第40話

「待て」不意に動揺したラツェッドがそれを自覚し、一息整えて、冷静な口調で言う。「まぁ落ち着け。お前が手にしているそれは子々孫々に渡る安寧の地位が確約されるものと言っても言い過ぎじゃないほどの代物だ。うまく扱えば、この世界の富を独占している数パーセントの富豪や支配層にその名を加えることができるだろう。それをこうも簡単に灰にしてしまうなんて勿体ない」

「価値の話なんてどうでもいい。あんたが取り引きに応じるのか応じないのか。これが欲しいのか欲しくないのか。おれが知りたいのはそれだけだ」

 久悠がさらに火の揺らめきを鱗に近づける。

「欲しいさ」ラツェッドは即答した。「だが、君から持ち掛けられた取り引きに応じるというのには些か抵抗があってね。こういうのはどうだろう。すなわち、僕がその鱗とメモリーカードを受け取る。君は僕に見逃してもらい、何ごともなくこの部屋から立ち去る。そしてもう二度と僕に合わない。……そうだな。できれば金星軌道上基地トーラスにでも行って金星開発の肉体労働に従事するっていうのはどうだ。身体を動かせばそれだけで心は晴れる。食う飯がうまくなる。最高じゃないか。金なら僕が出すよ」

 久悠は動かない。

「……わかった」とラツェッドが譲った。「君の言う条件を飲むよ。リュウとアオは君に渡そう。走り回るこいつらを抱えて連れて帰るといい」

「良い返事が聞けてよかったよ」しかし久悠はまだ油断していなかった。「この首輪を二匹につけてくれ。そしてリードをおれが持ったところで、この鱗とメモリーカードをそっちに渡す」

「いいだろう……と言いたいところなんだがね」

 久悠が投げたリード付きの首輪を見て、それまで部屋の中で走り回っていたリュウとアオに著明に緊張が走った。動きを止めた二匹は頭を低くして尻部を上げ、さながら攻撃態勢のような構えを取る。

「この通りなんだ。困ったものだよ。どうもこいつらは首輪というものが大嫌いらしい」

 これはあの時もそうだった。久悠がラツェッドにライフル銃を向ける直前のことだ。

「生まれてからずっとシェルターの庭で自由に生きてきたんだ」

「調教してこなかったのか? 可哀相に。首輪に慣れさせないと人間社会で生きていくのは大変だろう。飼い主の責任だ。君が首輪をつけろ」

 ラツェッドが首輪を投げ返す。久悠はその場でしゃがみリュウとアオを呼んだが、小さな二匹の竜はどうしても首輪に視線が奪われて久悠に近づこうとしなかった。首輪は諦めるしかないか。久悠が首輪を放ると、リュウとアオは嬉しそうにして久悠に駆け寄ってきた。

「よし。それじゃあ今度は鱗とメモリーカードを貰おうか。まさか僕を出し抜くつもりはないだろうな?」

「その方法を考えてるが、どうも思いつかなくてな」

「そうか。安心したよ」そしてラツェッドは久悠が伸ばした腕から慎重に鱗が入った透明な袋とメモリーカードを受け取った。「思いついているのが、僕だけで」

 言うやいなや、ラツェッドは身を素早く引いて紋白端末を起動させる。

「今すぐ来てくれ。強盗だ。飼育している貴重な竜が、今まさに目の前で盗まれようとしている。あぁ、さっき通報した者だ。まだ残党がいた。助けてくれ」

 ラツェッドが通信を終える。久悠はリュウとアオを抱いたまま、彼を睨みつけていた。

「そう恐い顔するな」ラツェッドが、そんな久悠を見下す。「法に則った適切な対処さ。はじめに言ったろ。期待外れだったら警察を呼ぶとな。こんな本物か偽物かわからない物を渡されて、僕は失望したんだ。本物だったらラッキーくらいに思っておくのが良さそうだ」

「それは本物だ。今すぐ通報を取り消せ」

「断るね。僕は君に興味がない」

「そうか」

「どうする? 僕に暴力を振るうか? なんの解決にもならないがな」

「そんなつもりはない」

「諦めたか」

「いや。そうでもないな」

 この時、久悠は考えていた。この場をなんとかすることではなく、リュウとアオのことをだ。何度も首輪を拒絶されたことで、ようやく久悠は理解していた。自分はリュウやアオのためと思いながら、結局は彼らを自分が決めた枠の中で飼育しようとしていただけなのだと。リュウとアオは久悠に抱き着いてくれている。そして自由に走り回り、飛び回ることが好きだ。彼らと共に生きたい、彼らと家族でありたいと思うなら、人間の側からその世界を作らなければいけないのだ。彼らに必要なのは首輪ではない。奔放に走り回れる世界。自由な世界。竜の世界だ。

 タールスタング。たまにはあんたの言う通りにしてみるか。

「ラツェッド」

「なんだ」

「いつか後悔させてやるからな。覚えてろ」

 久悠はそう言うと、リュウとアオを抱えてラツェッドの部屋を飛び出した。

「……待て! 逃げるのか!」

 そうだ。竜を奪って逃げるんだ。おれに残された手はもうこれしかない。飛び出し際に玄関にあったラツェッドの靴を廊下に蹴り散らかしてやった。ブランド物や限定品の高そうな革靴やスニーカーだ。間抜けなラツェッドは靴が散乱したことに憤り、靴を部屋の中に投げ入れてからドアにカギを閉める。その間に、久悠はエレベーターを呼んで乗り込んでいた。一階に到着すると、ちょうど正面エントランスにパトカーが数台停車したところだった。停めてあるレンタカーに行くには回り込んだ方が良さそうだ。久悠はマンションの裏口から外へと向かう。しかし階段スペースからラツェッドが飛び出してきて「こっちだ!」と警官を呼ぶ。毒づいた久悠は、見知らぬ都内の住宅街をあてどなく走りはじめた。

 リュウとアオを抱え、ハァハァと息を荒げながら、久悠は馬鹿なことをしたと思っていた。少なくともおれらしくない行動だ。タールスタングにそそのかされた形だ。奴にペースを乱された。……なんて人のせいにしても、状況はなにも変わらない。それはわかっていることだった。けれどどうしようもない。そしてどうしようもなかったのだ。はじめから久悠にはなにもできなかった。仮にラツェッドとの取引が成立してリュウとアオを正式に引き取れたとして、自分はいつまで飼育できただろうか。その先、この二匹はどうなるのだろうか。結局おれには無理だった。おれが飼育できなければ、他の飼い主を探すか、保護所で殺処分か、野生に放ち竜猟師に撃ち殺されるかのどれかでしかない。人工生物として生を受けた以上、人間に翻弄されることが確定している運命。悲惨な運命。

 久悠は、急に涙が込み上げてきた。

 ごめんな。

 なにもしてやれなくて。

 リュウとアオを抱えながら、自分がどこを走っているのかもわからずに、久悠は泣いていた。ただただお前たちを振り回しただけの間抜けな男だったな。本当はなんとかしてやりたい。助けてやりたい。自由に生きていて欲しい。でも、おれではその願いを叶えてやることができなかった。

 額に汗が湧き、肺が酸素を求め、足に乳酸が溜まりはじめる。久悠は疲れを感じはじめていた。走る速度が徐々に低下し、後ろから迫る複数の追手の足音が聞こえる。

 こんなこと、いつまで続けられるのだろうか。このささやかな逃走劇。リュウとアオとの生活。もう、無理なのかもな。久悠の諦めがより一層の疲れとなって足や身体を重くする。ペースを考えずに走っているので息が苦しく、脇腹が痛い。

 ここまでだ。

 久悠が諦めかけた時、リュウとアオがほぼ同時に暴れ出して久悠の腕から飛び出した。久悠に懐いているとはいえ、今ここで逃げ出すなんて最悪だった。もう万事休すだ。やはり強引にでも首輪をつけておくべきだった。ついに久悠の足が止まりかける。しかしその久悠を引き、走るように促したのは、他でもないリュウとアオだった。

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