08.研究室の冒険 -The Adventure of The Teaching Room-

 


 世界唯一の民間諮問探偵シャーロック・ホームズ氏と、その相棒ジョン・H・ワトソン博士の冒険劇は、その多くが英国首都ロンドンの『ベーカー街221B』から幕を開ける。



 『ベーカー街221B』とは――

 名探偵ホームズが、友人ワトソンとの共同生活を開始した一八八〇年代初頭から、探偵業を引退した一九〇三年までの間暮らした下宿先の”アパート”の住所だ。

 番地の「B」はラテン語の「ビス-bis-(第二の)」に由来し、ホームズ達の下宿先が階上にある事を示す。階下には家主である”ハドスン夫人”の自宅があり、階段を上がれば(短編第一作『ボヘミアの醜聞』によれば段数は十七段)、そこがホームズ達が暮らすアパート兼”探偵事務所”である。

 ちなみに最初期の邦訳本では、日本人向けに「221」が「221」と和訳されていた。中国伝来の「十干じっかん(甲乙丙…ってやつだな)」が使われたのは、英語に馴染みがなかった当時の日本の時代背景を表しており、味わい深いものがある。


 なお、名探偵ホームズ達が活躍した”当時のベーカー街”には「85番地」までしかなく…――

 『ベーカー街221B』という所在地は、”ホームズシリーズ”が雑誌連載されていた当時まだこの世に存在していなかったのだ。ベーカー街に「221番地」が誕生するのは、アッパー・ベーカー街と合併した一九三〇年…――名探偵ホームズ達が英国首都ロンドンを去った後のことである。



 なぜ伝記作家ワトソン氏は、当時実在していない”住所”を記述したのか?

 その最たる理由として、恨みを買う事も多かった”名探偵ホームズ”の所在地を隠すためだった――という”考察”が現状では多くの賛同を得ている。


 とにもかくにも…――

 『ホームズ達の”真の下宿先”は何処にあったのか?』という”謎”は…――世界中のシャーロキアン達が興味関心をいだく”研究テーマ”のひとつとなっている。


 ちなみに、現在の英国首都ロンドン市ベーカー街には『シャーロック・ホームズ博物館』が建っている。小ぢんまりとした雑居ビルの玄関には「ロンドン警視庁-スコットランドヤード-」の巡査が立ち、一階にはホームズ関連グッズを売る土産物店、二階にはホームズ達の部屋を忠実に再現した”展示”がある。とても素晴らしいぞ。世界中のシャーロキアン達が訪れる、古き良きヴィクトリア朝の香り漂う“聖地”である。ちなみにこちらの博物館、実際の住所は「ベーカー街239番地」だったりするのは……ご愛嬌ってヤツだな。

 以上、いきなり余談である。


 さて一方、車楽堂しゃらくどうほむら先生とその学生達による”研究劇ゼミ”は、その多くが”池袋R大学”の文学部研究棟から幕を開ける…――




■08.研究ゼミ室の冒険 -The Adventure of The Teaching Room-




「――えっと、なので今期の研究論文テーマとして、私は『ロンドン警視庁-スコットランドヤード-』の歴史的見地から、名探偵ホームズ達の活動を研究したいなと考えていますっ」


 赤レンガ造りの”モリス館”に絡まる緑の蔦アイビーも枯れだした初冬の頃…――

 肌寒い季節になってきたなと思いながら、俺は研究ゼミ室の片隅に置かれた暖房器具が送り出す温風に感謝する。ちなみにこの暖房器具を買ってくれた、心優しいこの研究ゼミ室の責任者:森谷もりや教授はどこかと言えば…――現在は英国へ研究留学中のため不在である。

 俺は、代理としてこの”研究ゼミ室”の留守を預かった”若き天才助教”様をちらりと見る。


 その人物――車楽堂しゃらくどうほむら先生は、紫煙の燻らぬ”パイプ煙草”を手のひらで転がしながら、(もちろん館内は禁煙だが、パイプを指先で遊ばせるだけで心地よいらしく、ほむら先生はパイプをいつも手放さない……)俺が所属する”森谷ゼミ”の後輩・門石かどいしめぐみが説明する「論文テーマ」を聞いて、楽しそうに微笑む。


「ふむ。実に良い研究テーマだと思うよ。英仏戦争の終結後、治安悪化対策として英国政府が『ロンドン警視庁-スコットランドヤード-』を設立したのは一八二九年の出来事だ。他方、ホームズ達が探偵活動を本格的に開始した最初の事件『緋色の研究』が起きたのは一八八一年頃とされている…――双方には”共通する時代背景”がある。年代学的にも、興味深い研究アプローチになるだろう。楽しみにしているよ!」



 『スコットランドヤード』とは…――

 英国首都ロンドン市内のほぼ全域を管轄する警察組織『ロンドン警視庁』本部を示す愛称だ。初代本部庁舎の裏玄関が街路「グレート・スコットランドヤード」に面していた事が名称の由来らしい。俺が思うに「ウォ-ル街」が米国の”金融街”を象徴したり、日本の警視庁が「桜田門」と呼ばれるのと似たような感じではなかろうか?

 なお、一八九〇年に『ロンドン警視庁』本部が”二代目庁舎”へ引っ越した際には、新庁舎の正式名称として「ニュー・スコットランドヤード」が採用された。名実ともに「スコットランドヤード」イコール「ロンドン警視庁」になったわけだ。

 ちなみに、英国を舞台に活躍した名探偵シャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロなどの探偵小説にも度々登場する『スコットランドヤード』の本部建物は、こちらの二代目庁舎である事が多い。以上、余談である。



 さて、ほむら先生の太鼓判を受けて…――

 俺の後輩・門石かどいしめぐみはホッと安堵した様子だ。

 この焦げ茶色のボブカットの前髪から丸い瞳を垂れ目がちに微笑ませる”仔犬”のような風貌の後輩は、俺の一学年下であり、森谷ゼミには今年所属したばかりだ。初めての論文作成にあたり、自分の考えた「論文テーマ」が――マスコミにも”天才助教”と騒がれる車楽堂しゃらくどうほむら先生――に認められた事を喜んでいる。

 と、そんなふたりの会話を聞いていると…――


「へぇ~面白そうじゃない! 実際に名探偵ホームズ達が暮らす”ベーカー街”には、常連客の”レストレイド警部”を筆頭に、いろんな『ロンドン警視庁-スコットランドヤード-』の警察官が相談に訪れていたものね! でしょ、ワトスン君?」


「あいり先輩まで、俺のこと“ワトスン”と呼ばないで下さいよ……」


 俺の隣りに座っていた”灰原あいり”先輩の問いかけに、俺は溜息をこぼしつつ返答する。

 このいかにも”できる女”を感じさせる容姿端麗な先輩は、俺の一学年上であり、この”森谷研究室ゼミ”のゼミ長でもある。男を思わず尻込みさせてしまう”美女っぷり”だが、中身はサバサバした姉御肌を通り越してもはや”中年オヤジ”と言った感じだが……口に出すとタコ殴りにされるので、その類の発言は禁忌事項だ。なお、マスコミ業界を志望する彼女は、そろそろ就活生という事で、先日その美しかった茶髪のロングヘアを漆黒色に染め直したのだが……美貌の圧迫感が二割増しされた印象である。


 まあ、それはさて置き…――、

 めぐみが研究するのは『ロンドン警視庁-スコットランドヤード-』についてか…――。


「たしかに面白いでしょうね。例えば、名探偵ホームズは『緋色の研究』の冒頭にて、血液反応を測定する試作薬品の実験をしていました。聞き込みと尋問が主たる捜査手法だった当時、科学技術を融合した“化学捜査”の重要性を示唆する”あのシーン”は、当時の警察関係者に衝撃を与えた事でしょう。実際にエジプト警察では「シャーロック・ホームズ作品」を教科書として過去に採用していたらしいですからね。それだけ”ホームズの捜査手法”は、時代を先取りした”現実的で先進的なもの”だった。

 そう考えてみれば…――名探偵ホームズ達の活躍が、『ロンドン警視庁-スコットランドヤード-』に何かしらの影響を与えた可能性は多いにあり得ます。だからこそ、逆説的に『ロンドン警視庁-スコットランドヤード-』の歴史的変遷を紐解けば……名探偵ホームズ達の”影”が垣間見えてくるかもしれません。実に興味深いですね~?」


「ワトソン先輩、わざと言ってますよねっ、わざとハードル上げて楽しんでますよねぇ!?」

 涙目になる”後輩”めぐみを見て、みんなが優しく笑う。


「けど、めぐみちゃんが『ロンドン警視庁-スコットランドヤード-』の歴史的変遷を研究してくれると、私の研究テーマ的にも大助かりね!」


 あいり先輩は両腕を組むと、鼻息をふんすと鳴らす。

 凛とした美貌がホント台無しだ。


「えっと、あいり先輩は、今期の”論文テーマ”に何を選ばれたんですか?」


 めぐみの質問に対し、あいり先輩が人差し指をびしっと突き立てる。


「よくぞ聞いてくれたわ! ずばり今回の、私の研究テーマは――”名探偵ホームズvs殺人鬼ジャック・ザ・リッパーの真相究明”――についてよ!」


「ジャック・ザ・リッパーって……あの”切り裂きジャック事件”の犯人のことですか?」



 ”切り裂きジャック-Jack the Ripper-”とは――

 一八八八年の夏から秋にかけた約二ヶ月間、英国ロンドン市街”ホワイトチャペル地区”を中心に起きた、連続猟奇殺人「ホワイトチャペル殺人事件」及びその犯人の通称である。少なくとも五名の売春婦がバラバラに切り裂かれて殺害された凶悪犯罪であり、新聞社に”切り裂きジャック-Jack the Ripper-”という署名付きの犯行予告文書が送りつけられるなど“劇場型犯罪”の元祖とされる。当時の『ロンドン警視庁-スコットランドヤード-』が捜査を進めるも…――未だにその正体は不明、世界で最も有名な”未解決事件”のひとつである。



 あいり先輩はしたり顔で頷く。

「名探偵ホームズは、常に”難事件”に飢えていたもの!

 シリーズ中期に発表された短編『ノーウッドの建築家-The Adventure of the Norwood Builder-』の冒頭にて、あの“犯罪界の皇帝-ナポレオン-”と恐れられた宿敵”モリアーティ教授”をあれだけ苦労して打倒したにも関わらず、名探偵ホームズは――“モリアーティ教授の死後、ロンドンは妙に面白くない街になってしまったよ”――と愚痴をこぼしてしまう程度にはゼッタイ飢えてるわ!

 そんな彼が、世界を震撼させた猟奇殺人鬼“切り裂きジャック”事件に、興味を持たなかったはずがないわ!」


 まあ、あいり先輩の言わんとする事は分かる。

 一八八八年の秋頃と言えば、ホームズ達は『四人の署名』や『バスカヴィル家の犬』といった難事件の捜査に取り組んでいた時期であり、一部の愛好家たちの間では「切り裂きジャック事件まで手が回らなかった」という説もある。だが、あの名探偵ホームズが『切り裂きジャック事件』に全く興味を示さず、事件捜査に動かなかった…――とはとても考えにくいと。世界中のシャーロキアンが頭をひねっている次第である。


 しかも『切り裂きジャック事件』は、五人目の殺害事件後にパッタリと起きなくなっている…――。

 事件を終息させるような”何か”が舞台裏で起きたのであれば、そこには”名探偵ホームズ”の存在があったのではないか…――そう考察する”シャーロキアン”も多いわけだ。


「見てみたかったわねぇ~、連続殺人鬼”切り裂きジャック-Jack the Ripper-”と名探偵ホームズの直接対決! きっと名探偵ホームズが、伝説の格闘術『バリツ』で”切り裂きジャック”と壮絶な戦いを、ビシッバシッと繰り広げるのよ!」


 あいり先輩が、ぶんぶん腕を振り回しながら力説するのを、みんなで苦笑いしながら見守る。

 ――と、その時だった。



「あのっ、ところで……『バリツ』って何なんでしょう?」



 めぐみが、ぽつりとつぶやいた言葉に…――ほむら先生がニヤリと微笑んだ。

 やべえ、嫌な予感しかしない……。



   ◇◆ ◇◆◇ ◆◇


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