第30話 番外編 ほのかなひかりを灯す

「本当にかわいいですね」


 そう言って顔を綻ばせた茅乃が腕の中に大事そうに抱えているのは、数ヶ月前に生まれた修司と志穂の娘だ。

 頰や手足、それどころか全体的にふっくらとした身体の赤ん坊を、こうして間近で見る事も触れる事も初めてだという茅乃は、すっかり心を奪われているらしい。

 もう何度目になるかわからない「かわいい」を口にしては、にこにこと笑みを浮かべている。

 美織みおりと名付けられた、幸喜にとって姪に当たるその赤ん坊は、想像していたよりもずっと小さいけれど、未発達な身体に反した驚く程の泣き声や、指を握る時のしっかりとした力などに、確かに確固たる一人の人間なのだ、と感じられる。

 幸喜は綺麗に片付いたキッチンで人数分の飲み物を用意しながら、しみじみとそんな事を考える。

 言葉や知識として理解はしていても、こうして一人の人間を産み落としたという事実を目の当たりにすると、義姉は本当に偉大なのだろう、と思い、幸喜は彼女と、その隣でいつもよりくたびれた笑みを浮かべている兄へと視線を向けた。

 常ならばきちんと身なりを整え、部屋に埃一つなく、一人であっという間に沢山の美味しい料理を作り出す志穂だが、流石に産後の数ヶ月、今までと同じようには過ごせる筈もない。

 修司も昔から家事をこなしていたし、何より、大抵の事はそつなくこなしてしまうのだけれど、彼も流石に仕事や家事、連日の夜泣きなどで見るからに疲れ切っている。

 いつも世話になっているので何か手伝える事はないかと聞いた所、回らなくなってきた家事を少し手伝って貰えたら、と助けを求められたので、幸喜と茅乃は手分けをして掃除やら洗濯やら、簡単な食事を作っていたのだ。

 その間、僅かな時間を確保出来た二人は、美織の面倒を見ながら休んでいる内にぐっすり眠っていたので、余程大変な思いをしていたのだろう。


「このまま永遠に抱っこしていられる気がします」

「茅乃ちゃん、私もね、最初はそう思っていたんだよ……」


 満面の笑顔を浮かべてそう言った茅乃に、志穂はぐったりした笑みを浮かべている。

 生まれたばかりの我が子が可愛いのは確かだろうが、満身創痍な産後の身体で永遠に抱っこを出来る筈もない。

 幸喜は苦笑いを浮かべてキッチンから運んできた飲み物をテーブルの上に置いた。


「でも、二人が来てくれて本当に助かるわ」


 掃除も洗濯もしてくれて、美織の面倒も見てくれて、ご飯まで作ってくれるなんて、二人とも本当に可愛くていい子、と志穂は安堵の表情を浮かべながらそう言っている。

 修司もその事に有り難さを感じているのだろう、小さく何度も頷いているので、幸喜は茅乃と顔を見合わせて、小さく笑った。

 志穂の実母が一定期間置きに面倒を見にきてくれているそうだが、あまり頼ってしまうのもどうかと考えてしまい、極力甘えないようにしているらしい。

 二人にも甘えすぎないようにしないとね、と言うけれど、幸喜は昔から家事をしているので然程苦とは思わないし、茅乃はそもそも洗濯が趣味のようなものだ。

「志穂さんのお家の洗濯機、ドラム式でたくさんの機能がついてるんですよ!」などとはしゃいでいたので、全く気にしなくともいいだろう。

 それに、志穂と修司のどちらとも、変に我慢強い所があるので、無理をする時に限界まで耐えてしまう事が多いのだ。

 多少甘えた方がいいと思うけど、と幸喜が言うと、茅乃も同意するように何度も頷いている。


「美織ちゃんにも会いたいですし、お手伝いするの楽しいですし、志穂さん達さえ良ければまたお手伝いしたいです!」


 にっこりと笑ってそう言った茅乃に、志穂は同じようにこにこと笑顔を浮かべて、いいこにはご褒美あげなきゃね、などと言って、頰に手を当てた。


「そうだ。茅乃ちゃん、私のお母さんから珍しい香りの柔軟剤を貰ってあるんだけど、持っていく?」


 懸賞か何かで当てたと言って母親が持ってきたという、限定品の柔軟剤がある、と聞いた途端、茅乃はぱあっと眼を輝かせている。


「本当ですか? 是非持っていきたいです!」


 既に彼氏の住居の一角を埋め尽くしているというのに、まだ洗剤を欲しがるとはどういう事なのか。

 幸喜は唖然としつつも止めようとしたけれども、その嬉しさでいっぱいになった満面の笑みを見てしまえば、流石に無理に止める事は出来かねた。

 ほどほどにするよう一応は声をかけておいたけれども、効果があるようには到底思えない。

 そうして茅乃から美織を預かると、二人は楽しそうに二階へと上がっていくので、幸喜は思わず溜息を吐き出して、慎重に抱きかかえた姪を見下ろした。

 驚く程に小さくあどけないのに、しっかりとした重みと温度があるのが何とも言えず狼狽えていると、ふあ、と小さな声が発せられるので、幸喜は思わず助けを求めるように修司へと視線を向ける。

 手慣れた様子で修司が抱きかかえた途端、美織はぐずつきそうな気配を呆気なく消し、すっかりと大人しくなっていた。

 流石、と幸喜が呟けば、志穂には負けるけどね、と困ったような笑みが返ってくる。


「親になるって大変なんだなって、本当に思うよ」


 しみじみといった様子で兄がそう言うので、幸喜はテーブルに置いてある飲み物を一口飲み込み、思わず苦笑いを浮かべてしまう。


「そう思うなら、これからも時々は顔見せに行って欲しいけど」

「幸喜が行くなら行くよ。っていうか幸喜が行かないなら行かない」

「はいはい」


 行かない、と言うよりは、行き辛いだけ、なのだろう。

 修司からしてみても大きな変化になっているのは確かな事なのだし、今まで彼が幸喜の為に安心していられる場所を守っていてくれたのも、また、確かな事だ。


「修司がちゃんと守ってくれてたから今もこうしていられてるんだと思うし、そこは本当に感謝してるよ」


 そう言って修司を見ると、彼は眉を下げて笑いながら、視線を俯かせている。



 先日、入院中の母親を初めて訪ねた。

 幸喜は修司と二人で両親に会う予定でいたけれど、志穂の強い希望で、彼女と美織も一緒に連れて行ったのだ。

 車椅子に乗せられ、施設の談話室に連れて来られた母親は、病的という程ではないけれど、記憶の中よりも大分痩せていて、皺も随分と増えていた。

 すっぽりと車椅子に収まる姿は驚く程に小さく華奢で、あまりに大きく歪で恐ろしいものと思っていた自分は一体何だったのだろう、と幸喜は呆然としてしまっていた。

 母親の表情は想像していたものとは全く違う穏やかなもので、最後に見た、ガラス玉のように透明で何も感じていないかのような無機質な瞳はしておらず、透き通った茶色の瞳で、はっきりと視線を合わせて幸喜を見ていて。

 ごめんね、と呟いた乾いた声が、やけに遠くぼんやりと聞こえていた。

 何の言葉も反応すら返す事が出来ず、固まってしまった幸喜を見かねて前に出たのは志穂で、すぐ側で複雑そうに顔を歪める修司を宥めるように笑みを浮かべながら、母親達にそっと美織を見せていて。

 何も知らずに見上げてくる赤ん坊を見るなり、かわいい、と母親は嬉しそうに顔を綻ばせていた。

 その瞬間、あの頃の母は、自分は、もうここにはいないのだ、とはっきりと理解出来て、幸喜は心から安堵したものだ。

 自分はあんなふうに傷つけられる事はなく、この人も、あんなふうに壊れていかなくて済むのだ、と。

 そう、はっきりと思えた、から。

 母親は現在の病院で治療を終えた後、緩和ケアへ移行するそうだ。

 その話をしている間も、彼女は終始穏やかに話を聞いていて、幸喜自身も、落ち着いた気持ちで話をする事が出来ていた。

 唯一酷く取り乱していたのは父親で、普段は口数が少なく、怒ったような顔をしているというのに、美織を抱かせた途端、どうした事か、ぼろぼろと涙を零していたのだ。

 あまりの事に全員が呆然としている中、志穂だけが「あらあら」と困ったように笑っていたのが今でも印象的だ。



「幸喜こそ、茅乃ちゃんを連れて行かないの?」


 病院での事を思い出していると、不意に修司が楽しそうに笑ってそう言うので、幸喜は眉間に皺を寄せ、視線を逸らしながら深々と息を吐き出した。


「あのな、付き合ったばっかりだし重すぎだろ」

「そう? 茅乃ちゃん、絶対に行きます! って言うと思うよ」


 修司の言葉をよくよく考えて見るけれど、彼の言う通り、茅乃はきっとそう言うだろう、と幸喜も思う。

 若い彼女を連れてきたとなったその時、父親が今度はどんな反応をするか不安でならない、と言うと、修司はからからと笑っている。


「しかしまあ、親父が泣くとは思わなかったな」

「年とったのもあるんじゃないか? ほら、涙脆くなるとか言うだろ」


 あれから何年経ったんだっけ、と首を傾げる兄に、顔を俯かせていた幸喜は「さあ?」ととぼけたふりをした。

 これまでの事を思い出しても、傷は消えないし、なかった事にも出来ない。

 それでも。

 顔を上げると、修司が抱えている美織の小さな手が、自分に伸ばされるように動くので、幸喜は泣きはしないだろうかと思いつつも、幼い姪の顔を覗き込む。

 案外平気なもんだよ、と笑う修司に、苦笑いを返してその小さな手に触れると、ぎゅうと握り締められる。

 思っていたよりずっと力が強い事に驚いて、思わず引っ込めようとした指先は、けれど懸命に握られて離されようとはしない。

 かわいい、と自然と呟いていた母親の気持ちが何となくわかる気がして、思わず口元が緩んでしまう。


「ちゃんと顔を合わせられて、良かったよ」


 母親の事を、此処にいる二人は未だに母とは呼ばない。

 これから先もそう呼べるかどうかもわからない。

 これまでの事を思い出しても、傷は消えないし、なかった事にも出来ない。

 それでも、確かに救われるような気持ちになっているのを、感じている。

 掴まれた指先から伝わる温度はあたたかい。

 生きている温度だ、と思い、幸喜は笑って確かめるように頷いていた。

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