物語と勉強ドリル

 宗助そうすけは、困っていた。


「お母さん、今日は好きな本を買ってくれるって言ったじゃん」


 彼の小さな反撃は、お母さんの一言で蹴散けちらされてしまう。


「そんなこと、言ってません。好きな、勉強の本を買ってあげると言ったんです」


 その強い口調に宗助はただ、うつむくしかない。こんなことなら、家を出る前のお母さんの言葉を録音しておけばよかったと思う。


 そんな宗助とお母さんの傍らを、一組の親子が通り過ぎていく。


「お母さん、ありがとう。この本、ずーっと欲しかったんだ」

「よかったわね。大事にするのよ」


 そんな会話が聞こえてきて、宗助は泣きたくなる。


「僕だって、自分が読みたい、勉強に関係のない本が欲しいよ……」


 彼のそんな小さなつぶやきは、お母さんには届かない。


 思えば物語の本を買ってもらえた記憶なんて、宗助の中には一度もなかった。

 毎回こうやって本屋に連れて来られては、欲しくもないドリルばかりが増えていく。


 中学校の朝読書の時間は、宗助にとって、地獄じごくの時間だ。

 宗助は一冊も物語の本を持っていない。

 でもこの時間は、本を読まないといけない。

 本を持っていない宗助は、家にあるドリルを見て過ごすことになる。

 読みたくもない問題集を見て、時間が過ぎるのを待つ朝読書の時間。

 その時間が、何よりもきらいな時間だった。


 朝読書用の物語を図書室で借りてこようと何度も思った。

 けれど、一人で図書室に行くのが恥ずかしくて、できない。


 そんなことを考えている宗助の方に、足音が一つ近づいてきた。


「せっかく本屋に連れてきてもろたのに、暗い顔してんな。アンタ、本が好きじゃないんか?」


 顔を上げる。そこには、不思議な恰好かっこうをした女の子が立っていた。

 ピンク色とうすいむらさき色のかみを三つ編みにした女の子。

 年齢としは、中学一年生の宗助より年上か、同じくらいに見える。


「誰!?」


 思わず、後ずさる。すると、女の子は、ケタケタと笑う。


「そりゃ、ごもっともや。今の世の中、不審者ふしんしゃ多いからな……って、ウチを不審者扱いせんといてっ」


 途中とちゅうから怒ったように彼女は言った。


「ウチのことは、ジーニちゃんって呼んでくれればええよ。以後、よしなに」

「あ、えっと……分かりました」


 戸惑いつつ、宗助は返事をする。

 女の子……――、ジーニはニコッと笑った。


「うんうん、ええ返事や。よっしゃ、今日のお客さんはアンタに決めたで」

「お客さん……?」


 宗助は首をかしげる。

 ここは本屋で、他にお店がある感じではない。

 それに、ジーニちゃんが店員さんという感じもしなかった。


「まぁ、見ててぇな」


 そう言いながら、ジーニは肩に背負っていたリュックをドン、と降ろす。

 四角い形のリュックサックは、まるで青空のようなきれいな水色をしていた。

 ありとあらゆる大きさ、色のユニコーンやペガサスのキーホルダーが落ちてしまいそうなくらい、たくさんぶら下げられている。


 ジーニは右に大きくリュックサックを開いた。すると、中から小さな本棚が現れる。本棚の中には、所せましと本が並んでいる。

 その中の一冊が飛び出て、ジーニの腕におさまる。彼女は本を開いた。

 宗助は、なんとなく彼女の隣に行って本を盗み見る。

 本には、こう書いてあった。


『宗助は、学校では「勉強できないガリ」と呼ばれている。丸メガネで、いつもお母さんに買ってもらったドリルを持ち歩いているので、周りからからかわれるのだ。

 そんな彼は、本当は物語の本がほしかった。けれど、お母さんは宗助の話は聞かず、問題集やドリルばかりを買い与えるのだった。


 ドリルや問題集しか買ってもらえない宗助は、本屋が嫌いになってきた。とはいえ、本屋でお母さんが問題集を選んでいる間しか、彼が物語の本を読むチャンスはない。


 そんなある日、このあたりで一番大きな書店に来た時、彼はジーニちゃんと出会う』


「おもろいやろ、この本」


 ジーニが、ケタケタと笑う。


「まるで僕のことが書いてあるみたい……」


 宗助が言うと、ジーニが言葉を続ける。


「書いてあるじゃなくてな、書いてねん」


 ジーニは、本を元の位置に戻した。すると、リュックサックの中の本棚が動き始めた。

 先ほどまで本棚があった場所、そこに大きな穴がぽっかり開いていた。


「アンタにぴったりの本、見つけたる。自分だけの本が欲しかったら、ついてきぃ」


 そう言うと、ジーニはぴょん、とリュックサックに向かって飛び上がった。

 あっという間に、彼女は姿を消した。まるで、穴の中に吸い込まれたようだった。

 

 宗助は、今目の前で起きたことを信じられずにいた。

 けれど、実際にジーニは姿を消している。


 こんな物語の登場人物みたいな冒険をすることになるなんて。

 そう思いながら宗助は、ごくりとつばを飲み込んだ。

 そして、大きく息を吸い込んで穴の中へ思い切って飛び込んだ。


「よしよし来たな、おめでとう。アンタはいい選択をしたで」


 穴の中には縦長の空間が広がっていた。

 その中を、ジーニと宗助はゆっくりと落下していく。

 おそろしくて、叫びだしそうになるのを、宗助はこらえる。


「心配せんでええ。急降下とか、せえへんから。ウチ、絶叫系嫌いやし」


 のんびりと、ゆらりゆらりとゆれるロッキングチェアに座って本を読みながら、ジーニは言う。


 宗助も近くに浮いていたいすをひっぱって、自分も座る。


「それじゃ、ビジネスの話をしよか。……アンタは、どんな本が必要なんや」

「僕に必要な本……ですか」

「せや。……アンタに必要な本をウチが見つけて、アンタが必要としてへん本を、代わりにもらう。それが、ウチのやり方や」


 ジーニの言葉に、宗助は自然と言葉を返していた。


「物語の本が欲しいです。あ、でもお母さんにはバレないような本でお願いします」

「ははーん、なるほど。それが、アンタの本心こたえなんやね」


 ジーニはうなずいて、パチン、と指をならした。

 すると、二人はいつの間にか地面に着地していた。

 


 そこには、広い空間が広がっていた。

 見渡す限り本棚であふれていて、どの本棚にも本がつまっている。

 その中の一冊が、まばゆく光っている。

 思わず、宗助はその一冊を手に取った。

 パラパラとめくってみて、大きなため息をつく。

 その本は、全てのページが、真っ白だったのだ。


「ジーニ……ちゃん。ここにある本は、全部、真っ白なんでしょうか?」


 そう問いかけると、ジーニは笑った。


「せや。それぞれが、持ち主に合った本になるねん。せやから持ち主がない本には、何も書かれてないわけや」


 彼女は宗助から本を受け取る。

 それを近くにあった丸テーブルの上に置いて、自分もいすに座る。


「お母さんがいつも買ってくれるんは……勉強に関するドリル、やな。せやったら、ドリルの姿をした本ってのは、どうや?」

「そりゃ、そんな本があったら、うれしいですけど……」


 ドリルの形をしていれば、お母さんもあやしがることはない。

 でもそんな本、見たことがない。

 でももし本当にそんな本があるとしたら、見てみたい。


 ジーニは、鼻をならす。


「この店には、存在しない本はあらへん。なければ作ればいいからな」


 そう言って、本の表紙をなぞる。


「ここにやってくる本はみんな、誰かの本になりたくてやってくる。せやから、アンタを選んだこの本は、アンタが望む形に、姿を変えてくれるわ」


 宗助がさっき手に取った本。それはただ光っていたからなんとなく、手に取ってみただけだった。

 しかしジーニによると、その本こそが、宗助を選んだ本だという。


「それじゃまるで、本が生きてるみたいじゃないですか」


「せやな、ここにいる本は生きていると考えてもらって構へん。そして、ここにいる本たちはみんな、自分たちで持ち主を選ぶねん。あくまでここでの主役は、人間じゃなくて、ここにいる本たちやからな」


 それを聞いて、宗助はジーニに色々なことを尋ねたくなった。

 しかし、彼女に向けようとした質問は、彼が本に目を向けたときに忘れ去ってしまった。


 宗助を選んだという本は、白い光に包まれていた。その光の中に、おもちゃのドラゴンの人形やら、勇者の姿をしたぬいぐるみやらが吸い込まれていくのだ。


 しばらくして光が収まると、先ほどの本は姿を変えていた。その姿を見て、宗助は顔をしかめた。彼の嫌いな、計算ドリルと大きく表紙に書かれた本だったのだ。


 宗助の表情を見て、ジーニが笑いをにじませた声で言う。


「手に取って、中身を確認してみ」


 宗助は、おそるおそる、ドリルを手にとってみた。表紙には、大きなドラゴンと向かい合う勇者の姿が描かれていて、確かに普通のドリルよりは、面白そうに見える。


 けれど、あくまで彼が求めているのは物語の本だ。計算ドリルではない。しかしそんな彼の思いは、目次を見て吹き飛んだ。


 本は、勇者として選ばれた少年が、村の怖いドラゴンを仲間にし、魔王を倒しに行くストーリーが描かれていた。しかも、魔王は勇者と共に旅に出るという終わり方をしている。


「この本が、宗助にとって一番いい選択肢を準備してくれた。今から、その本の扱い方について、説明するで」


 ジーニはにっこり笑って宗助を見た。

「この本は宗助が手に取ったときと、宗助以外の人が手に取ったときで、中身が変わるねん。お母さんが見ようとすると、ドリルになるねん」


 ジーニの言葉と共にページから、計算問題が浮かび上がる。


「せやけど、宗助が手に取ったときには、物語が浮かび上がる。さらに、こんなこともできるねん」


 彼女の言葉と同時に、左に計算問題、右のページに物語が浮かび上がる。


「計算問題を解くことで、そしてその正解の数によって、物語が変化するんや。しかも、何度でも同じ問題に挑戦できるから、たくさんの物語を見ることができるわけや。面白いやろ。勉強しようかな、そう宗助が言えば、この形で本が開く。どんな問題を解きたいか、それを詳しく伝えれば、それに近い問題を出してくれるはずや」


 それを聞いて、宗助は目を輝かせた。これこそ、僕にぴったりの本だ。これなら、お母さんに勉強しなさいと怒られることもないし、物語を好きなだけ楽しむことができる。


「買います。いくらですか」


 なんとしてでも、この本を持って帰りたい。宗助は、自分の財布の中身を漁りはじめた。


「まいど! お代は、宗助が今必要としていない本か、アンタのもとから旅立ちたいと思っている本になるけど、ええか?」


 ジーニの言葉に、宗助はうなずく。僕が必要としていない本、それならたくさんある。すると宗助の持っていたバッグの中から、一冊のドリルが飛び出して、彼女の前に進み出た。


 ジーニがうなずくと、宗助のドリルだった本はどこか嬉しそうに、本棚の中の一つに収まった。それを見届けて、彼女は宗助に向き直る。


「それじゃ、お母さんに本を見せに行こか」


 その言葉を聞き終わるとほぼ同時に、宗助は元の書店の児童書コーナーに戻ってきていた。そして自分の腕に抱きかかえている本があることに気付いた。先ほどのドリルになった本だ。彼は急いで本をお母さんに見せに行った。


 お母さんは、先ほどと変わらずドリルコーナーにいた。宗助は、ゆっくりとお母さんのところへ向かう。


「お母さん。このドリルなら僕、やるよ」


 自然と、宗助の口から言葉があふれ出た。それを聞いて、一瞬いっしゅん母親は不思議そうな顔をする。

 それはそうだろう。いつもなら、どんなドリルを前にしても、嫌がるのだ。

 それがどうしたことか、今日は自分でこのドリルがいいと選んで持ってきた。

 怪しいと思わないはずがない。


「見せてみなさい」


 そう言われて、宗助は少しためらった。

 しかし、本当に自分にぴったりの本をジーニちゃんが選んでくれたのなら、大丈夫なはず。

 そう思って、宗助はお母さんに本を手渡した。

 お母さんはしばらく、ページをめくったり、表紙や裏表紙を見つめていた。

 数分後、ゆっくりとお母さんは言った。


「いい本を選んだわね。これなら、買ってあげるわよ」


 そう言われていよいよ、宗助は内心飛び上がって喜んだ。

 その時、書店のエプロンをつけた女性が声をかけてくる。


「いい本をお選びになりましたね。お子さんもきっと気に入ります」


 それを聞いて、お母さんはますます機嫌をよくした。そして言った。


「これ、買います」

「お買い上げ、ありがとうございます。お代は先ほど宗助くんから頂きましたので、結構ですよ」


 歌うように、女性店員は言った。それを聞いて、お母さんはびっくりする。女性店員さんは、どこから出したのか、手提げ袋に本を入れてくれる。

 そこで、宗助は気づいた。なぜだか大人の姿になっているが、この人はジーニちゃんなのだと。

 なぜならピンク色と紫色の三つ編みの髪型は、変わっていなかったからだ。

 彼女は宗助の目線に合うよう、かがんで言った。


「まいど、ありがとうございます。本と、そしてあなたが幸せでありますように」


 そう言って、女性店員は宗助とお母さんのそばから姿を消した。


 家に帰ると、宗助は手提げ袋から、本を取り出した。手提げ袋は記念にとっておくことにしたので、勉強机の引き出しにしまっておいた。


 宗助は早速、物語が読みたいと本に伝えた。そうすると、表紙はドリルのままだが、中のページから、計算問題が消えた。代わりに、物語が生まれ始める。


 それから宗助は数日、物語を読みふけった。不思議な女の子から購入したこの本の物語は、決して完結しなかった。次から次へと物語の続きが追加され、終わる気配がない。それが彼には、とても嬉しかった。終わりがある物語だといつか、自分とこの本のお別れの日が訪れるような気がして、怖かったのだ。


 本は、お母さんの監視の目もかいくぐった。お母さんは、自ら進んで部屋にこもり、勉強机に向かう息子の姿に疑いの目を向けていた。

 なにしろ、今まで一時間も集中できずにリビングに戻ってきていた宗助が、こちらが呼びかけない限り部屋にこもっているのだ。


 しかし、数日経った頃には、上機嫌で部屋への見回りにも来なくなった。そんなある日のことである。物語を誰にも邪魔されず、思う存分体験した宗助の目に、思わぬ言葉が映ったのだ。


『そろそろ、勉強物語モードを試してみませんか』


 本の言葉に、宗助はあの日ジーニから聞いた言葉を思い出した。


『計算問題を解くことで、そしてその正解の数によって、物語が変化するんや。しかも、何度でも同じ問題に挑戦できるから、たくさんの物語を見ることができるねん。面白いやろ。勉強しようかな、そう宗助が言えば、この形で本が開く。どんな問題を解きたいか、それを詳しく伝えれば、それに近い問題を出してくれるわ』


 この数日、終わりのない物語を読み進めることができたおかげで、彼の心は満たされていた。一度、この本で勉強してみてもいいかもしれない。それに、この本なら遊びも混じっている。宗助はそう考え、本に向かって言った。


「やってみるよ。嫌になったら、また物語に戻してくれるんだよね」

『もちろんです。あなたの本ですから』


 本の言葉に満足して、宗助は一度本を閉じ、再びページを開いた。先ほどまで物語がつづられていた本のページには、大きなドラゴンが火を吹いている絵が描かれている。


「第一章、敵とのであい」


 そう宗助が読み上げるとドラゴンの絵は消え、小鬼に向かい合っている少年の絵に変わった。少年が持っているのは、木の棒に、紙でできた盾。とても強そうには見えない。


「勇者見習いの少年は、小鬼に紙の盾を破られ、木の棒を壊されてしまった。なんとか村へ戻ってきた勇者見習いの少年は、武器屋と防具屋で、木の剣と木の盾を買い揃えたい。そのためにはお金を集めなくては」


 そこまで読み進めて次のページを開いてみると、算数の問題がぎっしり並んでいた。それを見て、宗助は一瞬ひるんだが、左上の言葉を見て、やる気を出す。


『この問題ページの正答数によって、勇者見習いの少年にお金がたまります。勇者見習いの少年は、無事に木の剣と木の盾を手に入れることができるのでしょうか』


「よーし、頑張ってお金をためてあげよう」


 宗助は、筆箱から鉛筆と消しゴムを取り出すと、早速問題にとりかかったのだった。木の棒と木の盾、といわず、鉄の剣に鉄の盾、それに鉄の防具とかも買ってやろうじゃないか。冒険にでるのなら、それくらいの準備は必要だ。


 ゲームもあまり買ってもらったことのない宗助だが、友達の家で何度か、冒険に出かけるゲームをさせてもらったことがある。そのゲームでは、どんどん新しい町へ進み、その町の武器屋や防具屋でより強い装備を整えていた。これも、きっとそうやって物語が進んでいくんだ。そう、彼は思った。


 宗助は服の袖をひじまでめくりあげる。彼は、久々に気持ちが燃え上がっていた。


 それから数週間後のこと、今までニ十点が最高点だった算数の小テストで彼は、満点を取ることができた。

 宗助の友達によると、彼のそばにはいつでも同じタイトルのドリルがあり、それは高校、大学へと進んだ後も変わらなかったという。


 そんな彼のドリルのことを、周りの人間は「すごいドリル」と呼び、同じドリルを探し回ったが、とうとう誰も、見つけることができなかったそうだ。

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