第4話 ハイツ・ムーンライト

まさか、自分が目を覚ますとは思っていなかったから、オオカミはここがきっと死後の世界なのだと思っていた。しかし、直接天国に行けるほど大した人物ではなかったと思う。では煉獄だろうか。分からない。

「それにしたって、こんなにきれいな部屋で良いんだろうか」

何でもいい。目を開けて、息をして、脈があることも確かめた。オオカミは生きている。生きてこの部屋で、ベッドから飛び起きたところなのだ。

天蓋付きの立派な、豪華なベッドだった。マットレスは柔らかく、体に合わせて沈み込む。起き上がったオオカミの尻を捉えて放さない。もう一眠りしていったらいかが。そう誘惑してくる。

「大変魅力的だが……そういうわけにはいかないんだ」

オオカミは誘惑を振り切ってベッドから立ち上がる。床には一面、毛足の長いカーペットが敷かれていて、オオカミの着地を優しく受け止めてくれる。

「俺が生きてるなら。……ユナも生きてるはずだ。探さなくては」

「なぁんて言うんだろうと思った。バカおにーちゃん」

勇み足で飛び出そうとした矢先、天井から声がした。見上げるとスカイクラッドが、あぐらを掻いてつまらなそうにこちらを……見上げていると呼ぶべきか、見下ろしていると呼ぶべきか、ともかく見ていた。

「はい。これでも飲んで落ち着いて」

スカイクラッドがそう言って、ペットボトルコーヒーを投げつけるように放った。オオカミはそれをキャッチ。すると本当に不思議なことに、そのペットボトルは普通の重力の方向ではなく、上に向かって重さを感じるのだった。

「逃げ出すときは必死でなにも考えられなかったが……つくづく、難儀な体質だな」

「ご心配どーも」

「このままペットボトルを開けたら、中身はどうなるんだ」

「お気づきでしたか。上向きにドバドバ出るコーヒーで慌てるところが見たかったんだけどな」

ソラの下手くそな指パッチン。それを機にペットボトルは、元通り下方向への重さを取り戻した。

「もう開けて大丈夫だよ」

「天井を汚したら、どうやって掃除するつもりだったんだ」

「ソラにとっては天井が床だもん」

「……すまん」

ペットボトルコーヒーは、苦くもなく酸味もなく、単なる黒色の液体だった。しかし無味であることが、かえって気を落ち着かせる助けになったのかも知れなかった。

今のオオカミには、分からないことが多すぎる。

「スカイ……ソラ。聞きたいことがいくつかあるんだが、答えてくれるか」

「えー……?どうしようかなぁ」

「まずここはどこ……いや、何だ」

「待つ気ゼロって! んなことだろうと思ってたけど」

スカイクラッドは茶化そうとしたが、それは失敗に終わった。オオカミは一点の曇りも揺らぎもない目で、スカイクラッドを見つめている。冗談は無用。たとえ聞かされるのがどんな事実であろうとも、はぐらかされるのはゴメンだと強い眼差しが語っている。

「しょーがないせっかちなおにーちゃんだな」

「もう一つ、ユナはどこだ」

「順番ね。まず、ここは『ハイツ・ムーンライト』っていうの。ソラたちの……隠れ家、かな」

「実際に中にいるからウソだと言い張れないのが苦しいところだが……信じられない。新宿のどこにこんな、すごく豪華な洋館があるっていうんだ。さらに言うなら俺たちは……」

地面に叩き付けられた、そのはずだった。死ぬはずの速度だった。

しかしオオカミたちは生きていて、スカイクラッドがその異能を隠そうともせずにくつろいだ様子でいる。そして、今居るのは新宿には存在し得ないファンシーな洋館。落下直前に見たカバン。察するに。

「まさか、この建物そのものが、ルナチャイルドの」

「バカおにーちゃんにしては上出来。正解あげる。二重丸ぅ。よくできました」

「じゃあここのことはもうどうでもいい。ユナはどこだ」

「順番、って言ったでしょ。おねーちゃんの話をするのは先にハイツ・ムーンライトのきまりを説明してから。聞くつもりがあるなら、頷く。そうじゃ無いなら、窓から放り出す。いいよね?」

スカイクラッドは相変わらずあぐらを掻いてつまらなそうにしているが、その語勢だけは珍しく強い。オオカミを殺すという宣言にもまったく冗談めいた様子はない。譲れない一線が明確にそこにあって、いまオオカミは、それを無意識に踏み越えようとしていたのかもしれない。

額に冷や汗が滲んだのを拭うことすらせず、オオカミはゆっくり頷いた。

「……上出来。三重丸あげる」

「話が終わるまで黙ってる。続けてくれ」

「どーも。じゃあ失礼して」

こほん、と咳払いをした、スカイクラッドが語ったのは概ねこんなことだった。

この洋館、ハイツ・ムーンライトは『ママ』と呼ばれるルナチャイルドの異能によって成り立っている。ハイツ・ムーンライトの中にはスカイクラッドも含め、たくさんのルナチャイルドがそれぞれの異能と付き合いながら暮らしている。

ここからが決まりの部分で、彼女らはみんな、とても神経質だったり、繊細だったりするので……それが故にルナチャイルドになってしまうので、むやみやたらに接触を試みないこと。挨拶すら避けること。さもなければ、彼女らの異能の餌食になってしまっても文句は言えない。彼女らは皆、飢えているから。

「愛されなかったから、ルナチャイルドになるんだよ」

「訊いても良いか」

「どーぞ」

話が切れ目に差し掛かったのを見計らって、オオカミが口を開く。

「二つある。なぜ、ルナチャイルドを匿っているんだ。今の口ぶりだと、二、三人という規模じゃなさそうだ。ママ自身がルナチャイルドだということは分かった。だけど、それにしたって危険過ぎる。更生施設……政府がやってるなんかがあったはずだ。そこに送り届けるのが筋じゃないのか」

「……『ドーナイザー』のこと?」

「そんな名前だったかも知れない」

「そっか。世間では、そういうことになってんだね」

オオカミの当惑を余所に、ルナチャイルドであるスカイクラッドはため息を吐く。

「ドーナイザーのホントのところは、また話すこともあると思う。多分、コチョウランの方が詳しいんじゃないかな」

「ユナをそう呼ぶのは止めろ! まるでユナが」

「まるで、なに?その通りなんですけど?」

冷たく降ってきた言葉に蓋をされた叫びが、行き先を失って腹の中で暴れ回っている。

まるで、ユナまでルナチャイルドみたいじゃないか

お前たちの仲間みたいじゃないか。

普通じゃないみたいじゃないか。

「むしろ感謝してよね。今回ソラたちが、わざわざスティグマおねーちゃん引っ張っていったのだって、コチョウランおねーちゃんを助けるためだったんだから」

「助ける、なにから」

「ドーナイザー。急に察しが悪くなるの、狙ってやってんの?」

「待ってくれ、話が読めない。ドーナイザーは政府の更生施設だ。そこからルナチャイルドを助けるってことは……どういうことだ。明らかな違法行為だ。だとしたら、お前たちが反社会勢力なのか、それともドーナイザーがどうしようもない連中なのか、どっちなんだ」

オオカミは頭をかきむしって、叫ぶ。

「お前たちはユナを助けてくれたのか! 助かる邪魔をしたのか!」

しかし叫びながら、ユナのことを強く想起したオオカミは、あのホテルの一室でユナが浮かべていた表情のことを思い出した。オオカミ自身がそう言ったのだった。「やりたくないことを、無理強いさせられている」顔だと。

だとしたら、誰が敵で、誰が味方か。

ドーナイザー。

スカイクラッドとスティグマ。

ママ。ハイツ・ムーンライト。


ユナ、……コチョウラン。


「……分かった。済まなかった」

「分かればよろしい。それで、二つ目は?」

「二つ目ってなんだ」

「自分で言ったんじゃん。質問が二つありますって」

激情の奔流が心の中に荒れ狂い、見失いかけていたもう一つの気がかり。しかしそちら本質。オオカミはそれを拾い上げる。

「そうだ、二つ目。ルナチャイルドになる原因の話だ。愛されなかったから、ルナチャイルドになるのか」

「だいたい、そう。必要なときに、必要な愛情を受けられなかった子が、なりがち。あいちゃくけいせい、って言うんだって。それに失敗した子がなるんだって。それがどうかした?」

オオカミはそれを、敢えて訊いたのだった。認めがたい事実を、自身に認めさせるための材料として。

「…………なら、納得いった。ユナはルナチャイルドでもおかしくない」

「どゆこと」

「ユナの問題だ。人にペラペラ喋るようなことじゃない」

「……なんだかよく分かんないけど納得できたならいいや。他に質問は?」

「ない。あとはユナの居場所だけだ」

「それを教える前に一個だけ訊いときたいんだけどさ」

スカイクラッドは天井に立ち上がった。上から顔が、オオカミと同じくらいの高さくらいにまで下りてきて、それはどことなく不満げだった。

「コチョウランおねーちゃんとはどこまで行ってんの」

「どこまで、ってなんだ。学校からお互いの自宅までだが」

「自宅ぅ? 結構良いとこまで進んでるんだ」

「……ああ、そういうことか。マセガキも大概にして時と場所を選べよ。俺とユナはそういう関係じゃないし、絶対にそうはならない」

「どうしてよ」

「そういう約束だからだ。ムダ話はもう終わりだ。俺はユナのそばに居なきゃならない」

オオカミがきっぱりと言い切って口をつぐんだ。スカイクラッドはそれを引き際だと捉えた。

これ以上の追求は、この男の尊厳を蹂躙しようとする試みに他ならない。彼の「約束を守る」自由を奪うことに、他ならない。それは自由奔放なスカイクラッドにとって、ただ一つ定義した唯一の悪であった。

「約束、約束……か。息苦しくて嫌にならない?」

「俺にとってはそれが日常だ。さぁ、連れて行ってくれ」

「はーい……ドア開けてくれるかな。さすがに天地逆転フリーの設計にはなってないんだよね」

オオカミは言われるまでも無く、豪華な装飾の付いたドアノブに手を伸ばしている。

「そう言えば、おにーちゃん。お名前は?」

「バカをつけるのは止めたのか」

「お約束なんでしょ。だったらバカとは違うから」

「……オオカミと呼んでくれ」

「なんで? 下の名前シンヤでしょ」

「なんででもだ」

「ちぇっ。わかったよ。オオカミおにーちゃん」

扉が開くが早いか、スカイクラッドは廊下に躍り出てオオカミの方に向き直る。彼女がなぜ満面の笑みを浮かべているのか、オオカミには分からなかったが、悪い気持ちにはならなかった。これまで彼女が見せていた、どこかシニカルなぎこちない微笑とは明らかに違う、心の底からの笑顔だと確信できたからだった。

「約束。ずっと守れるようにね。ソラがサポートしてあげる。できることだけだけどね」

「そいつは心強い。邪魔にならないよう祈ってる」

「むっ……何にも分かってないバカオオカミおにーちゃんがピンで行くよりマシだと思うんですけど」

「バカかオオカミかどっちかにしろ」

「バカオオカミ」

「童話みたいな罵倒を止めろ」

益体もない言い合いをしながら、二人は打ち解けていく。

打ち解けながら、コチョウランの寝床へと近づいていく。

それを壁から見つめていた、一対の大きな目玉に、気付いていたのか居ないのか。館のことを何でもよく知っているスカイクラッドですら、失念していたかも知れなかった。 

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