直し物

彩霞

短編 小さなグラタン皿

 たまに、レストランのランチセットなどに、グラタンが付いて来ることがある。そういうときのグラタンと言うのは、小さくて口がまん丸のグラタン皿に入っている場合がほとんどだ。それは小さくて可愛らしい。


 実はその皿がわが家にも2つあるのだが、どうやら今夜の夕食で使って洗ったときに、グラタン皿の直径とほぼ同じぐらいの小さな丸い皿がハマってしまったという。


(本当にすっぽり入っちゃってる)


 僕はグラタン皿と、その中にきれいに入ってしまった小皿を眺めた。まさかこんなことになろうとは、妻もこれっぽっちも思っていなかったに違いない。


(お気に入りだったんだろうなぁ……)


 妻は必死になって2つの皿を離そうと試みた。

 洗剤を入れて滑りを良くしてみる。水圧を強くして流してみる。隙間を探して引っ張ってみる。後ろから手で叩いてみる――。しかしどれもダメだった。


「新しいものを買ったらいいんじゃないか」と僕は提案した。

 だが、妻は首を横に振る。聞くとこのグラタン皿はその辺の雑貨屋ではおいていないという。


「それなら中にある皿を割るといいんじゃない?」と再び提案した。

 妻が一等大事にしているのはグラタン皿なので、それを救うには中に入ってしまった小皿に犠牲になってもらわざるを得ない。それでグラタン皿を救えるならいいじゃないかと思ったのだが、彼女は「うん」とは頷かなかった。


 小皿も大切だったというのもあるだろうし、トンカチか何かで打ったとして、小皿だけ上手く割れるという保証がないのも理由だろう。


「万事休す」


 彼女はそう呟いて、ふらふらとベッドのある部屋へ引っ込んでしまった。余程ショックだったらしい。


「どうしようか」


 僕は妻が眠りについたのち、一人キッチンの電気を付けて考えていた。洗ってもダメ、引っ張ってもダメ、後ろから叩いてもダメ――。それならば。


(押してみるっきゃないでしょ)


 普通は考えないことだと思う。しかし「押してダメなら引いてみろ」とよく言うではないか。今回は「引っ張ってダメ」だったのだから「押してみよう」という、単純な発想である。


 想像するに押したらもっと深く小皿が食い込んでしまうだろう。もちろん、小皿の中央部分を押したらそうなるに違いない。しかし、より深くハマっている方を強く押したら、シーソーのようにもう片方が浮いて外れるのではないか。僕はそんな甘いことを考える。


 普通なら挑戦しないだろうが、ここまで何をしても取れなかったのだ。


(最終的には壊すしかないという選択肢しかなくなっているのだから、ここで恐れることはない!)


 そう思い、僕はぐっと小皿の端を両手の親指で押した。


 カポ。


 小皿が外れる音だった。

 僕はあまりにもあっけなく食器が外れるのを見て、思わず力が抜けてふっふっと笑ってしまった。


「取れたじゃん」



――――――――――


 翌朝、僕はベッドの中で妻の「きゃー!」という叫び声に似た声を聞いた。


「どうしたのっ」


 驚いて飛び起きると、キッチンのテーブルの前で妻がわなわなと指を震わせながら「お皿が外れているの……!」と言った。


「…………くっ……!」


 僕はそれがおかしくて、おかしくて。そしてとっても嬉しくて、笑いをこらえながら「僕が外したんだよ」と答えた。


 すると妻は目をまん丸にして、驚いた顔を浮かべた。


ようちゃんが? 陽ちゃんが外してくれたの⁉ でも、どうやって⁉」

「小皿を押しただけよ」

「ええ⁉ それだけ⁉」

「うん、それだけ」


 必死に聞いてくる妻には悪いと思いながらも、僕はまたおかしくなって笑ってしまった。妻があんなに一所懸命にしていたのに、自分はただただ小皿を押しただけである。それが申し訳なくて、でも何だか変で笑いたくなってしまったのだ。


「もー、そんなに笑わなくったっていいじゃないのよぉ」

「ごめん、ごめん。でも、割らなくて済んで良かったんじゃない?」


 すると妻はそっと両手でグラタン皿を手に取って、「うん」と優しく笑った。


「ありがとう、陽ちゃん。また、グラタン作るね」


 僕は彼女の笑顔に、腹から来る笑いが止まってしまった。照れ臭いような、嬉しいような、とにかく複雑な喜びの感情がわっと湧きあがったせいである。

 そして妻がまたグラタンを作ってくれるということは、僕らの食卓にまた2つグラタン皿が揃うということだ。それを想像するだけで、くすぐったい気持ちになる。


「……うん」


(割らずに済んで良かった)


 そう思うと、先ほど唐突にきた喜びの嵐は落ち着いた。代わりに胸の中にほわっとした心地よい温かさが込み上がって、とても優しい気持ちになるのだった。

 

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