第13話

 タオルで竜の幼体を包み、胸の前に下げ、久悠は急ぎ喫茶竜へと戻ってきた。雷光色に輝いていたホイールの光が減衰し、タイヤが道路に接地する。夜の喫茶竜はすでにバーとして営業しており、店の灯りが賑やかに輝いている。

「あら、おかえり。久悠ちゃん」

 店内にタールスタングがいないことを確認した久悠は、ウェルメに軽く挨拶した後、すぐに二階に上がって自分の部屋に入り鍵をかけた。電気をつけると、わずか三畳の物に溢れた狭い部屋が照らされる。銃とバッグパックをデスク脇に置き、その上部にあるベッドに竜の幼体を開放した。

 黒い鱗の竜が、四本足で立ち、背中の翼を左右に大きく広げる。大きさは手の平大。尻尾をビュンビュン振り回し、小さな角付きの頭部を振り、地球のように青い瞳で周囲を見回し、久悠を見つける。幼体は小さな口を目いっぱい開き、久悠になにかを訴えた。意図を察した久悠は、途中で購入した竜の幼体専用ミルクを同じく購入したスポイトを使って幼体に与えはじめた。前足を器用にスポイトに回してごくごくとミルクを飲む黒い翼竜の子供。……一体この竜はなんなんだ。久悠は困惑していた。卵の殻からでもDNAは回収できるため、とりあえず、一通りの痕跡はすべて処理している。そうした方がいいと直感したからだ。

 通常、竜の卵は孵化しない。竜は〈メチルロック〉によって遺伝子の一部が暗号化及び無効化され、守られている。遺伝子とはDNAの中に存在するタンパク質生成を担う領域のことを指し、遺伝子情報をmRNAがコピーしてリボソームに伝達し、そこで情報通りのタンパク質が生成される。竜の場合、その竜の制作者が持つ〈Dコード〉がなければmRNAに適切な遺伝子情報が渡されないためタンパク質生成は失敗し、なにも起こらない。故に卵は孵化しないはずだった。つまり、この竜の〈メチルロック〉は解除されているということだ。この竜のmRNAは適切な遺伝子情報をコピーし適切なタンパク質を生成することができている。では、だれかがあのセレストウィングドラゴンの〈メチルロック〉を解除したのだろうか。レクトアだろうか? しかし、だとしたらどうやってだろう。セレストウィングドラゴンの〈Dコード〉はすでに失われている。製作者が死去しているというのがその根拠だ。基本的に〈Dコード〉の構成はその製作者以外が知ることはなく、作成された〈Dコード〉溶液も非常に慎重に管理・使用されている。製作者がそれらを家族などの跡取りに託していたとすると、そもそもセレストウィングドラゴンは希少種にはなっていない。また〈Dコード〉溶液が盗難に遭い流出していたとすれば、人工生物の著作権侵害についての重大インシデントとしてACMSの調査課が大っぴらに動き出しているはずだ。このいずれでもない形で〈Dコード〉が残されている可能性もなくはないが、それは沈没した海賊船の宝物や徳川家の埋蔵金を探すようなものだろう。ちなみに、その可能性に人生を賭けた〈Dコード〉ハンターも存在しているようだが、久悠には馴染みがない存在だ。なんにせよ、この竜は〈メチルロック〉を何らかの方法で回避して生まれてきている。

 一体なぜ。そして、どうやって。

 これらの謎は、一つの大きな危惧へと繋がっていた。

 それは、この竜の遺伝子が完全に無防備な状態ではないか――というものだ。

 本来であれば〈メチルロック〉を〈Dコード〉によって解除しても、遺伝子の暗号化状態は保たれている。成長中の竜のどの細胞を抜き取ってもそこにあるDNA内の遺伝子情報には意図的な不足があるが、その遺伝子の内容がmRNAに転写される際に〈Dコード〉が働き、不足を補完するための情報がDNA上のどこにあるかを示すようになっているからだ。DNAの塩基配列情報を書き換えないまま遺伝子を発現させる後天的突然変異エピジェネティクス。しかしもし万が一、この竜が〈Dコード〉を用いていない状態で〈メチルロック〉を回避していたらどうだろう。たとえば、先天性の――つまり自然本来の突然変異ミューテーションという可能性だ。久悠は自分でそう思いつきながらも、首を振って自分でそれを否定した。なぜなら竜の著作権を守る一連の取り組みはこの突然変異との戦いだったと言っても過言ではないからだ。

 DNAの複製は、二重螺旋が一度分解されて一重の鎖となり、その対となる新たな鎖が生み出され新たな二重螺旋を形成することで成り立っている。DNAは四種の塩基で構成され、二重螺旋の構造上それらは常にペアを作っているが、アデニンとチミン、グアニンとシトシンが正しいペアとして定められている。そのためDNA複製時は二重螺旋が分解され一重となった塩基配列に合わせて新たな塩基の鎖が生成されていく。そうして新旧の鎖が新たな二重螺旋となることでDNAは複製されるのだ。ただし、この新たな塩基の鎖が生み出される際になんらかのミスが起こり、正しくないペア――たとえばアデニンとシトシンといったような誤ったペアが生まれることがある。これに対し生物はミスマッチ修復系タンパク質というものを所持し、DNAの異常を検知し修復する機構を備えていた。ミスマッチ修復系タンパク質はDNA周辺に何種類も存在しており、そのうち一部のタンパク質はDNA螺旋を取り囲むように環状に配置されていて、塩基のペアが適切かどうか素早く走査している。もしそこで異常が見つかれば、また別のタンパク質がその一部を溶かして正しい塩基を生成し、修復する。しかしこの時、修復系が誤って正しい方の塩基の鎖――つまり分裂した側の古い塩基列を修復してしまうと正しくないDNAが生み出され、それがさらに複製されていくことで、がん細胞の発生など様々な問題を引き起こす。突然変異もその問題のうちの一つだった。それは非常に稀に起こる現象であるものの、一度それが起これば人類が封印したはずの遺伝子情報や孵化の機能が再獲得されてしまう可能性もゼロとは言い切れない。そのため人工生物の研究段階においては竜の一匹一匹を原始的アナクロなゲノム編集技術によってDNAの変異の有無を問わず強制的に上書きする手段が検討されていたが、それでは市場が求める人工生物の流通量に供給が間に合わないこともわかっていた。そこで人類はミスマッチ修復系タンパク質の種類、量、機能を増強し、その完全性を担保することにしていた。その結果、竜が生み出されてから現在に至るまでの間〈メチルロック〉を解除してしまうほどの竜の突然変異は確認されていない。

 しかしその対策も完璧ではないはずだ。

 それを示唆する異変がこの竜にはあった。それは鱗と瞳の色の異常だ。通常、セレストウィングドラゴンはその美しい蒼色の鱗とトパーズのような深い黄色い瞳が特徴的だった。同じ色味を持つ竜は他にはいない唯一無二の奇跡の竜と呼ばれているほどに、その色は象徴的だ。それがこの孵化した幼体は、鱗が森の中の闇のように黒く、瞳は深海のように青い。同種の竜とは思えないほどの色の違いだった。竜は猫の毛色や模様のような極端な個体差は発生しないように作られている。しかし色以外の特徴はセレストウィングドラゴンで間違いないことから、この竜はあの廃屋にいた竜が単為生殖で産み落とした竜であると予測するのが妥当だろう。そして殻の中の巨大な細胞――卵の中でDNAが突然変異を起こし、人間が小細工した遺伝子情報がDNAの塩基配列ごと書き換えらリセットされ、白色化アルビノならぬ黒色化メラニズムが引き起こされたと推察できる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る