16.

 


 ここで少しだけ”英国イギリスの警察史”について触れてみよう――。

 先史以降の英国イギリスでは、ローマ帝国侵攻に敗北した”ブリタニア属州時代”や、アングロ・サクソン民族の小国家群が覇権を巡り争った”七王国時代”などを経てきた。そうした歴史的変遷の中で、アングロ・サクソン部族は――”自分の財産は自分たちで守るほかない”――”地域の平和秩序を維持する責任は地域住民が負うべきだ”――という”自治”の意識を強く持ち、自衛集団的な伝統が受け継がれる事となる。


 中世以降、原初の警察活動を地域住民が担っていく中、封建領主の雇う”私兵”が自治領の防衛と合わせて、自領内の治安維持を担うようになる。十二世紀末には”治安判事”という法執行制度も設けられたが――推理作家ジュリアン・シモンズ著の犯罪小説論評本『ブラッディ・マーダー -探偵小説から犯罪小説への歴史-』によれば、賄賂ワイロなどが横行する”治安判事”制度には”公正さ”に関して市民側の不信感も強く、”おかみは当てにならない”というのが庶民の一般的風潮であったらしい。シモンズ氏も本著にて「当時のイギリスは全土が事実上の無法地帯だった」と述べている。


 以上の歴史的経緯から、市民側は”警察”が”政治”と結託して中央集権的に強大になり、警察組織が”市民を圧制する側”になることを嫌う傾向が強く…――英国イギリスでは”近代的な警察組織”の設立が大いに遅れるのだった。実際に現代においても、英国イギリスでは地方分権の理念に則った”自治体警察”を原則として、地方自治体単位で組織された『地方警察』が警察活動を担っているぐらいである。



 だが、そんな中で”転機”は訪れる――。

 十八世紀末、英国首都ロンドンウェストミンスター地区の治安判事に就任した劇作家ヘンリー・フィールディング氏は、ボウ街に治安判事の事務所を開設すると、屈強な若者数名に専門的な訓練を施して、治安判事裁判所所属の逮捕係――”ボウ・ストリート巡察隊ランナーズ”――を組織したのだ。

 この警察隊は、政府支出の公金を受け取ることで”公僕”の肩書を与えられ、より”公正さ”を求められ、かつ専門的に警察活動する事により――市民の”信頼”を得ると同時に、同地区の犯罪件数を大幅に減少させた。その功績は英国イギリス全土に知れ渡る事となり…――

 これこそが――”英国イギリスにおける近代警察の始まり”――とされている。



 ◇



 そして、時は一八二九年――

 英国イギリス政府が”ボウ・ストリート巡察隊ランナーズ”を参考にした首都警察隊の設立を目指す”首都警察法”が提唱され、”英仏戦争”終結後の治安悪化を背景として、首都ロンドン市内のほぼ全域を管轄する”首都警察”として設立したのが『ロンドン警視庁』である。

 その警察組織は、当時の本部庁舎が面した街路名から――”スコットランドヤード”――と呼ばれた。

 一八四二年には『ロンドン警視庁』に刑事部門の”捜査局”が新設され…――前述した”ボウ・ストリート巡察隊ランナーズ”の機能は同局に吸収され、その役割は現代まで受け継がれる事となる。



 さて、ちなみに彼ら”ボウ・ストリート巡察隊ランナーズ”は――

 公務中でなければ、個人的な捜査依頼も”報酬付き”で受けて良いとされていた。

 そしてその後の”首都警察法”においても、警察官は合法的かつ善良な目的であれば、個人の私的な理由によって雇われる事を認められていたという…――実際にホームズ作品の短編『ボスコム谷の惨劇』では、父親殺害の容疑を掛けられた青年マッカーシーの嫌疑を晴らすために、幼馴染のターナー嬢が”スコットランドヤードのレストレイド警部”を――”-retained Lestrade-”――つまりは”#顧問料__・__#を支払って事件捜査の依頼”をしているのだ。これを俺が初めて読んだ時は”レストレイド警部が買収されてる!?”と驚いたもんだ……。


 このあたりは時代背景を理解していないと、現代読者の常識では理解しがたいであろう。

 現代の日本では――”公的警察と私立探偵”――そこには法的な立場や実力に決定的な違いが存在する。

 ところが、公的警察が生まれたばかりの時代となれば、前述のとおり警察官自身が報酬付きで個人的な私的捜査を請け負ったり、逆に警察が捜査の過程で民間人を使ったりするような事があり、 両者の境界線は必ずしも明確ではなかったらしい。

 そしてこれは俺の個人的な見解だが、おそらく当時の”警察官”とは――”犯罪捜査を専門とする裏稼業の傭兵”――のような位置づけだったのだろう。

 そしてだからこそ――”名探偵シャーロック・ホームズ”――は生まれたのだ。


 名探偵ホームズは、個人から犯罪捜査の依頼を受けて報酬を稼いでいる自身の事を――”世界でも唯一の『私立諮問探偵-Consulting Detective-』である”――と自称している。しかして作中本編の名探偵ホームズは、変装するわ、銃をぶっ放すわ、悪党と殴り合うわ…――まさに”犯罪捜査を専門とする裏稼業の傭兵”と言うべき功績しょぎょうの数々である。”ボウ・ストリート巡察隊ランナーズ”が活躍した英国イギリス社会だからこそ――”名探偵ホームズ”という『私立諮問探偵-Consulting Detective-』が生まれてもおかしくないのだ。



 むしろ”ボウ・ストリート巡察隊ランナーズ”こそ――”名探偵ホームズ”の原型なのではないだろうか?



 そのように考えると――

 レストレイド警部をはじめとする『ロンドン警視庁-スコットランドヤード-』の警部たちが、名探偵ホームズに対して敵対心を見せる場面が多いのも納得感がある。なぜなら彼らにとって『私立諮問探偵-Consulting Detective-』であるホームズは”同業者”であり”商売敵”なのだ。煙たがるのも当然である。

 推理小説における警察は、捜査のプロが一目置く存在だと位置づけることで優秀さを証明する”探偵の引き立て役”であり、探偵役に突っかかるのも当然の流れ…――そう思って読み飛ばしていた小さな描写も、時代背景を丁寧に読み解けば”新たな発見”が見えてくる。これぞ”シャーロキアン”の醍醐味であり、だからこそ”シャーロキアン”はやめられない。おっと今のは余談である。



 さて、名探偵ホームズが『緋色の研究』事件を解決して、本格的に探偵事業を始めたのは一八八一年の頃――。

 そしてその七年前、犯罪の取り締まり強化として『ロンドン警視庁-スコットランドヤード-』が”犯罪捜査課”を設立したのは一八七四年の事だった。奇しくも同じ時代に生きた”事件捜査の専門家”たち…――ならばその出逢いは、偶然ではなく必然だったのかもしれない。



 ホームズ作品に登場した――

 ロンドン警視庁”犯罪捜査課”に所属する――”八人の警部たち”――と

 名探偵ホームズの出逢いは…――。




■16.八つの署名 -The Sign of Eight-



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