第三話
「え?」
反転した少女が、しゃらん、と腰に刺した剣を抜き、流れるような動作で大上段に構えた途端――。
赤い光が溢れた。
剣を包むように赤みを帯びた光が溢れて立ち昇り、刀身が何倍にも伸びたように見えた。
「えぇっ!? 何だ、あれ…………」
周囲の大気も瞬時にぴりつく。
これまで感じたことのない圧迫感に息を呑むフラトの視線の先で、灰銀の少女が猛々しく迸るその光ごと剣を振り下ろした。
勢い衰えずに突っ込んでくる巨猪と正面から衝突。
直撃――爆発。
は? 爆発って何だよ!?
と驚愕するフラトに爆音と爆風が叩き付けられる。
「…………っ!」
舞い上げられた土煙で周囲の視界が塞がれるが、それも衝撃の余波で瞬時に吹き飛ばされた。
戻った視界の先。
少女は――だらりと剣を持ったままの両腕を下げ、項垂れるように地面に膝を突いていた。
対して――目の前の巨猪は、その猛進自体は止まったとはいえ、無傷。
あれだけの衝撃を生むものを正面からぶつけられて血の一滴すら流していない。
戦意の衰えさえ感じない。
猪の左側の茂みがごっそりとくり抜かれたようになっているのは、今の少女の攻撃を逸らしたということなのだろうか。
「…………化物かよ」
傷一つなくそんなことをしてのける猪は勿論。
逸らされて尚、あれだけの余波を生むような攻撃をしてのける少女も。
尋常じゃない。
脳が、目の前の光景を現実だと認識することを拒もうとする。
見たこともないくらいでかい怪物のような猪。剣に光を纏わせ振るう少女――場違いにも、暇潰しに読んだ本の中の物語を思い出す。
「かはっ…………」
灰銀の少女の背中が小さく震えて、地面に真っ赤な液体がぶちまけられた。
血。吐血。
満身創痍というより、最早死に体に近いのかもしれない。
そんな少女の目の前で、巨猪がそのバカでかい口を、ばかり、と開けた。
「あ」
あれは――やばい。
離れていても感じる、背筋どころか全身を氷漬けにするような悪寒。
その感覚を、知っている。
『死』が身近にある感覚。
「…………」
途端。
すっ、と頭が冷えるのがわかった。
邪魔な思考が吹き飛んで随分と頭の中が明瞭になった。
生きるか死ぬかの選択を迫られてようやく、フラトは身体を動かす。
体調が万全じゃない?
何を呑気なことを。
少女がどんな風に逃走しようとしていたのかはわからない。もしかしたらこの先に少女の迎撃ポイントがあるのかもしれない。
もしかしたら逃走ではなく、引きつけていただけなのかもしれない。
ただ、それがなんであったところで――この場での少女の迎撃は完全にフラトを庇ってのものだった。
とっとと自分が動かなかったから。
多分一、二秒程だったろうが、ごちゃごちゃ考え過ぎた。
理解を超えた状況に立ち竦んでしまった。
結果――少女に自分を庇わせた。
自分を庇って倒れそうになる少女をこのまま目の前で死なせようものなら、寝覚めが悪いとか、最悪な旅の始まりとか、もうそんな次元じゃない。
そんな
駄目だろう、人として。
「すぅっ」
フラトは短く息を吸い込み、身体を前に倒しながら足に意識を集中させ、地面を蹴った。
歯を食いしばって、出せるだけのものを全部絞り出す。
地面を蹴る。
身体の力は抜き、けれど強く、しなやかに、全身のバネを使って。
蹴る、蹴る、蹴る。
斜め右に駆けて、五歩目でそのまま進行方向に思い切り跳躍。
道の脇に生える大木の幹に垂直に着地。
「?」
一瞬、木の幹に付けられた深い爪痕に目が行くが、すぐに意識を戻した。
身体が落ちる前に幹を強く蹴って真横に飛ぶ。
少女の背後に着地し、勢いに巻き込んで抱きしめるようにして抱え、もう一度、最後に息を止めてがむしゃらに、目先にある抉られた茂みへ飛び込む。
「あづっ!」
あっつ!
足下へ視線をやると、今まで二人がいた山道を、特大の炎が蹂躙していた。
火を、吐いたのか…………!?
猪が、火を吐く?
絶句する。
そんなの――それこそ。
物語の中の世界だ。
「んっ、ぐっ、がっ」
少女を抱えたまま地面に激突し、そのまま転がって、転がって、転がった先で。
浮遊感に包まれた。
「は?」
身体を支えるものが、体重を受け止めるものが、何もない。
どうやら繁みの先は崖になっていたらしい。
浮遊感は直後、急激な落下へと変わる。
フラトの眼下、数百メートル下には湖が映った。
勢いよく崖から飛び出したせいで周りに捕まるものなど当然ない。
「く…………そっ」
抱えていた少女が離れてしまう。
空中で思うように身体が制御できない。
それでもフラトはもがきながら必死に少女に向けて手を伸ばそうとするが、その手は何も掴まず、掴めずに、空を切った。
落ちていく。
約十年間、師匠と一緒に暮らしていた山ではついぞ見たことのない湖へと。
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