第9話 ゼフィランサス

ここは探偵事務所。夜岡は受付のカウンターでその日も事務作業をしていた。


子供の頃から憧れていた職に就くことは出来たが、新人の夜岡に与えられたのは事務仕事だった。


探偵事務所の中は空席が多い。探偵は、長期調査や遠出調査が多いため、事務所にいることはあまりない。


そんな穏やかな探偵事務所のドアが開いた。埃一つ無い綺麗なスーツ、手には大きなジュラルミン製アタッシュケース。


「すみません。予約していた石崎徹と申します」


石崎徹(いしざきてつ)。日本の小中学生の学力向上に貢献した有名人である。何度かテレビで拝見したこともある。


「石崎徹さんですね。お待ちしておりました。案内いたします」


有名人からの依頼。夜岡は緊張よりも興奮が止まらなかった。


・・・・・


「夜岡さん、1000万円です」


アタッシュケースが開かれて、目の前には綺麗な札束が現れた。新品未使用で偽札を疑ってしまうが、そんな訳もないだろう。


さらに依頼内容に驚いた。聞けば、石崎徹の子どもが1年前から行方不明であるという。警察にも捜査を依頼していたが見つからず探偵事務所に来たらしい。


「担当を依頼したいのが、この事務所にいる井上水流(いのうえすぐる)さんなのですが」


「えっ?井上水流さんですか」


井上水流を指名することにも驚きだ。井上水流は日本で、ずば抜けた探偵能力を持っている。しかし、年齢は…


「聞いていたよ。おじさん」


事務所で学校の宿題をしていた子どもが立ち上がる。探偵とは思えない容姿に石崎徹は驚いた。


石崎徹をおじさん呼びする14歳の子ども。この人が井上水流だった。


・・・


井上水流は学校から与えられた宿題をやりながら、石崎徹と受付担当の夜岡との会話を聞く。探偵力とは裏腹に学力は低い。なかなか宿題が進まず、空欄も沢山ある。


「まずあなたの目的は石崎香里奈を見つけたいの?それとも石崎香里奈を誘拐した犯人を捕まえたいの?」


井上水流は、宿題に目をやりながら聞いた。失礼な子どもであるが、どの人を前にしてもこの様子なので仕方がない。


「どちらもです。石崎香里奈を取り戻し、誘拐した犯人を捕まえたい」


「誘拐されたと思う根拠は。家周辺の防犯カメラからは犯人に繋がる手がかりは無かったはず」


井上水流の鋭い質問に石崎徹の言葉が詰まる。香里奈は行方不明になっただけであり、誘拐とは断定できない。それは警察の判断でもある。


井上水流が宿題の答えを見ながら丸つけを始めた。ミスだらけだ。


「それが理由です。【香里奈も】監視カメラのどこにも映っていない。半径1kmの監視カメラを全て確認してもらいましたが、どこにも香里奈の姿が確認できていません。証拠にはならないかもしれませんが断定が出来ると思います。香里奈は車で連れ去られた可能性があります」


宿題をパタンと閉じると井上水流は立って指を噛む。何かを考える時の水流の仕草である。


「夜岡さん、チャップチュッパちょうだい」


「は、はい!持ってきます!」


チャップチュッパは井上水流が好きな飴である。事務所には大量のチャップチュッパが置かれている。


「さくらんぼ味か。まぁいいや」


若干不満そうに言いながらも包み紙を開けて舐め始める。石崎徹が持ってきた資料を舐めるように見ていく。


「途中で車に乗っている可能性か。スマホはどこにありましたか」


石崎徹さんは固唾を飲む。この水流の目を誤魔化せる者はほとんどいない。


「家にありました」


「なるほど。分かりました」


井上水流は何かを察したようだった。子どもみたいに(実際に子どもなのだが)ニコッと笑うと石崎徹に手を差し出す。


「この事件、僕が引き受けます」


石崎徹は水流の差し出した右手を両手で握った。


・・・・


「夜岡さん」


「は、はい。何でしょう」


夜岡は井上水流に呼ばれて返事をする。実を言うと、夜岡は井上水流に憧れて事務所に入った。しかし、同じ事務所に配属されているものの、夜岡と水流の接点は無いに等しかった。


「この事件。かなり手強くなりそう。一緒に組んでくれる?」


「は、はい。喜んで!」


初めての探偵の仕事。そして憧れている水流と組めること。夜岡は喜びと嬉しさで興奮が止まらなかった。


この事件は、井上水流の言うようにとんでもない方向へと向かっていくことになる。井上水流は宿題を夜岡に預ける。


「じゃ最初の仕事。僕は仕事やるから代わりに宿題やっといて」


「は、はい。...えっ?」


夜岡はその日から完全な雑用係となった。

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