ラインの娘 ダークファンタジー短篇集

ほいれんで・くー

第1話 ナアマの亡骸

 突如として、魔術師トバルは、得体の知れない恐怖感に襲われた。彼は電撃を受けたようにビクリと体を痙攣させると、つかの間のまどろみから意識を覚醒させた。


 あたりは暗闇に包まれていた。目前の指先すら見えないほどの、無が肉を持って実体化したかのような闇だった。闇はあたかも生き物のように、湿気と悪臭と瘴気しょうきをふんだんに含んだ生臭い呼吸を繰り返している。


 トバルは、病葉わくらばのように変色し穴のあいた外套から魔術杖を取り出すと、ぼそぼそとした掠れた声で光源魔法を唱えた。弱々しい白い光がぼんやりと辺りを照らし出した。


 そこは、地下水道だった。分厚く苔むした石造りの壁。時折脇を走り抜ける、猫のように大きなドブネズミ。壁の一角を埋め尽くす黒い蟲の群れ。目につくものすべてが地上とは異なっていた。


 前日、地上では雨が降ったのだろう。無数の汚物と死骸が上からやってきて、トバルの目の前を浮かびつ沈みつ流されていった。汚水に洗われて生白くなった死体が、水面を静かに運ばれていく。


 光源魔法の白い光が、突然明滅した。


「……ちゃーん……おにいちゃーん……」


 声が聞こえてきた。幽鬼のような、夜の墓場の風のざわめきのような、少女の声だった。


「おにいちゃーん……おにいちゃーん……」


 それを耳にした瞬間、トバルは嘔吐した。空の胃袋からは黄色い胃液しか出てこなかった。


 トバルの心臓が早鐘をついた。やはり、ここまで追ってきたのだ。あれは幻覚ではなかった。妹は、「ああなっても」私を探している。


「おにいちゃーん……おにいちゃーん……」


 彼は耳を澄ます。数分すると声は遠ざかり、やがて聞こえなくなった。


 疲労と飢えでキリキリと痛む肉体を強いて動かして、トバルは地下水道を歩き始めた。当てどもなく、ただ足の赴くままに。


 これが、あの日捨てたものの報いだというのか?


 トバルがここに来てもう一週間になるだろうか? それとも一年になるだろうか? 彼は時間の観念を失っていた。あの大会戦の時から、仲間を失い、そして、自分の最愛の妹を失ったあの一大決戦の終末から、彼は時間を喪失した世界を彷徨ほうこうしていた。



 ☆☆☆



 五年前、地の底より突然現世へと魔の軍勢が侵攻を開始した。人間側の被害は甚大だった。国土を失い、人口を失い、富を失い、なにより、尊厳を失った。


 だが、立ち上がる者たちがいた。彼らは倦まず弛まず、密かに仲間を集め、武器を蓄え、兵を鍛えた。


 そして、あの運命の大会戦へと人間たちは挑んだ。


 その結末は、予期されたものではあったが、悲惨なものだった。


 勇者が消えた。かの勇猛にして高潔、不撓不屈ふとうふくつの人類の希望、アンジェイ・ボナベントゥラは、魔王軍本営に突入後行方不明となった。


 魔術師ルジャも消えた。勇者にいつも影の如く寄り添っていた美貌の女の行方は、ようとして知れない。


 戦士アイアスと治癒師エウヘニアの夫妻は、乱戦の最中にあっけなく討ち死にを遂げた。


 そしてトバルは、妹ナアマを失った。彼がこの世の誰よりも愛していたナアマ、彼の半身にして魂の伴侶であるナアマ。ぬばたまの長い黒髪に、新緑の瞳、ほっそりとした華奢な体、そのすべてが美しかった妹ナアマの生命が、この世から永遠に失われた。


 乱戦だった。協同して戦うなど思いもよらないことだった。敵は大軍で、そして一斉に突撃してきた。トバルとナアマは、仲間たちと早々にはぐれてしまった。


 トバルの隣で戦っていたナアマは、腹部に致命傷を受けた。蜘蛛型妖魔の毒液を分泌する前脚による一撃が、ナアマの白く細い腹を穿った。


 ナアマの腹からピンク色の内臓が溢れ落ち、どす黒い血が止めどなく流れ出た。その光景がどうにも信じられず、トバルはただ呆然と見つめていた。


 ナアマは最期の力を振り絞って、兄にこう告げた。


「おねがい、私の死体を捨てて行かないで……故郷に連れて帰って……」


 そう言って、彼女は息絶えた。その死に顔は、いつもの寝顔のように穏やかで美しかった。長い黒髪も、まだ艷やかな美を保っていた。ほっそりとしたなよやかな手足も、今にも動き出しそうだった。


 ひょっとして、まだ妹は生きているのではないか? ただ動かなくなっただけで。


 だが、ナアマの腹には大穴が空いていた。彼女の清らかな魂を外界へと吸いだした、妖魔の穿った忌々しい穴。彼女の死の絶対的な証拠である穴。ようやくそれをはっきりと認識して、トバルは泣き崩れた。


 乱戦の中、アイアスとエウヘニアの夫妻がトバルを探し出して駆けつけてくれた。二人は悲嘆にくれるトバルを抱き起こして、とにかくここを離れるべきだと主張した。


 既に戦線は崩壊し、戦場のあらゆる場所で魔王軍による人間への一方的な破壊と殺戮が繰り広げられていた。戦争は饗宴へと変貌を遂げていた。


 三人は、ウィズドゥラ川を超えた先にある、工業都市ヴァルシヴァへ向かった。万一敗北した場合はこの街へ後退し、再起を図ることになっていた。


 出発する前、トバルは妹の死体に防腐魔法を掛けた。戦場ではすぐに魔蝿がやってきて、数千個もの卵を死体に産み付ける。無数の乳白色の蛆に覆われた妹の死体など、彼は想像すらしたくなかった。


 小さかった頃いつもしていたように、トバルはナアマを背負った。死体は思った以上に軽く、そして氷のように冷たかった。



 ☆☆☆



 三人は後退を始めた。しかし、人間軍の戦力の中核を成す勇者の一味を魔王軍は決して見逃さなかった。一個連隊をも正面から押しつぶすほどの軍勢と物量が、たった三人と一人の死体に対して、怒涛の如く攻め寄せた。


 激戦の末、アイアスは全身を八つ裂きにされて戦死した。エウヘニアは夫の死を目の当たりにして発狂し、髪を振り乱して敵陣へと駆けて行ったきり、戻ってこなかった。残ったのはトバルと死体だけだった。


 アイアスたちが死んで二日が経った後も、トバルは生きて呼吸を続けていた。珍しく攻撃が止んだその夕方、トバルは疲労しきった体で死体を運びつつ、街道を都市ヴァルシヴァへ進んでいた。道のそこここで死体が転がっていた。脳脱のうだつした死体の頭蓋が、儀礼用の大盃たいはいのような穴を黒々と示していた。


 ふと、トバルの目の前に建物が見えた。なんということはない、この地方の一般的な民家だった。彼は誘蛾灯に引き寄せられる羽虫のように、ふらふらとそこへ向かった。


 破れかかったドアを彼が開けると、腐臭がまず鼻についた。民家の中は、死体で溢れていた。どうやらここは野戦病院だったらしい。腕を欠き、足を失い、苦悶と絶望の死に顔を晒した、無数の死体。死臭と、肉片と、血痕と、蛆と、魔蝿の糞。それらが混然としつつも、一つの集合体としての死の現実を形成していた。


 トバルは外へ出ると、あまり残されていない魔力をどうにか捻り出して、熱放射術式を組み立てた。魔王軍の死霊術師に利用されないために、死体は焼却しなければならなかった。


 民家は、簡単に燃え上がった。はじめはやる気なく黒煙がゆるゆると、そのうち、魔竜の舌のごとき紅蓮の炎が轟々と、血潮と悪臭に染められたその家を消し炭へと変えていった。


 その時だった。突如、民家の中から絶叫が響き渡った。この世のすべての苦痛のなかでその最も程度が大なるもの、すなわち、生きながらにして焼かれる者の絶叫が、トバルの肉体と霊魂を文字通り凍りつかせた。


 生存者がいたのだ。


 助けようか!? トバルは民家を見た。しかし火勢はますます強くなっていく。水魔法で消火するにも、土魔法で鎮火するのも、今彼に残っている魔力量では不可能であるように思われた。この後にまた逃避行を続ける上でも、魔力は残しておかねばならない……


 悩んでいる最中にも、絶叫は続いた。そして次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。


 トバルはいたたまれず、妹の死体を背負って逃げ出した。もはや、涙さえ出なかった。



 ☆☆☆



 それからは、また苦闘の日々の繰り返しだった。空から迫る魔竜と有翼魔獣、地から這い出てくる蜘蛛型妖魔。彼はいずれも辛くも退け得たが、もはや気力体力共に限界だった。


 ある廃村の広場で、トバルは荒い呼吸をしながら、全身を地面に投げ出していた。一週間近く、水も食も口にしていない。手は萎え、足も一歩も動かせない。もはや魔法を放つことも、死体を持ち上げることもできない。


 耳をつけた地面が、魔物が放つ独特の振動音を伝えてきた。どうやら、魔王軍がここに来るのも時間の問題らしい。トバルはそのように思考した。


 トバルは死体を見た。ナアマはただ寝ているだけのようだった。可愛い寝顔だった。これまで勇者に従ってきた長い旅の中で、彼の妹に対する愛情は増すばかりだった。彼はなんとかして、妹を、妹の死体を、故郷に連れ帰ってやりたかった。


 しかし、もう妹を運ぶことはできない。トバルは、自分の中に諦念が湧くのを感じた。彼はしばらく待った。だが、心が諦念を押しのけようとする動きは、まったく見られなかった。ならば、骨だけでも持って帰るべきでは? あっさりと諦念を受け容れた彼の思考は、思いのほか順調に先へと進んだ。火葬に付して、妹の遺品である黄金の小壺に香油を満たし、それに遺骨を納めたならば?


 トバルは杖を構えた。そして、ぶつぶつと魔法を詠唱し始めて、それを突然やめた。


 彼の心はその時、ある疑念に満たされていた。あの民家、あの絶叫が、彼の脳内で蘇っていた。

 

 もしも妹が生きていたら? 呪文を掛けたら妹が絶叫して起き上がり、生きたまま炎に焼かれて灰になっていく。妹は絶望した眼差しを自分に向け、手を伸ばし、しかし焼かれて、真っ黒に炭化しつつある薪そっくりに焼け縮んでいく……


 起こるはずもないことを予想して逡巡し、杖を下げたその時だった。村の入り口から雄叫びを上げて、魔王軍の剽騎兵ひょうきへい三騎が突入してきた。トバルは咄嗟に射撃魔法を連発し、何とか三騎を仕留めた。


 だが、この襲撃と突如沸き起こった恐怖感が、彼を最後の決断へと促した。


 時間がない。妹の死体をどこかに隠そう。


 お誂えむきの場所があった。それは、村の共同井戸だった。半壊し、水も枯れているが、死体を隠すにはちょうど良いものと思われた。トバルは、恐怖に震える手で妹の死体に縄をかけると、それを操って井戸の底へ下ろし始めた。


 不思議とこの間、魔王軍の追撃はなかった。だがそのためにかえって、トバルを襲った恐怖感は尋常なものではなかった。もしこの間隙を襲われたら……? 彼は何度も後ろを振り向き、妖魔が迫ってきていないか確認した。


 死体は無事に井戸の底に下ろせた。トバルは土魔法で井戸の内壁を崩壊させ、死体を完全に埋没させた。


 廃村をあとにし、都市ヴァルシヴァに向かう間、トバルは心中、誰に対してでもなく、言い訳をしていた。約束を違えたわけではない。妹の死は私が故郷に伝える。遺体はしっかりと隠してきた。生き残るために、ああするより他はなかった……


「ああするより他はなかった」


 しかし彼の脳内で、彼以外の誰かが、残響音を伴った声でこう叫ぶのだった。


 お前は妹を捨てた。お前は妹の死体を捨てた。お前は妹との最期の約束を捨てた。お前は妹への愛を捨てた。お前は人間の尊厳を捨てた……


 ヴァルシヴァに辿り着いても幻聴は消えなかった。むしろ、日増しにそれは大きくなるようだった。トバルの精神は徐々に平衡を欠いていった。



 ☆☆☆



 魔王軍は間をおかずウィズドゥラ川を渡河して、一大都市ヴァルシヴァへ猛攻を仕掛けた。人間軍は城壁で、砦で、街路で、アパルトマンで、工場で、橋で、教会で、ありとあらゆる場所で、ありとあらゆる武器を持って熾烈な防衛戦を展開した。都市は傷つき、急速に死の色を帯びて、巨大な甲虫の死骸のように崩壊していった。


 トバルもまた、戦列に加わった。戦力の払底した人間軍にとって、魔術師は金塊よりも貴重な存在となっていた。トバルもまた、戦いを望んでいた。復讐のためではない。彼が欲していたのは、戦闘への逃避だった。逃避することで、心の自由を奪いたかった。


 市中心部へと戦闘が移行しつつあったある日、トバルは、異様な敵に遭遇した。


 それは、人間だった。いや、正確に言うならば、それは元人間の、動く死体の軍勢だった。死体の軍勢は、死霊術師に操られていた。


 その先頭を歩く死体に、トバルの目は釘付けとなった。


 あの黒髪の死体、あの一糸纏わぬ生白い死体、あの腹に大穴を空けた、芸術品の如き美しさを誇る死体。あれは私の妹、ナアマではないか……?


 食い入るように、トバルはそれを見つめた。死体が突然、彼の方を向いた。黒い眼窩には眼球がなかった。動くはずのない顔面の筋肉をぎこちなく動かして、その死体は死体に不似合いなほどに美しい声で言った。


「おにいちゃん」


 それを聞いた瞬間、トバルは逃げ出した。呼び止める仲間も、立ちふさがる兵士も押しのけて、彼はひたすら走って逃げた。彼には何も見えていなかった。足だけが動いていた。


 その間にも、彼の脳内では妹の声が響いていた。


 おにいちゃん……おにいちゃん……


 味方の陣地には戻らなかった。数日間、当てどもなく地上の廃墟を彷徨ったあと、トバルはいつの間にか地下水道へと入り込んでいた。



 ☆☆☆



 わずか地盤一枚に隔てられているだけなのに、地下水道では地上の苛烈な戦闘と遠く離れていた。兵士たちの断末魔も、魔獣の咆哮も、火力魔法の砲声も聞こえない。蟲の群れが這ううしおのようなざわめきと、ドブネズミの鳴きかわす声と、水滴の垂れる音しかしない。


 それから、トバル自身の足音が聞こえた。それはどんなに気をつけていても何倍にも増幅されて、地下水道全体に響いてしまう。


 力なく、途切れがちの光源魔法を灯しながら、トバルは地下水道を逃げるように歩き回った。


 彼は、妹について思い返していた。ナアマは、大人しくて優しい子だった。青い石と燃える空気で有名な村エノクで、双子の兄妹としてトバルとナアマはこの世に生まれた。勇者一行が来た時、怖がる妹を説得し外へ連れ出したのは、他ならぬトバルだった。


 旅は楽しかった。村の外の世界は刺激的で驚きに満ちていた。ただ、トバルにとって忌々しかったのは、妹が勇者に思いを寄せていることだった。


 そう、旅が進むに連れて、ナアマは勇者に着実に惹かれていった。しかし、勇者のそばにはいつも寄り添うように美貌の魔術師ルジャが佇んでいた。


 あの決戦前夜、寝袋で横になっているトバルのもとへ、ナアマは泣きながら戻ってきた。詳しくは話さなかったが、どうやら失恋したようだった。

 

 妹は兄のもとへやってきて、泣き腫らした目で見つめた。そんな妹を、トバルは冷たく突き放した。決戦を前にして恋だの愛だの、そういう話をしたくはなかった。妹のめそめそとした軟弱さがいつにも増して癇に障った。


 そして何より、自分の妹が勇者に惚れているということ自体に、言いようのない不快感を覚えた。


 そう、彼はナアマを愛していた。いつの頃からは知らないが、彼はナアマに家族愛ではなく、一人の女性に対する愛を抱いていた。叶わぬとは知りつつも、禁忌とは知りつつも、ナアマと結合し、ナアマと子を成したいと願っていた。異常な性愛を抱いていることを自覚すればするほど、彼はそれに呑み込まれていった。


 妹を捨てたのは、実はあの時だったのではないか? トバルはそう思った。勇者に思いを寄せ、結果傷ついた妹に寄り添わず、突き放し、さらなる悲嘆へと追いやったあの夜。あの時既に、自分は妹を捨てていたのでは……? 愛する者を傷つける残酷な愉悦を得る代償として……



 ☆☆☆



 突如、トバルの光源魔法に揺らぎが生じた。一斉に、何千もの大きなドブネズミがそこかしこから大急ぎで逃げ出し、蟲の大群が潮騒のようなざわめきを立てて走り去った。


 異様な雰囲気があたりを重く圧していた。トバルは光を消し、息を潜め、壁に張り付いた。数分後、何かがぴちゃぴちゃと水音を立てて、こちらへ歩いてくるのが感じられた。トバルは動けなかった。足は、固着したかのように地面から離れない。何かはその間にも動き続け、どうやら、今や向こうの角までそれは来ているらしかった。


「おにいちゃーん……おにいちゃーん……」


 声が響いてくる。間違えようのない、愛する妹の声。それはだんだんとこちらに近づいてくる。今度こそはという確信を持っているかのように、声の主は確実にトバルの元へ近づいている。


 トバルは意を決して壁から離れると、前方に向けて最大出力で光源魔法を放った。


 揺らめく光に照らされて、蝋のように真っ白な全裸の死体がそこに立っていた。薄いながらも膨らみのある胸は緑色に変色している。しかし、黒い穴が開いているにも拘わらず、死体は曰く形容しがたい艶かしい印象を纏っていた。


 トバルは、掠れた声で呼びかけた。


「ナアマ……」


 死体は、確かに笑った。空っぽになった真っ黒な眼窩をこちらに向けてくる。ぽっかりと開いた口から丸々と太ったドブネズミが飛び出した。ミミズのようなその尾が、小さく尖ったナアマの胸の先端部を撫でて去った。


「おにいちゃん」


 ひたひたと、死体は両手を差し伸べてトバルに迫った。次第に腐肉の臭いが強くなる。


 その左胸に、思わず彼の視線が引き寄せられた。


 幾何学模様の、魔王軍の死霊術師団の焼印が刻まれていた。焼印は魔力で赤紫色に発光していた。


「ウォおオッ!」


 反射的に、奇声と共にトバルは切断魔法を放っていた。彼は半狂乱になって、妹も見ず、魔法を乱射して逃げ出した。


 しかし、何かが足を捕えた。それは、妹の切断された左腕だった。逃さじと、万力のような力でトバルの足首を掴んでいる。


 姿勢を崩したトバルは、水飛沫を上げて水路に落ちた。前日の雨で増水した勢いそのままに、水流は彼を、死体やガラクタや汚物と共に、地下世界の奥へ奥へと運んでいった。



 ☆☆☆



 ここは、何処だ。ここは、地獄か?


 気がつくと、トバルはうつ伏せで倒れていた。彼は酷く痛む体を酷使して、何とか上体を起こした。


 そこは大きな広場だった。半永久蓄光石ちくこうせきがふんだんにあしらわれたシャンデリアが、高い天井からいくつも下がっている。どうやら昔、王族の一時避難場所として設計された場所であるようだった。


 トバルは立ち上がろうとした。しかし、それはできなかった。ここに落ちてくる時に全身を打撲した上、左足首と右足の大腿骨は完全に折れていた。


 ここがつい住処すみかか。トバルはひとりごちた。逃げて逃げて、逃げ続けて、最後にはひとりぼっちになって、ここで一人朽ち果てるのか。


 それは甘美な誘惑だった。現世におけるあらゆる苦痛からの解放。妹に肉欲を抱いたという罪の意識からの解放。妹の死体を捨てたという癒やされ難い罪悪感からの解放。


 ドン、と地下空間全体が揺れた。


 その振動は回を増すごとに大きく、頻繁になった。まるで小さな子どもが買って貰ったばかりの兵隊太鼓を力任せに打つような、無邪気で、だが隠しきれない暴力性を露わにした、連続した響きだった。


 トバルには、それが何なのか予想がついた。いや、予想ではなく、直感していた。全身の感覚器官が告げる、脳内で総合されるまでもないの神経伝達情報、それが彼にこの振動の正体を教えていた。


 広場の天井からパラパラと石片が落下してくる。その破片は次第に大きくなり、遂に一筋の亀裂が生まれた。


「おにいちゃん」


 そこから覗いたのは、妹とまったく同じ色と形と輝きを放つ巨大な瞳だった。故郷の村祭りで、旅芸人の踊りを見て楽しげにくるくると動かしていた、あの失われたはずの綺麗な緑色の目。


 目はギョロギョロと動き、何かを探しているようだった。無に近いほど純粋に透き通ったその目は、怪しく輝いていた。そして数秒後、動きが止まった。目はトバルを見つめている。


「おにいちゃん」


 それは割れ目に手を掛けた。頭を中へ入れようとしている。頭部が出た。それはナアマだった。先程よりも、妹は大きくなっていた。むしろ、大きくなりすぎていた。頭は目算で直径三メートルを超えており、広げた手のひらは連隊旗のように大きかった。


「おにいちゃん、おにいちゃん」


 トバルは這いずって逃げようとした。そんなことをしても無駄なことは分かっていたが、意識せずに体は動いていた。それでも、彼は一メートルすら動くことはできなかった。


「おにいちゃん」


 ついに、臓物のつまった肉袋を力一杯棒で叩いたような音を立てて、割れ目から妹ナアマが降ってきた。


 その姿は、さながら芋虫だった。


 それは、多種多様な死肉の集合体だった。地上の激戦で殺され、捨てられ、地下世界へ流されてきた無数の人間の死体や魔物の残骸が、ナアマを核として集合体になったのだった。


 無数の紫色の血管が全身に走る芋虫の太く短い胴体に、ナアマの頭と両腕が生えている。ブヨブヨとしたその体は、濁って腐った緑色の体液を撒き散らしていた。


「おにいちゃん」


 肉片をこぼし、体液を壁面に擦り付けながら、妹はトバルへずるずると迫った。そして、その両手を伸ばして兄を掴まえると、自分の視線に合うように持ち上げた。


「おにいちゃん」


 ここに至って、トバルの心は穏やかそのものだった。彼自身、今この状況でそのような心地になったのが不思議に思われた。村にいた頃、暖炉のそばで二人で寛いでいた時のように、彼は穏やかな声で変わり果てた妹に話しかけた。


「ナアマ。お前を捨てて行って悪かった。許してくれ」


 妹は、静かに兄を見つめていた。その目は春の湖の水面のように澄んでいる。


「おにいちゃん」


 トバルは、息を大きく吸って、また大きく吐くと、決心したように言った。


「ナアマ。私はお前を愛している。この世の誰よりもだ。もうお前を捨てたりしない。私は、お前といつまでも一緒にいたい。お前は、私を許してくれるかい?」


「おにいちゃん」


 ナアマは、両手でトバルを掴んだ。そして、愛おしげな表情を浮かべて、まず兄の頭部を齧り取った。ナアマは次にトバルの胸と両腕、その次に腹部、最後に腰と両足を、堅焼きビスケットを食べるようにバリバリと音を立てて噛み砕き、時間をかけて咀嚼し、そして満足そうに飲み込んだ。


「おにいちゃん……」


 ずりずりと、巨体が擦れる。ナアマは切なそうに兄を呼んだあと、その芋虫の体を大儀そうに引き摺って、地下水道の暗黒の彼方へと姿を消した。



 ☆☆☆



 半年後、人間軍は復帰した勇者アンジェイ・ボナベントゥラの指揮のもと、ヴァルシヴァ攻防戦で奇跡的な逆転勝利をおさめた。


 その際、勇者は地下水道で、ある怪物を討伐したという。その怪物は、瓜二つの顔をした男と女の頭を持つ巨大な芋虫の怪物で、地上から流れ落ちてくる死体を貪り食っていたという。


 五年後、勇者は魔王を討ち果たした。地下水道の巨大な芋虫の話は、次第に人々から忘れ去られていった。


(「ナアマの亡骸」終)

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