第38話 イツキとエタンロイ子爵

 進水式を翌日に迎えた夕暮れどき――

 砂浜に鎮座する大型帆船を、堤防から眺めている中年の男が立っていた。


 領主エタンロイ子爵だ。


 この地で最も有名な人物ではあるのだが、顔まで知っている平民はそういない。おまけに、まさかそんな人物がこんなところに一人でいるとも思わないので、特に騒ぎは起こらなかった。

 たたずむ子爵に、一人の少女が近づく。


 黒髪の美少女イツキだ。


「お早いですね」


「……気にするな。定刻通りに来た人間を責めることはない」


 そう応じた後、エタンロイ子爵はイツキに目を向ける。


「手紙をもらったが、意図はなんだ?」


 それが、子爵がここにいる理由だった。

 イツキが手紙を送り、呼び出したのだ。大型帆船の完成報告を記した後、話がしたいと日時を指定して。


(……来てくれたか……)


 イツキごときの、流れの職人の手紙など無視されるかとも思ったが、そうならなかった。それは――


(息子であるジンクスが気になるから)


 その気持ちを確認できてイツキはほっとした。


「ついに船が完成しました。そう遠くないうちにジンクスさんは東の大陸を目指し、航路を完成させるでしょう」


 その言葉が子爵に染み込むのを待って、イツキは続ける。


「……海バカの放蕩息子が、ここまでのことを成し遂げた。そろそろ、褒めてあげてはどうですか?」


「ジンクスではなく、ここまでしたのは、君だろう?」


「……どういうことですか?」


「ライゼン商会から話は聞いている。あちらも、私への義理があるからな。イツキという黒髪の女職人が中心になっている、と。ただの飾りでしかない愚かな息子を褒めてやるわけにはいかない」


 そこで、子爵が目の力を強めた。


「息子を動かして――狙いはなんだ?」


(……なるほど。そういう観点があったのか)


 それは全く考えていなかった。

 なぜなら、イツキがジンクスに接近した理由はあまりにもしょーもなすぎて、そんなふうに見られるとは少しも思わなかったから。


(醤油だもんなあ……)


 そんなわけで、正直にも言えない。そもそも、醤油が理解できないだろうし、理解させたとしても、それが理由だと信じてもらえないだろう。

 日本人の醤油愛を伝えるのはなかなか難しい。

 だが、隠すと子爵の疑いが強まるかもしれない。


「……醤油です」


「は?」


「東の大陸にある醤油という調味料が欲しいと思い、話を持ちかけました」


「ショーユ……調味料?」


 想定外の単語に動揺する子爵に、イツキは追い打ちをかけた。


「ぜひ、料理で使ってみてください! 特に刺身――生魚の切り身につけると美味しいです!」


「あ、ああ……」


 子爵の顔が露骨に困っていた。

 嘘の言い訳にしては意味不明すぎだし、そもそもイツキの熱意が高すぎてついていけていない。

 押し切ったぞ! と確信したイツキは急いで話題を変えた。


「ただ、御子息が飾り、と認識されている点については明確に否定します。大きなことを為すには、強い想いを持った何者かが引っ張っていく必要があります。その点において、ジンクスさんは立派にリーダーとしての責務を果たしてくれたと思っています」


 これは、イツキの本音でもあった。

 ジンクスという存在は、子爵家の子息という属性も含めて、本当に大きかった。今では、ライゼン商会との話もイツキではなくジンクスが中心に進めている。決して、軽んじていい人物ではない。


「それに、ここからはジンクスさんの領分です。船員たちを指揮し、海を渡るのはジンクスさんなのですから」


「なるほど……」


 そう応じてから、子爵が視線をサンタ・マリア号に戻す。


「愚息を、少しは認めてやるとするか。だが、褒めるのは無事に帰ってからだ。そのときは、心の底から息子のありようを受け入れるとしよう」


 それでいい、とイツキは思った。

 イツキは子爵とジンクスの仲直りを画策していた。当人同士がこじれにこじれている以上、関係のない第三者が間に入ったほうがいいこともある。

 そして、それがイツキの一言で綺麗さっぱり解決するとも思っていない。

 今は少しだけ、意識が変わればいい。

 父親が、何かを成し遂げようとする息子に歩み寄る余地が生まれればいいのだ。


「話はそれだけか?」


 終えようとする子爵に、イツキはこう切り返した。


「いえ、ここからが本題です」


「……!?」


 動揺する子爵に構わず、イツキは続ける。


「これからの、リキララのあり方について考えておいてください」


「リキララの在り方? どういう意味だ?」


「東方との航路が確立すれば、ここはその玄関口となります。リゾート地としてだけではなく、交易の中心地にもなるでしょう」


 それだけで、全てが伝わった。

 子爵が息を呑む。

 今までは遠方の帝国を介してしか関係を持てなかった大陸、そことの流通の起点となるのだから。

 それはきっと、新しい時代の幕開けを意味する。

 その役割は、いずれ王国の各地に波及していくだろう。だが、少なくとも当面は――今の子爵が現役である間くらいは、ずっとリキララを中心に回っていく。


「ジンクスさんが戻ってきたとき、あっという間に時代は変わるでしょう。そのときになってから考えていては遅い。今から考えておいてください」


「……わかった。約束しよう」


 話が終わった。

 もうイツキから話すことはなかったが、今度は子爵が話題を切り出した。


「……外洋の航海は危険なものだと聞く。息子が無事に帰ってくる保証はどれくらいあるのかな?」


 その声は、微妙な心配を含んでいた。

 息子の身を心配する父親の声だった。


「ご安心ください。私が作った船です。懸念されていることなど起こるはずもありません」


 こういうとき、イツキは思うのだ。

 生産職カンストで本当に良かったと。

 そのおかげで、こんなことでもためらいなく言えるのだから。


「100%無事に帰ってくる――保証しますよ」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る