終わりの彼方

谷野 真大郎

終わりの彼方・前

「マジでダッサいね。このヘルメット」


 終わっとるわ、なんてけらけらと笑い、手に持ったそれの表面を撫でたり、折った指の関節で叩いたりする。こん、と薄っぺらいのを如実に示す軽い音が、薄暗い部屋に響く。徐にそれを浅く被った彼女が「写真、撮っていいよ」なんて言って、その端正な顔を傾けた。

 少し意地悪そうに微笑むと、とても似合う表情だと思った。きっと彼女は、自分の顔の出来が他人より良いのを自覚しているんだろう。あざとい。


「ほら。思い出だよ? いいの? 残さなくって」


 変わらず笑みを浮かべたまま、ほらほら、と頭を左右に揺らしてみせる。

 シャワーを終えて濡れた髪が揺れ、青を混ぜたような深い黒が淡い照明を反射して艶めく。

 つい見惚れるようになってしまって、そんな僕の視線に気づいた彼女が少しだけ目を細める。広いベッドの上で、膝を擦って僕に近づいてくる。布の擦れる音が、いやに鮮明に脳に届いた。

 サイズの合っていない紺のシャツの肩がずれると、下着もつけていない白い肌が露になる。そうして無意識、目をそらす。それからすぐに、あぁ、ださいな、って思う。


「緊張してる?」

「そりゃあ、するよ」

「……じゃあ、ちょっとだけ、おしゃべりしようか。する前に」


 なんなら別に、しなくたっていいんだし。

 そう言って、被っていたヘルメットをぽいっとソファに放り、僕の隣に寝転がる。こっちは大きな枕に寄りかかって座るような姿勢だったから、自然と僕が彼女を見下ろす形になった。

 ちょうど真ん中で綺麗に分けた前髪を指先で整えると、吊り目気味の大きな目でじっと僕を見つめてくる。

 視線がぶつかり合うと、そういえば、高校の教室でもこんなことがあったな、と制服姿の彼女の姿が頭に浮かんだ。遅れて、今するにはちょっと気持ちの悪い想像だったかもな、と恥じる。


 ……僕は、夢でも見てるんだろうか。

 そもそも、どうしてこんなことになったんだ。


「今日、ずっと私だけ話しっぱなしだし。今度は、佐伯サエキの話、聞かせてよ」


 彼女に、そう促されて。

 この状況が夢なんかじゃないって、確認でもするみたいに。

 三年ぶりに東京から帰ってきた今日の出来事を、思い出してみることにした。





 各駅停車の電車に三時間揺られて降りたかつての最寄り駅は、通学に使っていた当時の面影すら残していなかった。

 ほんの少し前まで、ほとんど無人駅のような状態だったのに。とか考えてから、三年前は「ほんの少し前」ではないな、と思い直した。


 高校を卒業して地元で職に就き、本社のある都内へ転勤してから三年が経った。その間、特に帰る理由もなく、遠出もしなかったから、こうして田舎の空気を吸うのも三年ぶりになる。

 家族仲が悪いわけじゃない、とは思う。少なくとも、息子はそう感じている。最低限連絡をすれば「顔を見せろ」なんてしつこく言ったりしない親だった。別に、仕事が強烈に忙しかったわけじゃない。家族に会いたくないわけでもない。帰らないことも、外へ出ないことも、特にこれという理由はなかった。


 つい先日、高校の同級生から『みんなで遊ぶからお前も来い』と誘われた。今まで、そういったお誘いは全部断っていた。それも大した理由があるわけじゃなく、教室で馴染めていなかったわけでも、誰かしらと確執があるというわけでもない。

 ただめんどくさくて、それだけだった。仲のいい数人とはいつでも電話で話せたし、僕にとってはそれで十分だった。その数人から同時に誘われてしまっては、さすがに蔑ろにするわけにもいかなかった。


 自動改札を抜け、西口の階段を下りる。駅の出入り口だって、昔は東側にしかなかった。そこから陸橋を上って、下りて、として西側に行かなければならなかった。懐かし~、と目の前の景色にはその欠片も残ってないのに、そんなことを思う。

 空の下に出ると、少し春の匂いがした。僅かに残った冬を溶かすように、優しい風が春を連れてくる。気温もちょうどよくて、上着は不要だったかもしれない。

 そういえば駅前の通りを少し往くと桜並木があったっけ。嗅覚と記憶は強く結びついてるとかナントカって、テレビで見たような気がするけど、たしかにな、と思う。これがどんな匂いかと具体的に説明はできないのに、何かこう、色々蘇ってくる。

 もうなくなってしまった陸橋を音楽聞きながら歩いたこととか、少し高い位置で眺める背の低い建物の群れが夕日に染まって綺麗だったとか、歌いながら自転車を運転してたら羽虫が口に飛び込んできて不快だったとか。

 思い出すのは、そんな些細で目立たない思い出ばかり。退屈な人生とまでは言わないけれど、他人よりも彩りが少ない自覚はあった。別に、それでよかった。


 まともに使わず蓄積されていくばかりの有給休暇を使い、地元の田舎に帰ってきた。平日昼の駅前は閑散としていて、駅の新築に伴って綺麗に整備された西口のロータリーにも、車は一台しか停まっていなかった。その唯一の車の中で、兄が小さく手を振っていた。

 田舎ならこんなの当たり前だけど、最寄駅から家まで移動するための公共交通機関は存在しなかった。バスの本数が少ないとかいう話ではなく、そもそも通っていない。いちばん近い駅から実家まで歩いたことなんて一度もないけれど、二時間はかかると思う。

 短期間でも人の多い地域で生活してみると、それがどれだけ不便なのかを痛感した。


「おかえり」

「ただいま」


 平日の昼間にいきなり迎えを頼んでも、こうやって簡単に時間を作れてしまう兄の仕事がどんなものなのか、僕は正直、未だによくわかってない。本人が、教えてくれないからだ。

 パソコンで何かする仕事であることは間違いないんだけど、ちょっと詳しく聞かせてと尋ねると『世界の平和を守ってる』とか『スーパーヒーローのスーツ作ってる』とかワケのわからないことを言って、いつもはぐらかす。

 多分、言っても僕には理解できないと思われているんだろう。そしてそれは実際、正しい。僕は兄と違ってあまり頭がよくないし、難しい言葉も知らないから。あと、本当に世界の平和を守っている可能性もある。法に触れないまっとうな仕事なら、なんだってよかった。


「髪伸びたな、奏多カナタ

「そういう兄ちゃんは、ハゲたね」

「あえてやってんの。スキンヘッドと言ってくれ」

「炎上でもした?」

「いやドウェイン・ジョンソンになりたくて」


 無理だろと思った。

 僕と兄は、双子だ。顔も体つきも、小さい頃からよく似ていた。だからその願望がどれだけ現実離れしたものであるか、他の誰よりも、なんなら当の本人である兄よりも理解できる。やせ形で、顔は整っていないわけじゃないがはっきり言って特徴がない。挙句の果てには在宅勤務で外に出ないせいで色白。ほとんど全ての要素が真反対だ。ていうか、大体の日本人男性はドウェイン・ジョンソンになれないと思う。


 中身の方は、あまり似ていなかった。

 兄が賢いのは、昔からだ。僕が外で友達と遊んでいるときにも、兄はいつもひとりで本を読んだり映画を見たりして過ごしていた。今思い返せば周りにはそんな兄を揶揄うヤツばかり居たけれど、兄はそんな連中のことなんて眼中にもないような、毅然とした振る舞いをする子供だった。

 当然、僕の知らないこともたくさん知っていて、テストの点数で兄に勝てたことは一度もない。別の高校に進むと、その差はみるみる露骨になっていった。

 幼い頃、僕はそんな兄のことが嫌いだった。

 兄も、同じように僕のことを嫌っていた。

 僕が兄と比べて外交的なのが気に入らなかったらしい。

 自分が持ってないものをお互いに羨ましがっていたと知って、多少は大人になった今はもう違う。遠い昔の話だった。


 ただ、好き嫌いとは、少し違う話で。

 兄の心には、いつだって明確に夢中になれる何かがあった。僕の目に兄の姿は、日々を生きる情熱に溢れた人間に見える。僕には、それが無い。いつだってその場その場で雑に流し流され息をして、今に至る。

 時々、そんな自分の感性や未熟で虚しい心を憂い、情けない気持ちになることがあった。

 世の中、みんなこんなもんだろうって。わかってはいる。それでも、って話だ。

 不愉快なのは、兄じゃない。何も持たない空っぽな、自分自身の方だった。


 ……できた双子の兄を持つと、不出来な弟はこういう風に育ってしまうのだ。

 グレなかっただけ優秀だろうと、今なら思えた。


「予定はもう決まってんの?」

「今日はなんもない。明日の夜、高校の友達と遊ぶ。んで明後日、帰る」

「そっか。じゃあ、おれも行こうかな」

「その頭じゃムショ帰りの兄がいると思われるから、嫌だ」

「絶対ついてく」

「やめて」


 そうやって、他愛もないことを話す。車窓から眺める景色は、右も左も田んぼと林ばかり。この距離を毎日自転車で往復してたのかと思うと、なんというか、頑張ったなぁ、と思う。高校生なんだし、学校で禁止されてなかったら原付で通えたのにな。と、そういえば。


「……そうだ。兄ちゃん、帰ったらバイク貸してよ」





 実家のガレージで、埃被った黒いヘルメットの表面を軽く拭う。

 僕が実家を出るのと同時に手放したバイクに乗っていたときに使っていたものだ。この数年の間に捨てられていなくてよかった。

 兄のバイクに跨ってキーを挿し、エンジンをかける。身体を揺らす心地いい振動と、この大きさにしては控えめな排気音。人の多い地域ならまだしも、こんな田舎でわざわざマフラーを消音加工するバイカーなんて、探したって中々いない。

 少しアクセルを回して暖気を済ませると、グローブとヘルメットを装着して家を出た。 

 だいぶ久しぶりに乗ったけれど、ちゃんと操作は体に染みついている。ギアを上げ、緩やかな加速と全身に感じる春風が心地いい。眼下のタンクが眩しい日差しを跳ね返すと、こまめに兄に磨いてもらっていたんだろうなと悟る。

 信号待ちで、グローブ越しにそれを撫でてみる。わかってはいたけど、こうして跨るとやっぱりバイクが欲しくなる。今の家、停めるとこないんだよな。

 こっちに帰ってくる前から、バイクに乗りたいことは兄に伝えてあった。たまたまかもしれないけど、ガソリンは満タンにされていた。別に移動するだけなら車でもよかったけど、バイクはこんなときしか乗れないから。


 目的地の隣町にある銭湯は、数年前に一度潰れてつい最近違う名前のお店になったらしかった。

 駐車場で、バイクの写真を一枚撮る。兄に送るとすぐに既読がついて『おれが撮るよりかっこいい』と言われた。多分、天気のおかげだろうと思った。

 ついでに、インスタにも載せておく。まるで自分のバイクのようじゃないか、と投稿してから思ったりした。

 外観はあまり変わったように見えなくて、靴を脱いで中に入ってもその印象は崩れない。高校生の頃と、ほとんど何も変わっていなかった。少しだけ、壁の色が明るくなったかも。あと、料金こんなに高かったっけ。あんま覚えてないけど。


「大人ひとり、館内着もお願いします」

「サイズはどうします?」

「Lで」

「かしこまりました。清算はお帰りの際、あちらの機械でお願い致します」

「どうも」


 館内で財布代わりに使うリストバンドを受け取る。館内着のデザインは、結構変わってるな。昔来たときはもっとこう、地味な色合いのやつだった気がする。

 フロントで受け取った手提げから覗く館内着には、かなり派手なお花の柄がプリントされていた。かわいらしいけれど、まぁ間違いなく僕のような人間は、普段なら着ない。南国、って感じだ。


 更衣室で裸になって、大浴場に立ち入る。その前に体重を測ると、まぁ平均、って感じだった。二四歳男性の平均体重なんて、詳しくは存じないが。

 浴場の構造も、やっぱりあの頃とほとんど変化はなかった。入って左手に洗い場があり、少し歩くと日替わりの薬湯。今日は紫蘇の色に似たお湯が張られていた。

 それから右奥に電気風呂、温めの炭酸風呂。左側にはライブハウスかってくらいに広々としたサウナに塩サウナ、ミストサウナ、水風呂。やたらとサウナのバリエーションが豊かなのも、当時とまるっきり同じだ。

 高校の体育祭の帰り、クラスメートと一緒に来たなぁ。明日はそいつらと会うわけだが、地元を離れていない連中は高校を卒業してからもここに来たりしているんだろうか。

 話題がひとつ増えた、なんて思いながら、お風呂を堪能した。

 平日昼だけあってほとんど貸し切りかってくらいには空いていて、快適だった。


 お風呂を上がると髪を乾かしてから二階の食堂で軽くお腹を満たし、休憩室で漫画を読むことにした。一人掛けの長いソファ的なのがたくさん並んだ、薄暗くて広い部屋。入って左手の壁を隠すように本棚が置かれ、漫画喫茶もかくやという量の漫画が並んでいた。

 最近話題のものが目立つ場所に面を切って置かれていて、でも、そっちにはあまり興味が湧かなかった。

 もう何度も読んで内容もほとんど覚えてしまっている、古い漫画を数冊手に取る。椅子に腰を下ろし、黄ばんだページをめくると、あぁこの話、教室でアイツとしたなあ。と懐かしい顔が浮かんだ。

 こっちに来ると、意識しなくてもそんな記憶ばかり蘇ってきた。まぁ僕、東京に友達、いないからなぁ。会社の人とは、遊んだりしないわけじゃあ、ないけど。あくまで、同僚だし。仕事と遊びの区別をつけられないわけじゃないけど、こう、昔はもっと、簡単だったような気がする。他人と仲良くなるの。難しいなぁと思う。それは僕が大人になったからか、そもそもの性質なのか。よくわかんないけど……わかんなくていいけど。別に。

 考え事をしつつ、ぼんやりと絵だけ眺めるようにして漫画を読み。

 気がつくと、眠っていた。





「やっぱ、佐伯サエキじゃん」


 ……どこかで聞いたことのあるような、ないような。

 あぁ寝ちゃってた、と身体を起こし、携帯で時刻を確認しようとするのとほとんど同時に、そんな声が隣の椅子から聞こえてきた。女の人の声だった。苗字を呼ばれて、え? と思う。

 声の方を向けば、少しだけ離れた位置にある左隣の椅子で、オッス、なんて言うみたいに小柄な女性が手をあげていた。顔を見てすぐに誰かわからなくて、多分、こんなとこで出会すなら高校の同級生だろう。こんな可愛らしい子は居たかな、と少々考えて、あ、そういや隣の席だったことあったよな、と思い出す。


「……えーと……尾張オワリ、さん?」

「よく覚えてんね。全然話してなかったのに」

「いや、そっちこそ」

「だって佐伯、全然変わらんし。ちょっと髪伸びた? てゆか今、さんづけした?」


 尾張でいいよ、と歯を見せて笑う。彼女の言う通り、高校の頃にあまり話した覚えはなかった。そんな薄い関りでも、一応はクラスメートだ。当時どんな子だったかくらいは、覚えている。こんな風に快活に笑う印象は、正直、なかった。

 肩にかかる程度に揃えた髪も、高校生のときはもっと長かったように思う。この髪型のせいで、思い出すのに時間がかかったのだ。尾張は全体的にもっと、大人しめなイメージのある子だった。まぁ、いろいろあるよね、とだけ思って飲み込み、口にはしなかった。


「なにしてんの? こんな平日の昼間っから。東京じゃなかったっけ」

「ちょっと、用があって。有給使って帰ってきてて」

「なぁんだ。てっきり、やめて暇してんのかと思っちゃったよ」

「そういう尾張は?」

「暇してます。仕事、やめちゃったからね」


 ああ地雷踏んだ、と思った。


「鬱んなっちゃってね、ははは」


 想像の倍はデカい地雷だった、と思った。


「それは、まぁ、つらいね」

「別に気ぃ遣わんでもいいよ。どうせ、今日しか会わないんだし」

「……でも、あまり、そうは見えないけど」

「頑張って元気なフリしてんのよ。ま、冗談だけど。普通に元気なだけ、今日はね」


 返す言葉も見つからない、なんて程ではないけど。

 今この瞬間は元気なのが本当だとしても、会社を辞めてしまうほど心を追い詰められてしまった人に対して、何を言えば。言ってあげたらいいのか。頭の悪い僕には、わからなくて。

 こんなとき、兄ならどんなことを言うだろう。尾張と僕が逆の立場だったら、なんて言ってもらえたら嬉しいだろう。少し考えて、何も思い浮かばなかった。情けないな、と思った。

 せっかく気付いて声かけてくれたのにこの体たらくじゃあ、尾張も困っちゃうよな。どうしたものか。そのような思考が、表情に出てしまっていたのかもしれない。


「きまずい?」

「え。……まぁ、だいぶ」

「はっきり言うねえ。でも誤魔化されるより、全然いいね」

「思い出したくなかったら、答えなくていいんだけど……どんな仕事してたの?」

「工場の品質管理、って言ったら伝わる?」

「あぁ。全部分かった」


 僕自身、その部署に所属していたわけじゃないけど。本部へ異動になる前は、こっちの工場にいたのだ。当然、品質管理部もあった。現場の人間と顧客とに板挟みにされて、四六時中疲れた顔であっちこっち走り回る同僚の姿を思い出す。それと似たような感じなんだとしたら、心が疲れてしまうのもなんとなく、理解できた。


「まぁでも、仕事は普通だったよ。こうなっちまったのは全部、私がカスいのが原因」

「だからきまじいって」

「ははは」

「……なんも知らないけど、尾張だけが悪いってことは、ないんじゃない」


 なにか言おうとして結局、月並みな言葉しか送れない。

 聞いた尾張が、ありがと、なんて目を伏せて控えめに呟く。僕の言葉がこれっぽっちも響いていないのが、手に取るように分かった。


「でも、ほんとのことだからさ。私が働いてるとこを見てたら、誰だって同じことを言うよ」

「……そう、なのかなぁ」

「そうなのよ。終わっちゃってんだよね。尾張だけに」

「笑えねー」

「あれ。おっかしいなぁ。昔っから、これでひと笑いとってんだけど」


 とぼけて頭を掻く。それから脚の間に挟んでいたスポーツドリンクを一口飲むと、「ぬっる!」と言ってまた笑った。つられるように、思わずこっちも息が漏れた。風呂上がりで身体があったまっているんだし、そんなとこに置いといたら温くもなるに決まっていた。


「佐伯さ、今日、このあとなんか予定ある?」

「いや、特になにも」

「こんなんじゃ、友達とも会えなくてさ。人と喋んのも久しぶりでなんか、楽しくなってきちゃって。よかったらメシくらい、付き合ってくんない? 無職だから金ないんだわ、私」





「ねえ」

「なに?」

「ノーヘルって、違反じゃないの?」

「違反ですね」


 多分。教習所で習ったんだろうけど、あんまり覚えてない。

 でも違反かどうか以前に、まずバイクという走行中に転倒したらほぼ間違いなく死ぬような危険極まりない乗り物に頭を保護せず乗るなんて、気が狂っているとしか思えない。それが今の僕である。

 どうして僕はノーヘルで兄のバイクを運転しているんだろう。

 ジャケットの隙間から肌に入り込む風は少し冷たい。陽の傾き始めた春をバイクで走るなら、もう一枚着ておいてもよかった。昼に駅を歩いたときの見込みは、ちょっと甘かった。

 このあと付き合ってと尾張に言われたが、こんな田舎じゃ車なしで移動なんてできはしない。バスも電車も、それらを使うためにまず車が要るのだ。

 一応、バイクには二人まで乗れるわけだけど。当然、手元にヘルメットは一つしかない。いつも一個余計に持ち歩くバイカーなんて探したって中々居ないと思う。

 尾張の家は銭湯から歩いて行ける距離らしいけど、自由に運転できる車は持っていないと言う。だからやむを得ず、唯一のヘルメットは尾張に被らせて僕はノーヘルで移動している、というわけだ。

 こんなことになるなら、バイクなんかで来るんじゃなかった、とあまりにも先に立たないような後悔をしつつ。


「犯罪者とタンデムしてんだけど、私」

「事故ったらヤバいね。保険下りないだろうし。てかその前に、死ぬけど」

「まあ別に、死んでもいいからなあ! ははは」

「いや死ぬのは僕の方ね」


 むもんだーい、と少しくぐもった声ではしゃぐ尾張の姿を、サイドミラーで覗く。ヘルメットの上からじゃ表情もわからなくて、すぐに無意味だと視線を前に戻した。

 頭をむきだしでバイクに乗ると、髪の毛が全部吹っ飛びそうになる感じがすると知った。まともに目を開けていることも大変で、顔面の色んな箇所が尋常じゃないくらいの勢いで潤いを失っていくのがよく分かった。

 事故をやったことはないけど、万が一、その万が一が今起きたら、という不安のせいで事故りそうだと思い、気が気じゃない。帰ったら、兄に話そう。いや、怒られるかな。怒りそうだ。やっぱり黙っておこう。


「ところで佐伯、これどこに向かっとるの?」

「とりあえず、駅行こうかと思ってる」

「まぁそうなるよね」


 駅周辺には、まあまあ飲食店がそろっているし。選択肢に困らないと思った。

 結局、駅までの途中にあるホームセンターに寄って、安価な半ヘルを買うことした。ノーガードで死ぬことも勿論怖いけど、もしもこんなしょうもないことで警察に捕まっちゃったりしたら面倒だ。飾りでも、何も被っていないよりはマシだろう。

 バイク関連のショップで買えるものとは違い、排気量の規格は守れていないから保険は下りないけど。僕のおぼろげな記憶が正しければ、これで違反自体は防げるはずだった。

 会計を済ませてからバイクに戻ると、その隣でいつの間に買ったのか小さい缶のココアを啜っていた尾張に「うわ、ダッサ! 私が被ろうか?」とか言われた。女の子にこんな頼りないのを被せて後ろに乗せる度胸はない。

 死んでも構わないと冗談めかして尾張は言うし、もし、それが本心だったとしても。こんなことで死なせてしまったら、寝覚めが悪すぎる。


 間もなく駅に着くと、夕食にはまだ少し早い時間だった。まだ太陽は沈みかけで、似たような空の色を見ながら高校の友達とこの辺を歩いたな、と懐かしくなった。

 尾張の希望で、映画を見て時間をつぶすことになった。

 兄は映画好きだけど、生憎僕にはそういった方面への興味関心は全くない。ただその他にすることも思いつかなかったので、尾張の提案に賛成した。


 そうして尾張と見た映画は、そのような人間が楽しむには少々、教養が足りない気がした。

 終盤まで話がどこに向かって動いているのかもよくわからず、どういう映画だったか、と一言で表現するのすら難しいような、エンドロールが終わって映画館が明るくなってから思わず首をかしげてしまうような。そんな感じの作品だった。

 座席には、僕と尾張の他には誰も座っていない。

 尾張の反応をうかがうと、んーっ、と固くなった背中を伸ばしていた。感想を求められたら、なんて言えばいいだろう。もし尾張が楽しんでいたなら、あまり滅多なことは言えないよな。そのようなことを思いつつ、お互いに無言だったので、当たり障りないことを尋ねてみる。


「尾張って……映画とか、好きなの?」

「うん。好きってか、好きだった、かな。鬱になる前はね。ほとんど毎週、映画館行ってたくらい」


 氷だけが残った中身とその容器を、映画館の出口で捨てる。

 兄と話が合いそうだと思った。


「いつぶりだろう。映画館で、ちゃんと映画見たの」


 町の明かりで暗闇も遠い夜空の下、何もない場所を見つめるように目を細くして、少しだけ微笑むように尾張が言う。横顔だけ覗くと、なんとなく、充足感ある表情をしているように見えた。僕にはわからなかったけど、何かしら、得るものはあったんだろう。


「こんなつまんない映画でもね、恋しくなるんだ。ひとりで見に行くの、しんどいから」

「あ、つまんなかったんだ」

「うん。言いたいことはわかる気がするけど、これで合ってんのか? って感じ」

「恥ずかしながら、僕は本当に何もわかんなかったよ」

「はは。そうよね。正しい感想だと思うよ」


 尾張は僕のほとんど意味もない言葉に呆れたりもせず、肯定してくれる。それが本心なのか、繕った建前なのか。どっちにしても、そんなちょっとした言葉に、尾張の優しさを垣間見る。


「映画はつまんなかったけど、楽しかったよ。ありがとね」


 内容が理解できなくても、尾張となら。また見てもいいかもな、なんて思った。彼女がどの場面でどんなことを感じたのか、教えてくれるなら、知りたい。

 一般的に評価されているとされる映画の意味が理解できないのは案外普通のことで、こうやって誰かと一緒に見ることで「いい時間だった」と感じるのかな。多分、違うんだろう。でも僕にとってはそういうもので、つまらない人間なりに楽しめることを知れてよかった。


 すっかり辺りも暗くなり、駅前には仕事帰りといった様相の人が増えてきた。

 映画館から少し歩いたところにある焼肉屋に入って「こんなにイイお肉食べるの、超久しぶりなんだけど。泣いちゃいそう」などと言いながら控えめな量しか頼まない尾張を眺めつつ、ウーロン茶をちびちび飲む。

 僕は毎日ちゃんと三食食べる人間だけど、銭湯で食べたおそばがまだ胃に残っていた。タコのヤンニョム和えとホルモン焼きをいくつかつまんで、それで十分だった。


「……遠慮しないで、もっと頼めばいいのに」

「いやいや。普通にそんな食えないし、ていうか、佐伯だけに払わせる気もないですよ」

「でもさっき、金ないって言ってたじゃん」

「冗談。貯金くらい、してたさ」

「……無理してない?」

「…………正直、むっちゃしてる」


 情けなく本音を漏らす。心なしか、肉を噛む表情も情けなく見えた。こっちは普通に働けている人間なんだし、僕は無意味に散財するタイプでもない。こんなささやかな贅沢、別に痛くもかゆくもなかった。


「なんだ、その……女の子と遊ぶ機会なんて、中々ないし。カッコつけさしてよ」

「佐伯、彼女いないの?」

「いないね。出会いもない」

「そうだったんだ。酒飲んでいい?」

「もう彼女の話どうでもよくなってんじゃん。別にいいけどさ」

「元気になったら返します、マジ」

「別に返さなくても。元気になってくれたら、それで」

「えっ、なに? いきなり口説いてる?」

「だっる。やっぱり割り勘にしよっか」

「すんません佐伯様ほんと」


 お酒が入っても、あまり尾張の雰囲気は変わらない。少し顔が赤らんだくらいで、今日は顔を合わせてからずっとお喋りだったから、飲む前との違いもよくわからなかった。


「……なんだろう。ちょいちょい回想挟まんのが、ちょっとわかりづらかったよね。今どの時間なんだ、って惑わすのは意図的なんだろうけど、それがいい方向に働いてる映画には、感じなかったかなぁ。あぁでも、最後は超よかったよね。無慈悲で」

「なるほどねぇ」

「ほんとにわかってます?」

「いや、ほとんど何言ってんのかわかってない」

「だと思った。てきとう人間め」

「隣で逐一喋っててほしいよ。そんなに色々わかるなら」

「いやそれよく言われるけどさぁ。映画に限った話じゃなくて、小説でも音楽でも、人それぞれ感じることが違うってのが、一番の魅力でしょうよ。私が思ってること全部しゃべってたら絶対つまんないって、逆に」


 映画の感想の話になると、ただでさえ饒舌な尾張の発言量がさらに増す。本当に好きなんだというのが伝わってきて、なんだか、羨ましい、って思った。


「私の感想は、私のものでしかないし。それは佐伯にも同じことが言えるんだし。佐伯がどう思ったか、どう感じたかが重要なんだよ。それが多少見当違いだったとしても、佐伯の心が知りたいんですよぉ、あっしは」

「……別に、面白くなんかないよ、僕の心なんて」

「面白くない人間なんて一人もおらんよ、この世に」


 澄ました顔で甘いお酒を飲む尾張に、そんなことない、って言い返したかった。

 でもそれを裏付ける他の言葉が、見つからなくて。

 ほら、やっぱり僕は何も持ってない退屈な人間だ、と思った。


 一通り食事を終えて、店員さんが空になった皿を片付けてから温かいお茶を運んでくる。そろそろ出ようか、といった雰囲気になり、お会計をお願いして伝票を受け取ってから席を立つ。いたってお財布に優しい金額だった。奢った気も、あまりしない。


「これなら割り勘でもよかったね。払いませんけど」

「じゃあ、次に帰ってきたときは尾張におごってもらおうかな」

「えっ。また遊んでくれんの?」


 どちらからともなく、焼肉屋から駅の駐車場へ歩きながらそのようなことを話す。尾張と話すのは、思ったより楽しかった。少なくとも僕の方はそう感じていて、もし尾張もやぶさかでないなら、機会があればまた会いたいなと思っていた。


「まあ、尾張さえよければ」

「私、社交辞令とか真に受けるタイプだよ」

「どうぞ真に受けていただいて」

「えー……じゃあ、それじゃあ、さぁ」

「うん」

「…………」

「尾張?」


 尾張が続きも話さず、黙る。焼肉屋から駐車場まで大した距離もないから、そのままバイクの目の前に到着してしまう。

 手渡したヘルメットを被らないで、胸のあたりに持ったそれを見つめるように俯きながら。ずっとお喋りだった尾張にしては、言葉と言葉の間が長い。

 尾張の言葉を待つこっちも何も言えなくて、沈黙が空気を重たくする。鞄を漁ってキーを見つけると、それをバイクに挿してエンジンはかけずに跨った。変わらず黙ったままの尾張に何を言おうか、そもそも、何を言いあぐねて口を閉ざしてしまっているのか。いろいろ考えて、いやいや、まさかね、などと。


 無意味にミラーを調節したりメーターを眺めたり、としていると、バイクが揺れる。そちらに目を向けなくても、後ろに尾張が座ったのがわかった。

 そうしてゆっくりと、僕の腰に手を回してくる。まだバイクは走り出していないどころか、エンジンすらかけていないのに。ぴったりくっついてきて、硬いヘルメットが背中に押し付けられているのがわかった。おい、おいおい、と思う。


「…………今日……まだ、帰りたくない、って言ったら、困る?」


 そんな経験もないなりに、なんとなく、雰囲気は感じとれていた。とはいえ、その覚悟も支度もできたわけじゃない。火花を散らして縮んでいく導火線を眺めることしかできないみたいに、尾張の爆発を止めることもできなかった。


「……揶揄ってる? 酔ってんじゃない?」

「いたって冷静だし、真面目だよ」


 囁くような声が、ヘルメットの中から淡く聞こえてくる。


「彼女、いないんでしょ。私も彼氏、いないよ?」

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