第13話 キズ

「……で、現在に至る……と」

「せやな。シンヤはあたしだけのヒーローサマになってくれて、転入した小学校であったかもしれない面倒ごとを全部引き受けてくれた」

コチョウランが遠い目をしているのは、きっとその日を見つめているのだ。スティグマには見えないその日のことを。オオカミが輝かしくも奮闘していた、その日のことを。

「その結果シンヤは……ちょっと変なヤツ扱いされちゃって。持ち上がりで行った中学校でもそれでずいぶんいじられとったわ。やれ付き合ってるんやろ、やれどこまでいったんや、だの。しょうもないわな」

コチョウランは含み笑いで語り終えて、スティグマに水を向けた。

「あたしからしゃべれることはこれで全部よ、スティグマ。どう、満足出来たん」

応じるスティグマは、呆気にとられていたのを隠すこともできなかった。

「……それだけ?」

「それだけってなんや」

「そんな、小さい頃の他愛もない約束のために……?」

「そうよ。シンヤは命を張ってくれるし、あたしを叱ってもくれる。ホントに……律儀なヤツ」

コチョウランが遠くを見ているのは、きっと心の中ではオオカミのことを見据えているのだろう。心なしか自慢げだった。

「……狂ってる。って思ったやろ」

平時であれば助け船とはほど遠い言葉。しかし今のスティグマにとっては一番欲しかった言葉だった。それをこちらから口にするのは憚られるが、間違いなく心の中に芽生えていた、困惑。

「悪いんだけど、正直に言えば、そうね。とても正気の人間が、たった一つの約束のためにそこまで体を張れるとは思えない……、いや、正確に言えば約束は二つあったのかしら。さっきの話でいうと」

「よく聞いててくれて、話が早くて助かるわぁ」

コチョウランは、ここぞとばかりにため息を吐く。

「あたしとの約束……より先に、オオカミが誰と約束してたんかはあたしも知らん。でもその、女の子を泣かすなっていう約束が、あたしとの約束に繋がってるし、たぶんスカイクラッドちゃんを助けに行かせたんやわ」

コチョウランは……その瞬間だけひどく寂しそうだった。

その後目尻を軽く拭った。

そして目頭を押さえて言った。

「あたしだけやと思っとったのにな」

コチョウランが、泣いていた。

「ワガママやってわかっとるんよ。わかっとる」

「いいえ、分からなくていい」

「分からなきゃあかんのよ。シンヤがあたしとの約束を守っとるように、あたしもオオカミとの約束を守らなきゃあかんの」

「それはなに。さっきの話にはなかったわ」

どうしようもなく放っておけなくて、コチョウランの細く小さい体が震えるに任せるにはあまりに頼りなくて、スティグマは目の前の相手を抱きしめずにはいられなかった。コチョウランは拒まなかった。体を固く強ばらせて、受け入れもしなかったが。

その拒絶こそが、スティグマには耐えがたい断絶であった。

「話して、全部。私にしか話せないことがあるはずよ」

「あらへん」

「どうして」

「それは、あたしがシンヤとした約束だから。小っ恥ずかしくてよう言われんわ。掘り替えさんといて」

スティグマの大きな胸を避けるようにして、コチョウランはスティグマの肩から顔を出す。耳元にコチョウランの口が来て、呼気がかかるような距離にあって、スティグマはどぎまぎしてしまう。

それをまるで見透かされたかのような、急所を突くタイミングだった。


「あんた、あたしのこと好きなんか」


「…………!」

「締め上げすぎやわ、痛い…………。でも、図星やんな」

もう、コチョウランの声は一切笑っていなかった。先ほどまであった温もりも、親しみも、一切なかった。あるのはただ冷淡に事実を告げ、そして断罪する言葉のみ。

「だから、もう話すことはないんよ。なんでかって、あたしはあんたのことをどうやっても好きになれんから」

「……私が、女だから」

「ちゃう、あんたがシンヤじゃないから」

その時スティグマは、全身の力が抜けていくのを分かっていながらとめられなかった。なぜならその時聞いてしまった宣告は、この世でもっとも無情で、この世でもっとも残酷で、徹底的な拒絶の言葉で。

スティグマがもっとも聞きたくなかった、離別を告げる一撃であったから。

「分かってはいるんよ。あんたみたいな子がおるんは。あたしの異能じゃその子らは殺せなかったけど、分かってて何回か相手したこともある」

「なんでいまその話するの。まるで、してくれるみたいじゃない」

「して、あげてもええよ」

コチョウランの乾いた声が、スティグマの心を、その言葉とは裏腹にさらに萎えさせる。

「それで……離してくれるなら」

コチョウランは、それっきりなにも言わず、微動だにもしなかった。

その後の全てをスティグマに委ねたのだった。

その気になればスティグマが、その身に受けた傷を全てコチョウランにぶつけて殺せるということを知りながら。

比較的体格に優れたスティグマがその気になれば、自身がなすがままであるということを知りながら。

スティグマはコチョウランを傷つけられないと確信していて、動こうとしないのだ。

「だって、そうやろ?スティグマ」

スティグマは急に感じ始めた寒気のあまり体が震え始めるのを、必死に抑えこもうとした。しかし無駄なことだ、なにせその寒さの源は彼女が抱き込んでいる思い人そのものなのだから。

「本当に愛するって、そういうことやんな。一方的に傷つけていいわけ、ないもんな?」

「……なによ、偉そうに。破れてきた恋の数なら、私の方がいくらだって」

「でもいくらか実った恋もあるんやろ」

コチョウランがスティグマの頬に口を寄せる。口づけるのかと思ったら、その本当に僅か手前で止まる。吐息と振動だけが届く距離。しかし決定的な断絶。


「あたしにはないんよ」


これ以上に強力な言葉はなかったし、それ以上何も語られる必要は無かった。スティグマは自らの燃えさかる心と相反して、コチョウランから凍えながら離れていく体を、まるで他人事のように見つめていた。

「……離してくれるんね」

「い、いや。違うの。これは、違うの」

「ちゃうならなんね。熱いキスでもくれるっていうんか」

「それも違う……!でも!」

言い訳を繰り返すことで、時間を稼ぐことが出来ればよかったのだが、今やスティグマの体は完全にコチョウランを手放して、代わりに震えている自らの体を、暖を取るかのように強く抱きしめていた。

「違うの……違う……」

吐露される感情は涙となって、スティグマの胸を濡らした。そこにはコチョウランの顔か、胸かがあるはずだった。

「決まりやね。あたしたちの人生が、交わることはもう無い。体はそこにあって、言葉を交わしていても、心が交わることはもう決して無い」

否、あるはずだった未来など、どこにもなかったのだ。コチョウランがユナで、オオカミがシンヤである限り。

「……その痛みが、あたしの日常よ。よう覚えといて」

その言葉は、追い打ちとも、慰めとも聞こえる。余人に向けるなら、それで十分だっただろう。


「…………何を、偉そうに」

「……?」


しかし、相手がスティグマと言うただその一点で、コチョウランは致命的に誤っていた。


「痛みが、日常ですって……?笑わせないでよ」


スティグマが、目の前の愛しい人に向かって吐くのは今や言祝ぐものでも嘆願でもなく――


「聞いてれば偉そうに能書きをたらたらと、何をほざいたって私には響かないわ。実った恋?無いわよそんなの!この世で一番痛みを抱え込んでるのは私よ、私が一番痛いのよ……!だって、あんたが痛みと呼んでるそれは!単なる逃げだから」

――混じりけの無い呪いを刻印する言葉。

これ以上はいけない。スティグマは分かっていた。それでも続けざるを得なかったのは、彼女の胸の底にある、最初の傷が疼いて仕方が無かったから。この痛みを知らしめてやれと、うるさくて仕方が無かったから。

「そんなに約束ってヤツが大事なら!守ってみなさいよ!この私から!」

吐き捨てたのは決別。同時に愛憎をはらんだ決闘の宣告。駆け出したスティグマの背にコチョウランが呼びかけるが、嫉妬と執念の炎に燃えさかっていたスティグマの耳には届かなかった。


オオカミは、やはり殺す。

二度目の初恋の決着は、一生癒えない傷を痛み分けすることで終わらせざるを得ないようだ。 

「私ね、あなたのことが好き」

それをくちにしてしまったのは忘れもしない、スティグマが通っていた女子校、その中等課程にエスカレーター入学して二学期のことだった。

彼女のことは、ずっと前から気になっていたのだった。小学校三年生で同じクラスになってから、意気投合して仲良くなり、給食やレクリエーションなどの行事を他の有象無象も交えながら過ごしていくうちに、その気持ちに気がついた。

ただ単に楽しい、というだけではない。甘さの中にやや苦みを含んだ感情。その苦みは彼女と離れれば離れるほど強くなり、近づけば近づくほど甘みが増して気にならなくなる。この感情を呼び表す言葉を小学生のスティグマは知らなかったが、物心ついて様々本を読んだり、知り合いたちのしょうもない体験談を聞くうちに、それが恋心というものなのだと知った。

それを伝えることに、特に忌憚はなかった。なぜならそういうものだと思っていたから。スティグマが獲得した知識の中では、そういうことはなぜか男女の間で行われることが多かったけれども、たまたまだと思っていた。何せ自分自身が、そう感じているのだから。

いわゆる、初恋。その美酒にスティグマは酔いしれていた。

この気持ちは、本物だ。紙の上や誰かのまねごとじゃない。本物の気持ちだ。

だから、伝わるはずだ。

「もしよかったら、付き合ってみない」

秋の夕暮れ、体育館裏。少しだけ肌寒さを感じさせる風がスティグマと彼女の髪を揺らす。

彼女は、当惑した様子だった。緩くカールさせたボブカットを、指で忙しなく弄んでいる。

「え、えっと……もう一回言ってもらっていい?聞き違えたかも」

「付き合って下さい」

スティグマは退かなかった。しかし同時に、前に出ることもしなかった。そうするのは相手の気持ちを聞いてからで良い。だからスティグマは返事を待った。待ち続けた。

彼女がなにも言わずにその場から走り去ってしまって、その時の顔に確かな怯えが貼り付いていたことを見てしまっても、待ち続けることに決めたのだった。


そうしてある日、もらえた返事は百合の花だった。

登校して自席に着こうとしたスティグマは、机の上に百合の花が花瓶に生けてあるのに気がついた。世事に疎いスティグマでも、それが故人に対するはなむけであることくらいは知っていたから、犯人は誰かと勢い教室中を見渡した。犯人がもしいるとするなら、その意図を問いただしてやろうと、故に二、三人がおかしな動きをしている程度だろうと高をくくって、振り向いた。

その瞬間だった。教室にいた全員がスティグマの方を見て嗤いだした。

彼女も、一緒に嗤っていた。嘲笑の輪。それはスティグマを中心に狭まっていく。クラスメイトというクラスメイトが、彼女も含めてスティグマににじり寄ってくる。スティグマの席は窓際で、ここは三階だった。逃げ場はなかった。

スティグマは慌てふためいて、彼女の名を何度も呼んだ。これから何が起こるのかは分からないが、スティグマが脅かされることは確かで、それは恐らく彼女に敢行した告白がきっかけだと思われたから。

「なんで?どうして?私、ただあなたのことが」


「だからキモいんだよバーカ、変態女」


彼女がその後なにか言ったのかも知れなかったが、スティグマには聞こえなかった。二の句を継ごうと彼女に伸ばした手と、髪を掴まれて引き倒された後、哄笑とともに無数の足に蹴飛ばされ始めたせいだった。

踏まれ、蹴られ、踏みにじられ、体中を上履きの底で蹂躙されながら、スティグマは耐えようとした。事実、女学生たちは加減を心得ていて、耐えられない痛みではなかった。

体の、痛みは。

「……痛い」

しかし初恋という名の、硝子細工のように繊細な宝物は、すでにバラバラに砕けてしまっていて。


「……痛いよ」


鋭利な断面を伴って、スティグマの胸をずたずたに切り裂いていく。

痛いのは。

裏切られたせい?違う。

自分が特別なせい?もっと違う。

その断面が刻みつける聖痕(スティグマ)は。


「……私にも、愛させて」

「何言ってんだ気持ち悪い」

「それが無理なら…………」


心が宿るとしたらそれは心臓だから、それはきっと心臓に刻まれた聖痕(スティグマ)。

なんの意図も技巧もなく、ただ刻まれた傷が心臓を覆い尽くしたとき。それが、少女をスティグマとして目覚めさせた瞬間だった。


その日に起こったことはいまでも、図書館に行けば朝刊の一面に見ることができる。ルナチャイルドによる、未曾有の大殺戮として。

スティグマはその身に受けた殴打の数々を、何倍にもして打ち返すことが出来た。その暴威を受けて肉塊と化した同級生だったものに囲まれながら、スティグマは彼女の得た力を自覚した。

この体に傷はこれ以上必要ない。痛みもいらない。この胸の痛みだけで、手一杯だから。

スティグマ自身がその日のことで覚えているのは力を得た実感と、それから恐怖に震えてはしたない姿をさらした、その子の発した一言だけだった。


「……分かった。分かったよ。付き合う。だから、見逃して」


聖痕で覆われた心臓に、孤独という杭が打たれた瞬間だった。

彼女の容姿は忘れようもない。

コチョウランと本当にうり二つだった。

一目惚れの理由としては情けないことだが、スティグマには確信があったのだ。同じ、心に傷を持つはずのルナチャイルドなら、もしかしたら愛し合えるかも知れない、と。この杭を抜いてくれるかもしれない、と。

それそのものは幻想だった。

今は妄執として、スティグマを突き動かしている。

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