少女の日々こそかなしけれ


『人に』 高村光太郎


いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

花よりさきに実のなるやうな
種子たねよりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理窟に合はない不自然を
どうかしないでゐて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくそのあなたと
かう考へてさへなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

なぜさうたやすく
さあ何といひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
あなたはその身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何といふ醜悪事でせう
まるでさう
チシアンの画いた絵が
鶴巻町へ買物に出るのです
私は淋しい かなしい
何といふ気はないけれど
ちやうどあなたの下すつた
あのグロキシニヤの
大きな花の腐つてゆくのを見る様な
私を棄てて腐つてゆくのを見る様な
空を旅してゆく鳥の
ゆくへをぢつとみてゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない 淋しい 焼けつく様な
――それでも恋とはちがひます
サンタマリア
ちがひます ちがひます
何がどうとはもとより知らねど
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて



 高村光太郎の詩である。
 大風のようにわがままで小鳥のように臆病な、後の妻、智恵子に向けて詠われた。
 この詩は男から女に向けて書かれているのだが、女から女に向けたもののようにも想える。
 留学経験のある高村光太郎が当時としては珍しく自分で茶を淹れたり簡単な調理をしたりする、女のすることを率先してやるような男であったことにも関係するのかもしれない。
 高村光太郎は『道程』に代表されるが、こちらは語り口が女性味を帯びている。
 智恵子にやさしく呼び掛けながらも、嫁にいくなと駄々をこねている。


 少女たちの恋愛をレズや百合と呼びたくない。便宜上は「百合」と呼びはするのだが、あまりにも俗に堕ちている。
 わたしは漫画家、鳩山郁子の画風を偏愛しているが、鳩山の作品は少年と少年がテーマである。露骨な表現は一切なく匂わせしかないのだが、まあそちらである。
 この方の百合小説を読んでいるとその鳩山郁子が想い出される。
 薄い玻璃の輪郭を辿るような細く硬質な線画でかかれるあたりが似ているからだろう。


 少女たちの日々は断ち切られるからこそ美しい。
 投げっぱなしという企画に投稿されたとおり、ここからというところでこの物語は投げっぱなしにされて終わっている。
 少女と少女の淡い情とは、このように海風に吹き飛ばされて消えていくものなのだ。

 中島京子 「小さいおうち」のように、華のような美しい奥さまに思慕を寄せる女中タキであってもよいのだが、また「小さいおうち」には女学校時代から奥さまと親しくしてきたモダンガール略してモガも登場してくるのだが、学校という施設に閉じ込められている十代の少女たちの間に発生する「百合」とは、わずか数年のあいだに圧縮されて生まれる稀少な水色の宝石だ。

 花の薫る木を見つめるようにして内から湧き上がる思慕を少女は身近な少女に寄せていく。
 宝塚の男役のような女の先輩に騒ぎながら恋文を渡すのとはわけが違い、そこには心中でもしかねないような視野の狭い一途がある。
 実家に養育されている立場の傲慢な自由を満喫しながら、世界の孤島のような灯台に二人きりでいることが肝要なのだ。

 明治大正時代の令嬢たちは学業の途中でもお嫁に行くことになって突然学校を辞めていったものだが、そんな時、まさに高村光太郎のこの詩のように、涙をのんだ少女たちも多いのではないだろうか。
 男の待つ屋敷の中に消えていく少女の後ろ姿は、誰もがやがては同じようにして通らなければならない哀しさを帯びている。
 黒髪から、蝶が優しくとまっているようなリボンを外し、手漉き硝子窓のむこうに流れ落ちていく雨を見詰めながら、あいする少女と交換してきた文を漆塗りの函に仕舞って、少女たちはお嫁にいったのだ。

 少女の日々を、いつか少女は海風に手放す。手放すことでいつまでも穢れることのない宝物にしていく。
 時にも、老いにも、その後の人生にも穢させはしない。
 そんな覚悟をこめて封印をする。
 解かれたスカーフがその後を暗示する。それは風に飛んでいくようになびいたことだろう。
 美し、と書いて、かなし、とよむ。
 手放すことこそ美しく、うつくしい。