鋼鉄の犬~引きこもり探偵の冒険4~

藤英二

鋼鉄の犬(その1)

「すごく鼻の利く犬がいるそうじゃないか」

ズボンのベルトが隠れるほど下腹が突き出た中年男が、玄関に入って来るなり、

「時給千円でどうかね。犬のアルバイト代としては払いすぎだと思うが・・・」

と、バックルのブランドを見せつけるようにしてベルトごと下腹をぐいと持ち上げると、いきなり報酬の話をした。

元同級生の玲子の叔父の溝口耕平のせっかくの申し出だが、これは帰ってもらうしかないと思った。

振り向くと、部屋から鼻先だけ出した可不可と目が合った。

可不可は小さくうなずいた。

時給千円でも、探偵事務所としては収入があったほうがいいという可不可なりの考えなのだろう。

それで、溝口が乗って来た大きな車に同乗して出かけることになった。


埼玉に通じる私鉄と並行している旧武蔵野街道を、時に電車と競うようにして、中年のスピード狂は大型SUVをむきになって走らせた。

黄金色の太陽が車の後方に沈みはじめると、闇の魔王が武蔵野の空を東から西へと夜の帳で被っていった。

暗青色の夜空に無数の星が散りばめられる頃、小高い丘陵に吸い込まれた車は、暗い森の枝分かれした細い道のひとつを、肩をすぼめるようにしてゆっくりとたどった。

おんぼろアパートが肩を寄せ合う一画で車は停まった。

「ここが俺のアパートだ。今から時給カウント開始でいいかな?」

と、腕時計を見た溝口が半ば強引に言うので、あいまいにうなずくしかなかった。


車を降り、暗闇の中を背を丸めてアパートに近寄った。

「うちのアパートから悪臭がすると、最近近隣の住人からクレームがあってさ。それも頻繫に。・・・こちとら蓄膿症で鼻がまるで利かないし、風向きのせいもあるのかね、何度来ても何の匂いもしやしねえ」

不動産業を営む玲子の叔父が、可不可を借りに来た理由がこれで分かった。


向き合った2棟の二階建ての古いアパートが、もたれ合うようにして、暗闇の底に沈んでいた。

ハーモニカの上下の穴のように並ぶ窓は、まばらに灯りが点いていたり欠けたりしていた。

・・・すべての部屋が間借り人で埋まっているわけではないようだ。

右手のアパートの前に室内灯の点いたワゴン車が停車していた。

「おかしいな、あんな車を持っている奴はこのアパートにはいねえ・・・」

溝口がしきりに不審がった。


非常階段を段ボールを抱えて降りて来た細身の若い男が、ワゴン車のバックドアをはねあげ、大きな段ボール箱を積み込んだ。

微風の吹くさわやかな夜だが、草いきれに交じって、可不可のヤコブソン器官を借りなくとも、化学物質の不愉快な匂いを感じることができた。

傍らの溝口はよほど鼻が悪いのか、ぼんやりと突っ立ったままだ。

けしかけるまでもなく、素早く走り出した可不可は、ワゴン車の横腹へ回り込んだ。

アパートの外階段を、骸骨のような顔をした中年男が、やはり大きな段ボール箱を抱えて足音高く下りて来た。

「あっ、あいつは・・・」

と小さく叫んだ溝口は、不意に後退りして電柱の陰に隠れた。

ヘッドライトが点灯し、ワゴン車は急発進した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る