に、うっかり吹き出してしまう。

「よく覚えてんなぁ!」

「覚えてるよ、だって私から告白したんだもん。全部覚えてる」

 視界の隅に、懐かしさを味わうように顔の前で指を組んだ梨花が映る。その姿が記憶の中の梨花の横顔と重なっていく。

「忘れるはずないよ、初めて告白して初めてキスした日のこと……あの時私ね、頭の中でずっと歌が流れてたんだ」

「マジかよ、俺もだよ」

「本当? じゃあ歌ってみる? サビのところね」

「ちょっと待って、あの歌どこがサビなんだろ?」

「あぁなるほど。それじゃあ一番印象的なフレーズ」

「じゃああそこかな。ワンフレーズね」

「これ以上はヒントなし! いきますよお」

 せぇの、で「星屑ロンリネ〜ス!」の歌声がぴたりと合わさって、二人で大笑い。思いがけず自然に笑えたことで、俺の中に警告音のように響いていたも鳴りをひそめだした。

「ああ笑った。あ、そこ左に曲がって下さい」

「はいよ」

 ハンドルを切り、住宅街の細い通りへと入る。覚えのある通い慣れた道、その先に建つ大きな鉄塔。

「なあ梨花、行きたいとこって……」

「多分、考えてる所で正解です」

 しばらくして、車は目的の場所へ到着した。二人の通っていた学校だ。



 校門近くの路上に車を停め外に出ると、俺と梨花は静まり返った学校を見上げた。

 真っ暗な校庭の奥に、校舎のシルエットが見える。ぼんやりと照らす非常灯以外に灯りはない。

 その赤や緑色の灯りをぼーっと眺めていると、

「あっ、校門空いてる!」

 躊躇なく門を開ける梨花にぎょっとして、俺は声を潜めた。

「中に入る気かよ? やめとこうぜ、警備員とかいるって」

「もうっ、相変わらず心配性ですね。平気へぇき、見つかったらごめんなさいって謝ればいいじゃない」

 止める間もなく開けた門の隙間から中へ入り込みスタスタと歩き出す梨花を、俺は辺りに人がいないか確認して、慌てて追いかける。

「なんでまた学校なんだよ」

「だって同窓会だよ! ホントはみんなで来たかったんだけど……わあ、真っ暗」

 校庭の真ん中に立った梨花が、校舎を仰いで感嘆の息をついた。

「懐かしいなぁ、D組は……もうどこの教室だったか忘れちゃった」

「俺も」

 シンと静まり返った夜のグラウンドに、二人の声が吸い込まれる。三年間見飽きていたはずの風景が、ノスタルジックな絵葉書のようだ。

「夜の学校って、なんだかワクワクしません?」

「まあなぁ」

 たしかに懐かしむ気持ちはあるが。それ以上にいつ懐中電灯で照らされるかと思うと、とてもじゃないがワクワクできない。不法侵入の罪で会社クビになったりしないかな。

 いまいち気乗りしない俺をおかまいなしに、梨花ははしゃぎながらどんどん校庭を突っ切って行く。あの特徴的なは、いつの間にか脇を絞めてコンパクトに走る綺麗なフォームになっていた。


「あっ」

 ところが校舎の裏まできたところで、梨花は突然声を上げ足を止めた。十メートルほど後ろをトボトボと追いかけていた俺は、なにかあったのかと歩調を早める。

「どしたん?」

「部室棟、なくなっちゃってる……」

 かつて部室のあった二階建ての建物は、綺麗さっぱり取り壊されていた。代わりに物置が数台並べられているばかりだ。

「ああ、たしか老朽化で別の場所に建て替えたとか言ってたな」

「残念。思い出の場所だったのに」

 思い出の部室。確かに俺と梨花、全てのはじまりの場所でもある。

「あっ、物置にボールとグローブないかな? 折角だからキャッチボールしましょうよ」

 梨花は悪戯を思い付いた子供のような顔で物置を指差した。

「こう暗くちゃ球が見えねえよ」

「そっか」

 梨花はあからさまに肩を落とし、かつて部室棟のあった場所をじっと見上げた。

 そのもの悲しげな横顔に、中高で野球を辞めてしまった俺に代わるように、梨花が大学から女子野球をはじめたことを思い出す。

 俺は小走りに走って距離をとり、勢いよく向き直ると手のひらにパンと拳を打ちつけて言った。

「しまってこうぜ!」

 それから、梨花に向かって球を投げるフリをする。一瞬あっけに取られた梨花だったが、ニッと笑うとボールを受けるフリをして、右手に掴んで投げ返してくれた。

「おっ、いい球じゃん。やるな」

「うかうかしてるとエースの座があぶないですよ」

「いや、まだまだ!」

「おっと大暴投!」

「あははは悪いわるい」

 透明なキャッチボールの背景に、かつてのあの部室棟が蘇る。

 出会って、告白をして、キスをして、初めて体を重ねた場所。二人はいったいなんで別れたんだろう。梨花はなぜ俺をフったのだろう。

 最後の電話で梨花は「遠距離恋愛が辛くて、耐えられない」と言った。だから別れてくれと。

 俺は遠距離恋愛が辛いと思ったことはなかった。もちろんいつも会いたいと思っていたけれど、数少ない逢瀬の日を指折り数えて待つ日々は楽しかった。

 好きな時に会えないもどかしさも、ふとした瞬間に隣にいない寂しさも、梨花の笑顔が一瞬で消し去ってくれると思っていた。

 梨花にとってはそうではなかったのだろうか。それとも、他の理由の言い訳だったのか。

「梨花……」

 あの時どうして俺をフったんだ? そう口に出しかけて、やめた。

 手の中の白球もグローブも消えた。

「なんですか?」

「そろそろ戻ろう、ずいぶん冷えてきた」

 あの時。俺に言えないがあったんじゃないのか? そんなことを聞いてどうする。俺と梨花はとっくの昔に終わって、梨花は江崎の奥さんなんだ。

『二人、あんまり上手くいってないらしいよ』『じゃあ、噂で上手くいってないってのも知ってます?』

 うるさい、うるさい、噂なんてまっぴらだ。


 俺と梨花は青春の部室に別れを告げ、学校をあとにした。



「それじゃあ行くか、梨花の実家でいいんだよな?」

 路駐していた車に戻り、そう言いながらポジション調整に座席を直していたところで梨花が口を開いた。

「もうちょっとだけ……話したい」

 シートベルトを締めかけた手が止まる。

 梨花の顔越しに、チラリと見えるダッシュボードの時計は二十三時。人妻と二人きりになるには遅すぎる時間だが──

「じゃあ、ちょっとだけなら」

 俺はベルトを戻し、どさりとシートに背をつけた。

 今日は飲み会でほとんど梨花と話せなかった。ぎくしゃくした空気が消えてせっかく昔のように話せるようになったのだから、もう少しだけ、と自分に言い訳をして。


 だが話そうと言いだした梨花は、俯きがちに下を見つめたまま唇を噛んでいる。街灯で照らされた手元には、指輪がなかった。

「久しぶりにみんなと会えたな」

 俺は代わりに切り出した。

「うん、三好主将の変わり具合ったらなかった。なのに監督はそのまんまで、ビックリしちゃった」

「なあ。みんな元気そうでよかったけど。ごっつんはまさか同窓会までサボリとはな」

「本当にね。全然変わってないよね」

 はは、と静かに笑う。

「そういや佐田岡とは喋った?」

「え、佐田岡くん? あんまり話できなかったかな」

 なんだか妙だな。そういえばこの違和感、佐田岡にも同じものを感じていた。俺はまた頭で唸り出した警告音──梨花の言葉、佐田岡の言葉──を打ち消そうと、ことさら明るい声で言った。

「しっかしラクダの奴、相変わらずだったな! おっさんなのに中身はラクダでさ──」

 言いかけて助手席を振り向いた俺は、その格好のまま固まった。目の前に梨花の顔があったから。


 あまりにも近い、あまりにも。

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