第42話 僕が居なくなるワケないだろ。バカ!

 その夜、僕は『大阪の小陽』の掃除を手伝っていた。

「じゃあ晴人はリザの形見を、わざわざ日本まで渡しに行くってか。ったく。金にならねえのに、お人好しだなぁ」

 陽が床にバケツの水をぶちまけ、ジョジョがデッキブラシで磨いてゆく。

「ヨシオさん、どんな感じだったべか」

「やりきれない気持ちだったろうね。仕方ないよ。大切な肉親が殺されて、犯人も自殺して動機も分からないままなんだから」

 犯人は林田圭司。怨恨か行きずりか、犯人死亡のため判明せず。これが結末だ。

「堪んねえだろな。十九歳の子が、そんな悲惨な死に方してさ」

「調べるって事は、知りたくもない事実が見えてしまうかもしれない……。陽が言っていた意味が分かったよ。真実を暴く事が最善とは言えないんだね」

 僕たちは瀬里加の依頼どおり、凜風の死を究明した。その結果、多くの人が傷ついた。

「ハルトさん、日本帰るの?」

 ジョジョが唐突に聞いてくる。

「ああ。瀬里加さんにコレを渡さなきゃいけないしね」

 するとジョジョが挙手してデッキブラシで床を叩く。

「オレも一緒に行きたいデース! アキバハラ行きたい!」

「僕が行くのは埼玉だよ。秋葉原は東京。けっこう遠いってば」

 電車デすぐデしょ、と高をくくるジョジョ。

「日本アニメのグッズなら台北でも買えるじゃん」

「分かッテないなぁ。少ないよコッチは!」

 台北駅の地下にも広大なオタク街がある。しかしこの哈日族ハーリーズーを満足させる事は出来ないらしい。

「デ、帰りに沖縄も行きタい」

 僕は思わず漏らす。「はああ?」

「ふーたんのサイン貰いに行くんダ!」

 また比野楓華とかいう旅系YouTuberか。

「じゃ、約束ダぞハルトさん!」

 そう言ってジョジョはスクーターの鍵を指先で回す。お疲れさまー、と店から出て行った。

 僕と陽はジョジョの背中を見送った。二人揃って息をつく。

「したらウチらも晩飯すっか。近所の夜市にでも行くベ」

「待って」

 僕は陽を呼び止めた。手早く『大阪の小陽』の看板をしまい、表のシャッターを閉める。天井のファンだけが静かに回転していた。

「……座って」

 陽は怪訝そうに目を細める。「どしたの」

 僕は手前の席に陽を座らせた。僕はテーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろす。大きく呼吸を入れ替えて陽を見据える。

「な、何だべか」

「ヨシオさんから教えてもらったんだ」

 僕がそう言うと、陽の指先がピタリと止まった。反応した。俯いたままの陽を見詰め、僕は続ける。

「僕の冥婚。ヨシオさんからの依頼だったんだよね」

 陽は目だけを上げた。しかし逃げるように視線を泳がせる。

「色々と納得いったよ。この前、陽のパソコンを借りた時に見つけたんだ。ヨシオさんからのメール。それにキッチンの収納に隠してあった大金入りの封筒。あれがヨシオさんからの報酬ってワケだ」

「ごめんな、晴人。ホントごめん」

 陽は深々と頭を下げた。テーブルに額が付きそうだ。

「面倒に巻き込んで、悪かったべさ」

 認めた。

 陽とヨシオさんの打ち合わせどおり、僕は台湾に呼び出される。陽が僕の足下に凜風の写真と現金の入った紅包を仕掛ける。僕が紅包に触れた途端、待機していた宗傑さんたちが僕を取り囲む。そういう段取りだったのだ。

「けどさ、可哀想じゃんかヨシオさん。初めて依頼された時、ウチだってグサッときたんだよ。なまら寂しそうでさ」

 陽は目を落としたまま続ける。

「孫が死んだんだぜ。ヨシオさんもリザも日本好きなんだ。だったら日本人と家族になるって、願いを叶えてあげたいじゃねえか」

「ホントに、それだけ?」

 僕が尋ねると、陽は「えっ」と声をこぼした。

「陽。僕の方こそ、謝らなきゃいけない。本当にごめんなさい。僕は、また、君のパソコンを覗いてしまいました」

 その瞬間、陽は息を飲んで固まった。もう僕は後悔した。言うべきでなかったかもしれない。陽を、傷つけてしまいそう。

「ダメだと分かってたけど、メールリスト見ちゃったんだ。今年の一月のメール、全部」

 婚約のお祝いパーティーの告知。そして覚醒剤の売人らしき男とのやり取り。事実を突きつけられた陽は固く目を閉じる。

「じゃあ、Facebookも」

「ごめん、見ちゃった。裏アカウント作ってたんだね」

 僕はスマホをテーブルに置く。

 表示されているのは、陽のパソコンの画面を撮影した画像。Facebookのコメントが写っている画像だ。

「陽だったんだね、コレを撒いたの」

 裏アカウント『裏情報局』のコメントはこうだ。


【薬物中毒教師・藤園晴人

 東京都立大江東小学校、五年一組担任

 婚約者の篠村茉由も同小学校の教員

 クズ教師を許すな。徹底的に追い詰めろ】


 僕の住所、電話番号、SNSアカウント、僕と茉由の顔写真まで晒されていた。シェア数は二万回以上。

 僕の日常を壊したコメント。発信したのは陽だった。

「全部、君だったのか」

 あの夜、陽は僕を酔い潰れさせ、事前に新宿の売人から手に入れた覚醒剤のパケを僕のポケットに忍ばせ、そのまま路上に放置した。警察を呼んだのも陽だろう。そうして僕は持ち物を見られて逮捕された。

 その後、陽はあのコメントをSNSで拡散させ、僕の個人情報と顔写真を晒して全てを崩壊させた。

「陽は、僕と茉由を別れさせたかった。そうだね」

 僕が言葉尻を上げると、陽は小さく息をついて立ち上がろうとする。僕は陽の手を握って引き留めた。

「はっきりしてよ。どうなんだよ陽」

 否定してほしかった。そんなワケないっしょや、と大笑いして否定して欲しかった。けれども、願いは届かなかった。

「だってさ、晴人がウチを忘れるべさ」

 胃の底から冷たい物が込み上げる。寒い。冷たい。

「ウチらは子供の時からずっと一緒だったろ。バスケも一緒に始めたし、ウチが施設から出た後も会ってたし、大学生になってもメシ奢ってやったべ。大人になってからも東京で一緒だった」

 それなのに、と陽は噛み殺すように言う。

「あの女と付き合ってから、連絡こなくなったっしょや」

 寂しげな目を向けた陽。心臓を素手で握られた気分だ。

 あの頃は婚約して生活環境が変わっただけでなく、初めて担任を持って職場環境も変わった。外国にいる陽は頭の片隅に追いやられていた。

「ウチさ、キツかった。いくら距離があっても、気持ちは傍にいるもんだって思ってた。だってウチらは姉弟みたいな仲だべさ。それなのに……」

 だから、個人情報を晒した。僕と茉由を別れさせるために、僕が社会に居られなくするために。

「ウチ、寂しかった。寂しくて死にそうだった」

 陽の手はみるみる冷える。彼女の心を汲むように問い掛ける。

「ヨシオさんの依頼を受けたのも、僕を傍に引き寄せるためだね」

 僕が手を離すと、彼女は両手で顔を覆った。否定しなかった。

「晴人がウチの近くに居てくれると思ってさ。昔みたいに、毎日一緒に遊べると思ってさ」

 前科者の僕は日本では生きていけない。位牌結婚させる事で、僕を台湾に引き留める理由が出来る。言葉が分からないから陽に頼らざるを得ない。仕事も金も家も無いから、全て陽に頼らなければいけない。

 僕は陽に頼って生きなければならない。これが陽の目的だった。

 陽の目元に涙が溢れる。僕は陽に背を向けた。泣き顔は見たくない。陽の弱い部分は、見たくない。

 その瞬間、陽は僕の背に抱き付いた。

「ごめんな晴人! ウチ、ワガママすぎたよな!」

 陽が顔を押しつけている。熱い。じわりと背中が濡れた。涙だ。

「でもさ、ダメなんだよウチは! 晴人に頼られてねえと、自分がどうして生きてんのか、どこに居んのかも分からなくなるベさ! だから頼むよ晴人! もうどこにも行かねえでくれよ! 晴人ぉ!」

 僕は陽の身体を振り払って突き飛ばした。目を丸くして僕を見詰めている。見開かれた目から栓が抜けたみたいに涙が零れていた。

 僕は陽を真正面から抱き締めた。

「僕が居なくなるワケないだろ。バカ!」

 陽の頭を胸に押しつける。彼女の涙を見ないために。

「お前は僕の姉ちゃんなんだろ。泣いてんじゃねえよ」

 僕も泣いていた。僕らは抱き合ったまま声を上げて泣いた。

 僕はなぜ泣いているのだろう。人生をねじ曲げられても、陽を恨めない情けなさか。陽の弱い部分を見たショックか。陽を悲しませた後悔か。色んなマイナスの感情が涙になって溢れる。

 気持ちが言葉にならないから、強く陽を抱き締める。僕らは言葉を忘れた動物のように泣き続けた。

 中学生だったあの日、僕のせいで陽の人生がねじ曲がった。そして今、陽のワガママで僕の人生がねじ曲がった。

 これでおあいこ、か。

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