31.最後の挨拶 -Sherlockian’s Last Bow-

 

■シャーロキアンのエピローグ-”An Epilogue of Sherlockian”-



 その日はふわふわと雪が降っていた。

 すでに太陽が沈んでから随分と時間が経っており、またぞろ池袋の空を覆う闇夜の曇天は、街の気温を奪っていくようだった。

 いま俺がいる文学部研究棟の窓からは、いつもであれば池袋R大学の名物である赤煉瓦校舎の本館”モリス館”と、その中庭に植えられた二本のヒマラヤ大杉が見えるはずなのだが……。いまや外気温差によって白色に曇ってしまった研究室のガラス窓には、毎冬恒例の聖夜祭企画でイルミネーションが点灯された”ヒマラヤ大杉”の淡い明かりのシルエットだけが、ぼんやり見えているのだった…――。


 さて、先ほどまでの”知的遊戯”で疲労した脳をゆっくり休ませながら――それでも俺は”挑戦状”に視線を向けた。



 ――”ジョン・H・ワトソン博士とは何者なのか?”――



 車楽堂しゃらくどうほむら先生が手渡してきた”挑戦状”には、

 非常に短文であり且つ難解な”謎かけ”が、とても簡潔に書かれていた――。




■31.最後の挨拶 -Sherlockian’s Last Bow-




『大空白時代-Great Hiatus-』


 シリーズ中期に発表された短編『最後の事件-The Final Problem-』のこと――

 一八九一年五月四日、名探偵ホームズは”犯罪界のナポレオン”と称されるロンドン闇世界の頭脳”モリアーティ教授”と死闘の末――”ライヘンバッハの滝壺”へと転落して、そのまま消息不明となってしまう。

 そして、名探偵ホームズが宿敵”モリアーティ教授”の残党配下を逮捕するために『空き家の冒険-The Adventure of the Empty House-』にて英国ロンドンに帰還、相棒の”ジョン・H・ワトソン博士”と再会したのは実に一八九四年四月五日…――実に”三年後”のことだった。

 愛好家たちは”名探偵ホームズ”が消息を絶ったこの”三年間”を『大空白時代-Great Hiatus-』と呼称するのだが…――この”三年間”には大いなる関心が寄せられる事となる。

 その最たるものは――”この大空白時代に名探偵ホームズは何を為していたのか”――というものだった。



 だがしかし、そもそもの”謎”は――”なぜ名探偵ホームズは、三年間も消息を絶つ必要があったのだろうか”――という事である。



 名探偵ホームズは『空き家の冒険』事件にて”ワトソン博士”と三年ぶりに再会すると、『大空白時代-Great Hiatus-』の狙いに関して、以下のように説明している…――



   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇


「僕は”モリアーティ教授”の姿が滝壺の濁流へと消えた瞬間、これは大いなる”好機”チャンスが転がり込んできたと気づいたのさ。僕の抹殺を誓っている悪党は”モリアーティ教授”だけじゃない。首領が死んだことによって、僕への復讐心をたぎらせるだろう連中が少なくとも三人はいたんだ。どいつも危険極まりない悪党で、きっと僕の命を狙ったはずだ。だが、もしも僕が死んだと全世界が信じたならば、ヤツらは油断して、きっとやりたい放題に振る舞うことだろう。そうなればヤツらの素性はすぐに露呈するから、遅かれ早かれヤツらを一網打尽に逮捕できるってわけさ。その時になれば、僕がまだ生きていたことを世界に公表しようという次第だよ」


 <第三短編集『シャーロック・ホームズの帰還』収録~

  『空き家の冒険-The Adventure of the Empty House-』より>


   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇



 つまり名探偵ホームズは”自身の死を偽装する”――所謂”死んだふり”をする事によって、犯罪界の帝王”モリアーティ教授”の残党配下どもを油断させ、犯罪者連中を一網打尽に捕まえようと計画したのだ。


 窮地を脱した瞬間に”次なる最善策”を講じる様は、まさに世界屈指の”名探偵”といった感ではあるが…――実際にはここで名探偵ホームズに問題が発生する。

 ライヘンバッハの崖っぷちでの死闘の末、名探偵ホームズが宿敵”モリアーティ教授”を倒した直後…――近くで監視していた”モリアーティ教授”の部下に一部始終を目撃された上に、落石事故を装った襲撃を受けるのだ。名探偵ホームズはこの時の出来事を――”次の瞬間、崖上を見上げると、そこには暗くなりかけた空を背後にした”男の頭”が見えたんだ。<略>”モリアーティ教授”は部下を連れていたのさ。それも少し見ただけで”危険な男”だと分かる悪党をね。そしてソイツはずっと僕らの死闘を監視していたんだよ。<略>あの恐ろしい顔が、また崖からこちらを覗き込むのが見えた。それが次の落石の前兆だと気づくと、僕は急いで崖下の道へ向かって岩棚を這い降りたんだ”――とワトソン博士に語っている。

 近くで監視していた”モリアーティ教授”の部下に一部始終を監視され、お互いに顔を認識できる距離間から落石による襲撃を受け、最終的には”名探偵ホームズが崖下へ逃げる”ところを目撃されている――。

 つまりは――”名探偵ホームズが死んだと思わせたい敵側”に対して、すでに”名探偵ホームズの生存がバレていた”という事になるのだ。


 それなのに――

 ――”なぜ名探偵ホームズは死亡偽装を継続したのか”――

 ――”なぜ名探偵ホームズは三年間も消息を絶つ必要があったのか”――


 ――”名探偵ホームズが死んだと見せかけたかった人物は、本当に”モリアーティ教授”の残党連中だったのか”――




 ◆◇◆

 



 さて、名探偵ホームズは『ノーウッドの建築家』の冒頭にて――

 以下のような台詞を発言している。


   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇


「犯罪専門家の見地からするとね」シャーロック・ホームズが言った。

「故”モリアーティ教授”が死去して以来、大英都市ロンドンは妙に面白くない街になってしまったよ」


 <第三短編集『シャーロック・ホームズの帰還』収録~

  『ノーウッドの建築家-The Adventure of the Norwood Builder-』より>


   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇



 天才的探偵は”事件”を欲する――。

 第二長編『四つの署名』の冒頭では、名探偵ホームズは暇潰しに”麻薬”コカインを楽しみながら――”僕に事件をくれ。僕に仕事をくれ。僕に最も難解な暗号文をくれ。さもなくば最も複雑な分析を。<略>意味のない生活の繰り返しにはうんざりだよ”――とワトソン博士に語っている。この名探偵が見せた退廃的推理狂ぶりは、多くの読者を驚かせた事だろう――ちなみにこれは余談だが、現代では”麻薬”コカインの使用は法律で禁じられているが、当時十九世紀末の英国では一般販売される嗜好品の類だった。まあワトソン博士が医学的見地から反対している事からも当時であって褒められた行為ではなかった様だが。



 さて、かくも天才的探偵は”事件”を欲する――。

 では、――?



 彼らは”事件”を求めない――なぜなら”事件を起こす側”だから。

 彼らは”仕事”を求めない――なぜなら”仕事を作りだす側”だから。

 彼らは”犯罪”を求めない――なぜなら”犯罪を生み出す側”だから。



 ”モリアーティ教授”とは何者なのか――?

 彼は英国都市ロンドンの闇社会において”犯罪界のナポレオン”と称される”天才的犯罪者”――。

 名探偵ホームズは『最後の事件』にてかく語る――”彼自身はほとんど何もしない。彼は計画を練るだけだ。しかし彼の手下は無数にいて、見事に組織化されている。例えば、書類を盗む、強盗に入る、人を殺すといった犯罪を謀る時、教授にひとこと言えば、それは計画され、実行される。手下は捕まるかもしれない。そんな場合は保釈や弁護の費用が準備される。そしてその手下を使っている”組織の中心モリアーティ”は決して捕まらない。疑われることさえないのさ”――


 普通の”悪党”は、犯罪を成功させることで得られる”稼ぎ”が目的だ。

 だが、犯罪界の頭脳”モリアーティ教授”は――すでに十全な”稼ぎ”を得られてなお犯罪界に君臨し続ける。

 英国都市ロンドンの悪事の半分に関与するほど――彼は”犯罪”を愛している。

 犯罪による”知的興奮”こそが天才的犯罪者――”モリアーティ教授”の欲するものだとしたら。


 それならば”天才的犯罪者”は何を欲するのか――

 それは――”真実を解き明かそうと事件に挑んでくる探偵役”――ではなかろうか。


 名探偵ホームズが――”モリアーティ教授”がいない街を”面白くない”と言ったように。

 ”モリアーティ教授”もまた――名探偵ホームズがいない犯罪は”面白くない”と感じていたのではないか?


 だからこそ――

 犯罪界の頭脳”モリアーティ教授”は――名探偵ホームズに興味を示した。


 彼らが直接対決した『最後の事件-The Final Problem-』では、

 ”モリアーティ教授”は大胆不敵にもベーカー街を訪れ、名探偵ホームズを興味深そうに観察した。

 名探偵ホームズに銃を向けられても――”君は思ったより前頭葉が発達しとらんな。部屋着ガウンのポケットの中で弾丸の込められた銃をイジるのは危険な習慣だよ”――と実に冷静に”苦境”を楽しんでいた。


 さらに想像を膨らませてみる…――

 もしも天才的犯罪者”モリアーティ教授”が――最も”名探偵ホームズ”を愉しむとしたら?


 それはやはり『最後の事件』で見た情景のように…――

 もっと近くで、もっと一緒にいて、”名探偵”の行動を観察したいと思うのではないか…――



 ――”ジョン・H・ワトソン博士”――



 愛妻メアリー夫人から――””――と呼ばれた男。

 世界的”名探偵”ホームズと共に各地の事件現場を駆け巡った”聞き役”――。

 民間の諮問探偵ホームズが最も信頼し、篤き友情で結ばれた無二の”友人”――。

 『空き家の冒険』にてベーカー街へと三年ぶりに帰還した名探偵ホームズが――”この懐かしき部屋の安楽椅子に座り、そしてただ、かつて君がよく座っていた向かい側の椅子に、古き友人ワトソンの姿が見られたらと願っていた”――そう語りかけた永遠の”相棒”――。



 その立ち位置は”天才的犯罪者”にとって――非常に”理想的”だとは思わないかね?



  ◇◆ ◇◆◇ ◆◇


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る