第10話 ソラ

正規の方法でハイツ・ムーンライトに入場したのは、改めてみるとオオカミにとっては初めてのことだった。

異様な感覚だった。ドールハウスの床に誂えられた、芝生を模した砂粒に触れたと思ったその瞬間、奇妙な浮揚感が一瞬あり、次の瞬間にはあの洋館の前に、車の中でとっていたのと同じ姿勢ではいつくばっていた。マヌケな姿勢だと思ったのですぐに立ち上がる。そして彼女を探す。

ユナを。もちろんそうだ。

だがそれよりも、今はスカイクラッドを。ソラを。

彼女はすぐに見つかった。洋館の前、門扉の前で、その人と対峙している。ソラに取っての大事な人、ママと。

「ママ」

「まぁ、スカイクラッド……」

最初、ママはスカイクラッドのことを叱り飛ばすつもりでいたに違いなかった。固く握りしめられていた右手が、それを使うのではなかったにしろ物語っている。しかし、さしものママもそれどころではなくなってしまったのだった。

なにせ、スカイクラッドが地面に立っている。

「スカイクラッド……まぁ」

「さっきから同じことしか言ってないよ」

「それがなにも言わずに飛び出していったものがとる態度ですか。反省なさい」

あくまでも厳格な保護者としての立ち振る舞いを保とうとする、ママ。

しかしため息は止まらない。感嘆のため息が。

「まぁ……、まぁ…………、本当に」

それは何度も吐かれるうちに、ママの心を解きほぐしていく。素直にしていく。頬に涙を伝わせて、嗚咽すら吐き出させるほどに。

二人の間に合った距離を埋めたのは、ママの方からだった。スカイクラッドの小さな体を抱き寄せて、その顔を胸に埋めさせて。スカイクラッドが流した涙の一滴ですら、泣き声のひとつですら逃すまいと言わんばかりに。

「よかったわねぇ、スカイクラッド…………いいえ、ソラ」

「……うん、うん。ソラ、普通に戻れた」

「そうね。これで、ハイツ・ムーンライトからも卒業できるわね」

スカイクラッドというルナチャイルドは、もう存在しない。

ママの胸の中にいるのは、もはやただの少女。ソラというただの、小学六年生。

「学校は行けないかも知れないけど、どこにでも行けるわ。行きたがってた原宿でも、嫌ってた秋葉原でも、どこでも。本当にどこでも」

「うん。いっぱい行く。どこにだって、どこにでも行くよ。でも」

ソラはママを見上げて遮った。真っ赤に目を腫らして、それでも笑顔で。作り物の笑顔ではなく、本心からの笑顔を向けて。

「帰ってきていい?ママのところに」

「……いけないわ。だって私たちは」

「分かってるよ、追われてて、危ない。でも、帰ってきていい?」

ソラは再び抱きついた。ママのコルセットで締め上げられた細い胴に。

背中に回した手は震えていた。その震えがなにから来る物なのか。ソラは分かろうともしなかった。それがママに伝わっているということ、それだけで十分だから。

それだけで、ママには伝わっていると信じているから。


「ソラにはね、『ママ』はママしかいなんだから」

「…………ふふ、大きな娘がいたものね」


ソラとママは固く抱き合って、お互いを繋いでいた絆を確かめ合う。

どうせどこにも行けないと、諦めたあの瞬間。

ルナチャイルドでなくなった瞬間に覚えた諦念。

ソラが怯えていたその全てが、今この抱擁で氷解する。

「ソラは……ソラはね……」

「うん」


「ママが、大好き」

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