第32話 番外編 もうご存知でしょうか

「普通、可愛い彼女とデートすんのに洗剤売り場に連れて行く彼氏、いる?」


 朱音はそう言うと、毛先を赤みの強いピンクで染めた長い髪を揺らし、ぎゅうと形のいい眉を寄せた。

 常ならばオーバーサイズのパーカーにショートパンツというような服装が多いようだけれど、今はアルバイトの最中なので、グレーのトレーナーに黒いスラックスとエプロンという地味な格好をしていて、髪もきっちりと一つにまとめている。

 どこかで見たような、とぼけた顔の猫のキャラクターがついた実用性に乏しそうなボールペンやカッターなどがエプロンのポケットに窮屈そうに詰め込まれているのを眺めつつ、幸喜は口を開くと深く長く息を吐き出した。


「なら、彼女にどっか行きたい場所あるか聞いたら満面の笑顔で洗剤売り場って言われた彼氏の気持ち、わかるか?」


 苦々しい面持ちで腕を組んだ幸喜がそう言うと、朱音は途端に視線を泳がせ、居た堪れない空気に耐え切れず、近場にあった段ボールを引きずるようにして寄せながら呟いた。


「あー、それはまあ、なんて言うかさあ……、ごめんってば」


 まさか茅乃にあんな趣味があるなんて普通は思わないじゃん、と言う朱音が見つめた先にあるのは、朱音がアルバイトをしているディスカウントショップ内の衣料用洗剤売り場である。

 その前で、茅乃はかれこれ一時間ほど、かつてない程に真剣な顔をして新商品の洗剤を吟味している。

 三十分程までは幸喜も付き合って側にいたのだけれど、流石にそれ以降は飽きてしまい、店の中をうろうろしつつ時折様子を見に戻ってきているのだが、動きは全く見られない。

 ここ最近、テレビで散々新商品のコマーシャルを見かけたので嫌な予感はしていたのだけれど、こればかりは仕方ないだろう、茅乃と自分を繋いだものでもあるのだから。

 考えて、幸喜は深く長く息を吐き出して小さく笑うと、視線を朱音へと移した。

 朱音はこのディスカウントショップと以前から働いてるドーナツ店と掛け持ちでアルバイトをしているそうで、いっそ時給が高い所に絞ればいいのに、と幸喜は言うが、そういった所は大抵が居酒屋だそうで、あまり気が進まないらしい。

 そういうとこはおばあちゃん達も嫌がるし、という言葉に、彼女達の祖母が朱音に依存し始めているのではないか、と心配したのだけれど、どうやらそういったわけではないそうで、よくよく話を聞けば、離婚した父親が飲酒をすると暴れるような人間だったらしい。

 物心がつく前に別れたと聞いてはいたが、微かに記憶に残っていたり、母や祖母から感じ取ったものもあるのだろう。

 父親に関連する事柄に触れる事で、母親や自分の気持ちが揺らぐのが嫌なんだ、と朱音は言い、困ったように笑っている。


「あ、そうそう。めっちゃ今更だけど、心療内科とかカウンセリングのクリニックとか調べてくれてありがとね」


 引き寄せた段ボールを器用に手で開封した朱音は、目の前の棚にある商品を端に寄せ、段ボールの中身をせっせと陳列をしながらそう言った。

 彼女達の事で何か手伝える事はないかと考え、近隣でそういった病院などがないか調べてリストアップし、印刷したものを茅乃経由で朱音に送っていたのだけれど、どうやら少しは役に立っていたらしい。

 それくらいしか出来ないから、と申し訳なく思いながら幸喜が言うと、そんな事ないよ、と朱音は眉を下げて笑いながら首を振っている。


「ああいうの調べるのって、うちとママだけじゃ結構大変だったからさ」

「病院とかに付き添ったりする方が大変だろ」

「まあ、確かに大変な事も多いけど、他の人の助けがあるのってやっぱり気持ち的にも全然違うじゃん。ていうか、感謝は素直に受け取ってよね!」

「まあ、それは確かに……、どう致しまして」


 しどろもどろになりつつ幸喜が言うと、朱音はうんうんと頷きながら、商品を入れ終えて空になった段ボールを綺麗に畳んでいる。

 話を聞く限り、祖母に合う所が見つかるまでは大変だったようだけれど、誰かと話す事で気持ちを整理していく事が性に合っていたらしく、カウンセリングに通ってからは大分落ち着いたきたらしい。


「茅乃の事も、前にみたいに悪い方向にじゃなくて、って言っても勿論、うちがそう感じるだけだから、本心まではわかんないけど……、茅乃が元気でいるか、心配してる」

「……そっか」


 精神的に落ち着いてきてはいるものの、それと同時に、茅乃にしてきた事への罪悪感が増しているのだろうか。

 そう考えると、どうしても母親の事を思い出してしまい、幸喜は知らず内に手のひらに力を込めてしまう。


「おばあちゃんがしてきた事は絶対に許される事じゃないよ。だけど、いつか、おばあちゃんがそう思ってるって事、茅乃に伝えてあげられるといいな、って思ってるんだ」


 朱音は希望を持つというより、いつかの未来に願いを託すようにそう言って、静かに瞬きを繰り返して、いて。

 それがそう簡単な事ではないのは、何十年もかけて母親と顔を合わせるまで出来るようになった自分自身が一番理解しているだろう、と幸喜は静かに思う。

 何度も何度も膿んで腫れ上がった傷跡を掘り返されるのは、のたうち回る程の苦痛を味わう事で、茅乃は今でも祖母に関連する事柄に触れる時には、今までの事がフラッシュバックして、パニックを引き起こす事も少なくはない。

 大分長い時間がかかるだろうな、と幸喜が言えば、朱音は緩く唇を噛み締めて、小さく頷いた。


「でも、大好きな二人にもうあんな顔をさせたくないから。だから、うちはうちに出来る事を出来るだけやってみる」


 それは、今回の件で二人の間を繋ぐと決めた彼女なりの、覚悟の表れのように見える。


「俺も、出来る事は限られてるけど、やれる事は何でもするよ」


 茅乃がもうあんなふうに傷つく事がないように、とゆっくり瞬きを繰り返しながらそう言うと、息を吐き出した朱音は、それはありがたいんだけどさ、と腰に手を当ててずいと顔を近づけてくる。

 突然の事に驚いた幸喜が身体を後ろに引くと、呆れたように肩を竦めた彼女は言う。


「ていうか、瀬尾さんには茅乃を幸せにするっていう大事な役目があるでしょ。ちゃんと頑張ってよね!」

「わかってるよ」


 年下にそう言われてしまうと、何だかとてもむず痒い。

 幸喜は頭の後ろを掻きながら顔を顰めているが、朱音はそれが照れ隠しだと気付いたのだろう、けらけらと楽しそうに笑っていて。

 丁度レジ応援の店内放送が流れてくるのを聞き咎めた朱音は、「じゃあレジ行くから。茅乃の事よろしくね!」と段ボールを片手に持って、もう片手をひらひらと振った。


「バイト頑張れよ」

「はーい、ありがとね!」


 元気良く笑って跳ねるようにごちゃついた店内をするすると進んでいく朱音を見送った幸喜は、深く長く息を吐き出してから茅乃の側へと足を向けた。

 茅乃は相変わらず真剣な面持ちで洗剤を吟味していて、名前を呼べば、ピンクベージュのワンピースの裾をふわりと揺らし、嬉しそうに笑って駆け寄ってくる。


「朱音ちゃん、呼ばれちゃったんですか?」

「うん」


 おばあさんの事を聞いていた、と言えば、微かに肩を震わせた茅乃は、胸の前でぎゅうと両手を握り締めて顔を俯かせた。

 もう怖くはないのだ、と、どんなに言い聞かせても、身体に、心に深く染みついたものは、そう簡単には消えてはくれない。

 それをよく知っているからこそ、幸喜はそっと茅乃の背中を落ち着かせるように撫でた。


「……多分だけど、少しずつ、いい方向に変わってるみたいだった」


 どう言ったら彼女が安心出来るのか、考えながら言葉を選んでそう言うと、確かめるように何度も頷いて、聞き取るのもやっとの程の微かな声で「良かった」と呟く。

 不安げに揺れた色素の薄い瞳をぎゅうと瞑るので、幸喜は強張った指先に手を伸ばして握り締めた。

 ほっそりとした指先は冷たく強張っていて、上手く力が入らないのだろう、それでも握り返そうとぎこちなく動かしている。

 無理しなくていい、とそっと指先で頰を撫でると、擽ったそうに微かに口元を緩ませた茅乃は、ゆっくりと呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせると、最後に大きく息を吐き出して顔を上げた。

 まだ少し不安そうな表情を浮かべているけれど、指先の力が少し戻ってきたようで、確かめるように手のひらを握り返している。


「で、約束の三十分過ぎてるけど?」


 茅乃の様子が元に戻ってきたのを確認してから幸喜がそう言うと、彼女は「えっ、もう?」と慌てた様子で携帯電話を取り出して時間を確認していた。

 幸喜が一緒に売り場にいたのが、三十分。

 それからあと三十分かけてどうにか決めると約束していた筈だが、もう一時間経過している。


「待って下さい。あと五分……十分だけ!」

「そう言ってもう一時間も経ってるんですけど」

「だって、どうしても決められないんだもん」


 いっそこの売り場ごと買い取りたい、などと恐ろしい事を言い出すので、幸喜は顔を歪めて肺の奥底にまであった空気まで吐き出すようにして、頭の後ろをがしがしと掻いた。

 自宅の洗濯機の上に設置されている棚は既に彼女が持ち込んでいる洗剤で埋め尽くされているのだが、それをわかった上での発言なのだろうか。


「迷ってんの、どれ?」


 頰を膨らませながらも、申し訳なさそうな顔をしている茅乃は厳選した五つを指差して、全部買うと流石に予算オーバーなんです、と、しょんぼりと顔を俯かせた。

 どれも新商品なので、それなりの値段がするのだろう。

 その辺りをもう理解出来てしまっている自分自身に思わず苦笑いが浮かんでしまい、幸喜は近場にあったカゴを手にして彼女の目の前に差し出した。


「じゃあそれ、一旦此処に置いて」


 カゴの中に商品を入れさせると、茅乃は不思議そうに首を傾げている。

 透き通る色素の薄い眼が見つめてくるのを受け流しつつ、幸喜は困ったように眉を下げて笑みを浮かべてしまう。

 欲しいものや行きたい場所を聞いても、洗濯に関連するもの以外思いつかない、なんて、無欲なんだかそうじゃないんだか。

 そんな事を考えながらそのほっそりとした手を取って会計に向かうと、彼女は慌てて顔を見上げている。

 予算オーバーなんですよ、と言う彼女に、自分が払うから良い、と返せば、困った顔をしていて。


「嬉しいですけど、幸喜さんの負担になるのは嫌です」

「毎回は困るけど、今日はいいよ」


 こんな事で元気になるとは思えないけれど、少しでも気持ちが軽くなるなら、と幸喜が言えば、ぎゅうと眉を寄せた茅乃は緩やかに手を離すと、すぐに腕に抱きついてくる。

 顔を肩の辺りに押し付けているので表情は見えないけれど、照れているのか、喜んでいる……、のだろうか。

 考えて、頭を傾けて眺めていると、幸喜さん、と小さな声で名前を呼ばれ、幸喜は顔を近づけた。

 茅乃は内緒話でもするように口元に手を添えて、耳元へそっと話しかけていて。


「私の彼氏さんって、すっごく優しいんですよ。幸喜さんって言うんですけど」


 知ってましたか、と、悪戯っぽく言う茅乃は、楽しげにくすくすと吐息混じりに声を零して笑っている。

 耳元から熱さがやってくるようで、見られないよう顔を背けるけれど、茅乃はわざと顔を覗き込むようにしているので、思わず鼻先にぎゅうと皺を寄せてしまう。

 照れ隠しなのだとわかっている彼女はそれを見て、ますます嬉しそうに顔を綻ばせている。


「私の彼氏さん、照れてる所も可愛いんですよ。ワンちゃんみたいで」


 そう言ってまた腕に抱きついてくる茅乃に、はいはい、と幸喜は言って呆れたように息を吐き出すけれど、彼女は心底嬉しそうに笑うので。

 釣られるようにして、幸喜は同じように笑ってしまっていた。

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