ゼダの紋章 第1幕 4人の旅立ち

永井 文治朗

第1話 深夜の図書室

 それはエルシニエ大学に広まるあまりにも有名なウワサだ。

 ある初夏の日の深夜、たまたま居残りしていた一人の学生が深夜の構内を歩いていた。

 どうやら中庭で居眠りをしていてキャンパス内に取り残されてしまったらしい。

 学生は慌てた様子で誰もいない深夜のキャンパスを足早に歩いていた。

 すると、たまたま通りかかった校舎の一角にポツンと明かりが灯っていた。

 不審に思ったその学生は興味本位で近づいてみることにした。

 どうやら明かりがれているのは図書室らしい。

 学生は勇敢ゆうかんにも確かめてみようと試みた。

 もしかしたら誰か不審者が入り込んでいるのかも知れない。

 なにしろエルシニエ大学の図書室といったら皇国一こうこくいち、ひいては中原一の蔵書量を誇る。

 教授級にしか閲覧えつらんの許されない希少本きしょうぼんも多く、非常に高価な書物も多い。

 それ故に泥棒が入り込んでもおかしくはなかった。

 学生は窓の外からそっと様子を伺った。

 広い図書室の一角に明かりが灯っており、僅かに窓が開いていた。

 学生は開いた窓から中をのぞき込んだ。

 研究机の一つに明かりが灯っている。

 そこには頭からすっぽりとなにかを被った人影が見えた。

 学生はよく確かめてみようと別の窓に回り込み、じっと目をこらした。

 うずたかく積まれた本の間で何者かが一心不乱いっしんふらんぺーじをめくり、物凄い早さでペンを走らせている。

 のぞき込まれていることにも気づかず、なにかに取りかれたかのように手を動かすその様子に学生は思わず声をかけた。

「そこにいるのは誰だっ!」

 すると人影は手を止め、むっくりと起きあがりこちらを向いた。

「邪魔をするなっ!」

 目を光らせ威嚇いかくするような低い声をあげたその姿に、学生は悲鳴をあげ、腰を抜かしたまま我を忘れて一目散いちもくさんに逃げ出した。

 後日、学生は目撃した様子を守衛しゅえいや事務局の人々に聞いて回った。

 しかし、かえってきた答えは深夜の図書室には厳重に鍵がかけられ、守衛しゅえいも巡回することからそうそう簡単に不審者が入り込めるはずがないというものだった。

 それでは学生が見た人物は何者であったのだろう?

 その当然とさえいえる謎は憶測おくそくと想像にふくらみ、学生の口から口へと瞬く間に広まった。

 尾ひれのついたウワサ話はそこかしこで語られたが、最初に目撃した学生についても謎に包まれた。

 半狂乱となり自殺したとか、不慮ふりょの事故で亡くなっただとか、何日か後にその学生も姿を消したといった話がまことしやかに語られ、一部の学生はそんなこともあるだろうと本気で信じていた。

 興味と好奇心から何人かが確かめようと試みたが悉く失敗に終わった。

 有志の者たちが事務局や守衛にも聞いて回ったということだが、成果はなかったという。

 学生が目撃した者の正体がなんだったかは更に色々とウワサされ、卒業論文を書きかけのまま命を落とした学生の霊だとか、図書室に住み着いた悪霊の一種だとか、人間研究に熱心な悪魔の眷属けんぞくだとか、もっともらしい話は枚挙まいきょいとまがなかったものの、確かな話はなに一つとしてなかった。

 ウワサは今も一人歩きを続けており、3ヶ月を経て現在に至っている。

 そして女皇暦1187年11月4日。

 メル・リーナとルイス・ラファールは図らずも、当時のエルシニエ大学最大のミステリーにいどむことになったのだった。


 女皇暦1187年11月4日 21時11分

 エルシニエ大学構内


 釣瓶つるべ落としの秋のが落ち、夜のとばりが学内をすっぽりと包み込んでいた。

 研究棟も暗い影を落とすことさえしなくなり、風も冬の気配をただよわせる冷たく鋭いナイフのようになりつつある。

 しんと静まりかえった人気のない校舎の脇を二人の女性が連れ立って歩いていた。

 足許はひどく暗く、照明といえば守衛たちが見回りのために灯している巡回順路のガス灯ばかりだ。

「ねぇ、やっぱりいいよぉ」

 小柄で童顔のメル・リーナは足取りも重く、心細さにうつむきかけながら、すたすたと前を歩くルイス・ラファールにその独特の声をかける。

 メルの声は可愛らしいといえば可愛らしいが聞く人によっては生理的嫌悪感を感じるかも知れない。

 とにかくなにか普通とは違っていた。

 小柄なメルに対し、ルイスはそれより頭ひとつぶんほども背が高くりんと背筋が足っている。

 まっ、今は若干ながら猫背ねこぜ気味だった。

「そんなこと言ったって、今日中にどうしても持って帰らないと明日朝の提出に間に合わないでしょ、ロモンド教授ってとてもキビシイ人だし」

 ルイスの声は女性にしてはやや低い。

 いわゆるハスキーボイスだった。

 スタイルは抜群で健康的だ。

 髪は金髪で肩の辺りまで伸ばしている。

 二人はそれぞれエルシニエ大学生を示すそろいのあい色学帽をかぶっている。

 同じサイズだというのにメルの栗色の長い髪にちょこなんと乗ったそれはどうしても大きく見えてしまう。

 頭そのものが小さいので対比的たいひてきにそう見えてしまうのだ。

 そのあい色学帽こそが大都会パルムにおいても羨望せんぼうの的だった。

 最高学府生を示すトレードマークであり、あい色学帽を目にすると皆が振り返る。

 中原諸国から頭脳と学力に自信のある学生達が集う超難関大学だ。

 それだけでエリートなのだと余人よじんからみられる。

 ちなみに約200年後のティルト・リムストンたちの時代にはとっくに廃止されていた。

 なぜならそんな分かり易い目印をつけていようものなら、学生達が無用なトラブルに巻き込まれるからだ。

 かわりに構内に出入りする際は門で守衛しゅえいに学生証を提示するようになる。

 折角のあい色学帽だったが今は誰も見てくれなどしない。

 およそ学内に人の気配は感じられなかった。

 誰かが居たら居たで面倒だったが、しんと静まりかえっていてメルとルイスは心細さを感じずにいられない。

 二人はつい三時間ほど前まで図書室で学部の他の仲間たちと一緒に提出課題に取り組んでいた。

 正門は午後六時に閉門となるため、それまでに勉強を切り上げ、馴染なじみのレストランで食事をして、会計の後になってからメルが肝心かんじんのレポートを図書室に置き忘れてきたことに気づいたのだ。

 朝一番では翌日8時半の一限目の提出期限には絶対に間に合わない。

 守衛しゅえいに頼み込み中に入れてもらうつもりでいたが、あいにく巡回中らしく席を外しているようで詰め所に不在だった。

 二人は学生たちだけが知る秘密の抜け道からこっそりと忍び込むことにしたのだ。

 時計の針は既に午後九時を回っている。

 幸いにして二人は裏門近くから構内に潜り込む抜け道を知っていたが、当然のことながら構内には誰もいない。

 人の気配がまるでない真っ暗なキャンパスはまだハタチ前後といううらわかい女性二人にはかなり恐ろしい場所だった。

「やっぱり守衛しゅえいさんを待った方が良かったんじゃないかなぁ?」

 メルは今にも泣きそうな顔をして前を歩くルイスの背中を見つめる。

 この筋金入りのお嬢様は良きに付け悪しきに付け純粋無垢じゅんすいむくだ。

 女の子同士の会話でもちっちゃくて可愛いという意味も込め、とか呼ばれている。

 そうした認識もあって背丈が男子学生たちとさほど変わらないルイスは護衛兼お目付役だと周囲の学生達から見做みなされていた。

「うーん、事情を話しても入れてくれるかどうかわからないしねぇ」

「図書室まで行っても鍵が開いてないかも?」

「それはそうなんだけれど、一応は行って確かめてみないとね」

 弱気なメルを励ましているものの、ルイスだってまったく怖くない筈はなかった。

 むしろ苦手にしている。

 男勝りの長身で勝ち気、あだ名通りの肌のルイスとはいえまだ二十歳そこそこの小娘に過ぎない。

 幽霊だのなんだのでおくする年齢でもないけれども、夜の構内にはどういった手合いがひそんでいるとも分からない。

「こわいよぉ」

「もぅ、メルったら本当に臆病ねぇ」

 そういうルイスでさえ足取りはひどく重い。

 なにごともなければ夜の大学になどに好んで入りたくもないし、済ませられるものならばとっとと用事を済ませて退散したい。

 二人は進まぬ足取りで法科研究棟を抜けて、ひたすら図書室を目指していた。

「そういえば・・・」

 ルイスはあることを思い出しかけたが、慌てて口をつぐんだ。

 余計なことなど言わないに越したことはない。

「なによぉ?急に黙らないでよぉ」

「なんでもない」

 不意にルイスの脳裏のうりを過ぎったのは前段の「図書室の幽霊」の話だった。

 嫌なことを思い出してしまったとばかりに整った顔立ちの頬が引きつる。

「あのさ、あたし聞いちゃったんだけど、夜の図書室に幽霊が出るってウワサ。ルイス知ってる?」

(まったく、この娘ときたら・・・)

 のいつもながらの天然と間の悪さにルイスはしばし頭を抱えた。

 レポートに限らず肝心かんじんな事はすっかり忘れるくせに、余計なときに余計なことを思い出すのだ。

 まるで状況と空気が読めないメルの一番悪い癖だった。

 この悪い癖のお陰でルイスは学生生活において今まで散々な目にってきた。

 男友達からの折角せっかくのお誘いをあっさり断ることになったり、降りしきる雨の中、元来た道を戻る羽目になったり、底意地の悪い教授からにらまれたり、女同士の友情にひびが入ったり・・・。

 そうした場合、いつもとばっちりを食うのはメルの保護者がわりで周囲からは良き相棒とみられているルイスだった。

「・・・知らない」

 ルイスはかぶりをふった。

 金髪が揺れて影を落とす。

「えー、だって有名だよぉ!」

 メルは抗議の声をあげる。

 ルイスは冷ややかな視線を向けつつまたかぶりをふった。

「だから、知らないってばぁっ!」

(分かってるのメル)

「だってルイスもみんなが話しているとき聞いてたじゃないのよ!」

「しつこいわね、メルっ!知らないったら知らないわよっ!」

 口喧嘩のなかでルイスの言葉が怒気をはらむ。

 更に別のものもはらむ。

(だから、このカドを曲がったら・・・)

「うっ!」

 ルイスの嫌な予感は的中した。

 踏み出したままの右足が硬直したまま動かない。

「どうしたのっ?」

 ちょこちょこと追いついてきたメルがカドを曲がったところでぴたりと足を止める。

「え゛え゛っ!」

 悲鳴ではなかった。

 いや、悲鳴は出なかった。

 二人の視線の先にある図書室の窓に明かりがともっていた。

 ほとんど真っ暗な闇の中で、そこだけがほんのり照らし出されている。

「あわわわわわわ、るいすぅ」

「めめめめめめめるぅ」

 よりによってというか、やっぱりというか・・・なぜこうもタイミングよくというか。

 なんにせよ二人の目の前にはウワサに聞いていたのと寸分すんぷん違わぬ全く同じ光景が広がっていた。

「ゆゆゆゆゆゆうれいかなぁぁ」

「ししししししらなぃ」

 歯の根をガチガチとさせた二人は明かりのれる窓を凝視ぎょうししたまま抱き合うようにして立ちすくんでいた。

「かぇるぅ」

「にににげよぉ」

 二人がきびすを返しかけたそのときだった。

「わっ」

 聞き慣れない何者かの声とそれぞれの肩に置かれた大きな手に二人は青ざめた顔で同時に振り返った。

「やっ、こんばんは、お嬢さんたち」

「へっ?」

「なに?」

 その青年は闇の中でランプをかざした。

 ぼんやりとしたランプの明かりにお馴染みのあい色学帽と両手に大荷物を抱えた青年が照らし出される。

 細身でしなやかな体格に、とても端正たんせいな顔立ち。

 イケメンの色男といって差し支えない。

 大都会とはいえ、なかなかこうした美青年には滅多めったにお目にかかれない。

 背丈こそルイスとそう変わらないが、陽気そうな明るい笑顔に人懐ひとなっこい眼差しで口許には優しい微笑みを浮かべている。

「あっ、あんたスレイ?スレイ・シェリフィスね」

「えっ?」

「どもっ、こんばんはお嬢さんがた。ご機嫌はいかがかなぁ?」

 スレイは悪戯いたずらっぽく笑ったが、メルとルイスは腰を抜かしたかのようにへなへなとその場に崩れた。

「どうしたのさ?そんなに驚いた?」

 抱き合うように座り込んだ二人に、スレイはさわやかな笑みを浮かべ、手を差し伸べてみせる。

 少なくとも彼は幽霊でもなんでもない。

 エルシニエ大学の誇る美形の秀才と言えば彼を指す。

 男女を問わず学生たちの憧れと嫉妬しっとの対象であるスレイ・シェリフィスをまったく知らない学生はモグリだ。

 ディベートの天才で教授たちさえ言い負かすほどの知性と頭脳、広範に到る教養を持ち、政治学の専攻だが、他の学科目でもトップクラスの成績を誇る。

 容姿端麗ようしたんれいでありながら気取ったところはこれっぽっちもなく、明るくほがらかで誰からも愛される好青年。

 だからこそ注がれるジェラシー。

 浮いた噂はないため、女子たちは躍起やっきになって腹のさぐり合いをしているという。

 色恋沙汰いろこいざたにはまったく興味のないルイスでさえ顔や名前を知っている。

「なっ、なんであんたこんな時間に?」

 ルイスはバツが悪そうにスレイの顔を見上げてきっとにらみつけた。

「いや、それはむしろこっちが聞きたいって」スレイは抱え起こそうと手を差し伸べつつ苦笑した。「まさか今頃になって幽霊話の真相を確かめに来たのかなぁって思ったね」

「・・・あたしが忘れ物をしたんです」

 暗闇でもそれと分かるほどに真っ赤な顔でうつむいたメルは右手でルイスのコートの端をぎゅっとつかんだまま小声で答えた。

「あっ、やっぱりあのレポートね。それなりによく書けてたよ。ただねぇ」

 少しばかり気の毒そうな顔をしてスレイは続けた。

「何カ所か意味の解釈が間違っていて、あれだとウチの師匠は間違いなく再提出にする可能性が高いけどね」

「読んだんだレポート?」

 ルイスは呆気にとられた顔でスレイを見た。

「うん、ちょっとひまつぶしと気分転換にね」

 スレイは屈託くったくなくニコリと笑う。

「それじゃもしかして図書室の幽霊って・・・」

「あっ、いけねぇ。アイツ待たせてたんだわ」

 スレイは我に返った様子で図書室の方角に視線を走らせた。

「良かったらおいでよ。の正体を教えてあげる」

 メルとルイスは悄然しょうぜんとうなずくしかなかった。


 スレイは慣れた様子で図書室棟の正面玄関には向かわずに反対方向に向かい歩き出した。

 そのまま図書室脇の路地を抜けると、その先には裏階段があった。

 二階へと通じる裏階段の影にドアがある。

 音もなく開いたドアを抜けて館内に入り、真っ暗な廊下をしばし歩くと少しだけ向こう側が明るくなる。

「お待たせぇ」

「いつまで待たせるんだ。おそいぞ、スレイっ!」

 書庫のドアを開けるなりなんでもない会話が飛び交う。

 スレイの後ろをおそるおそるついてきたメルとルイスは心持ち緊張しながらドアをくぐる。

 四方を囲むようなランプの明かりに照らし出された書庫はどこか幻想的でさえあった。

 ほの暗い明かりに書棚や机の陰影いんえいがくっきりと浮かび上がる。

 モノトーンの世界の中で、その黒縁眼鏡の青年はうずたかく積まれた本を前に腕組みをしていた。

 せぎすの面差しがとがった印象を与える。

 なにも知らずに見たら幽霊だと大騒ぎしそうなところだが、脳天気なほど明るいスレイが側にいるせいか二人とも恐怖は感じなかった。

 勿論、幽霊なんてどこにもいない。

「はらへったぁ、めしぃ」

 せた黒髪眼鏡の青年は二人の女性たちにはおかまいなしに、拍子抜ひょうしぬけするほど間の抜けた声で空腹をうったえていた。

「わかった。わかったって、ディーン」

 言いながらスレイは慣れた手つきで4人がけのテーブルに荷物を広げ始める。

 レタスと卵のサンドイッチに大きなハムの塊。

 そして、まだ湯気をたてているコーンと玉葱たまねぎのスープ。

 美味しそうな香りがただようが既に夕食を済ませているメルとルイスにはさほど食欲をそそらない。

 だが、ディーンとスレイはもうたまらないといった様子だ。

「あのぉ、なにそれ?」

「なにそれって、メシだよメシ。晩飯」

 スレイはなんでもない様子で二人分の皿を並べ始める。

 そして盛り付けし始めた。

「誰なのよこの人?」

「誰って?史学部生だろうにホントに知らないの?」

 怪訝けげんな顔だったスレイは呆れ顔になる。

「うん」

 二人の女子はほぼ同時にうなずいた。

「ふぅん、僕のことは知ってたのに、コイツを知らないとは・・・」

「別にいいけどね。それよりメシだ、メシっ」

 黒縁の眼鏡をかけ、むっくりと厚着した青年が奥の机からテーブル目指してのっそりと近づく。

 ほこりあかにまみれた体臭がメルとルイスの鼻をつく。

 スレイはほがらかな様子でその人物を紹介した。

「じゃ、ボクから紹介しておくよ。こいつが図書室の幽霊ことディーン・エクセイル。勿論、ウチの学生」

「よろしく」とルイス。

「どうもっ」とディーン。

 ぶっきらぼうに挨拶すると呆然と見守る女の子二人を尻目に遠慮なくサンドイッチにその手を伸ばす。

 ディーンにとって目下の関心事は見知らぬ女の子たちよりも温かい食事にあった。

「ん、まってよエクセイルって・・・どっかで聞いたことが?」

「君ら史学専攻の学生さんたちならエクセイルの名前は知っている筈でしょ?知らないわけがないんだよ」

 悪戯いたずらっぽい目でスレイがなにかを指さしている。

「あぅあぅ」と自分のレポートを手に取った察しの良いメルは思わず声をあげた。「これよ、これこれ」

 メルの提出レポートにはギルバート・エクセイルの名前があった。

 それもその筈、メルたちに課されたレポートの課題は彼の著書に書かれた学説の裏付け論証にあったからだ。

「そう、こいつのオヤジはトワント・エクセイル。ウチの看板教授だけど今は自宅にて病気療養中」

「あっ、そういえばトワント・エクセイル教授の講義って秋からずっと休講になってたっけか」

 エルシニエ大学はエウロペアの慣習上、9月から新年度になり進級進学の季節は9月だ。

「あたし一度も会ったことないよー、今は代理の先生だよね」

 実はのだが、この時点でのメルは本当にトワント・エクセイル教授を知らない。

 その実、メル・リーナを政経学部経営学科ではなく史学部史学科に進学させるきっかけとなった人物だ。

「まあ、おかげさまで親父はすっかり元気だけどね。いまんところはだけど」

 ディーンはサンドイッチを頬張ほおばりながらさもどうでも良いことのように話す。

「でもって、その課題になっている本を書いたギルバート・エクセイル3世が君たちのレポート課題の著者でコイツの祖父。もう他界されているけれどね」

「6年前に死んじまったけどね、ガキんちょだったボクに色々教えてくれたよ。あー、ちなみに初代ギルバート・エクセイルがこの大学の創始者だよ。おおよそ200年ぐらい前の人さ。ボクには馴染なじみ深いけど、分かっているのは文献から伝わる人物像ってところさ」

 ディーンは僅かに眉を寄せて苦い顔をした。

(見事なほどの名前負けでしょ)

 なにか余程の事情があるらしいとメルだけは察した。

 一方のルイスはようやくにして事態を飲み込んだ。

「へぇ、それじゃ、とんでもなく偉い学者さんたちの家系なんだ?」

「そういうこと」

 ディーンはそこで話を打ち切ろうとした。

 それ以上あれこれ詳しく話しだすと、こんな夜更けの図書室で食事中にいきなり本格的な講義を始めなければならなくなるからだ。

「でも、授業で見掛けたことないけれど?」とメル。

「そうだね、コイツ授業には一切出てないから」

 スレイのこともなげな一言にメルとルイスは面食らった。

「えっ!」

「というか、授業なんか出る必要ないでしょ。史学科の教授連中はみんなこいつのオヤジさんや爺さんたちの弟子みたいなもんだし、筋金入りの秘蔵ひぞうっ子だもの。少なくとも教養や文献の理解度でキミたちを教えている教授先生たちと同格」

「げっ!」

「おまけにヘタにこいつにしゃべらせようものなら講義は乗っ取られるわ、解釈の食い違いを指摘されるわ、重箱じゅうばこすみをつつくみたいにダメだしされるわでおよそロクな目にわない。実際入学初年度がそうだったらしいし、ギルバート教授が大学を去ってやれやれと思っていたところにコイツが入学してきたんで皆大慌て。むしろ、教授たちがこいつの出席を拒否してるっていうのが真相。下手こいてコイツからオヤジ殿に告げ口されるのは皆イヤだからね。まぁ、実際にトワント教授からきっついお小言をくらった教授たちもいたんだものね。名誉のために誰だかは言わないけれど」

 スレイは立て板に水という調子でおおまかに説明する。

「なるほどぉ」

 メルは簡単に信じたようだが、ルイスはなおも懐疑的かいぎてきだった。

「それにしてもいったいどういうことなの?授業にも出ない人がこんな夜中に図書室を自由に使うなんて。授業がないなら昼間自由に使えばいいじゃないの」

 ルイスの鋭い指摘にスレイとディーンは顔を見合わせた。

「まっ色々と事情があってね、こいつは昼間は自由になれないんだ」とスレイ。

「これでも忙しい身なんだよ。なにかとね」とディーン。

「で、その忙しい人とやらが食事もロクにらずになにを慌ててやっているの?」

「それは・・・だね・・・」

 口ごもるディーンを制してスレイは落ち着き払って説明する。

「ディーンは半年くらい前から病気のオヤジさんの代理で学術論文を書いてるんだよ。口述筆記で書き留めたメモをもとにして論文の書き起こし作業にあたっている。膨大ぼうだいな参考文献と付き合わせて一つ一つ確認する作業もある。出来上がった原稿はオヤジさんに確認して貰わなきゃならないから夜中のうちに仕上げてオヤジさんが起きている昼間のうちに確認してもらい、更に修正を加えていく。残念ながらそれが出来る人間がオヤジさんことトワント教授とほぼ同等の頭脳と見識を持ち、語られるべき学説を完全に理解しているコイツしかいないからなんだ」

 それだけでも十分過ぎるほどエクセイル家の事情は複雑だったが真相は更に複雑だ。

 スレイさえ今説明した事情以上の事実は知らないのだが、何故そうなったかについて聞いたら仰天ぎょうてんする。

「嘘っ?それじゃ実際にはほとんど・・・」

 察しの悪いルイスでも事情を聞いておおよそは理解した。

 スレイは更にたたみかける。

「そうさ、一応はオヤジさんと共同著名ってことになっているけれど、中身はコイツ一人で書いたようなものなわけさ。いま21歳のコイツは卒業まで一年半あるわけだけれど、コイツときたら修士どころか博士の卒業資格さえも満たしてしまったわけだ。事情と実情を知っている教授会の連中は内々でコイツの授業を免除して、助教授以上にしか与えない書庫の鍵まで預けたのさ」

 メルは目をパチクリさせた。

「それはスゴイよ・・・っていうより、そんな事が許されるんだ?」

 スレイはニヤニヤしながら先を続けた。

「なにしろ教授会はコイツのファンばっか。どうせゆくゆくはここの助教授になるんだしと考えている人たちが多いし、博士課程の単位認定は父親であるトワント教授がするものだと。そのせいで、厳しい上にヘソ曲がりな君たちの先生であるロモンド教授なんか、わざと意地悪しているぐらいです」

 ディーンは虚空こくうにらむようにして後を受けた。

「ベックスのじじいはボクの天敵です。あの人は自分が見込んだ可愛い学生たちにほど、底意地の悪い真似をする。スレイだってその被害者だものな。他学部学生なのに遠慮も手加減もない。とっくに愛弟子だと認定されているからです。ボクの場合はライバルだと思われている」

 スレイは苦笑し、メルとルイスはロモンド教授をじじい呼ばわりし、ライバル視されていると言い切るディーンにあきれる。

 そして、その実は相当親しい様子だ。

「でさ、コイツは春の初め頃から深夜の図書室にヌシみたいに住み着いてたわけだ。ところが事情を知らない学生の一人がたまたまここで鉢合はちあわせた。それがこの僕」

「あっ!」と叫んでメルとルイスは顔を見合わせた。

 それだったかとなる女の子二人にスレイは苦笑した。

「なんにも知らないで逃げ出した僕は翌日になってあちこちで聞いて回ったりしたんだけど、教授会からシッカリ口止めされている守衛や事務局は知らぬ存ぜぬの一点張り。あんまり僕が騒いだせいで学生たちの間でとしてウワサが広まっちゃったのさ」

「うわぁ」とメル。

「それで、ロモンド教授に呼び出されてこっぴどくしかられた。その上できっちり事情を説明された挙げ句に火消しのとしてコイツの助手兼雑用係に任命されたってわけだ。まあ今は大学側から臨時採用アルバイトとして結構な報酬をもらっているけどね」

 スレイはやれやれだよなといった調子で話をめた。

「そういう事情だったんだ」

 幽霊の正体見たり枯れ尾花かれおばなといった具合だった。

 スレイは知人の譲りのボヤキ節を続ける。

「夏頃はひどいもんで、ほとんど毎晩、多い日で5組くらい押しかけてたんだけど、僕が裏で色々と手を回したり、ウワサに尾ひれをつけたり、脅かして追っ払ったりしたもんで野次馬やじうま学生の数も徐々に減って一安心していたら、明日提出の筈のレポートが放置されていた。これはなんだか雲行きが怪しいなあと思っていたところ、やっぱり君たちがきちゃったのさ」

「あっちゃあぁ!」とルイスは額に手をやった。

「まあ、今晩もし取りにこなかったとしても明日の早朝に修正済みのレポートを師匠の机の上に放り出しておくところだったんだけどね。幸いにしてその手間もはぶけた」

 スレイがなにを言いたいか一瞬わからなくなったルイスとメルはレポートに目をやったが、どこも直されている様子はない。

「手間ははぶけたって・・・どこも修正してないみたいだけれど?」

 不可解だというメルにスレイはトドメをさした。

「当たり前でしょメル・リーナさん。これから君が自分自身の手で直すんだから、じゃないと勉強にならないし」

「えー、ひどい」

 むくれるメルにスレイは人の悪い笑みを浮かべる。

 そして長身の女子学生に向き直った。

「えーと、そちらのお嬢さんは?」

「あっ、メルと同じ史学科の学生でルイス・ラファールです」

 名前を耳にした途端、ディーンの体がピクリと反応した。

 表情こそ変えなかったが、僅かな反応を見せる。

「君のも見せてね。一緒に書いていたのならたぶん同じ間違いをしてる筈だから再提出確定だし」

「うっ・・・あい、お願いします」とルイスは情けない声をあげる。

「あっ、この事は絶対に他言無用ってことでよろしく、ちなみにここから家が近いのはどっちかな?」

「アタシよ」とルイスが手を挙げる。

「じゃ、ルイスさんはひとっ走りして、自分の家とメルさんのところにって連絡を入れてね。そのとき毛布を二枚忘れずに用意してくるといいよ」

 自宅に連絡しておけというのはよく分かるが毛布が2枚?

「わかったわ・・・けど、なによ毛布2枚って?」

 スレイは懐中時計を取り出して時刻を確認する。

「今晩、ほぼ徹夜だから。早くても3時間、遅くて4時間半ってとこかな?」

 ルイスは思わず「うげっ」と口走った。

「うわぁ、わかった。わかりましたってば・・・」

「それで、メルさんは後で僕とコイツの分のお茶をれてくれると助かるなぁ。たまには自分のれたのじゃなくて若いお嬢さんの入れてくれたお茶でも飲みたいし」

 お茶というのは勿論、紅茶だ。

 ただし、真の世界とは違いアフリカやインドといった産地から運ばれてくるのでなく、エウロペアにも茶畑がある自前だ。

「いいよっ、得意なんだから」とメルはにこやかに腕をみせる。

「ありがと、道具の場所はあとで教えるから。さってっと、ディーンもそれでいいよね?」

 ディーンも懐中時計を取り出した。

 薄暗くてよく見えないのが幸いだったが、鑑定眼のそなわるメルがよく見たら仰天ぎょうてんするほどの高価な品だ。

 いわゆる女皇陛下から下賜かしの品だからだ。

「ああ、今日の分の予定はほとんど終わってるから、もう一頑張りしたらボクは寝るよ。明日は朝から登城とじょう予定・・・おおっと、出かけないといけないし」

 食事を終え、机に戻ったディーンは早くも本と原稿用紙を広げている。

「そっか、じゃ早めに休まないとな。なるべくこっちは静かにするから」

 スレイの目配せにディーンは微笑んだ。

「うん、お嬢さん方は任せたよ、相棒」

 スレイはあとはなにかあったっけと少しだけ考える。

「ほーいっと、あっそうだった二人ともついて来てね」

「なに?」とメルとルイスは口にした。

「一応は守衛しゅえいさんに面通ししとくわ。そうすれば正門を出て表通りを歩けるし」

「あっ、助かります」

 ルイスは素直に感謝した。

 裏門まで歩くのは遠回りだったし、道が暗いので一人歩きはかなり勇気がいるからだ。

「まあ、こんな機会は滅多にないだろうけど、一応ね」とスレイ。

「もう二度とごめんだわ」とルイス。

 「確かに」と皮肉っぽく笑んだスレイは席を立った。

「そうだね、じゃいこか」

「はーい」とメルがすっかり明るい調子で後に続いた。

 どやどやと賑やかに去ってゆく3人を見送ってから、ディーンは一人ふぅと息を吐いた。

「やべぇ、危うく口をすべらせるところだった。バレたかなぁ」といつものクセで頭をく。「まったく、メルだけかと思ったら、ルイスまでとは・・・。まさかこの時期にアイツまでして学生なんかやってるとはねぇ」

 頬杖ほおづえをついて、こめかみをく。

「なんだか波乱の予感がするなぁ。それにマサカとは思うけど、偶然の事故を装ったこの件にからんじゃいねぇだろうなぁ。ボクの聖域にまで踏み込むつもりなら容赦ようしゃせんぞぉ」

 ディーンの予想どおり、この夜の出会いが4人の運命を劇的に変えることになる。

 そして案の定仕組まれていた。

 そもそもメルは大事なレポートを何処かに置き忘れるようなドジっ子ではなかった。

 普段はそうとみられるよう装っているだけだ。

 そして、の誰かが関与していたのも事実だ。

 まだアエリアからパルムに戻っていない若いナダルではなく、聖域の意味を骨身に思い知る調査室長のグエンでもない。

 ディーンは単に知らないだけだがデュイエもこの晩はにて行動中だった。

 残る可能性はしかおらず、問題は誰の密命で食事とおしゃべりに夢中なメルとルイスのすきをつき、カバンからメルのレポートを盗み出し、それをスレイとディーンに全く気づかれずに図書室の片隅に放り出しておくことが出来たかだった。

 この物語が進み、後になればなるほどそんな真似自体がとんでもなく難しいオーダーなのだとわかる。

 黒幕たる真犯人の名は既に出ている。

 その人物ならば状況のすべてをお膳立ぜんだてて出来るからだ。

 あとは実行役の女皇家隠密機動部隊たるラシール家の誰かにこっそりやらせるだけ。

 状況証拠だけで推理するのは難しいと判断してディーンはあっさり考えるのをやめた。

 この引き際の良さと、考えても無駄だと判断したときに脳内で保留にするだけで、更になにか新しい事実をつかみ取ったらたちどころに頭脳を働かせる割り切りこそがディーン・エクセイルの真骨頂しんこっちょうだった。


 警備室で守衛に面通しをして校門でルイスと別れたメルとスレイは図書室に戻った。

 途中、寄り道がてらに深夜でも使える施設やら道具の使い方を説明する。

 湯をかし、スレイのスープを温め直す頃にはルイスが大荷物を抱えて戻ってきていた。

 遅い夕食をるスレイのかたわらでディーンも含めた3人が紅茶をすする。

 メルはスレイが読み捨てた今朝の新聞を面白そうに読みつつ、なにやら落書きしていた。

「はー、しんどかったぁ」とルイス。

「お疲れ様ぁ」とメル。

「ちゃんと連絡してきたわよ。ついでに着替えももってきた」とルイス。

 案外素直なルイスにスレイは笑みを浮かべる。

「ん?かなり体格が違うみたいだけどルイスさんので合うの?」とディーン。

 身長180cm弱のルイスに対して、メルは身長140cm台だった。

「ほえっ、あたしのお泊まり用だよ」

 メルはなんでそんな事を聞くのだろうと小首をかしげる。

「そうそう」とルイスは事もなげに応じる。

「そんなのわざわざ用意してるんだ?」とディーン。

「うん、メルの自宅は遠いからね。よくウチに泊まりにくるんだよ」とルイス。

 スレイは一連の話をなんとなしに聞いていて、「えっ」と驚愕する。

「メルさんちって遠いんだ?リーナって・・・もしかしてお父さんはパトリック・リーナ?」

 スレイはメル本人についてよりもその父親のことはよく知っていた。

 むしろ知らなかったならスレイなど所詮しょせんはその程度の若造ということになる。

「そうだよ、よく知ってるね。お父さんはベルシティ銀行の頭取だよ」

(いやいや違うって、お嬢さん。。筆頭株主かつ経営最高責任者だよ)

 生憎あいにくと財界の事情にはうといディーンとルイスは差し置いて、スレイだけはほおを引きつらせながら、こともなげに話すメルも相当の大物だなと感じる。

 ベルシティ銀行はゼダでは民間最大の銀行であり、ゼダの都市という都市に支店を持つ。

 なにしろ4人ともおのおの自分の口座を持っているほどだ。

 20代後半のパトリック・フェルベールがリーナ家に入り婿むこしてパトリック・リーナが誕生した。

 財界は驚天動地きょうてんどうちとなる。

 いくら本店営業部のやり手でエ大卒だとはいえ、当時はまだ本店営業部の係長だった。

 それには筆頭株主たるリーナ家では女当主にかつぎ上げられたセシリア・リーナが悪戦苦闘していたという事情があった。

 なにしろセシリアの父ヨハンが心臓発作で急逝きゅうせいし、突然家に男手がなくなったのだ。

 先代もとうに病死している。

 どうも男子早世の家系らしい。

 実際問題として、株主総会を取り仕切っていたヨハン・リーナ筆頭理事の急逝きゅうせいこそ大株主たちは慌てたし、娘のセシリアにいきなりそれをやれというのははなっから無理な相談だった。

 有象無象うぞうむぞうが利に群がるようにしてセシリアに求婚したが、他の株主たちが彼等を品定めして一人として適任者を見出さなかった。

 そんな中、有力株主たるベルゴール侯爵家当主が入局間もないパトリックに白羽の矢を立てた。

 当時のパトリックに才能以外にあったのは、先々代でつぶれたが元はフェルベール男爵家の出自しゅつじという毛並みの良さ。

 そして、摂政皇女アラウネの後ろ盾と周囲に英才たちが居たことだ。

 同窓生たちが各界でエリートコースを歩んでいる。

 パトリックはベルゴール侯爵のセッティングでセシリアと対面後、入り婿を了承する。

 そして、本当に大丈夫なのかと不安げな上司達を尻目に、何食わぬ顔であざやかにベルシティ銀行始まって以来の深刻なる経営危機を乗り切った。

 それから瞬く間に出世して30代後半で頭取かつ筆頭株主。

 その手腕ときたら「鉄の睾丸こうがん」としょうされるほどにスマートそのもの。

 顔色一つ変えずに小国なら一国分の年間収支を動かす。

 やはりただ者ではなかったというのが現在の共通認識であり、妻セシリアの夭折ようせつで一時期は仕事に身が入らなくなったものの、すっかり持ち直して現在に到っている。

 生きながら立志伝の人物となったパトリックをスレイは率直そっちょくに尊敬してすらいた。

「うへっ、メルさまは筋金入りのお嬢様ですか。すると山の手屋敷にお住まい?」

 スレイは軽口と共に脳内の情報を吹き消しておどける。

 このメル嬢を射止めればパトリックの後継者となり、スレイの父親も一人息子に無理に政界進出をゴリ押ししないだろうという打算まで働かせるが、辣腕らつわん経営者たるパトリックの代わりがつとまるとなどとは夢にも思っていないし、そもそも柄ではないし興味もない。

 メルはそれがどうしたのと言わんばかりだ。

「南区に別宅があってそっちがほとんどだよぉ、お父さんも忙しいからお屋敷にはほとんど戻れないから」

 スレイは情けない顔をする。

「ううっ、パルム市内に何軒も屋敷があるなんてお金持ちの会話だよなぁ、ディーン」

 ディーンもメルのセレブぶりには露骨に顔をしかめる。

「うちもお屋敷なんて言われてるけれど、古いし汚いしネズミが出るもんなぁ。別宅別荘なんてどこにもないし、使用人は今やエッダさん夫婦だけだし・・・」

 そのエッダ夫婦というのが只者ではないのだが・・・。

「へぇ、あたしは親戚の持ち家に下宿してる。アンドリオン子爵って知らない?」

 そのなにげない一言にディーンは紅茶を吹き出してむせ込んだ。

「うっ、こっちは貴族かよ」とスレイ。

「はいはい、そうでしたか」と居住まいを正したディーンはなぜか呆れ顔をしている。

「子爵の所持している物件のアパルトメントを借りてそこに一人暮らし。その方が気楽だし、女友達がよく遊びにくるから」

 ディーンは“それがどういうことだか分かってるのかよ”と顔をしかめる。

「あー、便利そうだねぇ」と遠い目をするスレイ。

「あれっ、そういう二人はどうなの?」とルイス。

「ああ、コイツもボクも実家。エクセイルのお屋敷は南区北端でわりあいと近いよ。ボクの家は東区だからちょっと遠いよ。だけど、ほとんど帰ってない」

「それってもしかして?」とルイス。

「うん、寝泊まりはここが基本で、飲みに行ったときやなんかはそのまま友達の家に転がり込む」

 半分は本当で半分は嘘だ。

 実際問題としてスレイはスレイで忙しい身であり、ディーンの作業をサポートしつつも、自分は自分でをこなしている。

「なんか私たちには想像しにくいねぇ」とメル。

「まあ、大学に近い女のうちから直接ここに通ってる奴らも多いけどね、もしかしてルイスさんとこもそう?」

 スレイの軽口にルイスは血相けっそうを変えた。

「そんなわけあるかっ!だいたい男が出入りする場所にメルみたいなお嬢様を泊められるわけないでしょっ!」

「あっ、やっぱりね」とディーンとスレイは顔を見合わせてうなづき合う。

「なんか、すっごく失礼ねっ!そういうスレイくんこそ彼女の家から来たりとか」

 憤慨ふんがいするルイスにスレイはしれっと応じた。

「残念ながらご期待にはえませんね。なにしろ以上に手のかかる奴と寝起きを共にしてますから」

「おいっ!それはひどいぞっ」

 ディーンの抗議の声などお構いなしにスレイはぼやき節を並べる。

「いやほんとまいるって、メシの支度したくもせにゃならんし、着替えも洗っておかにゃならんし、挙げ句の果ては目覚ましがわりに叩き起こさないとね」

「なんか仲の良い夫婦みたいだねぇ」とメル。

「断じて違うっ!」と男二人は声を揃える。

「それにそんなに上等なもんじゃないし、ときどき切なくなる」とスレイはなげく。

「これっぽっちも潤いのない青春だよ。作業が押してくるとクサイ服着て風呂にもロクに入れないから」とディーンは頭をきつつ苦笑している。

「ううっ、ちょっとだけ理解してしまった」とルイス。「あたしらもよく考えたら似たようなもんだ。メルの面倒をみるようになってからは、いよいよ男友達と縁がなくなった」

「えー、なんでぇ!?」とメルが抗議の声を上げる。

「わかった、もう皆まで言わなくていい」とスレイ。

「不憫な・・・」とディーン。

「えー、なんでー」とメルは納得しなかった。

 さすがの男二人も夫婦どころかだとは気の毒すぎて決して言えなかった。


 それからきっちり3時間半で課題レポートの修正作業は終わった。

 スレイの解説は適切で分かり易く、基本はしっかり出来ているメルやルイスには十分理解することができた。

 一人で黙々と作業をすすめ、一段落ついたディーンは片付けを始めている。

 時計は午前2時をまわろうとしていた。

「あー、疲れた」

「やっとおわったよぉ」

「はいはい、二人ともお疲れ様でした。それでディーンはどう?」

「こっちも終わった。これならたっぷり4時間は寝られそうだ」

 たっぷり4時間というのにメルとルイスは絶句する。

 毎日そんなハードな生活をしているのですかと。

「そいつはなによりだね」とスレイはニッコリ微笑む。

「じゃ、あたしたちもそろそろ」とルイス。

「うん、お着替えお着替え」とメル。

「えっ、着替えて寝るんだ?」と男性陣。

「えっ、着替えないで寝るの?」と女性陣。

「だってねぇ」と言ってスレイとディーンは顔を見合わせる。「カビ臭い毛布で寝るからニオイつくし、朝起きてから着替える。その方がなにかと手間がはぶける」

「うわぁ、男の子って汚いなぁ」と言ってルイスとメルは顔を見合わせた。

「ちゃんとたたんでおかないとしわになるし汚れるもの」とルイスが言えば、「スレイくんって普段ちゃんとしてる割に、かなりいい加減なんだねぇ」とメルが呆れる。

 スレイは基本的にズボラだというより、自宅の屋敷だと使用人たちがみーんなやってくれるので、雑事をいっさい考える必要がなかったのだ。

 単にそこが居心地悪くてロクに帰っていないだけだ。

「ディーンはみたまんまね」とルイスに言われ、ディーンは眉を引きつらせている。

 いっそこの場で昼間の姿を見せてやりたくなる。

「それはいいけど、お前ら着替えのぞくなよぉ」とルイス。

のぞいたらみんなにバラすよぉ」とメル。

「・・・・・・」

 言葉を失ったスレイとディーンは顔を見合わせ、がっくりとうなだれた。

「それと寝てるとこに悪さしたら、明日アサイチでロモンド教授にチクる」とルイス。

「そーそー」とメル。

「そこまでするかっ!」とスレイ。

見損みそこなうなっ!」とディーン。

「まあ、さすがに二人ともそんな度胸はなさそうだ」

「そりゃあねぇ・・・」とスレイ。

「色々と後が怖いし、ドコで何言われて、誰の耳に入るかわかんないもの」とはディーン。

「なんかいちいち引っかかる奴らだ」

 ルイスが凄味すごみをきかせてにらむ。

 ディーンとスレイは二人揃って苦笑した。

「ところでどこで寝るの?」とスレイは確認した。

「司書室のソファー使おう。あそこならゆったり寝られそうだし、中から鍵がかかるから、ケダモノどもが変な気起こしても大丈夫みたいだし」とルイス。

「うん、そうしよー」とメル。

「それじゃ、二人ともおやすみ」とルイス。

「おやすみなさーいっ」とこれから寝るとは思えないほど元気なメル。

 荷物を手に書庫を出る女の子二人を見送ってから、残された野郎二人は大きなため息をついた。

 なんだかどっと疲れた。

 スレイが片付けをしていて先程メルが遊んでいた新聞を目にしてギョッとなる。

 既に日付が変わったので古新聞だ。

 ライゼル伯のコメントのついた手合い結果の記事が出ているのはいつものことだったが、フィンツ・スタームの顔写真に黒縁眼鏡がラクガキされており、「だぁれ?」と端書はしがきされていた。

 ルイスはニブいようだがメルは油断ならない。

「なんかいろいろとバレてるぞ、ディーン」

 スレイの放った古新聞を確認したディーンはこめかみに手をやった。

「しかも寝床ねどこまでとられたか・・・」



 11月5日朝6時半。


 意外にも一番早く目を覚ましたのはディーンだった。

 並べた椅子の上に毛布にくるまり芋虫いもむしのように寝ているスレイを横目にディーンは日差しを浴びながら、ゆったりと体を起こし、黒縁眼鏡をかける。

 初旬しょじゅんとはいえパルムの11月の朝は冷え込む。

 肌を刺す冷たい空気に軽く身震いしながら書庫を出て、司書室を一瞥いちべつすると手洗いに行き、戻ってからは荷物をまとめ、机や椅子を元通りに片付ける。

「おっ、起きたのか?」

「このまま着替えてすぐに出ないと登城刻限とじょうこくげんに間に合わなそうだからな。ハニバル司令が戻ったんで午前中は定例会議の予定だし、その後はアリオンたちの相手で5、6戦しないとな。アイツらの本格的な出征しゅっせい前の餞別せんべつさ」

 スレイにはの朝刊の見出しが想像出来てしまう。

騎士喰らい対氷の貴公子の世紀の一戦なる!刹那せつなの衝撃ふたたびか!』とかだろう。

 元老院議会の昼休憩で抜け出してきたライゼル伯も見物していそうだし、スレイ自身時間の都合がつけば見物に行きたいところだ。

 それに対フェリオ戦に北部方面軍最精鋭部隊の《黒騎士隊》が本格投入されるという意味だ。

 《黒騎士隊》の主力機たるファング・ダーインら真戦兵再調整と隊員たちの骨休め休暇が終わり、国家騎士団は本腰を入れ、本格的にウェルリ攻略にかかるのだろう。

 そして、国騎上層部はウワサの剣聖メディーナ・ハイラルに虎の子のアリオン・フェレメイフ大尉をぶつけるつもりらしい。

 それでも派手に負けるようならまで引っ張り出されかねない。

「フェレメイフ大尉にタイアロット・アルビオレ攻略のヒントぐらい教えてやったら?そうそう、あの娘たちには適当に説明しておくよ」

 タイアロット・アルビオレの攻略ヒントと聞いてディーンは上目で少しだけ考えた後にかぶりを振った。

 アリオンは可愛い弟分だが、そればっかりは出来ない。

 なにしろ建造にあたってはリンツ工房ともども大変な思いをさせられた労作なのだ。

「それはちとイヤだ。それと説明は任せた。今夜はふくしれー主催の送別会だろうし、戻るのは午後9時くらいになるかな?」

 《騎士喰らい》などと陰口されていてもはゼダの騎士達皆から好かれている。

 誰にも手を抜かない、花を持たせないが常だが、人的交流にもそつが無い。

 それに稽古けいこがわりの「手合い」で負けても自信をつけられるのがとの一戦だった。

「でもさー、ディーン」とスレイ。

「ん?」とディーンは視線をやる。

「ちょっといいよな、こういうのってフツーの青春みたいでさ」

 実のところスレイもディーンも普通の青春とはまったく無縁だった。

 スレイにせよ、ディーンにせよ青春の日々というには物騒ぶっそうな真似を日々している。

「へへっ、まぁね。少し楽しかった。普通の学生たちはまいんちこんなかなとちょっと思ったよ。うらやましい話さ」

 スレイはベッドがわりにしていた椅子に座り直し、改めて親友をみた。

 ほおがややこけているのは顔だけ。

 シャツの下からはがっしりときたえられた体。

 そして、スレイよりも二回りは太い二の腕。

 普段はもっさりとした服に隠れているがディーンは意外なほど強靱きょうじんで鋼のような体つきをしている。

 当然だ。

 贔屓目ひいきめ込みであれ、当代一と称される騎士なのだから。

「ほんとさー、お前には頭がさがるよ」

「べつにぃ、ボクはやりたいことをしたいようにしているだけでーすっ」

 白いシャツのボタンを留め直しながら、ディーンは気のない返事をする。

「それが周囲の期待通りに・・・いや、あるいは期待以上にやってのけられる男を僕は他に知らないな」

 スレイは昨晩読みかけにしていた本を手にする。

 表紙には「用兵における人間心理学とその応用」という文字が読み取れる。

「なあ、スレイ?」

「ん?」

「完全にバレるのはいつだと思う?」

 スレイは一瞬だけキョトンとした後に腹を抱えて笑い転げた。

「賭けるか?なら僕は来年の6月くらいかなぁ」

 ディーンはさすがに良い読みをしていると思った。

「ボクはメルには年内には、お前の裏稼業以外なんぞ全部バレると思う。ルイスにはこちらから何か言わない限り永久にバレない」

 スレイは「たはは」と苦笑した。

「僕等が何者であれ、なんかあの二人なら快く受け入れてくれそうな気がする」

 スレイの指摘にディーンはルイスを脳裏に浮かべていた。

「確かにそうかも知れないな」

 アイツだってきっとわかっている。

 ルイスだって6年前のエドナ杯のことは鮮明に覚えているはずなのだ。

 スレイはおどけた様子で続けた。

「でも、今はやめとこうぜ。ただでさえ秘密を打ち明けたばっかりだし」

 ディーンは考え込んでいた。

 メルの推察が正しいと証明するのはいつの機会になるのか。

「そうだな、お前でも完全に受け入れるのに時間かかったもんな」

 ディーンはのトレードマークとも言える黒縁眼鏡を外す。

 そこには先程までとはまったく印象の異なる一人の青年騎士がいた。

「いいたちだよな」

 スレイは厚手のコートをディーンに手渡した。

「ああ、本当にいいたちだ」

 受け取った女皇正騎士フィンツ・スターム少佐相当官は防弾仕様のコートを羽織り、早朝のパルムを颯爽さっそうと歩き出していた。


 女皇歴1187年11月5日、エウロペア大陸の運命をになう4人の男女は出会った。

 彼らを襲う激しい嵐はもう間もなく現実のものになろうとしていた。


 統一暦1512年7月17日 午後9時


「それで?」

 すっかり日の暮れたケヴィンの教授室にポツンとあかりが灯っていた。

 それもそのはずで7月のこの時期はほとんどの教授、学生にとって居残りするほど忙しい時期ではない。

 サマーバカンスとアルバイトで学生たちは別の意味で忙しい。

「キミの言うとやらはなぜそんな学生たちの深夜の集いに始まるのかね?」

 ケヴィン教授は尚も釈然しゃくぜんとしない様子でいる。

「いや、ボクも《タッスル事件》あたりから始めたかったのですけど、エリザベートのワガママでして」

 デリバリーで取り寄せた海鮮料理を口に運びつつ、ケヴィン教授はビールを口にする。

「ワガママゆーなっ!段取りよ段取り」とほろ酔いのエリザベートが抗議する。

「やれやれなんですが、まぁここも大事な始まりでして」と、これもカニの爪を手に説明しかけたティルトを、悠然ゆうぜんとワインを飲むエリザベートが軽く制する。

(なんだすっかり尻にかれているのか)

 ティルト青年の口ぶりとエリザベートの様子から二人の関係がかなり親密なものであることをにはニブい教授も薄々感じている。

 だが、関係を認めるかどうかは別問題だった。

 彼の中でその問題はとっくに扱いとなっている。

「問題は時間ではないわ、場所と人物よ」と言ってティルトがまとめた論文のその部分を抜粋ばっすいした。「ここよ、父さん」

「うん、これは昔の学生名簿の写しだな」

 大学図書館に保存されている大昔の学生名簿。

 そこには・・・。

「メル・リーナ、そしてルイス・ラファールかね」

 老眼鏡を片手に教授は二人の名前を確認した。

「確かに二人の女学生がそこに存在したことは事実のようだね」とケヴィン。

「ところがよ、この二人が大学を卒業したという記録は残っていないのよ」

 エリザベートの指摘にもケヴィンの反応は薄かった。

「ほぉ、ただ革命期の混乱で単に中途退学したのではないかね?」

 物語の舞台は《6月革命》が起きる5年前にあたる。

「いいえ、二人が中途退学したという記録もありません」

 ワインに心持ち顔を上気させたエリザベートは別の箇所かしょを指さした。

「なぜなら、中途退学者名簿には彼女たちの名前が残っていません」とエリザベートが言えば、ティルトはすかさず後を続けた。

「というより、この4人は半年後に『休学届』を出したっきり大学に復学することはなかったなのです。おそらく中途退学ではないのは学籍の自然消滅です」

 最早、尊敬する教授の前だということさえ忘れ、ゼミの学生よろしくビールを片手にしたティルトがつぶやく。

はず?」学者の癖でつい曖昧あいまいな表現を嫌うケヴィン教授はティルトの指摘に鋭く追求の手を入れた。「それになんの問題が?」

「大ありよ父さん、だって4人のうちの一人が誰だかもう話したでしょ」

 エリザベートの指摘に「あっ」と教授は気付いた様子だった。

「そうか、そのうちの一人がディーン・エクセイル。彼はその後、助教授として・・・」

 そうなのだ。

 6月革命後にエルシニエ大学助教授(教授でなく教授)のディーン・エクセイルは「シャナム王回顧録」の口述筆記役として革命期に起きた出来事すべてを記す側となり、エルシニエ大学の助教授から教授、そして学長と肩書きを変えることになるのだった。

「そうよ、問題はその点よ」

 やや酔いの回ったエリザベートは呂律ろれつの回らない口ぶりで論文の別の箇所を指し示した。

「これは辞令集の写し。ここにはディーン・エクセイルが6月革命の後に復学していきなり学生の身分から助教授に出世している。大学院への進学もしていません」

 エリザベートの主張に「確かに」とケヴィン教授はその指摘を認めた。

「しかし、彼は既に博士課程の卒業資格さえも満たしていたと話の中にはあったようだが?」

「ニブいわね父さん」とエリザベートは別の箇所を指摘した。「では、彼の助手を務めたのは一体誰だったかしら?」

「そんなのは自伝にも記されているし、史学生で知らん者などおらんだろう。彼の著書の冒頭には必ず『我が最大のパートナーにして共同研究者たる妻にささぐ』とある」

「それが誰なのかってことよ。だからロマンティックな出会いだってさっきから言ってるじゃないの」

 エリザベートはニヤニヤと笑みを浮かべて一人でえつに入っている。

 ディーン・エクセイルの伴侶は誰なのか3人とも知っていた。

 ケヴィンはおおよその答えは理解した上で聞く。

「つまりお前は、この二人の史学生女子のどちらかが彼のパートナーだったと言いたいわけなのか?」

「その通りよっ」

 エリザベートは満足げに微笑んだ。

「そして、ティルトはその相手についての証拠もちゃんと用意している」

「はい、それどころか彼らに関してはもっと驚くべき秘密が・・・」と言いかけたティルトの口許をエリザベートがふさぐ。

 なんとも大胆にその唇でだった。

 しばし沈黙が流れた。

 糸を引くような長いキスのあと、エリザベートはティルトの口元を指でつついた。

「ティルト、あなたの一番いけないところはせっかちな所よ」

「おい、。場所柄をわきまえてくれよ。こんなとこ誰かに見られたらマズいだろ」

 おそらくこの地上で一番マズい相手の目の前だった。

 ところがケヴィン教授はなにかの思索にふけっていて二人の親密すぎる様子には気付いていなかった。

 二人の濃密なキスも見ていない。

「シェリフィス、シェリフィス・・・なにかで目にした名前だった筈だ。6月革命の前後でこの人物が関わるなにか重大な事件が・・・」

 父親が別の関心事に頭を悩ませている間に、エリザベートは勝手に続きをリクエストしていた。

「その話はまたの機会にー。それよりアタシは舞踏会の話を所望いたしまーすっ」

「アレかー。キミはホント華やかな話が好きだよね」

 ティルトが呆れた様子でいるのをケヴィン教授は意外な面持ちで見据みすえていた。

「それにしても、どうしてまたこんなことを丹念に調べる気になったかが私には理解できん」

「アンナ夫人の指摘だったのです」とティルトが言う。

「アンナ夫人?のことか?」

 ケヴィンは勘当かんどう中の長女の名前を挙げる。

「彼女が大学500年史の編集作業で目にした一枚の写真が彼女の疑問の大元になりました。そこにはその後の歴史を左右した4人がそろって写っていたのですよ。ただ・・・」

「ただ、なんだい」

 もはや人ではなく猫かなにかに姿を変えた愛娘がティルトの意外に逞しい腕とからだなまめかかしくすり寄っていく様子はケヴィン教授の目には入っていない。

「彼らの一人が『正史』として語り伝えた内容とは完全に食い違い、大きく矛盾しているのです」

 ティルトはそう断言してビールをかたわらに置き、手慣れた様子で酔いつぶれたエリザベートを体から離し、床に寝かせた。

「それこそが、なによりも最大の謎で、その後彼らが辿ったとされる運命そのものともはなはだ矛盾していることになります。そもそもディーン・エクセイル教授とアリアス・レンセン新政府首相が“知己だった”という話だって胡散臭い。同じ時期に在学していたとはいえ、史学部のホープと政経学部を代表する秀才。それに反乱軍(叛乱軍)に加わっていたのは名前は同じでも剣皇ディーン。教授もご存じのようにとなってゼダ内戦を戦った後に、剣皇ディーンは戦死している。死んだ筈の人間が別人として歴史を記した。しかも、妻であるのはやはり名前が同じルイスで、我々の知るルイス・ラファール卿も戦死者。戦死者同士のカップルが戦後にゼダ正史をつづった。そんな話を信じられますか?」

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