思考・他者・自家中毒

 何か文章を書こうと思いたってから、5日ほどウダウダしてしまった。

 昔は文章を書くのが好きだった。もっと見て見て、僕を見て! 僕の文章を読んで! すごいでしょ! と、誰かに見つけてもらうのが好きだった。誰かに君が好きだと、すごいねと言ってもらいたかった。それが、いつの日か文章が全く書けなくなってしまった。書く気がなくなってしまった。書けなくなってしまったことに対して、いろんな理由づけができると思う。文章を書いてる自分がダサいと思ってしまったのが一番の原因なのではないかと思う。文章というのは、(私にとって)誰かに読んでもらうためのものだ。小学生のいっとき、日記をつけたりしたこともあるけれど、それは全く続かなかった。自分以外の誰にも読んでもらうことのない文章というのは、私にとっては全く存在意義のないものだ。だから私はいつだって理路整然と誰かに伝わるように文章を書く。文章の展開に飛躍はないか、誤解を産まないか、筋は通っているか。そういうことを気にして、言葉を補ったり、減らしたり綺麗な文章にする。それは私にとって文章を書く上で完全に必要な作業なのだけれど、同時にひどく息苦しい煩わしい作業でもある。


 つまり、他人の目をものすごく気にすると同時に、それをひどく嫌っているのだ。


「つまり」の前と後の文章の接続が分かりますか? 私は今飛躍した文章を書いたと思ったけれど、それは今この文章を読んでいるあなたには果たして飛躍として受け取られているのか、それとも案外ちゃんと意味が通っているのか。果たしてどっちなんでしょうね?


 さらに飛躍したことを書きたくなったので、書く。

 でも繋がってる話。

 (ああ、こういった言い訳めいた「前書き」で”奇を衒う”のは本当に恥ずかしいことだ。だから私は文章を書くのをやめた。こういう文章しか書けないから)


 小学生の頃スイミングスクールに通っていた。

 (結局中学生に上がって、周りがやめたのに合わせて、やめてしまった。私はそのとき別に辞めたかったわけでも続けたかったわけでもなく、ただ「周りがやめたから」というそれだけの理由で、やめた。もともと5歳とかそのくらいのときに親に入れられたスイミングスクールで、最初から自主性などかけらもない習い事ではあったけれど、やめるときでさえ、私はさしたる理由もなくやめた。これはどういうことだ? 私は昔の自分の自我を疑っている。私の自我はいつから芽生えたのだろう。5分前世界創造説のように、案外少し前にはなかったり、全く違う”私”が”私”であったかもしれない。思えばこの「私」という一人称は、大学生になってしばらくしてから、なんかもっとジェンダーニュートラルな一人称がいいなと思って使い始めたもので、以前は「僕」であった。「僕」はその頃は馴染んでいたかもしれないけれど、いまはすっかり「私」の気分である。私は「僕」を殺したのかもしれない(おー気障ったらしい文章が出たものだ)。ただ生きてるだけのときがあったのなら、どうか神様、そのときの私に戻してください。というか、「私」ですらなかった、一人称が欠落していたときに。)

 脱線した思考は、かっこの中にまとめて見ました。どうですか、理路整然としていますか、この文章は?


 閑話休題。


 スイミングスクールにはサウナルームのようなものが用意されていた。

 プールに入るときと上がるときに、子供たちはみんなその温室の中に集められた。

 温室はムシムシとしていた。広さは8畳ほどだっただろうか。

 入り口が二つあり、一つは更衣室に、もう一つはプールへと繋がっている。多分、体を冷やして風邪を引かないようにという意図と、ここに生徒を集めて一斉に話を聞かせる意図があったのだと思う。

 照明は暖色系で薄暗かったように思う。私は幼少期から背が低かったため、他の子供たちの陰になって薄暗い印象になってしまっているのかもしれない。

 水着を着た子供たちが、ところせしと、ひしめき合っていた。

 あるとき、私はその温室の中で、そのヒトイキレと熱気に揉まれながら、自分の思考について考えていた。

 

 今、自分は考えている………………


 考えていることを考えている………………


 考えていることを考えていると考えている……………………


 考えていることを考えているとと考えているとそれはいつまでたっても終わらない………………その考えを考えることができるからだ……………………


 無限に考えることができる……………………


 ところで、無限に考えることができると、今考えたか……………………?



 完全なる自家中毒だった。

 一人ドグラ・マグラだった。

 ドグラ・マグラは小説を読むまでもなく日常に転がっている。

 野生のドグラ・マグラだ。



 この永遠に続く思考の迷路は、私をいっときも解放してくれない。

 私は思考の奴隷だ。

 

 この話は冒頭に回帰する。

 私は、ダサい文章を書きたくないと思って、丁寧に理路整然と意味が通るように文章を書く。しかし、そうやって説明すればするほど文章はどんどんダサくなっていく。クソみたいな自家撞着。(「しかし”クソみたい”と汚い言葉を使えば、この牢獄から脱することができると考えているならば甘いぞ」というフレーズが今私の頭の中に浮かんできた。これは私の思考だ。しかし悪魔が言うようなセリフだ。以前漫画『ブッダ』を読んだときに出てきた、仏陀を誘惑する悪魔を思い起こさせる)。

 無理だと思えば無理になるけれど無理だと思わなければ無理にはならないけれど無理だと思わないのは無理だと思っているうちは無理だと思わないことはできないのでどうやっても無理なのだ。


 閑話休題。(ところで、今、この”閑話休題”という本文章で2回目に登場するフレーズを大量に連呼して、ゲシュタルト崩壊させて見てはどうだろうと言う試みが頭に浮かんできた。実際に書きはしなかったけれど。しかし、私の思考はすでに、とっくの昔にゲシュタルト崩壊してしまって、今ここにあるのは思考の残骸なのかもしれない)(公衆の面前でいきなり大声を上げて見たらどうなるだろうと考えることはよくあることらしいけれど、こういった自分の脳内を垂れ流した文章を書いてネットにあげるというのは、あえて非常識な文章を書くというのは、それに似ている)(しかし、人間は誰もお前の痴態に興味はないのだよ。ここまで文書を読んでくれている人なんて誰もいないよ、とまた悪魔の声がする。いい加減だまれ)



 大学に入って、最初に酔っ払ったときのことを覚えている。

 このことは前にもカクヨムに書いた気がするけれど、その文章を消したかどうか忘れたので、また書く。

 最初に酔っ払ったとき、銀色の金属製の鳥籠を思い浮かべた。チルチルミチルの青い鳥の絵本に出ていた鳥籠で、ただ想像上のその鳥籠の中に鳥はいなかった。

 今までの人生でずっと鳥籠の中にいた。鉄格子の奥にとらわれた鳥だったけれど、お酒を飲むといっときだけ、その鳥籠の扉が開くのだと思った。過去から未来へ永遠に続く”私”という自我は、渦巻き上のフラクタル構造で、インフルエンザの高熱のときに見る夢に似ている。

 結局私はあまりお酒は好きではない。

 笑い上戸や泣き上戸など人にはいろいろな酔い方があると聞くが、私ほどつまらない酔い方があるだろうか。

 私は酔えば酔うほど「意識を保たねば。人間として恥ずかしくない振る舞いをせねば」と強く思うようになっていく。しかし、酔えば、人は手足はふらつき、呂律は回らなくなる。思考も判然としなくなる。その曖昧で拡散していこうとする脳みその中で私はただ「自分を律すること」だけを考える。酔えば酔うほど、酔うことに抵抗しようとする。


 大学生の頃、私はひどい抑うつ感に悩まされていた。

 どうやって歩いていたのか突然分からなくなって大学からの家路で動けなくなってしまったり、酔ってもないのに電車のホームで吐いたり、外の空気を吸うだけでしんどく”外の空気は有毒なのだ”という妄想を弄んだり、世界に色がついてないような気がしたり。今では面白がってなんどか文章にしている。ただ、あのときほどの「死にたさ」が常にある状態でなくなっただけで、本質としては何も変わっていない。そんな気がする。私はそのとき自分の頭の中身をかち割って辺り一面にバラ撒き、その中身を眺めて見たいという妄想をたまにしていた。



 私はうつ病で、社交不安の気はないと思っていたけれど、人の目を気にしすぎているのではないかと最近思うようになった。

 今日、文章を書こうと思ったのは、そこまで強い目的意識があったわけでもないけれど、そのことを書こうと思ってのことだった。書けていただろうか。伝わっているだろうか?

 人からどう見られるのかが、どうも気になるらしい。

 そのせいで私は小説も書けなくなるし、就活もうまくいかない。

 他の人はこんなに他の人の目線を気にすることはないのだろうか。他の人は、他の人はこんなに他の人の目線を気にすることはないのだろうか、と思ったりすることもないのだろうか。私も他の人のように気にしないようにしたら良いだろうか。他の人のように、他の人を気にしないというのは、他の人に合わせようとしている時点で他の人のことを気にしているのだからうまくいくわけがない。

 ああ、こうやって言葉遊びを繰り返していくと、私は一時的に意味から解放される。思考から解放される。まるでお酒を飲んで酩酊状態になったときのように。ゲシュタルト崩壊していく。でもそれもいっときだ、すぐにまた思考が私にとって変わる。思考こそが私なのか。思考以外にも私がいるのか。


 生まれてこなければ、よかった?(論理を強引に飛躍させ結論に飛びつくことで問題を誤魔化そうとしているが、言葉遊びではこの惨めな現状は何一つ変わらない。この鳥籠からは逃れられない。これではここはまるであのスイミングスクールの温室のヒトイキレが渦巻く薄暗がりのようだ)。

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